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虚と涙と暮れる哀。 下

⚠以降、本章は地震・火災等の自然災害を取り扱います

 人でごった返す炊き出しの列から外れた木の傍で、雷蔵は静かに座り込んでいた。炎に焼かれ枯れ木となったそれには木陰などない。鋭い日差しが容赦なく照りつけるそこへ、おにぎりを持った陣佐が駆け寄って左手にそれを握らせる。じっと口を噤んだまま米粒の塊を見下ろす雷蔵の傍ら、陣佐は胡坐を掻いていただきます、と飯に手を合わせ、大口を開けて頬張った。


「……今から港に行く。避難船で俺の実家へ行くぞ。清水港へ行けるらしい」


 口元についた米粒を親指で拭って唇に押し込みながら、陣佐は今後について口を開く。


「で、でも皆は野州って立札に……」


 赤くなった目元をそのままに、陣佐に倣って小さな口で少しずつおにぎりを食みはじめた雷蔵は、陣佐の矛盾した言葉に首を傾げた。陣佐は煮え切らないように唸ると、頭を掻いて言葉を探す。


「……歩きながらそれも話す。ほら、今は食え」


 陣佐は雷蔵の左手首を掴み、ぐいと顎を上げさせておにぎりを押し付けた。目尻に皺を寄せ、目を白黒させながら握り飯を口に押し込む雷蔵を眺める。


「……ごちそうさま、でした」


 雷蔵の言葉を聞き届けると、陣佐は「よし」と自らの頬を叩き、風呂敷包みを携え立ち上がった。そしてくるりと振り向き、猫背になって腰を下ろしている雷蔵へ掌を差し出す。


「行くぞ。その腕だって早くちゃんとした場所で医者に見せたい」


「……はい」


 雷蔵は左手で陣佐の大きな手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。瓦礫を踏みしめる音が二人分。確りと海へ向かって進み始める。



 鋭い日差しが容赦なく二人を焼き付ける。陣佐は怪我を負った雷蔵を労わり、気丈に振る舞いながらただひたすらに歩いた。壊れた塀。焼け落ちた家屋。枯れた井戸。裂けた水道管。雷蔵はその一つ一つに苦い顔を浮かべ、俯きながら歩みを進める。


「何から話すかな……」


 陣佐は眩しい日光に顔を顰めながら、ゆっくりと口を開いた。


 波留日や雷蔵と別れた後、避難所へ駆け込んだ皆でキミのお産に挑んだこと。救助活動中の徳檀の助力もあり、元気な男子おのこの産声が上がったこと。焼け野原で赤子と産後の女を抱えることはあまりにも困難だと、奇跡的に再会した明彦へ託して故郷の甲府へ避難させたこと。


「……無事に産まれたんですね。よかった。陣さんは、波留日との約束を守り抜いたんだ」


 雷蔵が眉を下げて微笑めば、陣佐は唇を噛み締めて頷いた。それ以上は何も言わず、二人は瓦礫の山を越えていく。


「そうだ、野州へ行って皆と合流しない理由、言っていなかったな」


 辛うじて水が出る井戸を見つけ、泥と鉄の匂いが移った水で喉を潤していた時だった。陣佐が思い出したように声を上げる。その表情の翳りに、雷蔵の眉が動いた。


「……キミさん達を見送った後、漸く社長と合流できたんだ。だが、朝星新聞社の社屋は全焼、印刷所も駄目。社長が抱えていた他の事業もおじゃんだったそうだ。立て直しを検討した結果、……社長は朝星を畳む決断をした」


「そんな……」


 淡々と放たれる陣佐の言葉を受けて、潤したばかりの雷蔵の喉が、乾いた音を立ててヒュウと鳴る。波留日と共に言葉を編み続けてきた場所が呆気なく消え去る事実を突きつけられ、雷蔵の全身から血の気が引いた。


「元々、社長が本業の傍ら道楽でやっていた会社だ。こんな事態になりゃ、切り捨てられるのも無理はねぇ。偕成のような大手ならいざ知らず、俺たちみたいな零細の出版社に再起する体力は残ってねえさ」


 陣佐は自嘲気味に笑って視線を落とすと、足元の石を蹴り上げる。凸凹の地面にぶつかって不規則に跳ねるそれを、雷蔵は口を噤んだまま目で追った。


「社長は後処理に追われる間、おヒサさんを野州へ預ける。新聞部のアイツの故郷があるからな。騒ぎが落ち着いたら、ちゃんと別の会社で雇用を保証するとも言ってくれた。俺にも声は掛かったんだが……」


 そこで陣佐は一度言葉を切ると、煤に汚れた顔に目尻を深く下げた笑みを浮かべ、白い歯を見せる。


「本や言葉に関わる仕事を、諦めきれなかったんだよな。それに、お前や波留日の行く末も分からねぇまま、首を縦には振れなかった。波留日から預かった大切なモンもあるしな」


 陣佐は地面に置いていた風呂敷包みを拾い上げた。煤けてはいるが、中身を守るように固く結ばれたそれは、劫火の中を必死に守り抜いてきた波留日の置き土産だ。陣佐はその表面を、愛おしむようにポンと掌で叩いてみせる。


「だから、朝星との縁は円満に切ってきた。この先どうなるかは分からねぇが……まだ、言葉は死んじゃあいねぇだろうってな」


 陣佐はそう言って一度は誇らしげに胸を張るも、すぐに背中を丸めて肩を竦めた。

 

「……とは言っても、住む場所も食い物もありゃしねぇ。ひとまず一時避難、というわけだ。鎌田や桑原先生が生きてりゃ、いつか連絡も来るだろうよ。社長の所に問い合わせがあったら、俺の実家の店に繋いでもらうよう頼んである」


 陣佐は震える手で風呂敷包みを持ち直し、毅然として前を向く。鋭い視線は、まだ熱を帯びた瓦礫の荒野を彷徨っていた。


「……生憎だが、今の俺には、あいつらを能動的に探し回る余裕はねぇ」


 気丈に振る舞ってはいるが、陣佐の目元には濃い隈が深く刻まれている。雷蔵は口を噤んだまま小さく頷くと、歩く陣佐の背中を追い掛けた。



***



 船旅を経て、磯の香が立ち込める港町に降り立つ。雷蔵は初めて踏む地の色彩に、キョロキョロと落ち着きなく辺りを見渡した。灰燼に帰した東京とは異なる、青い海と豊かな緑。そして遠い東の空には、凛とそびえる富士の山があった。


 噴火したという噂を耳に挟んだりもしていたが、この国一の美しく高い山は、天変地異も人々の悲しみも何一つものともせず、ただ悠々と裾野を広げている。その揺るぎない立ち姿に雷蔵は圧倒され、呆然と立ち尽くした。


「……綺麗だろ。俺はガキだったころからずっとこの景色を見てきたが、何回見たって飽きないね」


 陣佐の声には、故郷へ帰り着いた安堵が混じっている。


「さぁ、ここからは列車がある。あと少しだ」


 ガタゴトと揺れる小さな列車に揺られ、活気ある商店街へ。着の身着のまま、薄汚れた男二人が街を闊歩する姿に、道行く人々はギョッと目を剥きそそくさと道を開ける。それを全く意に介さず、陣佐はとある店の前で足を止めた。雷蔵もそれに倣い立ち止まり、店先を仰ぐ。木造の立派な店構えに、『半間商店』という年季の入った看板が掛かっていた。陣佐が雷蔵の肩を軽く叩き、慣れ親しんだ手つきで暖簾を上げる。


「ごめんくださーい」


「はーい!」


 奥から響いたのは、落ち着くのんびりと間延びした声だった。パタパタと忙しなく顔を出したのは、ふくよかな中年の女将だ。彼女は、暖簾の先に立つ薄汚れた男の顔を見るなり、目玉が零れ落ちそうなほどに目を見開いた。 


「じ、陣……! あなた! 佐壱! 陣が、陣がッ!」


 女将の叫び声に呼応するように、店の奥から何事かと慌ただしい足音が幾重にも響く。


「陣!」

「陣! 無事だったか! 関東の方は凄まじいことが起きたと……!」


 女将に続いて飛び出してきたのは、陣佐をそのまま老けさせたような精悍な顔立ちの旦那と、女将にそっくりな柔和な眼差しをした男。彼らは真っ直ぐに陣佐の元へ飛び込み、存在を確かめるようにもみくちゃにする。そんな団子の中で、陣佐は照れ臭そうにケラケラと笑い声を上げた。


「あぁ、地獄だった。生きて帰ってこれただけで御の字だ」


「陣、この方は……?」


「俺の仲間だ。焼け出されたんでな、俺と一緒に少し匿って欲しい。雷蔵、分かってるだろうが、俺の両親と、兄の佐壱だ」


「達川雷蔵と申します……」


「雷蔵君! 陣、何言っているんだい、当たり前よ! その腕、酷い火傷じゃないか! 待ってておくれ、今医者を呼んでくるよ! ほら、こっちに来て着替えなさいな!」


 陣佐の母の迅速な采配で、雷蔵は着替えと手当のために奥の部屋へと連れて行かれた。独り残った陣佐は、ようやく張り詰めていた緊張を解き、深く息を吐く。


 その時。柱の影から、一人の少年がひょっこりと顔を出した。陣佐の瞳が僅かに揺れる。


「波留日……?」


 思わず、かつての仲間を呼ぶ声が漏れた。だが、そこにいたのは丸い頬をした見知らぬ少年。どことなく陣佐の母や佐壱に似ている。


「……どちらさまですか?」


 純粋な少年の問いに、佐壱が苦笑して肩を竦めた。


「そうだ、お前全然実家に帰ってこないから……。俺の息子の壱弥だよ」


 おいで、と手招きされ、壱弥と呼ばれた少年は恐る恐る陣佐の前に歩み寄った。


「……ってことは俺の甥っ子か? 前に見た時は赤ん坊だったろ! 時の流れってのは残酷なものだなァ……! おい坊ちゃん、何歳だ?」


「じ、十二になります……」


 陣佐は目を見開き、まじまじと壱弥を凝視した。自分の腰ほどまでしかない小さな体、あどけない瞳、柔らかな頬。その等身大の「十二歳」という姿。


「ははは、そうだよなァ……。本当は十二、三なんて、このくらいだもんなァ……」


 陣佐の口から、引き攣ったような乾いた笑いが漏れた。しかし、それはすぐに震えて湿り気を帯び、目尻から大粒の涙が溢れ出す。


 燻っていた人生に風を吹き込み、最後には命を賭して自分たちを業火の外へと押し出した、あまりに大きく小さな相棒。その背中には、陣佐達が到底知り得ない程の信念と情熱を背負っていたのだろう。波留日はいつも我儘なようでいて、誰よりも鋭く、正しく皆を率い、支え続けていた。その異常なまでの気高さは、壱弥のような「子供らしさ」を一切感じさせない。


「馬鹿だよ、アイツは……。何で、何で、人のことばっかし……」


 陣佐は顔を覆い、崩れ落ちるようにしゃがみ込む。家族が困惑して見守る中、その大きな背中を震わせて、陣佐は声を殺して泣き続けた。

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