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翳と祈りと発つ葉月。 中

 細い腕にクルクルと丁寧に包帯が巻かれていく。布団で半身を起こす波留日の傍ら、類がいつになく真剣な顔で献身していた。その様子を、少し離れた場所で雷蔵と陣佐が壁に寄り掛かりながら、じっと見守っている。類はそちらへ背を向け、波留日の傷が見えないようにしていた。波留日の意思を尊重してのことだ。


「きつくないか?」


「うん、大丈夫。ありがとう」


 波留日は満足そうに右腕を眺め、手袋に保護された手を結んで開いた。手早く残りの包帯や鋏を鞄へ仕舞った類は、次いで薬包紙を取り出し、水の入った湯呑と共に波留日に押し付ける。


「ほら、薬も飲め」


「うげぇ、苦い」


「文句言わんの」


 水で薬を流し込み、その味に顔を顰めて舌を出した波留日へ、類は子供に言い聞かせるように笑った。波留日は一仕事終えたと言わんばかりに伸びをして、空になった湯呑とくしゃくしゃになった薬包紙を類へ渡し、傍に置いてあった原稿に手を伸ばす。

 

「そうそう、この原稿が面白かったんだ。類も後でお読みよ」


「そーかいそーかい」


 類は無邪気な波留日へ適当に返事をすると、漸く振り返って雷蔵と陣佐へ口を開いた。


「……まぁ、見た通りじゃの。ワシに詳しいことは分からんが、病状が酷いわけでもない。いつも通り接してつかあさい」


「その手と腕は」


 陣佐が低い声で問う。その視線は、不安と警戒とが綯い交ぜになって鋭く類を射抜いた。類は鞄に荷物を詰めながら、歯切れ悪そうに二人を見上げる。


「見た目は酷いが、痣みたいなものらしい。膿んどらんし熱もない。弱ってるのは事実じゃが、普通に接してやれってのが先生の言いつけじゃ」


 雷蔵と陣佐は釈然としない様子で顔を見合わせ、鼻歌を歌いながら原稿を読む波留日を見やった。確かに、波留日はいつも通りの態度だ。気を揉んでいるのはこちらだけ。その一方通行の歯痒さが焦燥を生んでいるというのに。


「じゃ、ワシは帰るけぇ、あとは頼んだ!」


 重苦しくなった空気に耐えきれなくなったのか、類はパンと手を打って立ち上がり、そそくさと帰ろうとした。雷蔵と陣佐も、襖を開けてその道を作る。


「類……!」


 しかし突然波留日が声を上げてその背中を呼び止めた。類は足を止め、ゆっくりと振り返る。雷蔵と陣佐も、珍しい波留日の切な声に、視線を落とした。六つの眼が、じっと波留日を刺す。


「……少し、二人で話したい」


 類は目を見開き、襖の前で立つ二人の顔を見やった。陣佐は頷いて部屋を去り、雷蔵は不服そうに類を睨むも、波留日の懇願するように訴えかける視線に気付いて陣佐の後ろを追いかける。類はその背中を見送ると、ゆっくりと襖を閉めて波留日に向き直った。



***



「何じゃ、二人きりで御話たぁ、告白か何かかの?」


 波留日の隣で胡座を掻き、戯けてケタケタと笑う類に、波留日も目を細めて微笑みを返す。そして壁に掛かった月捲りの暦を見上げると、何てことのない世間話を始めた。


「出立の日は決まった?」


「……おう、八月の最後の週じゃ」


 類は拍子抜けしたように、それでも警戒は解かぬように慎重に口を開く。類の視線には、波留日の見えぬ腹を探らんとする鋭さがあった。波留日はそれに気付いているのか気付いていないのか、ほぅという溜息と共に肩の力を抜き、分かりやすく表情を緩めた。


「そう、間に合ったね。良かった。嵐が来ないと良いけれど」


「間に合……? おい、どういうことじゃ」


 類は目を見開き、ゆっくりと身を乗り出して波留日を問い詰める。敷き布団に突いた手に力が入り、徐々に皺を作っていった。波留日は類の反応に目を伏せ、ぽつりぽつりと独り言のように口を開く。


「……私は、本が、小説が大好きでね。読める範囲で沢山読んで、読んで、読み耽って……。読めない作家も、知識として一通り名前は知っているつもりだった」


 ゆっくりと顔を上げ、息を呑む類へと目を合わせた波留日は、小さく首を横に振った。


「けれどね、『吝類』という作家は、知らない。聞いたこともなかった」


 類はその言葉に止まっていた息を吐き、乱暴に外跳ねする髪を搔く。


「……それを言うたら、ワシだって世渡りのためにそれなりの勉強はしとったが、『橘波留日』も、『日々是好日』も知らんかった。『杜若』だって、もっとピンピンしとった筈じゃ」


 そこまで言い切り、類は唇を噛んだ。頭に爪を立てていた手を下ろし、波留日の大きな瞳を覗き込む。そして、少しずつ、一つずつ確認を取るように、確かめるように、一言一句を紡いでいった。


「ワシら……同じか。アンタも、あの手を取ったんか」


 波留日はじっと類の青み掛かった瞳と目を合わせたまま、ゆっくりと頷く。類の瞳がグラリと揺れた。喉仏が上下し、首筋からは夏の暑さからではない汗が幾筋も伝っては浴衣の襟元にじわりと消えていく。開けっ放しの窓からは温い風と、五月蠅い蝉時雨が鳴り響く音が差し込んでいた。しかし二人が互いに腹を探り合う視線の交錯の前では、それらすべてが遠のき、水中に沈んだように、呼吸までもが重苦しく圧し掛かる。


「……あぁ。そうじゃなかったら、と思うと怖くて、確信はありながらも中々君には接触できなかったんだ。杜若派だったのもあったしね。……でも、今思えばもっと早く確認すべきだったかな」


 波留日は絹手袋を嵌めたままの手を握り、眉を下げて笑った。類はその飄々とした態度に歯軋りをして波留日の手へ腕を伸ばすと、無理矢理に絹手袋を剥ぐ。いつかは指先だけであった爛れは、掌から手の甲まで全てを覆い尽くしていた。己がやったというのに、それを目の当たりにして顔を顰めてしまう程に痛ましい光景が類の眼前に広がる。


「じゃあ……この不調の原因は」


「恐らく期限切れだよ。君にもあると思った方がいい」


 波留日は類の手を振り払うと、傍らに放られた手袋を拾い、淡々と答えた。ぽつ、と類の顎先から落ちた汗が、布団に染みを作っていく。浅くなる呼吸の狭間、類が掠れた声を上げた。


「……期限?」


「恐らく私達は、二度は同じ時を過ごせない」


 波留日は顔を上げ、類のその先、月捲りの暦を睨みつける。粛々と話す波留日を前に、類は胡坐を掻き直して深いため息をついた。


「そういうことか……。夢は覚めるものと思うとったが……」


 類は項垂れ、声を絞り出すように嘆き、再び頭を掻きむしる。波留日はそうして思考の整理に苦慮する類をじっと待った。経過すること数分。類は遂に呻き声を上げて歯切れ悪く口を開く。その顔は青褪め、苦悩に満ちていた。


「じゃあ、その……()()は、やっぱり本当に起こるんか。ワシは生まれも何もかもが違うけぇ伝聞に過ぎないんじゃが……」


 類の問いに、波留日は下唇を噛んで小さく首を横に振り、煮え切らない表情を浮かべる。類はそうして思慮深く考え込んだ振る舞いをする波留日の姿を目の当たりにし、普段の無邪気で慇懃無礼な子供は一体どこへ行ってしまったのか、と何処か呑気に考えていた。


「それは分からない。私もほぼ伝聞だが……、可能性は高いと踏んでいる」


「だが、丸っきり同じってわけでも無いじゃろう。ワシらが少しずつ変えとるんじゃから。その変化が巡り巡って……って事は無かろうか?」


 類は切な声で波留日に詰め寄る。まるで神に縋るような有様だ。しかし波留日は今度はしっかりと首を横に振ってみせた。


「恐らく私達がどう動いたとて、大枠の流れは変わらないと思う。変えることができてせいぜい数人……。事実、杜若だって、鷺坂は居なくなったけど続いている。奴だってそのうち戻ってくる。だから、きっと……」


 波留日の冷静な言葉に、類は溜息をついて天井を仰いだ。開け放たれた窓からは、大きな入道雲が目が冴える青い空に高々と立ち上り、天に届きそうな程成長している様が見える。類は差し込む鋭い光に顔を顰め、じっと波留日を見下ろした。


「そうか……。皆の衆には教えないのか?」


「無理だよ。子供の戯言として片付けられてしまう。子供の姿というのは便利だけれど、それ以上に障害が大きい。詰められると困るのは私だしね……。でも、努力はする。……君だって、鷺坂を都心から逃がしたのは()()を意識してのことだろう?」


 波留日が首を傾げて悪戯に微笑めば、類も頭を掻いて苦笑いを浮かべた。胡坐を掻いた足を掴み、前後にゆらゆらと揺れながら肩を竦める。


「はは……。バレてたか。まぁ、恩があるからのぉ。それくらいは許されるじゃろ」


「うん。そうだね。責めはしないさ」


 波留日も目を細めて微笑んだ。そして大きく息を吸って吐くと、笑顔をその面から剥がしていつになく真剣な表情を浮かべる。


「さて、……類。互いに互いを理解したところで、本題に入ろうか。頼まれて欲しいことがあるんだ」


 波留日は開いた自らの手を見下ろし、肩を竦めて苦笑いをした。目を伏せたその顔には影が落ち、波留日のどこか寂しさを纏った空気が類に絡みつく。


「……ああやって振る舞ってはいるけれど、私の身体ではもう、やり残した私の成したいことができない。迂闊だった。あんな急にガタが来るだなんて」


 波留日は眉間に皺を寄せ、自らの朽ち始めた上肢を睨みつけた。そうして見下ろす大きな瞳も、右目は焦点が合っていないように見える。類はゴクリと喉を鳴らし、恐る恐るその首を縦に振った。


「……えぇよ。何じゃ、望みは」


 波留日はほっとしたように顔を綻ばせ、手袋の指先で部屋の押入れを指す。今までは意識なんてしていなかったなんてこと無い押入れが、彼に指差されたことで開かずの扉のように重苦しい雰囲気を放ち、類を飲み込まんとした。


「ありがとう。……あそこに全て入っているから」


 類は口を引き結んだままゆっくりとそこへ歩み寄り、指先を押入れの襖へ引っ掛ける。閉ざされていた暗い空間は、新しく舞い込む空気と引き換えに埃っぽい淀んだ空気を吐き出した。所狭しと本や雑誌、原稿が詰められたその奥、類は一つの荷物に目が留まり、その上に置かれていた一枚の紙切れを手に取る。


「……承った。ひとまず今日は帰るけぇ、また今度」


 紙切れを読み下した類はそれを懐に仕舞い、波留日の枕元に置いた鞄を手に取り歩き出した。襖に手を掛け開こうとしたその刹那、波留日が小さな声で類を呼び止める。


「最後に、分かればでいいんだ。……我が国に金星は昇ったか」


 その言葉に、類は肩を震わせて、ケタケタと底抜けに清々しい笑い声を上げた。腹を抱え、可笑しくて堪らないと言わんばかりにヒィヒィと引き攣った声を上げ、目尻に滲む涙を拭う。波留日は、突如狂ったように笑い出した類に面食らい、パチクリと目を瞬かせた。


「……生憎曇天、取り零しじゃ。空に浮かぶものを取ってくれろと泣いたとて、その手が短けりゃあ、その背が低けりゃあ、どだい無理な話じゃろ」 


 類は苦笑いを浮かべたまま、目を細めて窓に切り取られた青空を見上げる。高く立ち上る入道雲と、そのさらに天を突くギラギラとした太陽。どんなに見上げたとて、どんなに手を伸ばしたとて、それらに手が届くことはない。波留日は類に釣られるように見ていた巨大な入道雲から目を離し、俯いて布団を握り締める。そして、一度大きく息をつくと、眉を下げて微笑んで見せた。


「……それもそうだね。野暮なことを聞いた」


 類は去り際、そんな波留日の嘆息混じりの笑顔に一度口を噤む。しかしすぐに頭を振って気分を無理矢理にでも切り替えると、自らの人差し指と中指だけを立て、ニッと白い歯を見せて笑ってみせた。

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