実りと願いと繫ぐ文月。 上
ゴウゴウと機械が唸る音が響き、カシャンカシャンと規則正しく紙を食んではその白地に黒を刻み込んでゆく。
印刷所は、編集部の何倍もの濃いインクと紙の香に満ちていた。湿った鉄と油の匂いが、濃密なインクの気配に絡みついて鼻腔に残る。
雷蔵、波留日、陣佐の三人は、雷蔵の原稿が一枚一枚、形を得ていく様に立ち会っていた。七月も頭、夏もいよいよ本番だと言わんばかりの気温の中、工場の中に居れば自然と首筋に汗が滲んで伝う。
雷蔵は着物の袖口でそれを拭い、自分の生み出した文字が整えられて多くの人のもとへ届く姿かたちを得ていく様子を、唇を真一文字に引き結んでじっと凝視する。日々是好日の一部ではない、達川雷蔵という名を背負った紙が積み上がっていく光景が、どこかまだ浮世離れしているように思え、雷蔵は思わず自らの頬を抓った。しっかりと痛い。
「ねぇ、嬉しいね、雷蔵」
波留日がそんな雷蔵を見上げ、空いていた彼の左手を取って強く握りしめる。同じように真っ直ぐ、印刷工程を見守っていた波留日の大きな瞳からは一粒の涙が零れ、頬を伝っていた。雷蔵は小さな絹手袋越しの掌をそっと握り返す。その確かな感触が、漸く雷蔵にこの現実を知らしめた。
「……あぁ。ありがとう、波留日」
腹の奥から絞り出されたように震える、雷蔵の精一杯の言葉に、波留日は顔を上げて破顔してみせる。
「それはこっちの台詞だよ。僕は今、夢が叶う直前まで行きついたこの感動を、何と言い表していいのか全く以て見当がつかない」
波留日は、小説家失格かな、と小さく笑い、こてんと雷蔵の身体に寄り掛かった。雷蔵は、子供特有の背の低さと体の軽さに微笑み、繋いでいない方の掌で波留日の頭をそっと撫でる。サラサラと撫でられるたびに髪の流れが変わっていった。
物語を紡ぐ雷蔵の右手に愛でられ、波留日は寄り掛かったまま心地よさそうに目を閉じた。そうして身を寄せ合う二人を、陣佐は温かい眼差しでそっと見守る。
「やぁやぁ、作業は順調なようだな」
穏やかな時の流れに身を任せていると、この短編集を創るにあたり強力な後ろ盾となってくれた偕成出版の鎌田が印刷所の戸を開けた。
「鎌田! あぁ、お陰様でな。これで坊ちゃんの我儘を完遂できる」
暑そうに掌で首元を扇ぐ鎌田を捕まえ、陣佐は表情を緩めて肩を組む。暑いと愚痴を垂れて陣佐を引き剥がしながら、鎌田は白い歯を見せ笑ってみせた。
「あの騒動の直前に渡してくれた君たちの原稿を載せた文藝礼讃も評判がいい。日々是好日も、『被害に遭った側』として名前が出ているしな。知名度も追い風だ。売れる地盤は整ってる」
鎌田は波留日に寄り掛かられたままの雷蔵に近づき、ドンと力強くその細い肩を叩いて激励する。雷蔵は衝撃でずれた眼鏡を直しながら、気恥ずかしそうにはにかんで頷いてみせた。
「ありがとうございます。皆に、手に取った後悔はさせない筈、です」
雷蔵の言葉に、陣佐と波留日も胸を張り、鎌田に真っ直ぐな眼差しを向ける。眩いばかりの視線に滲む夢と希望に、鎌田は眩しそうに目を細めて微笑んだ。
「そりゃあ結構なこった」
そこへ社員から鎌田の来訪が知らされたのか、汗だくのまま慌てて印刷所の社長が飛び込んでくる。社長は場の空気も読まず、雷蔵や波留日の横を素通りして手を捏ねて平身低頭、大出版社の編集者に擦り寄った。
「いやぁ偕成の鎌田さん! いらっしゃるならお声を掛けて頂ければ応対しましたのに!」
「別に、ちょっと近くに寄ったから陣達の様子を見ようと思っただけさ。お構いなく」
営業用の愛想笑いを浮かべる社長を見下ろし、鎌田も同じように余所行きの笑顔を向ける。しかし社長は困ったように眉を下げ、滅相も無いと声を上げた。
「いやぁ、そうも行きません! ……こちらとしても、安定した会社とお取引したいのですから。礼を尽くさせてください」
「あぁ……この前も何十人と捕まったってな。そいつらが印刷所使って出版していたら、アンタ等だって片棒担いだって責められたりするかもしれねぇし、そうしたら他人事じゃねぇな」
二人の会話を隣で聞いていた陣佐は世間の情勢と照らし合わせ、腕を組んで唸り声を上げる。社長は首が取れそうな程激しく頷き、現在の出版界を取り巻く問題についてつらつらと愚痴を吐き始めた。
「ねぇねぇお兄さん、この印刷機って大きいねぇ。どのくらいのお金があれば買えるの?」
一方、雷蔵の手を引きながら興味深げに印刷所を散策していた波留日は、汗だくになりながら機械の整備をする若い男に声を掛ける。彼の職場には珍しい子供の来訪者に男は顔を上げ、首に掛けた手拭いで頬を拭って笑顔を浮かべた。
「とんでもない値段だよ。国産が最近出てきたとはいえ、それでも高級品さ」
トントンと無骨な機械の側面を叩き、男は誇らしげに胸を張る。波留日はうへぇと苦い顔を浮かべ、同じ様に青褪めている雷蔵と顔を見合わせた。
「僕達朝星新聞社も、自分達で印刷機が持てたらいいのにね」
「庶民が使えるのは大きさと値段から見てもガリ版だが、それは出版には向かないぞ」
若い男は親切にも印刷機の種類や手法の解説を始める。それを一言一句逃すまいと波留日と雷蔵はしきりに頷き、食い入るように男の話を聞いた。
「波留日ー、雷蔵、行くぞー!」
しかしその特設講義も、世間話を終えた陣佐の一声で終わりを迎える。波留日は名残惜しそうに頬を膨らませ、次には子供らしい満面の笑顔を男へ向けた。
「そっか……やっぱりそうだよね……。お兄さん、ありがと! 雷蔵、行こう?」
そして、手帳に男の話を書き留めていた雷蔵の手を取ると、波留日は陣佐のもとへ駆け寄る。陣佐は鎌田と並び、印刷所の屋内を抜け、午後の盛りを過ぎはじめた日差しの下で二人を待っていた。お待たせ、と掌を振って微笑む波留日に片手を上げて応えると、陣佐は隣に立つ鎌田へ目配せをする。
「じゃあ、七月末に」
「あぁ。楽しみだな。波留も、雷蔵も、最後まで気張って行けよ」
「うん! 鎌田、ありがとう!」
「ありがとうございます、鎌田さん」
別れの挨拶に、波留日は大きく手を振り、雷蔵は深々と頭を下げた。鎌田がそれに応えるのを見届けてから、陣佐は踵を返してゆっくりと歩きだす。二人はその大きな背中を追い掛けた。
社屋への帰路、商店街の道の上には大きな竹が渡され、色とりどりの短冊や飾りが風に揺れている。
「七夕かぁ。ここら辺は新暦に合わせているんだものね」
見上げるようにして、波留日が呟いた。未だに旧暦の文化が色濃く残る田舎とは異なり、欧米の風をいち早く取り込む東京。それでも、商店街に並ぶ食べ物や活気あふれる店先の声は、昔ながらの懐かしい空気に溢れている。
「そうだな、折角だ。笹寿司でも買って帰るか?」
陣佐が並ぶ店一つ一つを眺めていると、季節と文化を感じられる品を見つけて足を止めた。
「いいね! あ、あそこのお酒も買って行こう!」
波留日も目を輝かせ、陣佐が足を止めた店へと駆け出す。雷蔵も波留日に引っ張られる形で並ぶ笹寿司をまじまじと見つめた。
「女将、笹寿司とこの酒をくれ」
陣佐が財布片手に恰幅の良い肝っ玉な女将へ声を掛ける。色男に話し掛けられて年甲斐もなく舞い上がった様子の女将は、寿司を包む傍ら、照れ隠しのように店の隅に置いてあった短冊と筆を指差した。
「アンタ等、ついでに短冊書いてお行き!」
「おう、折角だ。季節の行事は楽しまなきゃなァ」
皆は顔を見合わせて笑い、陣佐が三枚の短冊を取って二人に渡す。狭い店の中で、三人は肩を寄せ合い思い思いに筆を走らせた。
「なんて書いたんだ?」
早速竹へ短冊を掛けようと背伸びする波留日に、陣佐がニヤニヤと悪戯っ子のように話し掛ける。その声に波留日は一度手を止め、ぷぅと頬を膨らませた。
「他人のを聞くんだったら陣佐から教えるのが筋じゃないの?」
陣佐は波留日の真っ当な言い返しに笑い声を上げると、墨が乾き始めた短冊をピラピラとはためかせて口を開く。
「そりゃあ、『朝星新聞社並びに日々是好日の発展』に決まってるだろ。雷蔵は?」
「俺は……『これからも波留日や皆と一緒に作家を続けたい』、なんて」
雷蔵は気恥ずかしそうに肩をすぼめ、目を細めてはにかんでみせた。波留日はそんな雷蔵に勢いよく駆け寄り、その手を短冊ごと包み込む。
「雷蔵……! そんなことを想ってくれているだなんて、僕は嬉しいよ!」
キラキラとした瞳に見上げられ、雷蔵は唇を突き出してそっぽを向いた。耳の先が赤い。それはこの暑さに逆上せているわけでは無いのだろう。
「そういう波留日はどうなんだ? 俺達のを聞いたんだから教えてくれよ」
口ごもりながら求められ、波留日は自分の短冊を二人へ見せた。そこには、丁寧に綴られた波留日の願いが刻まれている。
「雷蔵の短編集が皆の手に届き、心に残るように、って。でも、根っこの気持ちはやっぱり雷蔵と一緒だなぁ。ずっと一緒に、文字を書いていたい」
波留日の言葉に、雷蔵と陣佐は顔を見合わせて次には思い切り破顔してみせた。陣佐はひょいと波留日の手にあった短冊を抜き取り、雷蔵の紙も受け取ると、彼にしか届かないような高い位置で紐を結ぶ。
「これで、織姫と彦星も見つけやすくなっただろ。何せ、一番空に近い場所に飾ってやったんだからな」
一仕事終えたとばかりに腰に手を当て胸を張る陣佐。波留日と雷蔵は、夏の湿ってぬるい風にはためく短冊を、眩しそうに目を細めて見上げた。
***
「ただいまー」
「おー! 邪魔しとるで!」
波留日が社屋の引き戸を開けて声を張り上げれば、座敷の方から訛った声が返ってきた。その聞き馴染みのある声に、雷蔵はうげぇと眉間に皺を寄せる。
「類……またか」
類の小言はどこ吹く風。軽やかな足音を響かせて土間へやってきた類は、陣佐の手土産を見て目を輝かせた。
「おぉ、笹寿司! ワシの分もあったりするかのぉ?」
「数は結構買ってきたから行けると思うぜ」
そうしてちゃっかり朝星新聞社の一員として馴染み始めている類に溜息をつく雷蔵へ、皿を運ぶヒサが諫めるように微笑む。
「いいのよ、雷蔵君。類君はこっちの仕度を手伝ってくれたの。さぁ、皆さん、居間へ参りましょう」
ヒサに促されるがままぞろぞろと廊下を進めば、ちゃぶ台の上には、湯気を立てる夕餉が所狭しと並んでいた。皆は小さなちゃぶ台を取り囲んで肩を寄せ合い、そっと手を合わせる。
「いただきます」
カチャカチャと茶碗と箸がぶつかる音や、汁物を啜る音、漬物を噛むポリポリとした音が響く。
「そういえば、今年の池田川賞は中止になったそうじゃな。なんでも、鷺坂に代わる審査員を探すとか」
その最中、類が思い出したように口を開いた。陣佐が茶碗を卓に置いて腕を組み、唸り声を上げる。
「大方、実力と知名度を鑑みて、『すてら』の主宰である園崎聖也だろうな」
「すてらといえば、杜若や文藝礼讃とは違って海外文学に大きく影響を受けている一派だけど、選考の傾向は変わるのかな」
汁物を飲み干した波留日が、不安げに首を傾げた。陣佐はそんな波留日のグラスにビールを注ぐ。
「さぁ、頭は引き続き桑原先生だからなァ。そう大きくは変わらないんじゃないか」
「それならよかった」
波留日はそれを両手で包み込むように持ち、ごくごくと喉を鳴らした。ぷはーっ、と威勢のいい声を上げる波留日の傍ら、陣佐が何かを思い出したと言わんばかりに類へ視線を送る。
「海外といえば、類、お勉強は順調なのか?」
「そりゃあもう! もう準備は万端じゃ! 出立の目途もそろそろつく。ワシが飛び立つんももう直ぐじゃな」
類は持っていた箸を指揮棒のように振り、鼻を鳴らして笑みを零した。その洒落臭い仕草を面白がって、陣佐は類のグラスにビールの酌をする。おっとっと……! とわざとグラスを傾けてみせたりと、陣佐を揶揄うことに抜かりが無い。そんな類を陣佐はさらに面白がってゲラゲラと笑った。
「ごめんくださぁい」
「はーい!」
騒がしい中、玄関に響く明るい声。ヒサはいち早く返事を返し、パタパタと忙しなく玄関へ向かって行った。来訪者が気になるのか、居間の衆も口を噤んで耳を澄ます。
「あら、キミちゃん!」
「おヒサさん、煮物を作り過ぎてしまったの。賑やかな声が聞こえたので……折角だから皆さんに食べていただこうかと」
「あら、ありがとう。ほら、お鍋は貰うわ。キミちゃんも上がって?」
「お邪魔します」
そんな会話のあと、パタパタと小さく可愛らしい足音が近寄り、慌てて男衆は散らかった部屋を片付ける。何とか足の踏み場ができた頃、襖が静かに開き、鍋を持ってニコニコと微笑むヒサと、大きな腹を重そうに庇うキミが入ってきた。
「おう、ほら、キミさん。こっちに座ってくれ、その腹じゃ大変だろう」
陣佐は一番分厚く使い古されていない座布団をポンポンと叩き、キミに手招きをする。よいしょ、と慎重に腰を下ろしたキミへ、類が水の入ったグラスを持って近寄ってその腹を優しく撫でた。
「おぉ、でっかいお腹じゃのう! 生まれるのはいつくらいじゃ?」
「夏の終わりごろです。あと一、二か月って産婆さんが言っていたわ」
キミはその暑さからごくごくと水を飲んで一息ついてから、柔らかい眼差しで自分の腹に手を添える。
「そうかそうか。無事に産まれてくるとえぇのぅ。……しっかし八月が臨月かぁ。お盆とかはどうするんじゃ。その身体じゃ帰省するのも一苦労じゃろう」
「早めに帰ることも考えたのだけれど……明彦さん、主人と一緒に居たいので、里帰りはせずにこっちで産むことにしました」
類の心配は折り込み済みだったようで、キミは少し気恥しそうに微笑んだ。空になったキミのグラスへお代わりを注ぎに来たヒサが会話に入ってくる。
「ね、キミちゃんったら可愛いでしょう? 旦那さんと離れたくないって悩んでいる様子だったから、私やご近所の奥方も協力するって言ったのよ」
そんな裏話を暴露されるとは思わず、キミは耳の先まで真っ赤にしてその顔を覆った。陣佐はそんなキミに目を細めて微笑み、そっと助け舟を出す。
「そうだな、最近は産院でっていう欧米方式もあるくらいだからな。何かあったら医者が呼べるって点で都会ってのはいいかもしれねぇ」
「愛があるのも結構じゃが、里帰りの良さもあるけぇ、ちゃんと考えるのがええのぉ、なぁ、波留日?」
類もうんうんと頷き、ひとりで笹寿司を頬張っている波留日に話を振った。虚を突かれた波留日は目を白黒させつつ、ごくりと飯を飲み込んで笑う。
「う、うん。そうだね。里帰りにも良い所はあると思うよ。でも僕達からすれば、生まれたばかりのキミちゃんのややを早く見れるって嬉しいことだよね」
そう言って微笑む波留日に、キミはまだ赤の引かない頬で目を細めた。
生まれてくる命の話を聞きながら、雷蔵はゆっくりと皆の様子を見守る。近所の夫婦のややの話も、自分達のこれからの話も、数年前には到底考えられなかったものだ。ここまで辿り着けたことの実感が押し寄せ、雷蔵はゆっくりと微笑む。
「そうじゃのう。さぁ、雷蔵が物欲しげに煮物を見とることじゃし、早速いただくとしようか。堪能するんじゃ、日向端家の味!」
類は卓の上にある鍋に飛び掛かった。思ってもみない名の呼ばれ方をされた雷蔵は、相変わらずの類に抗議の視線を送る。
「雷蔵、類のことはいいからさ、食べようよ。キミちゃんの煮物」
波留日に宥められ、雷蔵はしぶしぶ皿を取って煮物を盛りつけた。それを受け取った波留日は、よく煮込まれた芋を箸で取り、大口を開けて頬張る。
ゆっくりと味わった波留日は、ほぅと柔らかいため息をついて、目じりに皺を寄せて口角を緩めた。
「うん、美味しい」




