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意地と刃と置き土産。 上

⚠以降、本章は地震・火災等の自然災害を取り扱います

 熱い、痛い、苦しい。

 重い、辛い、怖い。


 全身に圧し掛かる、底なしの息苦しさに呼吸が止まる。冷や汗が噴き出て、喉は焼けたように乾き、叫ぼうとしても声が出ない。


 目の前に迫る炎の向こうに揺らぐ、大切な人の影。


 手を伸ばしても届かない。どんなに足掻いても触れられない歯痒さに、喉がちぎれるような思いで叫ぶ。けれど身体は鉛のように重く、指一本たりとも動かない。


『待ってくれ、波留日……! 俺はお前が居ないと……!』


 そこで雷蔵は目が覚めた。身に纏っていた浴衣は、川に放り込まれたのかと疑うほどに汗にまみれている。布団からがばりと身を起こし、肩を激しく上下させながら、肺が痛むほどに空気を取り込んだ。


 すっかり頭上にまで高く昇った太陽は、容赦のない残暑の日差しを部屋へ運んでくる。外からは、蝉の声が耳障りなほどにざわざわと騒ぎ立てる音が鳴り響いていた。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」


 雷蔵が半間家の客間に身を寄せてから数日が過ぎた。治療が遅れた右手の酷い火傷は、耐えがたい痛みと共に絶え間ない高熱となって雷蔵を蝕み続けている。傍らには、額に乗っていたであろう温くなった手拭が、起き上がった拍子に落ちて虚しく転がっていた。


「雷蔵……大丈夫か。悲鳴が聞こえたぞ。また魘されていたのか」


 襖が静かに開き、陣佐が顔を出す。雷蔵は震える左手で顔を覆い、首を振って項垂れた。


「っ……。大丈夫、です」


 絞り出した声は今にも崩れ落ちそうな程に脆く震えている。陣佐はそっと息を吐き、畳に落ちていた手拭を拾い上げると、雷蔵の額に大きな掌を添えた。その熱さに、陣佐の眉が険しく寄せられる。


「嘘つけ、顔が真っ青だ。熱も高いな。……水持ってくる」


「っ……」


 雷蔵は、この安寧の数日を通し、改めて突きつけられた喪失の巨大さに押し潰されそうになっていた。波留日の存在。そして、波留日が愛していると言ってくれた、物語を綴るための右腕。その両方を失った自分に、一体何が残っているというのか。


 布団から起き上がることさえままならず、目を閉じれば悪夢が追いかけてくる。動けない身体は思考をぐるぐると巡らせ、出口のない絶望の円環を延々と彷徨い続けていた。


 雷蔵はゆっくりと膝を抱え、布団の上で小さく丸まる。陣佐は痛ましそうに眉を下げ、音を立てないよう静かに襖を閉めた。


 外に出て井戸の冷たい水で手拭を濯いでいると、陣佐の母が不安げな面持ちで近づく。肩を丸め、自分の手を握り締めておずおずと口を開いた。


「……陣、雷蔵君は大丈夫なのかい? お医者様に診て貰ってはいるけれど……。ずっと苦しんでいるじゃないか」


「相当気が滅入ってるな。……無理もねぇ。目の前で一番大切な奴を喪ったんだ。仕方無いさ」


 陣佐は硬く絞った手拭を見つめ、自分に言い聞かせるように低く呟く。そしてゆっくりと立ち上がって水を張ったタライを持ち上げると、重い足取りで家の中へと戻っていった。これまでに見たことがないほど小さく丸まった息子の背中を、母はただ見送ることしかできない。


「……それは、アンタだって一緒じゃないのかい」


 その問い掛けに陣佐の足が一瞬止まった。しかし彼は振り返らない。手拭を握り締め、天を仰いで鋭く睨む。


「俺は……アイツに雷蔵を託されたんだ。俺が沈んでいたら、アイツに顔向けできねぇだろうが」


 陣佐は、タライを抱えて客間に戻るや否や大きく目を見開いた。雷蔵は布団の上で蹲り、朝に食った粥を激しく吐き戻している。胃酸の饐えた臭いが部屋に立ち込め、湿った咳の音が虚しく響いていた。


「雷蔵! 大丈夫か!」


「うぅ……」


 陣佐は慌ててタライを置き、絞ったばかりの手拭でその口元を拭う。抱き起こした雷蔵の身体は、まるで今もあの炎に焼かれているかのように熱い。熱に浮かされた瞳は焦点が合わず、虚空を彷徨っていた。


「陣さんは……じんさんは、こんな俺にまだ書けって言うのか。大切なものすら守れず、手すら潰した俺に!」


「……雷蔵?」


 雷蔵はくぐもった声を上げ、陣佐の手を力なく振り払う。震える手先には、物語を編み出す繊細な面影はどこにもない。陣佐は雷蔵を宥めようと名を呼ぶも、それは一切届いていないようだった。


「どうしようもないじゃないか! 俺には、俺には波留日が必要だったのに……! 何で……なんでッ……!」


 雷蔵は熱に浮かされ錯乱したまま、力任せに陣佐を突き飛ばす。不意を突かれた陣佐は畳に尻餅をつき、その手が引っ掛かってタライがひっくり返った。じんわりと冷や水が不気味な模様を描きながら畳へ染み込んでいく。


「もう……書けない……」


 雷蔵は己の頭を掻きむしり、悲痛な声を上げた。ボサボサに乱れた髪、落ち窪んだ頬、伸び放題の無精髭。憔悴しきったその姿は見るに堪えない。


「この右手を差し出して波留日が帰ってくるのなら俺は……!」


 雷蔵は包帯に巻かれた右腕へ力任せに爪を立て、狂ったように腫れた皮膚を掻きむしり始めた。


「雷蔵! 止めろ、止めてくれ!」


 陣佐は弾かれたように立ち上がり、背後から雷蔵の細い身体を羽交い締めにして強引に抑え込む。 


「悪かった。本当に、悪かった。だから、だから……頼む。冗談でもそんなことを言わないでくれ……」


 陣佐の声が雷蔵の耳元で震えた。


「ううぅ……」


 陣佐は幼子をあやすようにトントンと、苦悶に呻く雷蔵の頭を優しく叩き続ける。やがて、雷蔵は歯を食い縛っていた表情を緩め、力尽きたように瞼を閉じた。それを確かめた陣佐は、濡れた畳を避けて新しい布団を急いで敷き直すと、雷蔵をそっと横たえる。


「今は休め。お前のことなんて、誰も責めちゃいねぇんだから」


 陣佐はその枕元に胡坐を掻き、汗にまみれた額に張り付いた髪をそっと除けた。静まり返った客間には、騒がしく鳴く蝉の声と、怪我人の浅い呼吸音だけが満ちている。 


 その静寂を、店の方から響く鋭いベルの音が切り裂いた。


「陣! 電話だよ! ……偕成? の鎌田さんから!」


「鎌田……!」


 陣佐は弾かれたように立ち上がり、畳で足を滑らせながら部屋を飛び出す。店先の柱に据えられた電話機の前で、おどおどと受話器を持つ母の手からそれを引ったくるように奪い取った。荒い息を整える間も惜しみ、陣佐は受話器を耳に押し当てる。


「鎌田! 生きていたんだな。……良かった、本当に良かった」


『陣! お前こそ……良かった。桑原先生も無事だ。まぁ、偕成ウチも跡形なく燃えちまったんだがな』


 生死も分からなかった親友の声を聴き、陣佐は鼻を啜った。しかし、ザラザラとした雑音に混じる鎌田の声は酷くやつれて聞こえ、陣佐は息を呑む。


「偕成は、お前は、これからどうするんだ」


『これを機に田舎へ避難して地方の遊郭に興じて……なんてのは嘘だ。報道を止めちゃあならないからな。文芸部の記者を総動員して、この惨状を伝えてくれる作家に声を掛けて寄稿してくれるよう頼み周っている最中さ。偕成は潰れないぞ。絶対に』


「それはよかった。流石大手だな」


 陣佐は目尻に皺を寄せ、小さな笑みを一つ零した。


『……どんな苦境でも突き進む。それが力ある者の役割よ。……それで、俺がお前らに連絡をしたのは、無事を確かめるのもそうだが……』


「駄目だ」


 鎌田の言葉を最後まで聞かずに、陣佐は冷徹な一言でそれを遮る。送話器に寄せる唇が震え、ギッと奥歯を噛み締めた。小刻みに震える呼吸を無理やり飲み込み、陣佐は言葉を絞り出す。


「……波留日は死んだ。雷蔵はそれで気が滅入ってるし、火傷で右手が潰れた。辻の社長は事業の立て直しに際して、朝星を畳む決断をした。俺達は今、情けないことに一文無しの宙ぶらりんだ」


『……嘘だろ?』


 受話器の向こうで、息を呑む気配が伝わった。震える鎌田の声を聴いて、陣佐は眉間に皺を寄せる。


「……事実だ。こんな時に嘘なんてつくかよ。お前じゃねぇんだから」


『……そうか。なんてことだ』


 陣佐は電話が掛けられた柱に寄り掛かり、頭を掻いて自嘲気味な笑みを浮かべた。


「正直……立て直しなんてのは……しんどいな。新しく何かを始める金も、人脈も何も無い。朝星にあった原稿も燃えちまったし、気力も尽きた。お前らも、いくら付き合いがあったとはいえ、余所の野良作家と編集者を拾う余裕なんてないだろう?」


『……そうだな。申し訳ないが。こっちだって傷は深い。身内だけで手いっぱいだ』


 暫くの沈黙の後、鎌田は小さな声音で返事をする。分かってるよ、と陣佐は微笑み、天井を仰いだ。


「こっちは暫く療養で此処に滞在する。連絡ならいつでも寄越してくれ。じゃあな」


 陣佐は受話器を置く。ガチャン、という硬い金属音が重苦しい空気の中で響いた。陣佐は柱に寄り掛かったまま、ずるずると力無く腰を下ろして項垂れる。両の掌で顔を覆い、陣佐は深いため息をついた。


「波留日ィ……俺ァ一体、どうしたらいいんだよ……」


 心の底からの叫びの一欠けらとして零れた呟きは、誰に届くこともなく、静まり返った家の中に吸い込まれて消える。



***



 陣佐は縁側に腰掛け、葉を赤く染めはじめた銀杏や紅葉を眺めていた。暦は神無月。残暑厳しかった空気はいつの間にか消え失せ、秋の様相を帯びている。


「ねぇ陣。雷蔵君……、いつになったら元気になるのかしら。壱弥のことを波留日なんて呼び間違えるのも、お互いが可哀想だわ」


 客が途切れたのか、母が湯呑を両手に持って陣佐の隣にちょこんと腰掛けた。陣佐は受け取った湯呑を見下ろし、水面に映った己の酷くやつれた顔を睨む。


「……仕方無いさ。心が死んじまったんだから」


 雷蔵の右手は、医者や半間家の献身的な介抱によって、ようやく包帯が取れるまでになった。しかし、赤く爛れて引き攣れた皮膚は、かつてしなやかに筆を走らせた指の自由を無慈悲に奪う。ペンを持つという行為が、今の雷蔵にとって肉体的な痛みと共に、絶望を与えるような苦行となっていた。


 その証拠に、雷蔵は熱が引いてからも、魂のない抜け殻のように昼夜寝床に沈んでいる。


「やるせねぇよなァ……」


 陣佐はシャツのポケットから安煙草を取り出し、紫煙をゆっくりとくゆらせた。立ち上る煙は秋の澄んだ空気に溶け、頼りなく消えていく。


 その時、静寂を切り裂くように店先から郵便局員の威勢いい声が響いた。陣佐は重い腰を上げ、玄関先で一通の封筒を受け取る。


「鎌田奈津夫……。何だアイツ、手紙なんて」


 自分達の無事を気に掛けてくれる親友の名に、陣佐は一瞬だけ表情を緩めて封を切った。



前略

偕成の面々も、生き残った者たちでどうにかやっている。震災より一月、急務としていた見聞録の発行や、諸々の処理にようやく一段落をみたところだ。

改めて判明したことは、弊社の社員も多くが犠牲になったという非情な現実だ。にもかかわらず、中小の出版社が軒並み潰れたせいで、文芸界・報道界における偕成の重責は増す一方だ。

端的に言えば、ひどく人手に窮している。陣のような敏腕の編集者、そして雷蔵のような作家は、弊社としても諸手を挙げて迎えたい。

今すぐとは言わぬ。落ち着いた折にでもぜひ前向きに検討してくれ。

また連絡を待つ。

草々



 鎌田からの手紙を丁寧に畳み、陣佐は再び紫煙を吐き出した。


「有難い誘いだが……。生憎、ウチの雷蔵は今も、魂の抜けた生ける屍だ。俺一人で東京へ戻り、日銭を稼ぐ道もあるんだろうが……。今のあいつを独りにはできねぇ」


 店先の上がり框で蹲り、陣佐は深くため息をつく。その時、森の緑のように、穏やかで優しい声が上から降ってきた。


「ごめんください」


「……明彦?」


 その聞き覚えのある声に顔を上げれば、店の入口に、二つの大きな鞄を手にした明彦が立っているではないか。相変わらず、落ち着いて知的な雰囲気を纏い、柔和な笑顔を浮かべている。


「お久しぶりです、陣さん」

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