理想と手紙とその一歩。 中
「いい加減折れたらどうだ?」
「断る」
幾日目か、幾度目か分からぬほど繰り返された問答だった。波留日はまるでからくり人形のように、感情の揺らぎ一つも見せずに決まりきった答を返す。
官兵衛と勇次郎もそれが分かっているのか、何度も問いただす事はせずに溜息をついて顔を見合わせた。
通常であれば任務はこれで終わりのはずである。しかし、官兵衛は机に手を突き、低く、喉元へひやりと刃を当てる声色で言葉を続けた。
「……では、橘波留日の正体が年端もいかぬ子供であると報道するよう指示する」
官兵衛が脅しで揺さぶるも、波留日はその迫りくる目を逸らさないまま、小さく首を横に振る。
「すればいいよ。どれだけの人間が信じるかな」
垂れる黒い前髪の隙間から覗く瞳は、年齢にそぐわぬ冷たさを帯びていた。その鋭さに、官兵衛の背筋を悪寒が駆け上がる。
官兵衛は一瞬たじろぐように息を詰めた。しかしすぐに頭を振ってそれを薙ぎ払うと、ずいと波留日の眼前まで詰め寄り睨みつける。
「……では、朝星新聞社の人間がどうなってもいい、と?」
「あの人達に罪はない」
低く地を這う脅し文句を遮り、波留日は声を荒らげた。焦りを見せた波留日の反応を見逃すまいと官兵衛は歪んだ笑みを浮かべ、波留日へと手を伸ばす。
そして波留日の柔い黒髪を無造作にかき上げた。眉間に皺を寄せた大きな瞳が露わになる。あどけない顔の額に、汗が滲んだ。
「いいや、出自が分からぬ無戸籍の子供を匿っていることは十分取り調べの対象となる。誘拐か、身売りか。なんとでも疑いは掛けられる」
波留日の喉がひくりと鳴る。机の下で、絹手袋を嵌めた小さな手がギリリと拳を握った。
「驚いたか? この調査任務を先任していた者の報告書を閲覧したのだ。この国には、お前の存在を記したものがない。故に簡単に拘束できたのだが。……貴様は一体何者だ? 花街の落とし子か、はたまたやんごとなき身分の不義の子か。そんな子供の世話をしていたとなれば……」
「あの人達は善人だ! 罪はない! それをでっち上げて脅すなど……。この卑怯者め!」
波留日は耐え切れずに声を荒らげ、官兵衛を睨みつける。しかし官兵衛は何も効かぬというように鉄面皮をその顔面に貼り付けた。取り付く島もないと言わんばかりに唇を引き結んだ官兵衛から視線を移し、波留日が思わず勇次郎を見やれば、彼は対照的に歯を食い縛り、苦しそうに顔を伏せている。
「……卑怯者で結構」
沈黙が支配していた空間をキィと扉が開く音が切り裂き、波留日は反射的に身を起こした。扉を開けた人間が何者かを理解するや否や、鬼神の如く目を吊り上げてその名を呼ぶ。
「鷺坂……。大将のお出ましということか」
着流しを纏い、洒落て気品のある雰囲気を漂わせる男が、鋭い視線を波留日に注いだ。二人の邂逅はこれで幾度目になるだろうか。緊張の糸が張り詰める空気の中、波留日の小さな喉仏がごくりと上下する。
「君達は下がりなさい。私はこの餓鬼と二人きりで話がしたい」
官兵衛と勇次郎は、一礼すると部屋を去り、扉の前に仁王像のように立った。鷺坂はゆったりとした所作で波留日の前にある椅子に腰掛ける、黒子のある口元を歪めて笑みを浮かべる。
「私のような立場でない限り、弱みは潰しておくべきだったね、橘波留日君。子供なのだから養子制度でも何でも使えただろうに」
頬杖をつき波留日の様子を観察する鷺坂の目は、軽く見下すような冷たさを帯びていた。波留日は深いため息をつき、面倒くさそうに口を開く。
「それだって陣佐に考えて貰ったさ。でも、庄衛門とおヒサさんのところに入ると次期社長やら相続やらで面倒だし、陣佐は未婚だし、そんな事を気にしている場合じゃ無かったんだ。いやぁ、ツメが甘かったね。反省反省」
「そうやって後回しにするから付け込まれるのだ。最近になって来た隣の家の新婚夫婦に頼んで養子にしてもらえば良かったな」
鷺坂は腕組みをして厭味ったらしく波留日を見下した。全ての調べはついていると言わんばかりの挑発に、波留日は眉間に皺を寄せて鷺坂を睨み返す。
「……あんなに幸せそうな人達に面倒事を押し付けるわけないだろう。僕が関わった未来で、あの人達が幸せになることなんてない。僕は親不孝者だからね」
鷺坂は勝ち誇ったように鼻を鳴らし、随分と草臥れてしまった波留日を見やった。互いに一歩も譲らぬという気迫が、部屋の空気をピンと張り詰めさせる。
「僕の素性や短編集のことは置いておいてさ、僕は貴方に訊きたい事があるんだ。鷺坂有太夫」
それを真っ先に切り裂いたのは波留日だ。無礼にも名を呼び捨てにされ、鷺坂は僅かに額へ青筋を立てた。波留日は真っ直ぐに鷺坂の目を見て口を開く。
「何故、雷蔵に執着しあんなにも追い詰める。彼の書く物語は、これからの時代を照らす光になる。それは貴方だって分かる筈。才気溢れる若木を何故手折る?」
鷺坂は何も答えず、口を真一文字に引き結んだ。波留日は沈黙を貫く目の前の男からの返答など、端から期待していないと言わんばかりに畳み掛ける。
「それこそ僕は、雷蔵は近いうちに池田川賞を獲ると思っている。より熟せば池田川を超えるとも疑わない。年齢では敵わないけれどね」
「それが問題なのだ! 雷蔵も、あんな目に遭わせているにもかかわらず、一向に折れぬ! 気味が悪い!」
ここで初めて鷺坂が声を荒らげた。彼は机に左手をつき、右手で白が混じった髪に指を通し、をぐしゃりと握り潰す。歯を食い縛り、カタカタとその身が震えた。
「朔時を超える才など! 此の世に遺った、彼の作品が……」
「過去の亡霊に囚われて、彼の魂を継ぐ者を潰して、貴方は一体何がしたいのか」
波留日は呆れたように小さく息を吐く。目の前の男は、池田川朔時という巨大な存在に縋り、それと比較することでしか己の輪郭を保てない哀れな信者だ。それに気付いた波留日の冷ややかな視線が、鷺坂の最後の一線を無残に踏み越えた。
「黙り給え! 朔時に魂などない! 魂があったのだとしたら、彼は何故あの時簡単にその身を投げ出したのだ! 朔時を朔時たらしめるのは……朔時、あるいは彼の残した幾つもの傑作……。そしてそれは、永遠に孤高であらねばならない。この私を打ちのめした男だ! あの数多の作品で、私を絶望に突き落としたんだ! そうでなくては、私が生きる意味が……!」
鷺坂の叫びは、この薄暗い部屋の壁に跳ね返る空虚な残響に成り果てた。肩で荒い息をつき、憎悪と陶酔が入り混じった瞳で波留日を睨むその姿は、ただ過去の残影に囚われた人間となる。波留日は黙ってその様を見つめた。
やがて、鷺坂は力なく椅子に深く背を預け、乱れた身なりを整えることもせず、濁った声で告げる。
「……あと数日、猶予を与える。朝星新聞社の進退は私の手にあるのだから。その減らず口を叩けるのも今のうちだ」
おぼつかぬ足取りで席を立ち、鷺坂は扉へ縋りつく。まるで獰猛で美しい獣に怖れ慄き、哀れにも逃げ惑うように。扉は外に控えていた官兵衛と勇次郎によって開かれ、鷺坂はようやっと呼吸も止まりそうな重苦しい空気から逃げ遂せる。
勇次郎が再び扉を閉める、その間際のことだった。
「……かの人は、川の畔で何を思う哉」
波留日が小さな窓から零れ出る光を見上げ、思い出したようにぽつりと呟く。聞き取れるか取れないか、その瀬戸際の声に、鷺坂はピタリと足を止めて振り向いた。
「貴様、何故それを……」
目を見開いて問いただそうと後戻りしようとする鷺坂の動きを、勇次郎の腕が冷徹に遮る。
「失礼致します」
勇次郎は淡々とした声でそう告げると、波留日を鷺坂から守るようにその身を滑りこませ、扉を静かに閉ざした。
カチャリ、と冷たい鍵の音が響き、波留日と鷺坂は切り離される。
鷺坂は半ば無理矢理扉を閉めた二人の若き軍人を睨みつけ、乱れた髪を撫でつけながら口を開いた。
「引き続き頼むと、上に申せ」
二人は背筋を伸ばし、返事代わりの敬礼をする。釈然としない気持ちをその鉄面皮の下に隠しながら。
***
官兵衛と勇次郎は、今日も上官に命じられた通りに波留日のもとへ食事を運び、扉の鍵を厳重に閉める。
何度目かも分からぬこの任務。波留日は鷺坂に揺すりを掛けられても毅然として立ち向かい、その後の数日も落ち着き払った様子で拘束された生活を送っていた。
官兵衛は扉の隙間から、沢庵をポリポリと噛み、麦飯を頬張る波留日をじっと観察する。
「……何故、文学の為に、達川雷蔵の為に、あのような理不尽を受け入れているのだろうか。ただの娯楽にも関わらず、権力のある者に睨まれてまで……」
空になった膳を運びながら、官兵衛はぽつりと独り言のように疑問を吐露した。暗く狭い部屋に閉じ込められ、それを甘んじて受け入れながらも内なる信念を削らせない姿は、勇猛果敢な戦士を彷彿とさせる。その毅然とした振る舞いは、官兵衛にとっては底知れない恐怖を煽った。
官兵衛の隣を歩いていた勇次郎は、その零れ落ちた言葉を拾い上げた。絶対に見逃してはならない、同僚であり、友の心の迷いを手繰り寄せるように。
「きっと、あの人を突き動かすのは情熱だ。自分のやりたいことと、やるべきことと、才とが合致し、それを実行できる自由を手にした人間ができる芸当さ」
「情熱……」
官兵衛は釈然としないままに首を傾げた。その単語は、軍規と命令を絶対とする彼には非常に妖しげな響きを持っている。勇次郎はそんな同僚の横顔を見て苦笑いし、天井を仰ぎながら自虐の言葉を吐いた。
「残念ながら、俺は、文学は好きだが才も自由も無い。そしてやるべきことはこの仕事だ。吐き出す術も分からぬままここまで来ちまった。だから、こんなにも捻くれてる」
乾いた笑い声が冷えきった廊下に響く。勇次郎はそのまま歩いてしまいそうな官兵衛を見やると、その歪んだ笑顔を崩して不意に足を止めた。
「……お前はどうだよ」
問いかけられた官兵衛は、勇次郎より二、三歩進んだ先で立ち止まる。勇次郎の方を振り向けば、その眼差しが官兵衛を刺した。あまりの真っ直ぐさに胸の痛みを感じ、官兵衛は僅かに視線を彷徨わせた後、拒絶するように前を向いた。
「俺は……俺にあるのはやるべきことだけだ。軍人としての才だって、お前の方がある。それでも、俺は此処にいるしかない。そんな人間が情熱などと口にするのは、身の程知らずだろう」
その言葉は、勇次郎に言い放つような口調でありながら、どこか自分に言い聞かせているような切実な声をしていた。勇次郎はその違和感に拳を握り、意を決して口を開こうとする。
しかしその時、廊下の向こうから若い下士官が駆け寄ってきた。二人は瞬時に言い争う友人としての顔を捨て、規律に生きる軍人としての無機質な表情を貼り付ける。
「佐伯少尉! ここにいらっしゃいましたか。先程、奥方がいらっしゃいまして、差し入れを預けていかれました。佐伯少尉の個室の前に置いてありますので、確認をお願い致します」
「分かった」
下士官が敬礼をして去っていくと、勇次郎は張り詰めていた空気を抜くように肩をすくめ、わざとらしく茶化してみせた。
「あんなに失望させちまったのに差し入れたぁ……。お前には過ぎる嫁さんだよな、全く」
「喧しい。行くぞ」
官兵衛はぶっきらぼうに吐き捨てると、勇次郎を置いて廊下を進む。波留日の食べた膳を片付け、自室へと足を早めた。個室の前に置かれた小さな荷を手に取り、扉を開ける。
後ろ手に戸を閉めようとした矢先、いつの間に追いついていた勇次郎が隙を突いて割り込み、官兵衛の部屋に押し入った。いつものことと呆れ顔を浮かべた官兵衛は、責め立てる事もせずに机の上へ荷を置く。
「いつまで居る気だ」
「いやぁ、俺だって気になるわけよ。失望させてしまった奥方が、一体お前に何を渡すのか」
勇次郎はあっけらかんとした態度で官兵衛に近づき、荷の中身を覗くように身を乗り出した。官兵衛もあの騒動について勇次郎を他人にする気はないのか、溜息を一つついて小さな荷の封を切った。
新品の手拭いに靴下、少し高価な煙草、日持ちのする煎餅や羊羹。なんてことのないものばかりだ。官兵衛はその一つ一つを箱から丁寧に取り出し、机の上に並べていく。
「手紙はなしか。こりゃあ奥方、相当お冠だろうな。次の帰省が怖いぜ」
勇次郎が机の上の品々をまじまじと観察しつつ身震いした。一方、官兵衛は箱の底に中途半端な大きさの白い和紙が忍ばせてあることに気付く。何かを包んであるのか、透けた色が見えた。
怪訝に思いながら、官兵衛は慎重にそれを取り出す。隣で見物する勇次郎の視線が喧しいが、それには目を瞑った。丁寧に和紙を広げれば、二つ折りになった古い紙が姿を現す。
それが何かを理解するや否や、官兵衛はその場に縫い付けられたように動けなくなった。
「これは……古い少年雑誌の表紙か? しっかしボロボロだなぁ」
勇次郎が官兵衛の手元を覗き込んで驚きの声を上げる。立ち尽くす官兵衛の首筋から、つぅと脂汗が伝った。
「な、なぜ、これが……」
それは、かつて官兵衛が父に引き裂かれた過去。捨てればよかったものを、どうしても捨てきれずに奥底へしまっておいた記憶。
バラバラに引き裂かれていた筈の表紙は、糊で一欠片一欠片、気の遠くなるような手間をかけて修復されている。歪な修復跡は、彼女がその手で丁寧に破片を繋ぎ合わせた事実を物語っていた。
包まれていたのは最も印象深い表紙だけ。中身の頁までは修復できなかったのだろう。
掌の中で、船形帽を被った少年が軍艦の玩具を手に未来を見つめている。
ただそれだけの、雑誌の表紙である筈なのだ。
しかし、官兵衛の心は抗う間もなく掻き乱された。
小さく震える指の先から、ひらりと一枚の紙が零れ落ちる。修復された表紙と共に同封されていたのだろう。官兵衛は、勇次郎に見られるよりも早く身を屈め、不規則な動きで空気をかき分け落ちる便箋を拾い上げた。
――貴方の心のままに。魂の炎は誰にも消せません――
美しい筆致で綴られた言葉に、官兵衛は唇を噛む。長年見ないふりをしてきた鈍く疼いた痛みを眼前に突き出された感覚に、脳がぐらぐらと揺れた。
あの時からずっと、官兵衛の内側では、幼き自分が膝を抱えて時を止めたまま泣いている。
隣で便箋を覗き込んだ勇次郎は、そこに記された言葉の重みを察したのか、いつになく真剣な面持ちで口を噤んだ。
官兵衛は修復された雑誌の表紙と便箋を、壊れ物を扱うようにしてぞんざいに机の奥へと押し込む。自分が自分でなくなってしまうのを恐れるかのように。
その衝撃で、机の上に並べてあった羊羹やらが崩れ落ち、音を立てて床に落ちる。官兵衛はそれをちらりと一瞥するのみで踵を返し、部屋を出て行こうと歩みを進めた。
らしくない同僚の行動に、勇次郎は思わず目を丸くして呼び止める。
「お、おい……」
「何をしている。仕事だぞ」
しかし官兵衛はそれを無視して部屋を出た。勇次郎は大股で廊下を進む官兵衛の後を追い掛ける。
「あの雑誌は何だ。奥方のあの言葉は何だ。お前に一体何を……」
「煩い!」
質問攻めにする勇次郎に官兵衛は声を荒らげた。その剣幕に勇次郎は言葉を失い、廊下は反響だけを残して静まり返る。
「何が、何が心のままに、だ……」
官兵衛が肩を強張らせ、押し殺すように声を絞り出した。しかし一度吐き出してしまえば、堰を切ったように言葉が溢れ出てくる。
「俺の魂なんぞ、とっくに父へ、軍へ売ってしまった! 心も、魂も、あったって迷うだけだ……。そんなもの、俺には必要ない! あって……あってたまるか!」
こんなにも乱れる官兵衛を、勇次郎は見たことがなかった。あの古い紙切れが、僅かな言葉の便箋が、一体官兵衛の何に触れたのか。
肩で息をして自らの思いを吐き捨てた官兵衛を前に、勇次郎は手を伸ばす。
「嘘つけ。そうやって迷ってんだったら、まだ燃えてるんだろ。生憎、俺はその火消しをしてやるほど組織に迎合してねぇんだよ」
肩章を握り潰さん勢いで軍人らしいがっしりとした肩を掴み、勇次郎は強く語り掛けた。官兵衛は下唇を噛み締めて勇次郎の腕を引き剥がす。
「無駄話は止めだ。……行くぞ」
勇次郎の軍服の袖には、深い皺が寄っていた。官兵衛はカツカツと規則正しい軍靴の音を響かせて歩き出す。勇次郎は袖をはたいて皺を伸ばし、彼の歩く後ろ姿を追い掛けた。
追いついて並んだ官兵衛の横顔を見る。引き結んだ口は強張り、眼差しはまっすぐ前を見つめているように見えて、ぐらぐらと黒目が震えていた。
***
その夜、官兵衛は上官の執務室の前に立っていた。廊下の灯は落とされ、夜警の足音だけが遠くで反響している。
ミチからの荷を開いたその時から、胸の奥で燻り続けているものが煩かった。眠るに眠れず、目が冴え、答えを探すように部屋を出て宿舎を彷徨う。
そして気付けば、全ての始まりとなった極秘任務を課した上官の執務室の前に立っていた。扉の隙間からは、淡い光が漏れている。中に、まだ、居る。
ドアノブに手を掛けそうになり、官兵衛はヒュっと息を呑んだ。ヨロヨロと後退り、掌を顔に押し付ける。
「誰だ。……佐伯少尉か。どうした」
流石は北国との戦線を乗り越えてきた世代の軍人。扉の先で迷う人間の気配など筒抜けだったのだろう。キィと扉の軋む音がして、上官が顔を出した。
「い、いや……」
顔を逸らし、歯切れの悪い返事をする官兵衛に上官は苛立ちを露わにする。扉を大きく開き、入るように顎をしゃくった。
「入れ。何も用が無いというわけでは無いだろう」
上官の指示は絶対である。そう教え込まれた官兵衛の身体は勝手に執務室へ足を進めていた。
「鷺坂殿直々の面会後、あの小僧に変化は」
「特にありません」
深々と椅子に腰掛ける上官を前に、官兵衛は肩幅に足を開き、毅然として発言する。その言葉に、上官は煙草を吸いながら億劫そうに溜息をついた。
「小僧め……しぶとい」
呟かれたその言葉に、官兵衛は小さく唇を噛んで拳を握る。
幼き頃に見習えと言われた行進する軍人や、先の戦で高地を攻めるために北の国で散った者達、憧れた英雄達は、年端もいかぬ子供を拘束し、要求を通そうとする人間だろうか。
自らの信念に突き進む人間を阻むことに躍起になるような人間だろうか。
彼らの魂は、それをよしとする劣悪なものだろうか。
「上官、進言致します」
ぐるぐると思考が回ったと思えば勝手に口が開き、官兵衛の瞳が揺らぐ。怪訝そうな上官の表情にたじろいだ。
――魂の炎は、誰にも消せません――
胸を突き動かす衝動が、やがて全身を包んで巻き込む。官兵衛は拳を握り締めて背を伸ばすと、毅然として腹から声を出した。凛とした声が部屋に響き渡る。
「橘波留日は……これ以上拘束しても利が無いと見受けます。鷺坂殿との面会を過ぎた今でも、彼は毅然として要求を受け入れる様子がありません。彼の精神の拠り所は外部からの圧力で屈する類のものではないと判断します。また、無戸籍とはいえ子供を不当に拘束している事実が万が一世間に露呈すれば、帝国陸軍の不名誉は免れません」
「貴様から捕らえておいて何を言うか」
しかし上官は間髪入れずに官兵衛の主張を一蹴した。官兵衛は弱みを突かれ、ぐっと息を詰めて眉を顰める。
「それはそうですが、彼は拘束前より手に傷も負っていたことも分かりました。あのような環境に長い間置かれれば、その傷が悪化する可能性も……」
「眞田少尉や小僧と話して絆されたか」
嘲り混じりの声に、官兵衛は下唇を噛んだ。
「あの小僧には戸籍がない。つまり捕らえても何ら問題がない。こちらとしては、相手側の顔を立てるのが最優先だ。……貴様は士官学校で一体何を学んできたのだ。私情で判断を鈍らせるなど笑止千万」
上官は椅子から立ち上がると、官兵衛に歩み寄り肩に手を置く。
「命令に従え。それが多くの国民を守ることになる。士官たる我らが弛んでいるようでは、国民や下士官共に面目が立たん。あの小僧が頑として動かぬと言うならば、動くようにするまでだ。分かったな」
ギリギリと肩が掴まれた。官兵衛は喉仏を上下させてゆっくりと息を呑む。そして一度目をきつく閉じる瞬きをした後、意を決したように踵を揃えて敬礼をした。
「……はっ」
一礼し、扉を閉める。
(何をしているんだ、俺は……!)
官兵衛は顔を真っ赤にして逃げるように廊下を歩いた。
(妻の言葉に感化され、余計な行動を起こすなど……!)
壁にもたれかかり、官兵衛は頭を抱えて座り込む。深いため息をついている最中、突然肩を叩かれ、官兵衛は身を震わせて勢いよく振り向いた。
「よっ! 上官に直談判とはどうしたよ、いきなし」
湯浴みを終えて浴衣姿の勇次郎が官兵衛を見下ろしていた片手を上げている。全てがお見通しなのだろう。官兵衛は漸く強張っていた表情を緩め、乾いた笑いを浮かべて自虐した。
「本当に、どうしたのだろうな」
「遅れてきた反抗期か? 目出度いことではないか」
勇次郎は官兵衛に手を差し出し、白い歯を見せ笑う。官兵衛はその筋張った手を取り、立ち上がった。
「お前の差し入れの中に羊羹があっただろう? それ食って祝いだ!」
二人並んで廊下を歩き始めれば、目ざとく差し入れを狙っていたであろう勇次郎が目を細める。
「お前って奴は……」
官兵衛は呆れて口角を緩めた。そのぎこちない笑顔を見とめた勇次郎は、無理矢理肩を組んで廊下を進む。




