夜と肴と酔い惑い。下
どろどろと脳が溶け、ぐるぐると腸がひっくり返るような気分の悪さに目を覚ました雷蔵は、此処が何処かも分からぬまま緩慢な動きで辺りを見渡した。やけに明るい。それに屋内だ。狭いが天井も壁も床もある。おかしい。最後の記憶では薄暗い路地裏だった筈。
「……ん?」
頭をポリポリと掻き、雷蔵は首を傾げた。自分の呼気が酒臭くて眉間に皺が寄る。
「おう、起きたか。雷蔵、気分はどうじゃ」
「類……? 何でお前が……うっ」
声を掛けられ振り向けば、見知った顔があり雷蔵は顔をしかめた。途端に胃から酸っぱいものがせり上がってくる感覚に襲われ、慌てて口元を押さえる。それも織り込み済みだったのか類は桶を雷蔵の方へ放り投げた。空いているもう片方の手でそれを受け取った雷蔵は、間髪入れずに顔面をそこへ突っ込み、胃の内容物を吐き戻す。据えた匂いがさらに吐き気を誘い、雷蔵は胃の中が空っぽになるまで嘔吐き続けた。
「酒も女も駄目なんに、何でこんな所に居るんじゃ」
落ち着いた雷蔵の背中を擦りながら、類は持ってきたやかんで水を注いだ湯呑を渡す。それを受け取って口を濯いだ雷蔵は、胃酸で焼けたしゃがれ声で吐き捨てた。
「先ず俺に言う言葉はそれじゃねぇだろ」
隈で縁取られた彫りが深めな目が鋭く類を睨みつける。
「……それもそうじゃな。……すまん、」
項垂れる類を尻目に、雷蔵はゴソゴソと自らの懐を探ると、床に一冊の薄い冊子を置いた。
「これは……」
「十一月号だ。今までの半分以下の厚さだぞ。笑っちまうだろう?」
類はそれを拾い上げ、その薄さに驚愕する。売れ行きを伸ばしていた文芸誌とは思えぬ、人の集まらぬ何処ぞの同人誌かと見紛う程の有様に、類は口を噤んだ。
「あの男が杜若に声明を出した後、原稿を取り下げたいという連絡が殺到した。残ってくれた人も居たがこの様だ。……俺が残したいと言った手前、皆の前で悔しがる訳にはいかないだろ……」
雷蔵はボサボサの髪を掻き毟って項垂れる。類は歯を食いしばって深々と頭を下げた。
「申し訳ない……! ウチの馬鹿師匠がとんでもないことをしでかして……!」
「どうして止めてくれなかったんだ。……いや、それは責任転嫁だな。八つ当たりだ」
雷蔵は乾いた笑い声を上げて肩を揺らす。
「言い訳に聞こえてしまうかも知れんが、ワシも警戒されていたんじゃ。アイツは、家でやる宴席には必ずワシを芸妓として出しておったのは知っておるじゃろ? ワシだってその席で話を盗み聞きできればと思うとったんじゃ。けれんど、アイツはワシを呼ばんどころか、相手も明かさず、日取りもワシが居らん日にしおって……」
苦虫を噛み潰したような類の表情に、雷蔵は湯呑に残った水を啜って肩を竦めた。
「大方そうだろうと思ったよ。あの男の傘の元で自由にやってるような人間を完全に信頼するわけには行かないし、奔放なお前に対しては、お前が気付かないようにあの男が手綱を握っていることくらい、簡単に予想できる。起こることは全て、あの男の掌の上だ」
「雷蔵……」
「ただ、もう少しお前も警戒心を強くして貰うと有難いんだが……」
「へへへ、そりゃあそうじゃ!」
類はケタケタと笑い声を上げて胡坐を掻く。同じように床に座り込む雷蔵は、胡乱な目で類を睨みつけた。類はその視線から逃げるように、雷蔵の手元にあった空の湯呑に手を伸ばしてやかんで水を注ぐ。トクトクと小気味のいい音が二人の間に小さく響く。
「そもそも、何で雷蔵はあんな得体の知れぬ子供を信じ突き進んでいるんじゃ? あの男よかましなのは言うまでも無いんじゃが……」
湯呑を受け取った雷蔵は、両手でそっとそれを包み込み、水面に映る酷い顔の男を見て苦笑いをした。そうして一度大きくため息をつくと、ゴクゴクと水を飲み干して息をつく。類は胡坐を掻いた膝の上で首を傾げながら頬杖をつき、その横顔と上下する雷蔵の喉仏をぼんやりと見つめた。
「……波留日の姿とか、そういうのがどうでも良くなる程に、波留日が真っすぐに俺を見てくれるから。俺を絶望のどん底から救い出してくれたから。その純粋な心に、全力で応えたくなる。俺が未来を思い描く時、波留日がいるなら大丈夫だと思える。きっと波留日の周りにいるのは、そういう人達ばかりだ」
雷蔵はあの不思議な少年を「波留、波留ちゃん、波留日」と呼び慕う人々を思い浮かべる。彼ら、彼女らはどこか凛とした芯を持ち、そして陽だまりのような温かさを湛えた強く優しい人達ばかりだ。穏やかな笑みを浮かべる雷蔵を横から眺めて目を細めた。
「……ええ人に出会うたのう。雷蔵。ワシもあの阿呆がこれ以上暴走するんをできるだけ抑えちゃる。じゃから、諦めるんじゃないぞぉ!」
類はガハハと笑い声を上げ、バンバンと薄く骨ばった雷蔵の肩を叩く。雷蔵は肩を庇うように手で叩かれたところを押さえながら、類を呆れ顔で見やった。
「っ……言われなくても。はぁ……お前を見てると何もかもがどうでも良く、何とかなりそうに思えるな」
「そうじゃろうそうじゃろう。じゃって、ワシ自身がワシを何とかして来たんじゃからな」
類は胸に手を当て、偉そうにうんうんと頷いてみせる。雷蔵は類の横にちょこんと置いてあるやかんに手を伸ばし、湯呑に追加の水を注いだ。
「……花街勤めの男が文豪に拾われて自身も文士になる。確かに物語にしても出来過ぎた設定だな」
酒の一気飲み宜しく勢いよく水を飲み干した雷蔵は、湯呑を類に渡して膝を立てた。
「……酒も抜けた。酔いつぶれていた時拾ってくれて助かった。ありがとうな」
「おうよ。じゃあのぉ、雷蔵。ワシは日々是好日を応援しとるよ」
しっかりと立ち上がった雷蔵を見上げ、類はひらりひらりと手を振る。その指先までもどこか雅で品性のある空気を纏っていた。雷蔵はそのゆったりとした余裕のある動きを前に、厭味ったらしく眉を片方だけ上げて悪態をつく。
「じゃあ原稿の一本や二本くらい出しやがれ」
「それは無理じゃあ。だってワシ、金と人脈が欲しゅうて物を書いとるんじゃもん。原稿料も印税も出ん、投稿者は文壇にもいないような一般人の日々是好日になんて書かん書かん!」
しかし類も負けず劣らず赤い舌をべろりと出してケタケタと笑ってみせた。類の不真面目で適当な答えに、雷蔵の歯がギリ、と軋む。
「このっ……!」
「言っとけ言っとけぇ。……雷蔵、帰り道気ぃつけぇや」
「分かってる!」
そうして古びた家屋の引き戸をガラガラと開けた。冬の夜に相応しい冷え切った空気が雷蔵達の髪を巻き上げる。
「世話になった。感謝する」
そう言い残し、雷蔵は路地裏の暗闇に紛れて消えてしまった。それを見送った類は、くぁ、と欠伸をして伸びをする。
「類ちゃん、あの人帰っちゃったの?」
戸の音を聞きつけた女郎がひょっこりと顔を出した。戸が閉まりきるのを確認した類は、くるりと振り返って女郎に笑いかける。
「あぁ、酒も抜けて足取りもしっかりしとった。しかも、あん男は駄目じゃあ、酒も女も呑めんし食えん。金にならんぞ」
「あら、残念」
「じゃあワシが相手したるよぉ」
類が女の細い腰にするりと手を回せば、女は類の胸にこてんとしなだれかかった。
「うふふ、嬉しい。……でも、お金、必要なんじゃないの?」
「美人に払う金の出し渋りなんてそんな野暮なことはせんよ。それに、ワシ、金はそこそこ貯まってきたんじゃ。あとは、人脈、じゃのぅ」
そう言って類は女の黒髪を撫で、艶やかな首筋に顔を埋めた。




