虚と涙と暮れる哀。 上
⚠以降、本章は地震・火災等の自然災害を取り扱います
煌々と帝都を照らした炎は、三日三晩人々が築き上げてきたものを悉く焼き尽くした。焼け野原が広がる中、焦げ臭い匂いが充満している。避難所となった広場は、位牌を抱えた老人や金目のものがないか瓦礫を漁る男、布団だけ持って座る子供など、何かを失った人々で溢れて足の踏み場もなかった。
「――線が復旧したらしい。あそこの駅から避難列車が出るんだと」
「――線はまだ駄目だ。線路が燃えちまったらしい」
「炊き出しは一列に並んで! そこ横入りしない!」
「噂によると……」
日が経つにつれて止まったままでは居られぬと、人々は少しずつ動き出す。ある人は縁故を頼って帝都を離れ、ある人は瓦礫の片づけや炊き出しへ、ある人は良き噂にも、悪い噂にも踊らされて口々に騒ぎ立てた。
軍人たちは戒厳令の下、荒れ果てた東京を治安維持の為に見回っている。官兵衛も例外ではなく、いざこざや怪我人の保護に目を光らせていた。誰かが何かを盗んだだの、女が男に襲われただの、聞いていて気分の良いものでないことばかりが耳に入る。
精神を擦り減らし、目に隈を浮かべながら任務に徹している中、官兵衛はある広場の端にて、蹲って動かない男を見つけた。焦げて千切れた服はそのまま、焼け爛れた右腕を保護する包帯は赤黒く滲んでいる。
「……貴様、こんな所で何をしている」
軍靴が砂利を踏みしめる音を鳴らしながら近づき、そして止まった。低く唸るような声が、蹲った男の頭上に降り注ぐ。
「……」
ボサボサに乱れた髪、ずれた眼鏡、こけた頬。達川雷蔵は、官兵衛に問いかけられても一切の反応を示さなかった。乾いた唇から細く呼吸の音が零れ、虚ろな目はぼんやりと何処を見ているのか分からない。憔悴という言葉がこれほど似合う男が他にいるだろうか。官兵衛はどこか冷静な頭の中で思う。
声を掛けられ、雷蔵は居心地悪そうに身じろぎをした。その時に右腕を庇った姿勢を取ったことに気付き、官兵衛は顔を顰める。
「その手、包帯は何日変えていない」
多少荒々しくその腕を掴むも、雷蔵は痛いともやめろとも言わず、ただぽつりと言葉を零した。
「……波留日」
「……本当に、橘波留日は死んだのか」
返事とも言えない雷蔵の言葉を耳にして、官兵衛は眉間に皺を寄せる。雷蔵はずるずると緩慢な動きで膝を抱え、項垂れた。肘を曲げて乱れた包帯の隙間から、爛れた肉が露わになる。膿んだ悪臭が官兵衛の鼻を突いた。
「俺が、俺が殺したんだ……。俺がアンタみたいにデカくて、力があって、無理矢理にでも波留日を背負えたら……」
乾いた喉から絞り出される声は、掠れ、歪み、震え、引き攣る。そして次第に湿り気を帯び、干上がった筈の身体から、止めどなく涙が溢れた。
「俺は……波留日に何もしてやれなかった。波留日には、数えきれない程、多くのものを貰ってきたのに」
膝を抱えて蹲る雷蔵を見下ろしていた官兵衛は、ゆっくりと屈み、その右腕を取る。恐らく、正しい処置をしたのは一度きり。それがすぐ分かるほどに傷の状態は劣悪だった。物語を綴る手指の変わり果てた姿を見て、官兵衛は苦い顔をする。
「……酷いな。待っていろ、水を汲んでくる」
官兵衛は広場の端に転がっていた煤塗れのバケツを手に取り、井戸へ歩いていった。雷蔵はその背中を睨むと、左手で頭を抱えて髪の毛を掻きむしる。
水を汲んできた官兵衛は、雷蔵の腕に癒着した包帯を丁寧に剥がし、患部を洗った。傷が沁みるのか、雷蔵は静かに歯を食い縛る。
「……俺が言えたようなことではないかもしれないが、お前には書き続けて欲しいと思っている」
皮膚が爛れた掌を清めながら、ぽつりと官兵衛は言葉を零した。無骨な空気を纏ったまま、埃と煤、汗にまみれた軍服の背を丸める。
「……あの時は、本当に悪いことをした。後に妻に失望されたよ。……俺は、任務という傘に隠れて、好きな事に真っ直ぐなお前達に嫉妬していただけなのかもしれない」
雷蔵は血と膿で濁っていくバケツの水を眺め、不貞腐れたように目を逸らした。
「……そちらの都合など知ったことではない。勝手に俺だけを助けて……」
「……もう火の手は無い。せめて生き別れたであろう朝星新聞社の面々を探そうとは思わないのか」
誰かを恨まないと耐えられないといわんばかりに憎まれ口を叩く雷蔵へ、官兵衛は静かに言い聞かせる。雷蔵は官兵衛の言葉に顔を歪め、背を丸めて膝の隙間に顔を埋めた。
「……合わせる顔がない」
項垂れてくぐもった声を上げる雷蔵に、官兵衛は口を噤む。同じように途方に暮れて絶望している市民を既に何人も見てきた中でも、雷蔵の衰弱具合は見ていられるものでは無かった。新しい布で腕を巻いてやりながら、官兵衛は暫く閉口し、目を泳がせて言葉を探す。
「そう思っているのはお前だけかもしれない。せめて社屋の方へ行って何か焼け残ったものがないか見に行くくらいは……気持ちの整理としてやってもいいんじゃないのか」
官兵衛は雷蔵の丸くなった背を軽く叩き、膝に手をついて立ち上がった。軍靴がギッと地面を踏みしめる。背筋を伸ばしたその姿で、数日前まで家屋がひしめき合っていた焼け野原をまっすぐに見据えた。残暑の強い風が軍帽を揺らす。
雷蔵はその背を見上げた。汚れたレンズ越しに、鋭い日光に照らされた横顔が浮かぶ。火に巻かれ、柱に潰され、絶望の淵に立たされた市民の前に、こういう男が立つことで、救いはきっと形を持つのだろう。雷蔵はその眩しさに目が眩み、そっと顔を伏せた。その矢先、官兵衛は炊き出しの列で始まった罵り合いにいち早く気付き、溜息交じりに地面を蹴る。
「……そうだ、妻も、松栄家の夫妻も無事だそうだ。落ち着いたら、連絡してやってくれ」
別れ際、官兵衛は雷蔵にそう言い残し、小走りで喧嘩の仲裁へ向かった。雷蔵はその小さくなっていく広い背中を、返事もできないままぼんやりと見つめる。焦げ臭い匂いが鼻をついた。つんと沁みるのは、未だに燻る煙のせいだけではない。
***
何もかもを焼き尽くし、喉や目を傷つけるような焦げ臭い匂いに包まれた焼け野原。そこを進む目印は、川や、焼け残った石や鉄筋の近代的で頑丈な建物だけ。残暑激しい風の吹きつける中、雷蔵は息を切らしながら歩いていた。
空腹と渇きで目の前が霞む。意識していなかった右腕の痛みが、動いて血が巡りをはじめると悲鳴を上げた。荒地を無邪気に遊ぶ子供や、焼け残った家具や貴重品を探して集める人々の横を素通りし、歯を食い縛って進む。
雷蔵は何かを確かめるように、わざと波留日と離れ離れになった道を歩いた。二人を引き裂くように倒壊した家屋も、雷蔵の腕を焼いた柱も、もう何も無い。波留日の居た痕跡も残されてはいない。雷蔵は鼻を啜りながら、燃え尽きた黒い炭を踏み越え、手を繋いで逃げた道を進んだ。道の両端、家屋がひしめき合っていた土地には、そこの住人だったものが避難した先を書き置いた札が所々立っている。
「……」
そして遂に、雷蔵は朝星新聞社の社屋があったであろう場所に行き着いた。途方に暮れた崖っぷちの雷蔵を拾い、かけがえのない二年間を過ごした社屋が、その過去すらも嘲笑うかのように跡形もなくなっている。重い身体を無理矢理に引き摺ってきた雷蔵は、その不条理に脱力し、地面に膝から崩れ落ちた。
「『一時、野州方面ヘ避難ス。連絡ハ大阪ノ事業所ニ……』。そうか……」
立札に書かれた文字をぽつりと読み上げ、雷蔵は霞掛かった頭で仲間の無事を悟る。片や、改めて自分の守れなかったものの重さがのしかかり、雷蔵は左手で自分の胸元を掴んだ。息苦しさと火傷の痛みで目の前が滲む。
「雷蔵ッ!」
狭まる気管で呼吸を突っ返させながら、社屋の跡地で咽ぶ雷蔵の名を、聞き覚えのある声が呼んだ。雷蔵は弾かれるように顔を上げる。
「あ、あぁ……」
瓦礫で転びそうになりながら自分の元へ駆けてくる男に、雷蔵は目を見開いた。その男は、ボロボロの身なりで、手にしていた風呂敷包みを取り落としながら、それも厭わず雷蔵へ飛び込んでその身体を腕の中に抱き込む。
「雷蔵! ……お前ッ、無事だったんだな! 本当に良かった! よかった……」
陣佐は、雷蔵の呼吸を奪わんばかりにその身体をきつく抱きしめ、ただひたすらに「よかった」という言葉を繰り返した。雷蔵は左手を陣佐の背に回し、埃と煤に塗れたシャツを握り締める。逞しい肩口に顔を埋めれば、焦げ臭い匂いと、汗の匂いが鼻を突いた。生きた人間の存在を知らしめる香りに、雷蔵は唇を噛み、喉を引き攣らせながら声を絞り出す。
「でも、でもッ……! 陣さん、俺はッ、俺ッ……波留日を……!」
「皆まで言うな……。分かったから」
陣佐はその大きな身体ですっぽりと雷蔵の身体を包み込み、浅い呼吸を繰り返す雷蔵の背を撫でた。波留日を助けると約束してきた雷蔵が、たった一人でこの地に戻ってきた理由。見るに堪えない焼け爛れた右腕。陣佐は何も聞かずとも、雷蔵がこの数日間をどう過ごしてきたのか理解したのだろう。
陣佐は雷蔵を抱きしめる腕により力を籠め、荒れ果てた髪に指を通す。震える雷蔵の小さな体を撫でながら、陣佐はくぐもった声を上げた。
「悪かった。お前に何もかもを背負わせちまって。辛かったなァ……」
その言葉に雷蔵は目を見開く。次いで瞳から止めどなく涙が溢れた。陣佐の肩口に顔を押し付け、雷蔵は恥も外聞もなく大声を出して泣きじゃくる。焼け跡の上、高く広がる夏の空に、悲痛な号哭が響き渡った。




