日々と晴れ間と継ぐ未来。
正午を告げる鐘の音が、乾いた空気の中を澄み渡って響く。
燃えるような紅葉に彩られた甲府の街並みには柔らかな晴れの日差しが降り注ぎ、どこかのどかな昭和の風が吹き抜けていた。
市街の路地裏に店を構える老舗の蕎麦屋。暖簾の先では、出汁の香りと湯気が混じり合い、和気藹々とした心地の良い騒がしさが客を迎える。その一角、書生服を纏った観光客らしき三人の青年が、鉄鍋から立ち昇るほうとうの湯気を囲み、お猪口を片手に身を乗り出して駄弁っていた。細身の眼鏡と八重歯の小柄、そしてのっそりとした大柄という、なんとも凸凹な三人組だ。
「文芸に興味? 読むなら三大文芸誌の文芸礼讃、すてら、杜若さ。もし書きたいってんなら、気に入った同人誌の仲間に入れてもらうか、日々是好日を狙うのがいい」
小柄の青年が、相談を持ち込んだであろう眼鏡の友人に教えを説くように、腕組みをして頷く。真昼間から酒を入れて気が大きくなっているのか、隣に座っていた大柄の青年も、頬を茜色に染めながら説法を垂れる。
「『日々是好日』は原稿料こそ出ず、制限字数も厳しい。だが、その『全員載せる』という心情と、看板の重みが凄まじい。なんたって主宰は、あの池田川賞作家・達川雷蔵先生だ」
「へぇ。そんな好意を搾取したような殿様商売で、本当にやっていけるのか?」
怪訝な顔をする眼鏡に、残りの二人は互いの顔を見て頷くと、畳みかけるように声を弾ませた。
「そりゃあやっていけるとも。寧ろ、自費出版の同人誌や駆け出しの時分なんてのは、こちらが寄稿料を積むんだぞ? それに比べたら原稿を黄昏社に送る郵便料だけで済むなぞ、安いものだろ」
「最近は寄稿者へ還元する方法を検討しているようだし、あれを読んだ一流の文士や編集者が、才ある者へ声を掛けることもあるらしい。いまやあそこは一種の登竜門だ」
へぇ、と声を上げて目を輝かせる眼鏡に、小柄はまるで自らの手柄だと言わんばかりに誇らしげに胸を張り、矢継ぎ早に言葉を継ぐ。
「それに日々是好日を作る黄昏社は偕成の傘下、さらに協賛にはあの辻庄衛門や、政界の三ヶ沢修之介、さらには財閥の奥方までが名を連ねているからな」
「……しかし、素人同然の人間がするのは怖いな」
ここにきて尻込みをしはじめる眼鏡に、二人は身を乗り出し、その肩を景気づけだといわんばかりに勢いよく叩いた。
「なぁに、怖気づくことはない。寄稿者は大工から医者、遊女、果ては軍人まで! 誰も咎めはしないさ」
熱の入った議論を繰り広げる若者たちの姿を、少し離れた席から伺い見る家族連れが一組。
「……ねぇ明彦さん、私達、とんでもない方の、とんでもない物を預かってしまったのかもしれないわ」
小皿に蕎麦を分けながら眉を下げるキミの言葉に、向かいに腰掛ける明彦も肩を竦めて笑う。彼らの脳裏には、数年前の霜月、唐突に日向端家へ届いた一冊の文芸誌と、生々しい熱を帯びた原稿の束が浮かんでいた。
「……確かに。でもそれが彼の願いだったんだ。今は押入れにあるけれど、やっぱりちゃんと蔵に入れて保管しておこうか。あれは家宝だよ。陣さんと雷蔵君、二人と私達を繋ぐ絆の証さ。陰ながら応援していよう」
明彦は穏やかに蕎麦を啜り、最後まで残してあった天麩羅を食む。出汁でふやけた衣が崩れ、欠片が水面へ落ちた。キミも頷いて湯呑に手を伸ばして茶を飲むと、隣の席で一心不乱に蕎麦を頬張る我が子の横顔を覗き込む。
「お腹いっぱい? 千晴」
千晴と呼ばれた小さな子どもは、口の周りを麺つゆの醤油色で汚し、真ん丸な頬を赤く染めて笑った。
「はいっ! ごちそうさまでした!」
柔らかく小さな掌を綺麗に合わせ、大きな声を上げた童に、厨房の旦那や他の客たちも微笑ましく目を細める。明彦はその小さな頭を撫でると、懐から財布を取り出し、ゆっくりと立ち上がった。
「よし、じゃあ行こうか。……おやじさん、お勘定おねがいします」
暖簾をくぐれば、ひんやりとした秋の風が、蕎麦を堪能して温まった体を心地よく冷やす。街路を三人並んで手を繋いで歩いていると、唐突に千晴が「あっ!」と声を上げて駆け出した。その視線の先には、戦艦の模型や人形を店先に並べた玩具店や甘い匂いを漂わせる駄菓子屋が。子供の目を奪う誘惑が立ち並んでいる。
「あ、千晴! 危ないわ、ひとりで行かないで頂戴!」
不意を突かれて手を離してしまった明彦とキミが、困り果てたように肩を竦めて顔を見合わせた。しかし、千晴は色とりどりの玩具や甘い駄菓子を脇目も振らずに素通りし、一軒の書店の奥へと、迷いのない足取りで飛び込む。
「ねぇねぇ、父様、わたし、この本が欲しいです」
慌てて小さな背中を追いかけた先で、千晴は児童書売り場の一角に置かれた、植物図鑑を小さな胸にぎゅっと抱きしめていた。子供向けに色鮮やかに刷られた表紙の絵が千晴の腕の隙間から覗く。
「植物の本は家にいっぱいあるだろう?」
困り顔で眉を下げる明彦を前に、千晴は頬を膨らませ、必死な面持ちで地団駄を踏んだ。
「でも……!」
「そうよ、少し前のお誕生日にも花の画集を買ってあげたじゃない。千晴、我慢なさい」
キミがその場にしゃがみ込み、小さな肩にそっと両手を置く。しかし、千晴は納得のいかない様子で真ん丸な頬をいっぱいに膨らませると、不機嫌そうに唇を尖らせた。
「……だって、母様が、たくさん勉強する父様をかっこいいっていうんだもん。……わたしだって父様みたいな立派な学者様になりたいの!」
静かな書店に響く真っ直ぐな声。目を潤ませながら訴える千晴の言葉に、二人は顔を見合わせ、堪らず目を細めた。店の奥、帳場で新聞を広げていた店主も、その寡黙そうな顔を緩めて目尻に深い皺を寄せている。
「……そうか、分かったよ。全部私のお下がりで、千晴だけの図鑑というのはないものな。新年の祝いの時に買ってやろう。だから、今日は我慢なさい」
「……本当に? 約束だよ、父様」
千晴はパァと瞳を輝かせ、名残惜しそうに、しかし素直に図鑑を棚へ戻した。キミは自由になったその小さな掌を、もう一度しっかりと握り締める。千晴は母の手をギュッと握り返しながら、ふと、文芸の棚へ視線を向けていた父へ、もう一方の掌を差し出した。それに気付いた明彦が、そっと微笑んでその手を繋ぐ。
「帰ろうか、千晴」
三人が去った後の書店には、微かなインクの匂いと、穏やかな秋の光だけが残された。日が差し込む文芸の棚には、三大文芸誌と共に、黄昏社出版の『日々是好日』が山となりて積まれている。そしてその隣には、達川雷蔵の名を刻んだ小説が、誇らしげに、そして誰かを待つように並んでいた。




