理想と手紙とその一歩。 下
鷺坂自らが波留日の元を訪れ激しい応酬を繰り広げた数日後のこと。鷺坂は自邸にて浴衣から着流しを纏い、帯を確りと締めていた。衣擦れの音が深々とした屋内に響く。
「私は今から出る。客人が来たらその名を控えておきなさい。後日電報でも電話でも連絡をするとも言っておけ」
身なりを整えた鷺坂は玄関先で草履を履き、付き人である書生の一人に言伝る。床で控える青年は頭を深く下げ、無言でその背を見送った。鷺坂は腕を袖に隠し、よく手入れされた庭を眺めながら進む。
「有太夫」
彼が生涯において築き上げてきた名誉や威厳に相応しき門扉を開けば、それを待ち構えていたように名を呼ばれてその手が止まった。恐る恐る門の前に待ち構えるであろう人物を伺い見れば、鷺坂の顔が一瞬にして青褪める。
「慶治さん……何故、貴方が此処に」
鷺坂邸の門前に佇んでいたのは、その家主とおなじ称号と名誉を持つ文豪、桑原慶治であった。鷺坂と同じようにその手を着流しの中に収めて静かな瞳を湛えている。
「小生は其方を止めに参った」
「止める、とは……?」
「今から、其方は波留ちゃんの元か、御仲間の元へ行くのであろう?」
顔を引き攣らせて後退りする鷺坂を逃がすまいと、桑原は一歩踏み出して険しく問い掛けた。
「はて、何のことだかさっぱり……。その、私は予定がありますので」
鷺坂が白々しくも首を傾げ、立ちはだかる桑原の横をすり抜けようとする。しかしその刹那、桑原は眉を顰めて一度口を噤んだ後、意を決したように再び言葉を放った。
「アンタが死んで三途の川を渡る時、あの子に会ったらどうするんだい。きっと……朔ちゃんは今も、かの川の畔にいるよ」
諭すような桑原の声に、鷺坂の足が止まる。皺が寄り、皮膚の余りはじめた首筋にて、喉仏がゆっくりと上下した。
「言っていただろう、朔ちゃんは、『死んだら三途の川を渡らず、その畔で死んだ人間どもを眺めるのも一興』、と」
鷺坂は青褪めたまま目を見開き、背を伸ばして毅然と立つ桑原を見上げる。桑原は瞳を震わせる鷺坂を、凍てつく眼で見つめ返した。
「小生は死後、六文銭を手に賽の河原を歩く時、朔ちゃんに会っても恥じぬよう生きたいと思い、心の臓を動かしている。……有太夫は違うのか」
鷺坂は俯いていた身を起こし、淡々と話す桑原と向き直る。着物から隠していた腕を出して、胸に手を当てその目を睨みつけた。
「私は……、私こそ、そう願っています。だからこそ、私は彼の作品を守るために……!」
「有太夫、其方はよくやった。よく藻掻いた。小生は、其方の書く世界は本当に素晴らしいと思っている。その気持ちに嘘はない」
鷺坂の言葉を遮り、桑原はゆっくりと微笑む。年老いて皺の寄った顔に、より深い皺が刻まれた。その優しすぎる表情に嫌なものを感じた鷺坂がじりじりと後退れば、草履が砂利を踏む音が響く。
「慶治さん……? 何を仰って……」
鷺坂は首を傾げ、口角を引き攣らせた。桑原は言葉を止めない。
「ただ、其方は小生達の愛する者に囚われ、その時に留まろうとする余り、過ちを犯した。そしてそれを見過ごしてきた小生も同罪」
息を吐いて空を仰いだ桑原は、逃げ腰になりはじめた鷺坂へ乞うように声を上げる。
「許せ。有太夫。其方が築き上げてきた努力や作品に罪は無い。……ただ、今の其方を見て、朔ちゃんが喜ぶとは到底思えぬのだ」
その言葉に呼応するように、手帳を持った記者らしき男達が駆け足で鷺坂邸を訪れ、目標を見つけるや否や束になって詰め寄った。
「鷺坂先生! 先程号外として各報道機関より報じられた、検閲官との汚職事件についてお聞きしたく!」
「具体的に何の取引をなさっていたのかお答えください!」
「他の文芸誌に圧力を掛けていたのもその一環でしょうか!」
「池田川賞の審査に関係は……!」
「お答えください先生!」
記者達はペンを片手に次々と質問を投げかけ、大声が重なりうねる。その勢いに気圧され、鷺坂はしどろもどろになりながら表情を歪ませた。
「な、何事だ……! 報道だと……?」
押し寄せる記者達の持つ新聞と思しき紙切れを奪い取る。そこには、鷺坂と検閲官の仲を取り沙汰し、それを追及する記事が一面に広がっていた。何時、何処で誰と会食をしたのかや、検閲官と鷺坂は大学時代からの友人であることまで、詳しく、洗いざらいと。
「其方がその信条を歪め、執着し、操っていたものに殺されるがよい」
人混みの先で静かに言い放った桑原の言葉に、鷺坂は目の色を変えて眉を吊り上げた。無理矢理に人集りを掻き分けて桑原の手を掴むと、それを引っ張って門を潜り、取材陣から逃げるように門扉を閉める。
「嘘だ! 全て出鱈目だ! 誰が嗅ぎ付けた! ……慶治さんがやったのか! 私を陥れるために!」
鷺坂は血相を変えて喚き立て、桑原の老いた方を掴み揺さ振った。しかし桑原はその手を引き剥がし、酷く冷静な目を向ける。
「出鱈目なものか。優秀な記者が血反吐を吐く思いで調査と取材をした賜物である」
「記者……。そうか、あの半間とかいう男だな! 朝星は取るに足らぬ新聞社だ! にも関わらず偕成や他の新聞にネタを流すなど……! 自分の力も無い癖に虎の威を借る狐のようなものではないか! 他者の影響力に依存しているような卑怯者など……!」
桑原は呆れたように鷺坂を見下ろすと、諭すように穏やかな声を上げた。
「卑怯者ではない。小生らとて、根も葉もないものを報道するようなことはせぬ。彼の取材力と人情に裏付けされ、かつ長年積み上げられた信頼と実力によるもの。筆による正義の完遂。それの何処が卑怯と申すか」
至極真っ当な桑原の言葉に、鷺坂は歯噛みして後退る。それでも言い返そうと顔を上げたその時であった。
「先生、悪足掻きはやめぇや。大人しく罪を認めるんが身のためじゃ。隠すのが上手い先生のことじゃ。初犯じゃし、陣が掘り起こして何とか手に入れた証拠だけじゃ豚箱には入れられんよ。東京を離れて田舎で隠居でもしぃ」
上から声が降ってきて、二人はゆっくりと上を向く。そこには、鷺坂邸を囲む高い塀の瓦屋根の上に腰掛け、応酬を見物する吝類が居た。
「類……! お前が協力したのか! 拾ってやった恩を忘れおって!」
類が自らを裏切った存在であると気付くや否や、鷺坂は青筋を立てる。しかし類は痛くも痒くもないという具合に涼しい顔をして塀から飛び降りた。軽い下駄の音が高く鳴る。
「恩があるから言うとるんじゃ。ワシを花街から連れ出して、身分も、学も、銭の稼ぎ方も授けてくれた奴に恩がない訳ないじゃろう」
類は頭を掻きながら鷺坂の元へ歩み寄った。そしていつになく神妙な面持ちをして、鷺坂の肩を掴む。
「ええか、先生。……これを機に東京離れて、大人しくするんが身のためじゃ。屋敷から大切なもん全部持って関東離れて、平和で穏やかな生活を送るんじゃ」
説得に掛かる類の言葉に、鷺坂は眉を吊り上げてその手を叩き落とした。乾いた音が庭に響き渡る。
「貴様……! 私が居なければ何もできぬ癖にそのような口の利き方を……!」
「さようならじゃ、先生」
激昂する鷺坂と対照的に、類は酷く冷静に言い放った。
「類……?」
青褪めた鷺坂に、類は口角を緩やかに上げて美しく微笑んで見せる。それは、彼が舞う時に浮かべる余所行きのものであった。鷺坂はその表情に、二人を繋ぐものの終わりを悟ったのか、一転して類へ縋るように手を伸ばす。
「先生がくれた恩は忘れんよ。……じゃから、さっき言ったワシの願いを聞いてつかあさい」
しかし類はその手を払いのけた。そして下駄を鳴らして門扉へと足を進める。きつく閉ざされた両開きの扉の前には、二人のやり取りを黙って見ていた桑原が立っていた。
「有太夫、恨むなら小生を恨め」
そうして類と目を見合わせ、門を開く。白日の下へ鷺坂を晒さんとする数多の瞳がその身体を突き刺した。鷺坂は歯を食い縛ったまま、その迫りくる正義感達と対峙する。
***
陸軍の駐屯地では、一般兵の訓練を監督する官兵衛と勇次郎の姿があった。乾いた土の匂いと号令の声が支配する演習場で、一般兵の訓練を監督する官兵衛と勇次郎の姿がある。
官兵衛は春の陽光とは対照的な鋭い視線で兵たちを見張り、一方の勇次郎はそんな官兵衛の目を盗んで欠伸をした。
「……鷺坂有太夫先生が橘先生の元を訪れてもう幾日。なぁ官兵衛、あの人は橘先生に、朝星新聞社に一体何をするつもりだろうか」
官兵衛が自分の仕事を疎かにしている勇次郎へ睨みをきかせる。そうすれば勇次郎は首を竦めて、その理由だと言わんばかりに言葉を吐いた。官兵衛は口を閉ざし、眉間に皺を寄せて視線を逸らす。居心地の悪い空気が二人の間に横たわった。
「佐伯少尉、眞田少尉」
名を呼ばれ、二人は弾かれるように背筋を伸ばして振り向く。一枚の新聞らしき紙を握り締めた上官が険しい顔で駆け寄ってきた。二人は敬礼をして上官の言葉を待つ。
「状況が変わった。橘波留日の拘束を解け。早急に」
豆鉄砲を喰らったように驚愕する部下二人を前に、上官は苦い顔で手にしていた新聞紙を押し付けた。
「読むのは後でいい。先ずは尋問の記録や、彼と朝星新聞社に関する一切を破棄せよ。その新聞紙も読んだ後は燃やせ」
「は、はっ!」
二人は言われるがまま敬礼をして波留日を拘束している部屋がある舎へ急ぐ。
「あんなにお前が言っても、俺がミチに触発されて進言しても、結局これだ。矢張り上の判断が全てということだ。馬鹿馬鹿しい」
その道中、歩きながら新聞を読む勇次郎の隣で官兵衛は乾いた笑い声を上げた。足を進めれば進めるほど、毅然と伸びていたその背筋が弱々しく丸まっていく。
「そんな中で、自分でものを考えて苦しくなるなんて……。何も変わらなかったというのに、俺は……」
「いや、変わった」
絞り出すような官兵衛の声を、勇次郎がはっきりと遮った。俯いていた官兵衛は、目を見開いて顔を上げる。隣を歩くその横顔は、いつもの腑抜けて軟派な様子ではなく、いつになく真剣な面持ちをしていた。
「……勇次郎?」
「確かに、橘先生が上官の判断で解放されるという結果は変わらなかった。それは仕方のないことだ。……ただ、変わったものはあるだろう」
真っ直ぐに前を向いて歩いていた勇次郎は、ふと立ち止まって官兵衛を見据える。
「お前は、確かに変わっただろう? 考えた、言葉に出した、動いた。それは一人の人間として重要な一歩だったと思ったぜ。俺は、今の人間になったお前の方が好きだ。なぁ、元、海軍好きのお坊ちゃんよ」
軟派な雰囲気に似合わず、生真面目な説法を説いたと思えば、肩を震わせ悪戯っぽく笑い、最後にはからかってみせた。官兵衛は勇次郎の言葉に呆れつつも笑みを浮かべる。
「言っておけ。お前に説教されても苛つくだけだ」
いつもの調子を取り戻し始めた官兵衛に満面の笑みを浮かべた勇次郎は、勢いよく官兵衛の肩に飛びついてがっちりと組んでみせた。鍛えた軍人がぶつかっても官兵衛の体はびくともせず、官兵衛は腕を組んで呆れ顔だ。
「奥方に御礼しなきゃなぁ! 贈り物は俺が見繕ってやろうか? あの時みたいにな」
「断る。……自分で考えさせてくれ。ミチには、謝罪と感謝をしなければならないからな」
肩を組んだままからかう口を止めずにまくしたてれば、官兵衛は気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
そうして勇次郎が官兵衛をからかい、それに呆れるという応酬を繰り返せば、波留日の過ごす狭い部屋の前に行き着く。
二人は顔を見合わせて頷くと、鍵を解いて扉を開いた。僅かな光を取り込む小さな窓を見上げて椅子に座っていた波留日がゆっくりと二人を見据える。
「……解放の許可が出た」
「長らく閉じ込めちまって申し訳なかったな、先生」
「急だね。てっきり僕は今日こそ『終わり』を迎えると思っていたよ」
波留日は二人の言葉に目を丸くし、苦笑を浮かべた。勇次郎はその答え合わせと言わんばかりに、手にしていた新聞紙を波留日に寄越す。そこには、波留日を追い詰め此処に拘禁するよう裏で糸を引いていた人物の悪行と呼ぶべき所業が扇情的に報じられているではないか。波留日は手早くそれを読み下すと、白い歯を見せてニヤリと笑みを浮かべた。
「流石陣佐。これで僕もお役御免ってわけだ」
「……すまなかった」
扉を開け放ち、波留日がその薄暗い空間から出るその間際、官兵衛は消え入りそうな声で波留日に呟く。それを聞き逃さなかった波留日は、くるりと振り向いた。
「はじめに言っただろう? 謝らなくていいよ。僕は君達に同情しているんだ。軍とはそういう場所だからね。それよりも……君達に刑罰は?」
その言葉に官兵衛は目を見開く。暴力に晒され、不当に拘束されたとは思えぬ人間の返答に狼狽える官兵衛。寧ろ逆に良心が痛んで動けない様子の同僚を見て、勇次郎が代わりに波留日の問いに答えた。
「ありません。元々全て内密の任務内で行われたことです。書類などの記録も破棄するよう指示がありました」
「それは良かった。……これまでもこれからも、是非ともそう思わせて欲しいね」
波留日は勇次郎の言葉に眉を下げて微笑みを浮かべる。勇次郎はその達観したような笑顔に口を噤み、暫し言葉を失った。
「正門から出るのではなく、裏口から出てもらう。その方がこちらの都合がいい」
官兵衛はそう告げ、先導して歩き出す。その背中は、先程までよりも僅かに重く見え、勇次郎と同様に同情される居心地の悪さを感じていることが容易に分かった。
「では、また会う日まで。ミチにも宜しく頼むよ」
波留日の声は、最後まで軽やかだった。二人の顔を交互に見やり、ヒラヒラと絹手袋に包まれた掌を振る。その仕草は、まるで些細な別れの挨拶のようであった。波留日は振り返らず、軽快な足取りで駐屯地を出て歩く。官兵衛と勇次郎はその小さな背中を見送り、踵を返して再び規律の世界へと帰っていった。
***
悠々と歩みを進めていた波留日であったが、二人が居なくなったことを確認するや否や、勢いよく地面を蹴って駆け出した。裏口からぐるりと回って正門を目指す。
碌なものを食わされていない身体は少し動くだけで息切れを起こし、クラクラと酸欠を誘った。それでも波留日は歯を食い縛って道を走り、髪を振り乱しながら辺りを見渡す。
ぶれる視界の中、波留日は駐屯地の正門前で佇む二つの人影を捉えた。一般人にしておくには勿体ない体躯の男と、風に吹かれれば飛ばされてしまいそうに細く、髪も乱れて身なりに無頓着な男と目が合う。
波留日は汗の浮かんだ額を手袋で拭い、弾けんばかりの笑顔を浮かべてみせた。地面を確りと踏みしめ、背伸びをして大きく腕を振る。
「あ、あぁ……」
それを見た雷蔵が、言葉にならない声を漏らした。そして、ふらふらと足を進め、転びそうになりながら波留日に駆け寄った。波留日も再び地面を蹴り、雷蔵の元へ飛び込むように両手を広げる。
雷蔵も着物の袂を振り乱しながら両翼を広げ、地面に膝をついた。波留日はその中に身を潜り込ませ、細い身体を強く抱きしめる。
「波留日……この馬鹿がッ」
首元に顔を埋めてくぐもった声を上げる雷蔵に、波留日は擽ったそうに笑い声を上げて天を仰いだ。そしてその手を、荒れ放題の髪に乗せてそっと撫でる。
「……ただいま、雷蔵。陣佐も、迷惑掛けたね」
「全くだぜ、ウチの坊ちゃんはよォ。……とにかく、無事でよかった」
「ありがとう。……これで、また始められるね」
目の下に隈を浮かべた陣佐が二人を見下ろして笑い、その白い額にデコピンを見舞った。いてっ、と声を上げた波留日は、額を押さえつつ目を細めて笑みを浮かべる。そしてゆっくりと視線を落とし、今も波留日に縋りついて肩を震わせる雷蔵の肩を優しく叩いた。
「ほら、雷蔵、いつまで泣いているんだい。いい歳の男が情けないじゃないか。それにほら、僕のシャツが君の涙やら鼻水やら、何だか分からない汁で湿ってきたのだけれど」
急かされ漸く顔を上げた雷蔵は、ずれた眼鏡を直して頷き、ゆっくりと立ち上がる。鼻水を啜り顔を拭い、波留日にインクで汚れ、ペンダコが目立つ右手を差し出した。
「帰ろう、波留日」
波留日は目を見開き、次いでその汚れた手とぐちゃぐちゃになった雷蔵の顔を交互に見やる。そして弾けんばかりの満面の笑みを浮かべ、腕を伸ばして差し出された手を取った。
「うん。雷蔵も、ありがとう」
雷蔵は頷き、波留日の手を強く握りしめる。絹手袋越しに体温を確かめるように。歩き出した雷蔵に引っ張られ、波留日も雷蔵の手を握り込んだ。
「じゃあこっちの手は俺が」
陣佐が雷蔵に取られていない波留日の手を掴む。波留日は歩く二人の顔を見上げ、大きくその一歩を踏み出した。
「……それにしても、よく検閲の不正を報道できたね。流石陣佐。一体どんな手を使ったんだい?」
「あー……、勿論桑原先生や偕成の力は借りた。あとは類を取り込んだりもしたな」
「類を?! 情の前に損得でしか動かない奴じゃないか!」
まるでなんてことない世間話のように始まった会話。波留日は陣佐の言葉に目を剥いてその顔を見上げる。そんな波留日を見下ろした陣佐は、してやったりという具合で破顔してみせた。
「だから、得を作ってやった訳さ。あとは、癒着していた検閲官は想像通りか、他のお仲間には好かれている様子じゃなかったからな。ソイツが出張とかで不在の時を調べて、その日に合うよう検閲に提出してやった」
「はは……意外と力づくだ」
波留日が眉を下げて笑えば、陣佐は気を良くして天を仰ぎ、さらに口を開く。見上げる青空は晴れ渡り、春の陽光が降り注いでいる。
「それだけじゃねぇぜ? 向こうだって数出されちゃあ抑えきれねぇからな。学生の新聞倶楽部や文芸倶楽部に至るまで話題になりそうな所へ手当たり次第にネタを垂れ込んで、消せないほどに火を付けたんだ」
そう言って陣佐は、波留日と繋いでいない方の手で自らの太腿を叩いた。小気味のいい音が響く。
「勿論、この足とペンを使ってな。……そして、俺と同じように、いや、それ以上にずっとペンで戦ってた男がお前の横に居る」
波留日は陣佐の言葉に目を丸くし、くるりと首を回して雷蔵の方を見上げた。この数週間で随分と痩せてしまった頬や、握る手の甲は前にも増して筋張ってしまっている。
「……よしてください、陣さん。俺はただ……滅茶苦茶になりながら筆を握っていただけですから」
「それがどれだけ奴らへの圧力になったか!」
陣佐は力強く雷蔵の謙遜を一蹴してみせた。目を丸くする雷蔵へ、陣佐は「折れず屈しない心」がどれほど強く、人を潰さんとする者達を慄かせるものか熱く語る。
「アイツらはずっと俺達を監視していただろうからな。折れないお前や波留日を見て鷺坂も焦っただろうよ。そしてそれが綻びを産んだ」
二人の間でうんうんと頷く波留日を見て、雷蔵はそういうものかと釈然としないまま気恥ずかしそうにはにかんだ。そうして不器用に笑い合う波留日と雷蔵を見下ろし、陣佐は一つ考え込むように唸り声を上げる。その声に誘われて顔を上げた二人に、陣佐はニヤリと口角を吊り上げた。
「雷蔵、波留日。お預けになった祝いをするか。……かつ丼とオムライス、どっちがいい?」
その言葉に真っ先に目を輝かせたのは波留日。雷蔵とつないだ手をブンブンと上機嫌に振り回して飛び跳ねる。
「そりゃあ決まってるよ! ねぇ、雷蔵?」
「ここはやっぱり祝いなので……」
波留日にその顔を覗き込まれ、ひとり戸惑いながら考えていた雷蔵は笑顔を見せた。そして二人で呼吸を合わせ、せーのと一緒に口を開く。
「「かつ丼!」」




