翳と祈りと発つ葉月。 上
狭い日々是好日編集部の真ん中を陣取っていたソファは取り払われ、波留日が生活するための布団が代わりに置かれるようになっていた。雷蔵と陣佐は、伏せる波留日と共に執筆と編集を行っている。
七月末に倒れてから、波留日の体調が優れない。
あの後すぐ目覚めたものの、立ち上がることができず徳檀の世話になった。彼は波留日の身体を丁寧に見て薬を飲ませたが、大きな結果は得られぬままだ。
そして八月に入った今日も、徳檀は朝星新聞社に訪れ、波留日の容態を見る。見慣れたシャツではなく大人用の浴衣の胸元を開き、徳壇は聴診器を波留日の薄い胸に当てた。
「波留日は口を開く度に大丈夫だというけれど、俺には到底そうだとは思えない」
往診中は部屋の外へ出るよう言われている雷蔵と陣佐は、社屋の一階にてちゃぶ台を挟んで向かい合い、苦い顔をしていた。
「徳檀先生は分かっているでしょうけど、俺も、見てしまったんです、波留日が倒れた時。アイツが必死に隠していた手の……」
雷蔵が耐え切れないというように口を開く。陣佐は静かに煙草の煙を吐き、眉間に皺を寄せた。
「一体、あれは……。波留日は本当に……」
「病のことは医者にしか分かんねぇよ。俺達にできることは、アイツの回復を祈るだけだ」
陣佐は灰皿に煙草を押し付け、ゆっくりと立ち上がる。何事かと首を傾げる雷蔵に、陣佐はニッと笑い掛けた。
「そろそろ診察も終わる頃だ。先生に茶でも渡して世間話に行くか」
料理はめっきりな陣佐が唯一できる台所仕事、それが茶を淹れることだ。お国自慢の茶葉に程よい温度の湯を注ぎ、蒸らす。人数分の湯飲みに回して注ぐ急須からは、鮮やかな黄緑色が溢れ、その水面にはキラキラと旨味が浮かんだ。
雷蔵は盆に乗せた湯飲みを零さぬよう慎重に階段を登る。古い家屋の床板は、その重みを受けてギシギシと音を立てて軋んだ。
「これは……いみたいなものだから仕方ないよ。先生が……に病むものじゃない」
「そうは言ってもね、波留日君。医者としてこの……は見逃せないよ」
その不愉快な音の合間、編集部で話す波留日と徳壇の声が漏れ聞こえてくる。雷蔵と陣佐は眉間に皺を寄せ、息を殺して耳を澄ませた。しかし、薄く古い壁とはいえ立派な障害。雑音と混ざり濁った声しか聞こえない。
陣佐は諦めたように溜息をつき、次いでトントンと襖を叩いた。
「先生、波留日。そろそろ終わるだろうって事で茶を持ってきたんだが、入ってもいいか?」
「あぁ、大丈夫だよ。診察自体は終わっているからね。お茶もありがとう」
閉ざされた部屋の先から徳壇の柔らかい声が聞こえ、陣佐は襖に手を掛ける。
「先生、波留日の容態は」
雷蔵が皆に湯飲みを渡す中、早速陣佐は本題へ入った。波留日へ湯飲みを渡す最中、雷蔵は彼の絹手袋の先、細い右の腕に包帯が巻かれていることに気付き、思わずヒュッと息を呑む。その傍らで茶を啜った徳壇は、苦笑を浮かべ、深刻そうな顔を浮かべる二人へ諭すように首を傾げた。
「……、何とも言い難いね。でも倒れた時よりは改善して小康状態だ。無理は禁物だろうけど、好きなことは是非やって欲しい。感染するものじゃないから、皆も怖がらずに、ね?」
「その、先生、波留日のその腕は……」
しかし、何も安心できないと言わんばかりに雷蔵は上擦った声を上げる。
「少し荒れが酷かったからね。保護の為に包帯を巻かせてもらった。交換は、類君が発つまでは彼にやってもらおうか」
目を細めて微笑む徳檀に、雷蔵は気色ばんで声を荒らげた。
「そんな、どうして類に……!」
「確かに私の元で数か月勉強しただけの見習いは不安かもしれないけどね、彼は非常に筋が良い。飲み込みも早いし、患者が何をされたら嬉しいのか、何が楽なのかをしっかり理解して動ける。それは師として太鼓判を押させてもらうよ」
元来不器用な質の雷蔵だ。看病の技術を競われては何も言い返せない。悔しそうに歯噛みする雷蔵へ、波留日は茶を飲みながらにこやかな顔を向けた。
「大丈夫。文は読めるし字も書ける。これまで通りに働けるよ。あんまり病人扱いしないでよね。そこまで落ちぶれちゃないさ。今日だって僕のことは気にせず、遊郭にでも行っておいでよ」
「病人がいるからって皆が一様に暗くなる必要は無いよ。むしろ、周りがいつも通り動いてくれれば、波留日君だって気に病む事が少なくなる。君達、波留日君が倒れてから笑っているかい? 私としては君達の方が心配だ。編集部の空気が淀んでいるよ」
徳檀は刺々しい空気を纏う雷蔵と陣佐を諌めるように、交互に二人の目を見て諭す。不服そうに顔を顰める雷蔵とは対照的に、一度大きく息をついた陣佐。ガシガシと乱暴に髪を掻き、重い腰を上げた。
「……そうだな。波留日には何言っても無駄だってのは昔からだし、遊郭には原稿の回収には行ってねぇし、此処は素直にいうことを聞くか。行くぞ、雷蔵」
「えっ、陣さん! 俺はっ……!」
「いいから来い」
陣佐は雷蔵の腕を取り、無理矢理にでも立たせる。そして連れて行かれまいと踏ん張る雷蔵をいとも簡単にズルズルと引き摺って編集部を出ていってしまった。
それを見送り、徳檀はほっと息をつく。そして正座を崩して身を起こすと、波留日の着流しに手をかけた。
「清拭が途中だったから脱がすよ。ごめんね」
そうして優しい手つきで波留日の肩から浴衣を外す。窓から差し込む光の下に晒された波留日の肌は白く内側から発光するように美しい。彼の右肩から二の腕にかけて以外は。
「……もう、誤魔化しは効かなくなってきているよ。いや、もう彼らは分かっている筈だ、波留日君」
いつしか軍人に見られた指先の爛れが、まるで忍び寄るようにその面積を広げていた。斑に蝕む患部に、徳檀はそっと濡らした手拭いを滑らせる。
「でも先生だってああして隠してくれたじゃないか。それに、風呂屋に行く時間だって意図的にずらしてきたんだ。これからも何とかなるんじゃないかな。倒れた時より身体は軽いし! 流石先生、よく効く薬だね」
されるがままになりながら、波留日はあっけらかんと笑ってみせた。その屈託のない笑顔を目の当たりにし、徳檀はそっと目を伏せ小さく唇を噛む。
「波留日君、私は、君を、君のような存在を……」
***
「波留日は……本当に大丈夫なのだろうか……」
「大丈夫な訳、ねぇよなぁ……」
渋々と陣佐に連れられて歩きながら、耐えきれぬというように雷蔵が言葉を吐いた。陣佐はその嘆きを受け、酷く冷静な見解を示す。あまりの回答にキッと睨みつけてくる雷蔵へ、陣佐は呆れ顔のまま更に口を開いた。
「そもそも人かどうかすらも怪しい奴に、医療が効くとも思えねぇ。治るかどうかも、アイツ次第な気がするんだよな」
「人かどうかも怪しいって……!」
陣佐の言葉に目くじらを立てた雷蔵に、陣佐は驚いたように目を丸くする。
「お前、気付いてねぇのか? ったく、妄信者は怖いねぇ。……いや、お前の願いか? それとも見ようとしていないか……」
誂うように笑った直後、一転して陣佐は腕を組み、ブツブツと何か考え込み始めた。そして何か結論が出たのか、顔を上げて雷蔵の頭から爪先をじっと眺める。
「お前、はそんなでもなさそうだが……。俺は小坊から中坊に掛けて骨が軋んで痛くて眠れぬ夜を過ごしたものよ。十四あたりから数年で一尺は伸びたね。俺程じゃないが、お前にもあった筈だろ」
陣佐の言わんとすることに漸く合点が行ったのか、雷蔵は息を呑んでその瞳を震わせた。つぅと暑さからではない汗が、雷蔵の首筋を這う。
「……俺が波留日と出会ってから、二年は経つのに」
「さらに言えば、俺が出会った時から、だ。本来、子どもの成長というのは、目にも止まらぬくらいだろ」
陣佐は煙草を箱から取り出して火を点けた。落ち着き払った様子に、雷蔵は指先を震わせながらその顔を見上げる。
「……陣さんは、気付いていたんですか」
「当たり前だろ。こちとら足掛け五、六年か? 気付かない方がおかしい。寧ろお前が何の疑問も持たずに付き合っていたことに驚きだ。まぁ、大人の二年なんてあっという間だからな。身近に子供が居なければ気付かないよな」
「じゃあ何で」
糾弾するように悲痛な声を上げた雷蔵を横目に、陣佐は紫煙を吐き出して入道雲が天を突き抜ける空を仰いだ。
「化物でも何でもいい。俺を救った存在として、俺はアイツとアイツの情熱、魂を愛している。この件も助かればいいとは思っているが、同時に、アイツの選択を尊重したい気持ちもある」
雷蔵は目を見開く。肌を刺すような日差しを見上げ、陣佐は肺いっぱいに煙を吸った。今、雷蔵の隣で歩みを進めているのは、達観した視点でものを見る大人だ。
「波留日が居ない世界だなんて……。俺は、俺は……陣さんみたいに強くない……」
夏だというのに、雷蔵の身体は透けるように青褪めて、カタカタと震えが止まらなくなる。
「馬鹿言うなよ。お前、自分が書く目的忘れちゃないだろうな」
陣佐は青褪める雷蔵の頭を叩き、厳しい声を掛けた。眉を顰め、酷く失望したと言わんばかりの目線に、雷蔵は言葉を失い、ただ力無く項垂れる。
そうして重い足取りで道を歩けども、自ずと目的地には辿り着くものだ。二人は夜の華が開く前の大門を臨んでいた。そのまま大通りを進み、華幻楼の戸を叩く。
「あら、陣さん! ……と雷蔵! 久しぶりねぇ!」
通りかかった遊女が顔を華やがせてヒラヒラと掌を振った。思わぬ来客に、開店準備をしていた遊女達がキャッキャと黄色い声を上げて陣佐の元へ詰め寄る。
「おう、今日は原稿貰ったらさっさと帰るぜ」
片手を上げて軟派な雰囲気を纏う陣佐に、数人の遊女達は頬を染めながら駆け足で屋敷の奥へと引っ込んでいった。綴ったものを取りに行ったのだろう。
「そうそう、前に陣さんが持ってきてくれた雷蔵の短編集、とっても素敵だったわ」
原稿を取りに行かなかった遊女の一人が浮かない顔の雷蔵を見留め、思い出したように話題を持ちかける。
「そうそう、暗いんだけれど、どこか繊細で優しくて!」
「私は三番目に入っていた御話が一番好きよ」
「なんだかこっちまで色々と考えさせられたり、豊かになれた気がしたわ」
「私はやっぱり、『砂浜の彼方』がまとめられていて、一度に読めたのが嬉しかったわ」
「素敵は素敵よ? 優しくて、美しくて……。でもやっぱり暗過ぎよ。私、雷蔵の書く明るい恋愛小説が読みたいわ」
「『介錯』は難しくてよく分からなかったけれど、何だかとっても苦しくなったの。私、思わず田舎のおっ父とおっ母に手紙を書いてしまったわ」
そうして口々に短編集の感想を語り始める彼女たちの勢いに、雷蔵は思わず気圧されて仰け反った。華のような美しさが眩しくて目を細める。
「雷蔵、素敵な物語を書いてくれて本当にありがとう。どうかこれからも書き続けて欲しいわ」
遊女の一人が柔らかく微笑んだ。その言葉に、浮かない顔をしていた雷蔵が面を上げる。
「……俺の物語は、届きましたか」
ぽつりと零した雷蔵の呟きに、その遊女は目を細めて頷いた。そんな彼女の後ろでも、短編集の感想を口にしていた他の遊女達も顔を見合わせて破顔する。
「えぇ。この本を手に取った方々は、きっと、貴方様の優しさや苦しみ、祈りに触れ、未来永劫心に残りんしょう」
雷蔵は下唇を噛み、きつく目を閉じ、肩で大きく深呼吸をした。そして自分の頬をパンと勢いよく両手で叩くと、遊女たちに向かって深く頭を下げる。
「……すいません、ありがとうございます」
遊女達は突然自分に痛みを与えた雷蔵に驚きつつ、いいのよぉ、気にしないで。と声を掛ける。そうして取り囲まれる雷蔵を横目で見守りつつ、陣佐はそっと煙混じりの息を吐いた。
「達川様」
キャッキャと黄色い声で賑わう帳場に、気の強そうな芯のある一声。遊女達は顔を上げてその声の主を見ると、サァと海を割るように雷蔵への道を開けた。
「……朧さん」
いつか、雷蔵の大切な人と引き合わせる切欠となった遊女が真っ直ぐにこちらを見据えている。あの時のような貪欲に機会を喰らわんとする眼光はそのまま、しかし粗野で荒々しい雰囲気はなりを潜め、気高く凛とした立ち振る舞いの朧がゆっくりと雷蔵のもとへ歩み寄った。
「これを」
彼女は一枚の紙を雷蔵へ渡す。そこには、一首の詩が綴られていた。
「私、菜乃葉姐さんにはまだまだ程遠いけれど、格が上がったのさ。……きっと、姐さんもこれを読んでいるだろうから、手紙じゃなくて、これで届けようと思ったんだ」
朧は照れ臭そうに笑いながら、それでも真っ直ぐに雷蔵と目を合わせる。
「あの時の姐さんの言葉で私は変われた。それに気付くまで随分と時間が掛かってしまった。謝ることもせずに。……悪いことをしたね」
二年という月日を経て、朧は泥臭さに加えて思慮深さも併せ持つ遊女へと変貌を遂げていた。雷蔵はその可憐さに目を見開きつつ、そっと柔らかい笑顔を浮かべる。
「いえ。……きっと、雪姉……あの人にも届くと思います。そうだ……本来、言葉は、そうであるべきだ」
雷蔵は朧の原稿を丁寧に懐へしまい込むと、自分に言い聞かせるように何度も深く頷いた。




