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実りと願いと繋ぐ文月。 下

 日差しが痛い七月の末。蝉がけたたましく鳴き、夏本番の到来を知らせている。そんな茹だるような暑さの中、朝星新聞社の引き戸が勢いよく開き、波留日が軽やかな足取りで玄関を飛び出した。


「早く早く! もう書店が開く時間になっちゃうよ!」


 散歩を待ちかねる犬のように狭い庭を駆けまわり、陣佐と雷蔵に早く早くと声を掛ける。せっつく波留日に、陣佐と雷蔵は苦笑いをして顔を見合わせた。


「そんなに焦らなくても、短編集は逃げないぞ」


 陣佐が呆れたように笑えば、波留日は子供らしく頬を膨らませる。陣佐の隣で下駄の鼻緒を直していた雷蔵は、身を起こして口角を上げ、カッコカッコと足音を鳴らしながら波留日の元へ駆け寄った。


「俺は、波留日の気持ちの方が分かります。行きましょう、陣さん」


 雷蔵の頬が火照っているのは、気温のせいだけではない。舞い上がる気持ちを隠すことができないまま、雷蔵と波留日は陣佐へ手招きをする。陣佐はそんな二人を見て、豪快に笑い声を上げた。


 東京の下町を波留日は鼻歌を歌いながら歩く。その軽快で浮かれた後ろ姿を、雷蔵と陣佐はしみじみと見守っていた。小学校は暑中休暇に入ったのか、波留日と同じ年程の子供達が道で鬼ごっこをしたり、缶蹴りをして遊んでいる。


「まさか、雷蔵と俺達の出会いがこんな所にまで来ちまうとはな」


「やっぱり今でも信じられないです。俺の書いたものが形になるだなんて。それもこれも、この命だって……波留日に貰ったようなものだ」


 陣佐が頭の後ろで手を組み、積乱雲が立ち昇る空を仰いだ。雷蔵は眉を下げて笑い、自分の胸を右手でトントンと小さく打ち鳴らす。そして顔を上げ、前を悠々と歩く波留日の、小さくも大きい後ろ姿を眩しそうに眺めた。と、波留日の右前方、わいわいと騒ぎ遊んでいた子供達が缶を蹴とばして高く舞い上がる。


「波留日! 右! 危ない!」


「えっ?」


 余所見をしていたのか波留日は迫りくる缶を避け切れずに額へ命中した。小気味のいい音が響く。


「ぐえっ!」


「波留日!」


 衝撃で変な声を上げ、波留日はそのまま地面に倒れ込んだ。雷蔵が慌てて駆けよれば、波留日はいてて……と半笑いで額を擦り、ゆっくりと身を起こす。缶を蹴った少年もおずおずと波留日へ近づいて顔を覗き込んだ。


「ごめん、その……大丈夫?」


「大丈夫だよ。気付かなかった僕が悪いんだ。でも君も気をつけてね」


 波留日は困り眉のまま、ひらひらと掌を振って立ち上がる。


「僕が時間を食っちゃった。さぁ、早く書店へ行こう」


 洋袴についた砂埃を叩いて、波留日はどんどんと足を進めた。雷蔵の手を引いて歩く後ろ姿を、陣佐は日差しの眩しさに顔を顰めた。


 そして遂に行き着く懇意の書店。店頭には、波留日が必死に守り抜き、雷蔵が命を削って綴ってきた文字が新刊として人々の前に掲げられている。


「並んでる、雷蔵の本が。本当に……。夢みたいだ」


 本屋の前に並び立ち、波留日が感嘆の声を漏らした。隣に立つ雷蔵の手を握り、波留日は今にも泣き出しそうな笑顔を見せる。


「ありがとう、雷蔵、此処まで僕と一緒に来てくれて」


 雷蔵がその笑顔を見た瞬間、波留日の目尻から大粒の涙がつぅと流れた。雷蔵はそれを見て考えるより先に身体が動く。


「それは此方の台詞だよ、波留日。本当に、俺を此処まで連れて来てくれて、本当に、ありがとう」


 波留日の小さな身体が、目一杯雷蔵の腕に包み込まれた。細い腕が、きつくきつく波留日の身体を抱きしめる。


 この瞬間が、ずっと続けばいい。

 紙とインクの匂いに包まれ、波留日が笑っていて、自分の書いたものがある。

 それ以上、何を望むというのだろう。


 波留日はそんな雷蔵に抱きしめられ、ボロボロと涙をこぼしながら、震える声音で高らかに笑ってみせた。


「あはは、苦しいってば、雷蔵。放してよぉ」


 何とか腕を雷蔵の拘束から解き、トントンと背中を叩く。しかし雷蔵は波留日の首元へ顔を埋めたまま、嫌々と駄々っ子のように首を振った。


 年端もいかぬ少年に縋りつく成人男性という光景は、矢張り絵面が不味いと踏んだのか、陣佐が呆れたように雷蔵と波留日の首根っこを引っ張って引き剥がす。解放された波留日はまっしぐらに新刊へ駆け寄ると、一冊取って会計へと飛び込んでいった。


「これください!」


 そうして後生大切そうに本を抱えて戻ってきた波留日に、陣佐は呆れ顔でちょこんとした鼻を摘まんでやる。


「なんでわざわざ。編集部に行けば幾らでもあるだろうが」


 陣佐の言葉に波留日は頬を膨らませた。


「全然違うよ。これは、僕の。僕がこうやって書店で買うから意味があるんだ。……ねぇ雷蔵、言ったでしょう?」


 波留日は本を抱きしめ、雷蔵を見上げて首を傾げる。


「僕は君の一番の贔屓、だって」


 その言葉に胸の奥をぎゅっと掴まれたような気がして、雷蔵は目を細めて頷いた。



***



 同日の数時間前、閑静な高級住宅街の佐伯家では、ミチが朝の家事をしつつソワソワとどこか落ち着かない雰囲気を纏っている。姑は訝しげな顔を浮かべつつ、今にも鼻歌を歌い出しそうな彼女を咎めることは憚られたのか、そっと微笑んだ。


「今日はミチさんにとって特別な日と官兵衛から聞きましてよ。この仕事が終わったら御遣いがてらお外へ出てらっしゃい」


「いいのですか? 御義母様」


 ミチは目を見開いて顔を華やがせると、深々と礼をして一層動かす手を早めた。ゴシゴシと洗濯板に布を押し付ける。その時、静かな佐伯家の中に突如引き戸が開く音がして、ミチは慌ててその手を止め、割烹着の裾で手を拭きながらパタパタと玄関へ回り込んだ。


「官兵衛様……どうして?」


 玄関に立っていたのは、見慣れた軍服でなく普段着に身を包んだ官兵衛であった。この時間帯に居る筈のない主人の姿にポカンとするミチを前に、官兵衛は無骨な表情のまま、頬を赤くしてモゴモゴと口を開く。


「働き過ぎだから有休を取れとせっつかれた。だから休んだ。ミチ、外へ出る仕度をしろ」


「え……?」

 

 仕事人間である官兵衛から出たとは思えぬ言葉に呆気に取られるミチ。一歩も動かず棒立ちになる妻を前に、官兵衛は仕方なしと溜息をついて一息に理由を吐いた。


「今日は、特別な日なのだろう? 本屋に行って、その後クリヰムソーダでも喫すればいい。仕度の間に、母さんの説得もしておく」


 その言葉に、ミチの頬は官兵衛に負けず劣らず真っ赤に染まる。頬に手を当ててその火照りを冷まそうとするも効果はなく、耳の先まで容赦なく熱は広がった。


「……官兵衛様、それは、デヱトということですの?」


 そうして真っ赤になりながら自分を見上げたミチと目が合い、官兵衛はふいと目を逸らす。


「……お前がそう思うのなら、そうなのだろう」


「……はい!」


 ミチは官兵衛の素直でない言葉に破顔して頷くと、パタパタと廊下を進んで自室に入った。余所行きの着物に着替え、手早く髪を結い直し、鏡台の前に腰を下ろして紅を引き直す。あっという間に若夫人の装いとなったミチは、最後の仕上げと言わんばかりに鏡台に置かれていた香水へ手を伸ばした。洒落た洋風の瓶と、落ち着いた意匠の瓶が並んでいる。ミチは迷わず、無駄のない日本調の香水瓶を手に取り、その穏やかな花の香を身に纏った。


「お待たせいたしました、官兵衛様」


 玄関でソワソワと妻の仕度を待っていた官兵衛は、夏に相応しい淡い色の着物を纏ったミチの姿を見てふいとそっぽを向いた。


「行くぞ」


 ぶっきらぼうな口調だが、進む足取りはゆっくりで、ミチは彼の三歩後ろを歩きながらクスリと小さく笑う。


「何をしている、隣に来い。それともまだ俺の歩くのが速いか」


 官兵衛は振り向いてミチに声を掛けた。ミチは目を丸くした後そっと微笑むと、地面を蹴って官兵衛の隣に肩を並べる。そうすれば、官兵衛は満足そうに息を吐いて再び足を踏み出した。ミチはそんな官兵衛の隣で、こっそりと主人の顔を伺い見る。出会った時と同じように無骨で生真面目なのに変わりはないが、その表情が分かりにくい仮面の中に、柔らかさや優しさがあるということを、ミチは言わずもがな解していた。



***



 所変わって都から離れた山間の村。山では蝉が鳴き、青々とした木々が風に吹かれてどうどうと音を立てる。田の間を縫って流れる小川では、水草が水流に沿ってユラユラと揺れ、その上では蜻蛉トンボが忙しなく飛び回っていた。


 田舎の風情溢れる道を、ひとりの書生が日差しにも負けずしっかりとした足取りで歩いている。風呂敷包みを手にした彼の進む先は、村の奥にある古い屋敷だ。門を開き、手入れが中途半端な庭を抜けて、玄関の戸を開ける。


 下駄を脱ぎ、広く長い廊下を進み、書生はある部屋の前で足を止めると、ゆっくりと腰を下ろした。そして指を揃えて襖に手を掛け声を掛ける。


「失礼致します」


 音を立てず静かに襖を開けば、書生の視線の先に、浴衣姿で縁側に腰掛ける鷺坂の姿があった。まだ日の高い昼間であるにもかかわらず、その傍らには徳利と猪口が転がっている。


 書生は畳の上を進んで鷺坂の元へ歩み寄ると、縁側の傍で静かに正座をした。その隣には、風呂敷包みを控えさせる。


「先生、御望みのものを買って参りました」


「……見せなさい」


 指を揃えて頭を下げた書生に、鷺坂は乱暴に手を差し出した。書生は風呂敷包みを解いて一冊の本を手渡す。


 鷺坂は皺の寄った手で一枚一枚頁を捲り、印刷された文字を目で追った。紙が擦れる音と、夏の音だけがこだまする。


 高い山によって早い日の入りを迎えた頃、鷺坂は読み終えた短編集を静かに閉じ、それを懐に差し入れて立ち上がった。


 入道雲が夕立を運んできそうな空模様を見上げ、鷺坂はぽつりと呟く。


「矢っ張り、嫌いだよ」



***



 一つの大仕事を終えた日々是好日編集部であったが、仕事に追われる日々は変わらない。七月号の刊行を終え、八月号に向けた原稿が届き始めている。波留日と陣佐は届いた原稿の確認と編集作業、雷蔵は自身の執筆活動に明け暮れていた。


「波留日、見てくれ」


 雷蔵は原稿用紙に向き合っていたところから顔を上げ、大きな伸びをして身体を解す。そして書き上げた原稿を何枚かまとめ、ソファにて届いた原稿を確認している波留日に差し出した。しかし、当の波留日は集中しているのか、全くそれに反応せず、文字を読み耽っている。


「波留日?」


「え、あぁ、ごめん。気付かなかった」


 波留日は雷蔵に名を呼ばれ、初めて気づいたと言わんばかりに慌てて顔を上げる。そのぎこちなさを前に、窓際に寄り掛かっていた陣佐が原稿から目を離し、眉間に皺を寄せてそのやり取りを眺めた。


「うん、うん。いいね。素敵だ」


 波留日は雷蔵の原稿を見ながら、目を細めて笑う。雷蔵は強張らせていた肩からほっと力を抜いた。波留日は赤鉛筆を取り出したものの、その出る幕は殆どない。原稿の角を揃え、波留日は原稿を雷蔵へ返す。


「一人でも十分考えて、表現できるようになったじゃないか」


 その言葉を受けて、誇らしげに笑い、原稿を受け取ろうとしていた雷蔵の手が止まった。え? と雷蔵の喉から引き絞られたような、掠れた声が響く。


 夏に似合わぬほど凍てついた空気が場を支配する。動けぬ程の重苦しさを破るように、陣佐が煙草を咥えたまま、低い声で波留日の名を呼んだ。


「なぁ、波留日。お前、右目が見え難くなっているんじゃねぇのか。ぶつかったり、気付かなかったり、最近多いだろ。それに、その手袋だって」


「やだなぁ。陣佐。そんなはずないだろう?」


 波留日は陣佐の言葉を遮り、ソファの上でケラケラと笑ってみせる。それを誤魔化しと見た雷蔵が、眉を下げて波留日へ詰め寄った。


「波留日、もし何かあるんだったら徳檀先生に……」


 パン、と絹手袋を嵌めた手が打ち鳴らされ、雷蔵は合図のようなそれに思わず閉口する。


「気にしない気にしない! 僕のことは気にせずに仕事を進めて!」


 目を細めて口角を上げる波留日は、強張る二人の表情を見て、何かを閃いたように手を打ち鳴らした。


「あ、喉が渇いてるんだったら水を汲んでくるよ!」


 そう言ってソファから立ち上がると、原稿の散乱した床を縫うように進んで逃げるように編集部を後にする。まるで詮索してくれるなと言わんばかりに襖が閉じ、それでも我慢ならぬと雷蔵が立ち上がって追いかけようとしたその時。


 バタンと廊下で大きな音が響いた。その衝撃は編集部の積み上がった本の塔まで届き、均衡を失ったそれはバサバサと音を立てて崩れ落ちる。


「波留日ッ!」


 雷蔵は物騒な音に青褪めると、襖を蹴破らん勢いで廊下へ飛び出した。廊下の先、階段の目前。波留日がぐったりと身体の力が抜けた状態で倒れている。


「波留日ッ! 波留日!」


 雷蔵はつんのめりながら波留日の元へ駆け寄り、その小さな体を抱き上げて名前を呼んだ。遅れて陣佐も事態を把握し、目を見開いて駆け寄る。


「おい、波留、波留。大丈夫か、」


 血の気の引いている頬を軽く叩くも、返事は帰ってこない。


「……ックソ、雷蔵、取り敢えず編集部のソファに寝かせろ。俺は徳壇先生を呼んでくる」


 雷蔵は陣佐の指示に頷くと、その小さな体を抱き上げて編集部へ戻った。それを見届ける間もなく陣佐は急な階段を駆け下り、八月へ半分足を突っ込んだような日差しの中を全速力で駆けていく。


「なぁ、波留日……叶うよな? 俺の願い」


 ソファに力なく横たわる波留日の頬を撫でながら、雷蔵は震える声で呟いた。

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