夜と肴と酔い惑い。上
ゆらゆらと橙の灯が揺れている。鷺坂の牙城の中、薄暗い座敷にて二人の男が酒を煽り、肴をつまんでいた。
「……その口ぶりは博識な大人のよう、そして語る内容は何かを見据えているようであったと。その橘波留日とやら、只の子供ではないだろう。……彼は一体何者なのだ」
「それが分からないから私は君に相談したというのに」
丁寧に仕立てられた背広を纏った恰幅の良い男が、酒を飲みながら鷺坂に愚痴を吐く。そうすれば鷺坂は宥めるように穏やかな口ぶりで話し、空になったグラスにビールを注いだ。
「部下に調査をさせて暫く経つが、以前から朝星新聞社は検閲にも協力的で、新聞も文芸誌も内容に問題は無い。あの橘波留日が子供なわけが無いからとその後ろにいる存在を追っても何も出てこず。寧ろあの子供が実際に執筆する所は何度も確認できたようだよ。編集長の半間陣佐も、多少頭が切れるが普通の男だ」
鷺坂は男の言葉に苦々しい表情を浮かべる。酒瓶や高級な料理が敷き詰められた卓の上、トントンと人差し指を打ち付けた。
「とはいえ、確実に何か重大な秘密があると思うのだよ。杜若を通して出した締め出しと、君が出してくれた警告書。あれで大人しくならなければ、引き続き監視、調査して頂きたいのだが……」
「だがなぁ、何も罪を犯していない子供を監視し続けるのも面目に悪いのだ」
ビールが注がれたばかりのグラスの縁を撫で、男は煮え切らないように唸り声を上げる。
「……あの餓鬼は何と言っていたのだ」
「先日の諜報にて、この国は地獄へ突き進む、報道だって滅茶苦茶だ、と言い争う声が聞こえた、と……。その後も話し合いが行われたようだが突然猫が空から降ってきたらしくてな。それ以降の具体的な対策は聞きそびれてしまったようだ。……子供の妄言にしては変に具体性があるとは思わぬか。そもそも、朝星新聞社や花街の女共は何故あの子どもを自然に受け入れているのだ」
男は鯛の刺身をザブザブと醤油につけて口に運ぶ。鷺坂は目を細めて微笑むと、もう一本のビール瓶へと手を伸ばした。
「……それも含めて調べればよかろう。警告を無視して発行を続ければもう一度警告を。内務省の手に負えんというのなら、この情報を軍に流せ。軍人を使ってスパイの真似事でもさせればいい」
蓋が外れる小気味の良い音が響く。
「鷺坂先生……何故そんなにも日々是好日を、橘波留日を、そして……達川雷蔵を消そうとするのかね」
「……嫌いなのだよ。雷蔵が。……初めて読んだ時の未熟ながら人を引き寄せる力、出会った時の儚げな雰囲気、それにも関わらず目に宿る、文学に対する希望と情熱……。全てが不愉快。……池田川朔時は、一人でいい」
鷺坂の指先がトントンと卓を叩いた。そうすれば男はクツクツと笑い声を上げて鷺坂の手からビール瓶を抜き取る。
「君は本当に……大学生の時から変わらないな。分かったよ。通常の業務もあるし先方の都合もあるから時間はかかるけども善処しよう」
空になったグラスに黄金の液体がトクトクと音を立てて注がれた。夜も更けすっかり暗闇に支配された空の下、池の鯉がちゃぷんと跳ねて波紋を作る。
***
とっぷりと夜の更けた薄暗い路地裏。女や男の笑う騒がしい声が古い木造建築の隙間から漏れ出ている。此処は安酒を売る場末の呑屋や、線香一本分の時間を売る女達が犇めくような荒んだ空間。饐えた香りが淀んでいた。
「また来て頂戴よ、類」
その一角、乱れた着物を肩に掛け、気だるげに見送りをする女。引き戸を開けて振り向く客は、外はねする髪を無造作に手で撫でつける。
「おー、気が向いたらでもええかのう?」
「そう言って……。本当にアンタは自由人だね。いいよ、気長に待つからさ」
吝類はひらりと手を振って、夜闇へと姿を眩ませていった。煙草をくゆらせ、街燈も無いような路地を草履を鳴らしてだらだらと所在なく歩く。もう着物一枚では肌寒い空気の中、星の浮かぶ空を見上げ、類は欠伸をして歌を口ずさんだ。
「丘を、越えて行こよ、真澄の空は……」
冬特有の高く澄み渡り星の瞬く空の下、類は煙草を扇子に見立てるように指先で持つ。そうして腕を柔らかく上げて掲げると、曲線の美を彷彿とさせるように、軽やかにくるりと爪先で緩やかに回ってみせた。
揺れる袂にふわりと巻き上げられる饐えた香りの空気が、どこか華やかに彩られるような、そんな錯覚さえ覚える身のこなし。まるで天女のような足取りで路地を進んでいたところ、物陰に蹲っている人影と、それに声を掛ける知り合いの女郎という場面に出くわした。
「あっ! 類ちゃん! この人、酔っ払って動けないみたいなんだよ。こんな所で倒れてちゃあ追い剥ぎに遭っちまうよ」
着物の袖口から力無く膝を抱える手は、血の気が引いて真っ白になっている。類はこの酔い方は不味いと小走りになって駆け寄った。
「それなら家の玄関先で休んで貰うんはどうじゃ? 酔いが覚めた後、客になりそうなら食っちまえばええ」
ポンポンと反応の薄い男の頭を軽く叩き、冗談交じりに笑う。そうすれば女郎もケラケラと声を上げて笑い、完全に力が抜けている男の腕を引っ張り上げた。
「それもそうだね。類ちゃん、運ぶの手伝っておくれ」
「はいよぉ、……って、雷蔵クン?」
男に肩を貸そうとして身を起こさせると、この半分気絶している人間がよく知っている人物だと気付いて類は目を見開く。
「知り合いだったのかい?」
「ま、まぁ、なぁ……。まぁええわ、取り敢えず運ぶぞ」
類は苦笑いをして誤魔化すと、ズルズルと雷蔵の爪先を引き摺りながら歩いて行った。




