任務と兆しと託す文字。下
「御免下さい! お久しぶりです、ミチですわ! おヒサさんはいらっしゃいますか?」
「おぉ、ミチ嬢ちゃん、久しぶりだな。おヒサさんは今日は生憎社長と旅行だよ。そんな焦った様子で、どうしたんたい」
代わりに出てきたのは、シャツが似合う大柄な色男。軍人で体格に恵まれている勇次郎も少し見上げる程の上背に、以前渡された写真を思い出して唾を飲む。
(確か、編集長の半間陣佐、だよな……)
「お隣のキミさんが倒れていらしたのを介抱しましたの」
「おっと、そりゃあいけねぇ。キミさん、大丈夫か? こっちに来て休みな。徳檀先生を呼ぶか?」
ミチからキミを受け取って軽々と抱き上げると、応接室のソファへゆっくりと寝かした。
「貧血だと思います。冬で体調を崩しやすい季節ですし、暫く休めば大丈夫です……」
「あい分かった。でもあんまり酷いようじゃ診てもらった方が良いだろうよ。待っててくれ、波留日と雷蔵に茶を出させる」
そうして階段の手前まで足を運ぶと、声を張り上げて呼び出す。
「ありがとうな、ミチ嬢ちゃん、見ず知らずの人を助けるその気概、立派なもんだよ」
しかしミチは首を横に振り、気恥ずかしそうに肩を竦めた。
「いいえ、私は当然のことをしたまでですし、動けなくなっていたキミさんを見つけて解放していたのは眞田様ですわ。そうでしょう、眞田様? ……あれ? 眞田様……?」
ミチは同意を求めて振り返るも、先程まで土間に立っていた青年の姿が見えずに首を傾げる。慌てた様子のミチに、陣佐も片眉を上げて首を傾げた。
「眞田……?」
「主人の友人で仕事仲間の方ですわ。先程までいらっしゃったのに……」
「……まぁ、名乗るほどの者じゃねぇって粋な演出をしたかったのかもな」
「さもありなんですわ。眞田様、軍人さんとは思えない程明るくて素敵な方ですから」
ミチが陣佐の言葉を聞いて、頬に掌を添え笑みを浮かべる。
「ミチ、久しぶり! 御太鼓結びも様になってるね!」
「小袖もお似合いですね、ミチさん」
そんなミチのもとへ、トントンと階段を軽快な音とともに駆け降りてきたのは、白磁の肌の美少年と、眼鏡の草臥れた青年だ。
「波留日先生! 雷蔵さん!」
「ちょっと待っててね、雷蔵、お茶を淹れよう」
テキパキと急須と湯呑を準備した二人は手分けをして湯を沸かし、澄んだ緑茶を注ぐ。湯呑の一つを持った雷蔵は応接室で休むキミのもとへ足を運んだ。
「久しぶり、結婚以来初めてだね。結婚後の女性がこうして街をふらついて、漢所帯の出版社に立ち入るなんて、危険な事をしちゃって大丈夫なの?」
波留日は上り框に腰かけ、ミチにも座るようにトントンと床を叩き、湯呑を渡す。ミチはそれを受け取り、温かく上品な甘さの緑茶にほぅと一息つくと、華奢な指で湯呑を握り締めた。全身にぐっと力が入り、肩が怒るのが分かる。
「だって私、私、居ても立ってもいられなくて、無理を言って来たのです……! 本当は先月、杜若が発売された時に駆けつけたかった。微々たることでも私にできることがあれば、と……」
波留日は表情をふっと緩めて緑茶を口に運んだ。
「そうだね、あの時は大変だったよ。もちろん今もね。ミチが十一月号も原稿を取り下げないでいてくれただけでも嬉しかった。大丈夫、ちゃんとミチの気持ちは僕達に届いているよ」
その言葉を聞いて、ミチはやっと肩の力を抜く。
「それならよかった……。でも、私、許せないんですの! 日々是好日が一体杜若に何をしたというのですか?! 本来言葉というのは自由であってしかるべき……。それをせき止めんとする杜若は、幾ら素晴らしい文章を書こうがその品性を疑います」
膝の上に乗せた掌を握り締め、ミチは俯いていた顔を上げて波留日を真っ直ぐに見つめた。
「土江麻美は……日々是好日を応援致しますわ。原稿だって出しますわ!」
「威勢がいいことだなぁ」
「そうですね、ミチさんの原稿があるだけでとても心強くなれる」
大きな影がミチの隣に腰かけ、さらに優しい声が振ってくる。陣佐と雷蔵が穏やかな笑顔を浮かべていた。
「大丈夫だよ、ミチ」
波留日がぴょこんと飛び上がり、土間に躍り出る。そしてミチの手をそっと取って笑ってみせた。
「僕達は粘るよ。文芸を愛する人が、寄稿してくれる人がいる限り、日々是好日を続けるさ」
ミチはきゅっと唇を引き結び、次いで花が咲き誇るような笑顔を浮かべてみせる。
「ではきっと日々是好日は無くなりませんわ。雷蔵さんも居ますし、私が、土江麻美が居ますもの!」
徐に立ち上がったミチは、懐からそっと封筒を取り出した。
「十二月号への原稿ですわ。どうぞお納めくださいませ」
「ありがとう、確認するね」
波留日は封筒を破り、丁寧な字で綴られたミチの魂に触れる。
「うん、大丈夫。不備は無いよ。ちゃんと形にするからね」
波留日の言葉を聞いてほっと息をついたミチは、深々と頭を下げた。
「では私はこれで失礼致しますわ。皆様、どうかお元気で、そして少し早いですが、よいお年をお過ごし下さいませ」
「うん、ありがと!」
「ミチさんも、良いお年を」
雷蔵は玄関を出て、門の前に乗り付けている車へ向かうミチを見送る。
「……雷蔵さんが松栄家を出ていった先、身を寄せたのは杜若の鷺坂先生のところ、なのでしょう?」
「流石に気付かれますか。……そうですよ。暫くあの男の元で門下生をしていました」
足を止めた振り向きざま、核心を突いたミチの言葉に、雷蔵はポリポリと頭を掻いて苦笑いをした。
「きっと雷蔵さんの才能に嫉妬しているのよ。雷蔵さんは素敵な物語を書かれるから。……どうか負けないで。今連載されている『砂浜の彼方』だって、次号で完結なのでしょう? 私、最終回も、次の御話も、楽しみにしていますから!」
ミチは雷蔵のペンだこのついた手を取り、力強く握り締める。雷蔵も深く頷き、眉を下げてそっと微笑んだ。そしてミチが鉄の塊に乗り込んで黒い排気ガスを撒き散らす様子を見送り、踵を返す。
(……官兵衛の嫁さんが、日々是好日の作家だって……? しかも土江麻美! 俺、日々是好日の中だと結構好きな作家だぞ! でも……この騒動があるにも関わらず強く寄稿し続ける意思を見せる、って……。文学好きも行き過ぎだ……!)
民家と社屋の狭い隙間に潜み、口を掌で押さえて息を殺していた勇次郎は、物音を立てないように身じろぎをして、深いため息をついた。
玄関に戻ってきた雷蔵は、足をぶらぶらと揺らしてミチの原稿を読んでいる波留日の隣に腰かけ、すっかり冷めた緑茶に手を伸ばす。波留日はトントンとミチの原稿を膝の上で整えると、一息ついた雷蔵に向かって声を掛けた。
「今回の土江先生の作品も、腕を上げたよ。読むかい?」
「あぁ」
雷蔵の伸ばされる手に向かって原稿を渡そうとした矢先、波留日の顔が歪む。
「痛っ」
原稿が波留日と雷蔵の指先をすり抜け、床に落ちた。
「血が出てるじゃねぇか。紙で切ったか?」
手元を押さえる波留日を陣佐が覗き込めば、右手の人差し指から血が滲んでいる。
「う、うん……多分?」
「波留日、見せてくれ」
雷蔵は手早く棚から救急箱を持ち出すと、赤く血の滲む波留日の指先に手拭いを当て、ヨードチンキを取り出して丁寧に処置をした。自らを助け、文字を綴る波留日の手を、そっと慈しむように。
「できた」
「……ありがと」
波留日は赤く塗られた指先を見つめ、キュッと唇を引き結ぶ。




