表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/45

再起と伊吹と萌ゆ皐月。

 春が過ぎ、梅雨前の爽やかな初夏が訪れた。朝星新聞社の社屋二階、雷蔵は文机の前に座り、背を丸めてペンを走らせている。その心地の良い摩擦音を背に、波留日は日々是好日編集部に舞い込む原稿の整理をしていた。


 一度は遠のいてしまった寄稿者達も、誌が再開するとの報せを受けて動き出したのだろう。次の六月号は分厚くなりそうだ、と独り言を零しながら、波留日はトントンと原稿用紙を机に打ち付けて揃えた。


 そんな波留日の傍には、有名どころの新聞が無造作に置かれている。その一角には、日々是好日が追い詰められる元凶を作った鷺坂についての続報が報じられていた。陣佐が火を放ったこの騒動は、日々話題に飢える世相を大いに盛り上がらせ、鷺坂は渦中の人となり、『黎明の三連星』の一翼を担っていた重鎮には正式な捜査が入ったという。その結果、鷺坂は呆気なく文壇を去ることとなった。時を同じくして吝類やぶさかるいも姿を消し、杜若は残った門下生により立て直しが図られるという。


「波留日、一昨日話したところまで形にしたんだが、見て貰ってもいいか?」


 その新聞を手に取って目を細めていた波留日に、雷蔵が原稿から顔を上げて声を掛けた。波留日は一転してキラキラと目を輝かせ、手渡された原稿に飛びついてソファへ飛び込む。


「やった! 見せて見せて!」


 波留日は鼻歌を歌いながら足を揺らして原稿を丁寧に読み下した。波留日の手には相も変わらず絹手袋が嵌められ、白い指先が紙を撫でて捲っていく。


「うん、漸く文章の精神状態も落ち着いてきているね。安心安心。また後でしっかり読み込むからね。赤が入るのは覚悟してよ」


 波留日はニマニマと口角を上げながら、悪戯っ子のような目線を雷蔵へ投げた。雷蔵は居心地悪そうに下唇を突き出してそっぽを向く。適当に括った雷蔵の髪が、馬の尾のようにひらりと宙を翻った。


「僕が拘束されている時に君が書いていた文は本当に酷かったからねぇ……。突然のことで動揺したことは察するし、それでも圧力に負けず文机に向かったことは褒めるけど、あれは酷かった」


 波留日はソファから降りて雷蔵に歩み寄ると、ちょっかいを掛けるように、その尻尾の毛先を指先で弄る。ニヤニヤと揶揄う視線に、雷蔵は振り向いて眼鏡のレンズ越しに波留日を呆れたように見上げた。


「どの立場で。誰のせいだと思って……」


「僕のせい」


 ぶつくさと頬を膨らませて文句を垂れた雷蔵に、波留日は満面の笑顔で答えてみせる。そしてくるりと爪先で舞い踊るように歩みを進め、そのままソファへ身を沈めた。弾みで埃が舞い上がり、日光を反射して瞬く。


「それはそれは本当に迷惑を掛けたと思ってるよ。陣佐や偕成の面々に余計な仕事や心配を掛けさせちゃったことも、君が愛する日々是好日を、結局主宰の不在によりやむなく止めざるを得なくなったことも、何もかも」


 波留日はソファに寝転がった姿勢のまま頬杖をつき、反省しているとは到底思えぬような底抜けに明るい声で懺悔をはじめた。雷蔵の溜息はより深いものへなっていく。


「でもね、そうやって皆の中で僕の存在が大きかったんだってことを知って、少し嬉しかった、り?」


 目を伏せて首を傾げた波留日に、いよいよ雷蔵は眉間に深い皺を寄せた。


「当たり前だろ。一体何をどうすれば、俺達にとってお前が取るに足らない存在になると言うんだ。それよりも……」


 雷蔵は膝に手をつき腰を上げると、頬杖をついたままの波留日に近寄ってその腕を取る。顎の支えの半分を失った波留日は、そのままソファの布地に勢いよく顔を埋めた。ぐえっ、というくぐもった声が響く。


「その手袋、まだしているのか。まさか、軍の奴らに何かされた痕があるとか……」


 細く白い腕を掴んだまま一人で勝手に青褪める雷蔵に、波留日は身を起こしながら頬を膨らませてそれを振り払った。ずれた手袋を直し、拗ねたように唇を尖らせる。


「そんなんじゃないよ。何か、落ち着いちゃったんだよね。手袋。ほら、手汗とか原稿に付いちゃうしさ、インクとかも。紙を扱うのに意外と便利っていうかさ」


 波留日は眉を下げて笑い、雷蔵の眼前で白い掌を結んで開いてみせた。視界を遮るそれに、雷蔵の眉間の皺が深くなる。


「あのなぁ……!」


「邪魔するでー」


 堪忍ならんと言わんばかりに声を荒らげたその時、不躾に編集部の扉が開かれた。スパン、と小気味のいい音が響く。


「類!」


 波留日は思わぬ助け舟に顔を華やがせると、立ち上がって突然の訪問者の元へ駆け寄った。そのまま類の腕を引いてソファに座らせる。


「原稿持ってきたんじゃ。これは、あの時の礼と詫びじゃ」


「やった。筆名はそのまま吝類やぶさかるいでいい?」


 着物の懐から原稿用紙の束を取り出した類は、波留日の頭にポンとそれを乗っけた。波留日は口角を上げて受け取ると、掌で紙面を撫でながら問う。


「あぁ。その方が話題になるじゃろ。それとも何か? おたくらに倣って並べ替えた方がええんか?」


 ソファにふんぞり返って片側の口角だけ上げる類は、明らかに雷蔵を揶揄っていた。邪魔以外の何者でもない類の割り込みも相まって、雷蔵は不機嫌を振りまく。そんな雷蔵の後ろに回り込み、頭に顎を乗せて首を傾げる波留日。


「で、そっちの準備は順調なの?」


「徳壇先生が先方に手紙を送ってくれて、そろそろ二通目の返事が届く頃じゃ。そのやり取りの間に、旅券やら何やらの支度と、言葉と技術のお勉強! 徳壇先生にビシバシ扱かれとるよぉ」


 類はソファの上に胡坐をかき、指折り指折り楽しそうにやるべきことを数える類に、波留日も口角を緩めた。


「そっか、大変だね。……いつ発つかの予定はもう決まった?」


「そうじゃのう。夏……せめて秋になる前には発たないと、とは思っているんじゃが……。先方次第じゃ。それはどうにもならん。手紙の往復に数ヶ月掛かるやり取りは、骨が折れるってもんじゃ」


 類は波留日の質問に腕を組み唸ると、眉を下げて肩を竦める。頭に体重を掛けられて顔を顰めていた雷蔵が、二人のやり取りを聞いて小さく首を傾げた。上に乗った顎がずり落ちないような配慮に、波留日はクスクスと笑いながら雷蔵の頭を撫でる。


「そういえば、お前が何故にそんなに海を渡りたいのか知らないんだが、何か理由があるのか」


 類は想定内の質問だとばかりに、胸を張り高らかに宣言してみせた。


「この儚く尊き人生にて、ワシはもっと色んなものを見て、色んな人に会いたいんじゃ。あのお歯黒溝に収まるようじゃあ勿体無い。その志は、我が国すらも飛び越えて海を渡るという夢になったんじゃ」


 どんと拳で胸を打てば、類の外はねした髪の毛先が元気よく揺れ、満面の笑みから覗く瞳は、部屋に差し込む日の光を受けて青み掛かった光を反す。故に、類は安易に出稼ぎという型に嵌まった渡航ではなく、ある程度自由が利いて後ろ盾も得られる立場での渡航する機会を狙っていたのだろう。雷蔵は類の大それた夢とそれを叶えるための計画を解し、漸く合点が行ったように柔らかく微笑んでみせた。


「それよりもどうなんじゃ、何とか守り抜いた雷蔵の短編集は」


 一通りの演説を終えた類はソファの上で胡坐を掻き直し、こちらの番だと言わんばかりに二人に問いを投げかける。雷蔵が気恥ずかしそうに口を開くより前に、波留日がぴょんと飛び跳ねて破顔してみせた。


「それはもう順調さ! 掲載する作品は決まったし、推敲もまずまず。高岩鬱空時代のものはやっぱり文章が荒れていたり、情緒が狂ったりしているから、そのよさを残しつつ大衆向けにするのが難しい。でも、もう『砂浜の彼方』の推敲は終わっているから御の字だよ。色々大変だったのに、雷蔵も、偕成の皆も頑張ってくれて有難い限りさ!」


 ね! と波留日が雷蔵の肩に身を預けてその顔を覗き込めば、気恥ずかしそうな表情をそのままに、雷蔵も力強く頷く。波留日は雷蔵と目が合ったことを確かめて身を起こすと、一転して頬を膨らませ、考え込む素振りを見せた。


「そうだなぁ……こっちも秋になる前、いや、店頭に並んで皆が手に取る時期まで考えると夏前が望ましいね。そのくらいには、何とかなっていると思うよ」


 波留日は首を動かして、視界の右側に掛かっている月捲りの暦と睨めっこをする。そのままぐるりと部屋を見渡し、波留日の目には雷蔵の文机にある原稿用紙が留まった。


「それよりも、今は池田川向けの作品と、新しい連載の構想。色々あって止まっていたからね」


「おうおう、雷蔵クンも忙しいのぅ。僥倖なこっちゃ」


 そう言って雷蔵から渡された原稿用紙を自慢げに見せびらかす波留日に、類はケラケラと底抜けに明るい笑い声を上げる。そして雷蔵の肩を景気づけと言わんばかりに力強くバンバンと叩いた。


「さっきみたいに拗ねた顔する暇あるなら、早う仕事進めたれや。時間なんてなんぼもあるようで意外とないんじゃから」


 その説教臭い言葉に、雷蔵は目を細めて胡乱な視線を送る。類はおぉ怖いと肩を竦めて舌を出し、逃げるように辺りを見渡した。


「お? そういえば陣はどこにいるんじゃ?」


 波留日は御機嫌斜めな雷蔵の頭を手持ち無沙汰にポンポンと叩きつつ、肩を竦めて問いを返した。


「花街だよ。遊女達が原稿を書いていれば回収しようと思って向かわせたんだ」


「そうかそうか。じゃあワシはあの鬼編集者が怖いけぇ帰るとするわ。騒がせたのぉ。花街の話を聞くと、ワシも皆に会いたくなってくる」


 ある意味天敵である陣佐の影に怯え、花街という言葉に釣られたのか、類はフラフラと軽い足取りで襖へ向かうと、手を振ってひらりと姿を眩ませる。


「うん、行ってらっしゃい!」


 波留日は目を細めて手を振り返してその後ろ姿を見送り、くるりと振り向いて雷蔵に駆け寄った。


「らーいぞ、拗ねないでよ。ね?」


 無邪気に顔を覗き込んで人差し指で頬を突けば、雷蔵はその手を振り払って溜息をつく。


「波留日、俺はお前を心配して……!」


「僕のことはどうでもいいの! そんな余裕があったら池田川用の物語を早く完成させて欲しいね」


 波留日のはぐらかすような、説教臭いような言葉に、雷蔵は不服だと眉間に皺を寄せた。視界の端にある少し前の新聞記事を睨む。


「とは言ったって、今年は鷺坂の件でどうなるか分かったものじゃないんだぞ……! そうやって桑原先生も言っていただろ」


「だとしてもだよ! もしそうだとしたら、これを踏み台にまた新しい、より良い作品を創ればいい! その頃には雷蔵だってもっと成長しているだろうよ」


 そう言い放ち、波留日は脇に置いていた雷蔵の原稿を再び手に取ると、ソファに寝転がりながら鼻歌混じりに目を通す。


「なんだそれ……」


「ほらほら、無駄話はいいから! さっきの原稿も、前分かりにくいって言った所は意識した?」


 波留日が原稿から顔を上げて首を傾げれば、雷蔵は唇を尖らせて気まずそうに答える。


「……一応、言われたところは」


「関心関心」


 その回答を聞いて満足そうに頷いた波留日は、御手並み拝見と言わんばかりに再び原稿へ視線を落とした。雷蔵は、瞬きを繰り返しながら文字を追う波留日の視線を、眉間に皺を寄せて見つめる。



「波留ちゃん、雷蔵君、庄衛門さんが御土産を買ってきてくれたの。もうそろそろ夕餉の時間だから、少し早めに一緒に食べないかしら?」


 波留日が紙を捲る音と、雷蔵がペンを走らせる音だけが響く部屋に小気味よく階段を上る音が忍び寄り、襖を開けてヒサが顔を出した。彼女の言葉に、波留日は目を輝かせてソファから跳び上がる。


「食べる!」


「いただきます」


 雷蔵も文机にペンを置き、凝り固まった首やら肩やらを鳴らして立ち上がった。そのまま列をなして階段を下り、既に準備が整った食卓にいそいそと足を進める。


「魚だ! 美味しそう!」


 食卓には、焼き上がった干物の香ばしい匂いが満ちていた。鯵の身がふっくらと白く割れ、皿の端には大根おろしと、刻み葱が添えられている。


「えぇ。港町に行ったみたいで、沢山買ってきたのよ。鯵も鰯もあるわ」


「流石社長! 太っ腹だねぇ」


 波留日は膝を揃えて腰を下ろすと、嬉しそうに手を合わせた。新聞部の若者や雷蔵、ヒサも同じちゃぶ台に顔を揃え、満面の笑みを浮かべる波留日に微笑みながら彼に倣って手を合わせる。


「いただきます!」


 挨拶が終われば、波留日は真っ先に鯵へと手を伸ばした。身を崩さぬよう慎重に箸先を滑らせ、骨を避けながら一欠けらを白飯に乗せる。その仕草は妙に真剣で、ヒサは思わずクスクスと笑い声を上げた。雷蔵も白米を口に運びつつ、波留日の真剣な眼差しを見守る。


 そこへ土間の方で引き戸の開く音がして、大股で力強い足音が廊下を渡ってくるのが聞こえた。


「ただいま帰ったぜ。お、魚か。いい匂いだねェ」


 そしてひょっこり顔を出したのは、花街へ出向いていた陣佐である。ヒサが箸をおいて立ち上がり、台所へ向かう仕度を始めた。


「御帰り陣さん、早かったのね。てっきり私、涼風のところに泊まっていくのかと思ったわ」


「僕も。最近忙しくて涼風に会っていないだろう? 拗ねたらきっとあの人は怖いよぉ?」


 波留日は黙々と魚を食べる手を止めず、ニヤニヤと陣佐を見上げる。その視線があまりにも粘着質だったため、陣佐は手に拳を握り、ゴンと脳天にそれを見舞った。痛いと半泣きになる波留日の鼻先へ、陣佐は追撃のデコピンをする。


「馬鹿言え。酔っ払って原稿失くすなんてことがあったら洒落にならねぇからな。そこの線引きはしっかりしてあるのよ。俺も」


 陣佐は波留日の隣に身を捻じ込ませ、鞄を脇に置いて、いつの間にか支度ができていた夕餉の前に腰を下ろした。いつでもヒサは気の利く社長夫人である。


「ありがとうな、おヒサさん。じゃあ、いただきます」


 陣佐はその大きな掌を合わせて挨拶をし、茶碗を持って白米をかきこんだ。肉厚な魚に箸を入れ、香ばしさと海の恵みを堪能する。ビールも煽りつつ魚を味わう陣佐の隣では、相変わらず波留日が骨についた身を引き剥がそうと戦っていた。その真剣な眼差しに思い出されるものがあったのか、陣佐は箸を置いて傍らの鞄に手を伸ばす。


「そうそう、ほら見ろよ。花街の奴らも結構書いて待っててくれたみたいだぜ」


 そう言って、原稿の束を取り出して波留日に差し出した。しかし波留日はじっと魚と対峙し、視線は皿の上に落としたまま、原稿の影が差したことにも反応を示さない。陣佐は溜息をついて原稿の束を波留日の頭に勢いよく乗せる。ハリセンとまではいかないがそれなりの衝撃を受けたのか、波留日は大げさに振り向いて陣佐をぱちくりと見つめた。


「お前なぁ……幾ら美味いって言ったって集中し過ぎだろ」


「……だって、骨が細かいんだもの……勿体ないじゃない。身の一欠片だって無駄にしたくないね」


 呆れ顔の陣佐に波留日は頬を膨らませる。口論が始まりそうな二人をよそに、雷蔵が波留日の皿を見れば、標本になりそうな程綺麗に身を取り除かれた魚の骨が横たわっていた。


「おぉ……」


 雷蔵はその芸術的な仕上がりに思わず声を上げる。波留日は自慢げに鼻を鳴らし、胸を張った。小生意気な態度に呆れ顔を浮かべる雷蔵。そうしてやいのやいのと騒ぐ三人を前に、波留日に負けず劣らず魚を美しく食べ終えたヒサがパン、と手を打つ。


「まぁまぁ皆さん、じゃれ合いもそこそこにしてさっさと食べて下さいな。実は枇杷びわもあるのよ。食後に頂きましょう」


 その一言に皆は一瞬だけ顔を見合わせてちゃぶ台に向き直り、甘味を食べたいがために黙々と箸を動かし始めた。


 夕暮れの陽光が差し込み、影がゆっくりと動いていく。夏へ向かう日々が、また一日分だけ進んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ