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炎と別れと昇る龍。

⚠以降、本章は地震・火災等の自然災害を取り扱います

 パチパチと瓦礫の木材に引火して弾ける音が絶え間なく響く。雷蔵は波留日が抜け出せる通り道を作ろうと、煙と熱が妨げる呼吸に咳き込みながら瓦礫を必死に退かした。


「雷蔵の馬鹿! 馬鹿! 早く逃げて!」


 波留日はその熱さをまざまざと感じているのか、声を荒らげて叫ぶ。一方の雷蔵は何度も頭を振り、波留日の言葉を振り払った。


「そんなこと言うな! 波留日は、最近ずっと自分が居なくてもいいようなことを言っていたが……」


 尖った瓦礫を握り締め、雷蔵は眉を下げて悲痛な声を上げる。情けなく縋るような叫びが、燃え盛る中に響き渡った。


「そんなわけないじゃないか! ……死の縁で彷徨っていた俺を助けてくれたのは波留日だ! ここまで俺を生かしてくれたのは波留日だ!」


 顔面から汗とも涙とも分からぬ液体を垂れ流しながら、雷蔵は傍らに転がっていた太い材木を持ち上げ、梁の下に押し込む。梃のようにして梁を持ち上げようとするも、屋根の重さを受けた梁はびくともしない。


「俺の、大切な人を……こんな所で見殺しにはしたくない!」


 材木に縋りつき、全体重を掛けながら叫ぶ。しかし、華奢な体躯の雷蔵に、陣佐でさえ苦戦していた力仕事ができるはずもない。波留日は狭い隙間から、足掻く雷蔵の足元を睨み、歯軋りをして一人呟いた。


「さっきひと思いに逝ってしまえばよかった……!」


 噛み締めるような言葉は雷蔵の耳に届くことなく、黒い煙に巻かれて消えていく。雷蔵は歯を食い縛って必死に材木に力を込めた。


「どうした兄ちゃん! もう火の手が迫ってるぞ! 焼け死んじまう!」


 そこへ、家財道具を山のように積んだ大八車を引いた男達が通りかかり、雷蔵へ声を掛ける。雷蔵は彼らの屈強な腕と体躯を見るや否や、涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔をそのままにして縋りついた。


「助けて下さい! 子供が家の下敷きになっているんです!」


「そりゃ大変だ! ほら兄ちゃん、俺達が梁を上げてやるから引っ張んな! ……お前らは先に行け!」


 雷蔵の叫びを聞いた男の一人が目を丸くして崩れ落ちた社屋の前に駆け寄る。その最中、振り向いて大八車を引く男数人を先に行かせた。残ったのは、腕っぷしの良い男三人だ。彼らは雷蔵の作った梃に手を掛けると、息を揃えて一気に梁を持ち上げにかかる。


 男達の尽力により、軋む音を立てながら屋根が持ち上がり、伏せる波留日の姿がより見えるようになった。雷蔵は深々と礼をするや否や、その細い身体を捻じ込んで波留日のもとへ手を伸ばす。


「波留日ッ! こっちへ手を! 早く!」


「やめてよ雷蔵、君が取るべきは、こんな人間の爛れた手じゃない筈だ」


 しかしそれでも波留日は首を横に振った。雷蔵は髪を振り乱して激情を露わにする。


「俺が、俺の大切な人を助けんとして何が悪いッて言うんだ!」


 波留日はその言葉に目を見開くと、歯を食い縛って無理やりにでも顔を逸らした。雷蔵は怒りで顔を真っ赤にしながら身体を捩り、波留日の元へ近づく。


「兄ちゃんすまねぇ、限界だ! このままだと兄ちゃんも潰れちまう!」


「雷蔵が……? それは駄目だ!」


 梁を支える男達の苦しそうな声が聞こえてきた。ギシギシと木材の悲鳴が上がる。それでも厭わず手を伸ばし続ける雷蔵。波留日はそんな彼を前に、諦めたようにその細い腕を伸ばした。


 ようやく繋がった二人の手。雷蔵は喉が千切れんばかりの唸り声を上げながら、波留日の身体を引き摺り出した。血と埃、煤に塗れた身体を見るや否や、雷蔵はその胸の中に波留日を抱き込む。息が止まりそうな程の締め付けに、波留日は咳き込みながらそっと腕を回した。


「よかった……波留日……。ありがとうございます!」


 雷蔵は手助けをしてくれた男達に深々と礼をした後、燃え上がる街を見上げて唖然とする波留日の手を取る。


「行くぞ、波留日!」


 逃げ惑う人混みに飛び込む。足の悪い波留日の手を引いて進むのは思った以上に大変なことであった。非力な雷蔵には、波留日を背負って逃げることができない。もどかしさを抱えながら、悲鳴と怒号、地鳴り、阿鼻叫喚が響く東京を進む。雷蔵は青褪めながらぽつりと掠れた声を零した。


「地獄みたいだ……」


 人々より歩みの遅い雷蔵達は、後ろに続く者達に追い越され、押され、道の端へ追いやられ、上手く進むことができない。雷蔵は焦りと苛立ちで柄にもなく舌打ちをする。


「どけ!」


 その瞬間、人混みなど何のそのといった具合に、大量の荷物を背負った男が雷蔵と波留日の横を掠めた。


「あっ!」


「波留日!」


 その煽りを喰らって波留日が転ぶ。雷蔵が慌てて駆け寄り、群衆に踏み潰されないように道の端にその身体を引き摺った。怪我がないか見ようとしても、既に波留日の身体は傷だらけで、雷蔵は自分の気休めにしかならないと分かりながらゴシゴシとその足を着物の袖で拭ってやる。


「波留日、大丈夫か、歩ける、か……?」


 そう言って雷蔵が立ち上がり、波留日の手を取った瞬間のこと。波留日は勢いよく雷蔵の手を振り払うと、自らの口元を押さえて身体を丸めた。指の隙間から朝飲んだ筈の薬湯と胃液が溢れ、地面に落ちて広がる。その小さな身体がガタガタと震えだし、ヒューヒューと早い呼吸を繰り返す姿を目の当たりにして、雷蔵の全身から血の気が引いた。


「……だ、……壕に、誰か……ッ、が……あつい、あつ、い、とれない、とれ、な……」


 錯乱しているのか、波留日はしきりに自分の腕を掻きむしる。雷蔵は小さな肩を掴んで揺さぶり、必死に波留日を呼び戻そうと叫んだ。


「波留日……? 波留日ッ! しっかりしろッ!」


「っ……! ごめん、気が動転していた……。見苦しいものを……」


 雷蔵の言葉に波留日は呼吸を取り戻し、咳き込みながら作り笑いを浮かべる。雷蔵は無言で波留日の手を再び取り、立ち上がって歩き出した。周りを見れば、もう動ける人々は殆ど逃げ終えてしまったのか、人の流れは疎らとなり、建物が燃え盛る轟音が耳を劈く。雷蔵の首筋を、熱さからではない汗が伝った。


「行こう、もう時間がない!」


 燃え盛る家屋が迫る中、雷蔵は波留日を引き摺って必死に歩く。波留日は吐瀉物に塗れて穢れている筈の手を構わず握り締め、ゼェゼェと喘ぎながら進む雷蔵の背中をじっと見つめた。その大きな瞳からは、ボロボロと大粒の涙が止めどなく溢れる。


 雷蔵の細く、小さな背中。人々は華奢だ、軟弱だと笑う体躯かもしれないが、波留日にとってそれは何よりも大きく、希望になるものだった。波留日は、大きなペンダコのある節くれだった掌をギュッと握り締める。その時。


 燃え盛る家屋が、その希望を湛える雷蔵へ倒れ掛からんと轟音を立てた。波留日の濁った視界に、その瞬間がゆっくりと流れる。


「雷蔵、危ない!」


 波留日は、雷蔵の手を振りほどき、自由の利かなくなった右足にも渾身の力を籠めてその背中を思い切り突き飛ばした。不意を突かれた雷蔵はつんのめるように、受け身も取れないまま地面に倒れる。


「波留日ッ!」


 雷蔵が青褪めながら振り向けば、燃え盛る家屋が二人の間に横たわっていた。全てを焼き尽くさんとする炎の高さに雷蔵は愕然とする。この燃える柱を踏み越え、炎を掻き分けることなど、到底できやしない。


「……雷蔵、逃げて。僕を庇っていたら君まで巻き込まれてしまうよ」


 揺れる炎と揺らぐ陽炎の先で、波留日は眉を下げて笑った。雷蔵は火の中に飛び込もうとするも、その熱さと崩れる家屋の煽りを喰らって地面へ尻餅をつく。


「そんな馬鹿な事言わないでくれ、お前が居なかったら、俺は……」


 地面を這って情けない声を上げ、縋ろうと手を伸ばす雷蔵を前に、波留日は首を横に振った。滑らかな黒髪が赤い光を反射してキラキラと光る。


「大丈夫だよ。私が居なくたって雷蔵はできる。私が惚れた作家なのだから。……君の為に僕は存在していたのだから。これからが雷蔵の人生だよ」


 逃げる先を指差し、言い聞かせるように穏やかな波留日の言葉。雷蔵は駄々をこねる子どものように力無く首を振った。波留日の考えんとすることを予感し、全身から力が抜けたように立ち上がることができない。


「波留日……嫌だ、俺を置いていかないでくれ」


 地面を這い、雷蔵は掠れた声を縋るように絞り出した。地面についた手を握り締め、歯を食い縛っていた顔を上げる。


「波留日は……かみさまなのだろう? 何で、なんで自分を捨てるようなことをするんだ」


 炎の向こうで波留日は目を見開き、困ったように眉を下げて笑ってみせた。


「やだなぁ、雷蔵。僕はかみさまじゃないよ。ただ諦めが悪いだけの、愚かな人間さ」


 雷蔵は嘘をつくなと言わんばかりに鋭い視線を投げかける。大の大人の男がボロボロと零れ落ちる大粒の涙をそのままにして、ただひたすらに真っ直ぐと。それに射抜かれた波留日は唇を噛み、漏れ出そうになる嗚咽を必死に堪えるように鼻を啜る。


「……ねぇ雷蔵、これから文士、いや……全ての人にとって厳しい時代が来る。君の文にはそれを救う力がある。だから……」


「嫌だ、波留日!」


 雷蔵の訴える視線を一蹴し、波留日が再び言い聞かせるような、穏やかな言葉を紡いだ。しかしその瞬間、雷蔵が耐えきれないという具合に悲鳴を上げてそれを遮り、波留日の元へと手を伸ばして駆け出す。


 それを阻むように、再び限界を迎えて倒壊した別の家屋が、瓦礫となりて雷蔵の元へ雪崩掛かった。波留日は目を見開き、顔面蒼白になって叫び声を上げる。


「雷蔵! 危ないッ!」


 視界を奪う土埃がやや落ち着いた頃。波留日は目の前の惨状に絶叫した。


「あ、あぁぁ……誰か! 誰か! 雷蔵を助けて!」


 地面に伏せる雷蔵は、仕事道具である右腕を燃え盛る瓦礫の下にしていた。その灼熱を受け、雷蔵の慟哭が空に高く響く。


「何で! 早く逃げれば良かったものを! 何のために私が……!」


 波留日がふらふらとした歩みで燃える瓦礫を踏み、雷蔵の元へ寄ろうとした。その最中に吐き出される言葉を耳にして、痛みに絶叫していた雷蔵が髪を振り乱し怒鳴り声を上げる。


「それでも! 俺には波留日が必要なんだ……! 波留日……行こう? 皆の所へ帰ろう……?」


 ボロボロになりながら自由の利く左手を差し出す雷蔵に、波留日は止めどなく溢れる涙を拭うこともせずに首を横に振った。

 

「馬鹿ッ! そんなこと言ってる場合じゃない! 雷蔵が死んじゃう! 誰か! 誰か!」


 そして掠れた声を張り上げて、燃え盛る炎の轟音に負けないよう助けを求め続ける。


「声がするぞ! 逃げ遅れた市民がいる! 探せ!」


 その声が届いたのか、逃げろと指差した先から声が聞こえ、波留日は喉が千切れんばかりに手を振り、こっちだと叫んだ。


 そして炎の合間から姿を現したのは、体中を煤と埃だらけにした官兵衛や勇次郎、軍人たち。


「おい官兵衛、あれ、達川先生じゃないか?!」


 逃げ遅れた市民の救助を行っているらしい彼らは、燃え盛る瓦礫に囚われた雷蔵を見るやいなや、焦った声を上げる。


「何だって?!」


 官兵衛は勇次郎の言葉に青褪め、炎が迫る道を何のその、瓦礫を飛び越え雷蔵の元へ駆け寄ろうと素早く駆けた。


「……またね、私の愛する大先生」


 官兵衛らの姿を見た波留日は、肩の力を抜いてそっと雷蔵へ呟く。それを聞き逃しはしなかった雷蔵は目を見開いて叫んだ。滅茶苦茶に左手を伸ばし、炎の向こうで揺らぐ波留日の名を呼ぶ。


「嫌だ! 波留日、波留日ッ!」


「大丈夫か! 手が下敷きになっているじゃないか!」


「待っていろ先生、今助ける!」


 半狂乱に叫ぶ雷蔵に駆け寄り、官兵衛と勇次郎が足で思い切り燃える柱を蹴飛ばした。官兵衛は倒れる雷蔵の身体を抱き、瓦礫の山から引き摺り出す。


 しかし雷蔵はそれを振り解いて火の中へ飛び込もうとした。官兵衛は目を見開きながら雷蔵を抱きあげる力を強める。


「波留日が、波留日が向こうに居るんだ! 頼む、助けてくれ!」


 官兵衛はその言葉に弾かれるように顔を上げた。しかし、目の前に広がるのは燃え盛る帝都の街。火の壁が雷蔵らを喰らわんと大口を開けている。当然、その先の景色など見れる筈も無かった。もし見れたとしても、それは灰燼に帰した地獄だろう。雷蔵の目には何が見えているのだろうか。自分の右腕がズタズタになっているにも関わらず、それを気にする様子もなく火へ飛び込もうとする雷蔵の姿を前にして、官兵衛の全身は堪忍ならない激情に支配される。


「何言っているんだ。誰もいない! 見ろ、目の前に迫っているのはこの火の手だ! 向こうなんて見えるわけがない!」


 官兵衛は炎を見せつけんとして雷蔵の頭をがっしりと掴んだ。雷蔵の虚ろだった目に、改めて灼熱の炎が映る。ヒュッと息を呑んだ雷蔵は、その瞳からボロボロと涙を零した。そしてまるでその現実すら受け入れられぬと言わんばかりに、再び無茶苦茶に手を伸ばす。

 

「は、波留日……、波留日ッ!」


「クソっ、暴れるな! 勇次郎、貴様はコイツを背負って最寄りの救護所へ行け! 達川雷蔵の右手が潰れたとなれば、妻だけでない、文学を愛する者達が絶望するぞ!」


 官兵衛は勇次郎へ雷蔵を任せると、次の被災者が居ないか、部下を捜索へ向かわせた。雷蔵を米俵のように担いだ勇次郎は、官兵衛の指示に頷くと、釘を刺すように慎重に口を開く。


「……分かった。お前も深追いし過ぎるなよ、俺達は士官だ、指揮側だぞ。頭が居なければ、隊は意味を成さない」


「分かっている。市民も、部下も全員守る」


 官兵衛の毅然とした返事を聞き届けた勇次郎は、踵を返すや否や風のように地面を駆けた。


「放してくれ、波留日があそこにまだ居るんだ、俺は波留日を助けなくちゃならないんだ……! 陣さんと約束したんだよ!」


 勇次郎の肩の上で、足や手を滅茶苦茶に動かして雷蔵は叫ぶ。勇次郎は走って上がる息を整えながら横目で空を見上げた。まるで天に昇らんとする龍のような炎が立ち上っている。あそこに波留日がいるのだとしたら、その答えなど、火を見るよりも明らかなことだった。


「……悪いな先生、あれ以上あそこに居たら先生が死んでたんだ。俺達の仕事は、市民を守り目の前の人命を救うこと。あれ以上は待てなかった。恨むなら俺達を恨んでくれ」


 勇次郎は歯を食い縛りながら雷蔵へ言い聞かせる。その返事は返ってこず、ただひたすら啜り泣く声だけが、阿鼻叫喚の轟音に響いた。


 雷蔵を背負った勇次郎が行き着いたのは、広場に構えられた避難所兼救護所。医者や看護婦が忙しなく怪我人の処置に追われる中、勇次郎は彼らを呼び止め、どさりと雷蔵をその前に下ろす。


「右腕の火傷だ、早く治療してやってくれ。……この手は何よりも感動と価値を生む大切な仕事道具だ」


 医者に雷蔵の患部を見せ、勇次郎は語気を強めた。医者は気圧されたように何度も頷くと、消毒液やら包帯を看護婦に持って来させる。


 しかし当の本人は全身から力が抜けたように項垂れ、まるで他人事のようにその処置を見つめていた。


「こんなの……波留日が居なくちゃ……」


 光を失った瞳で、雷蔵はぽつりと呟く。その言葉は、数多の混乱による喧騒に混ざり、呆気なくかき消されていった。

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