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理想と手紙とその一歩。 上

 畳の上を箒がサラサラと撫で、細かい埃を取り払って行く。昨夜から降り続く雨は止む気配もなく、官兵衛たちが晩酌をしていた縁側を、今もしとどに濡らしていた。


 ミチは箒を握ったまま、夫らが任務へと帰っていった背を思い出し、ひとつ溜息をつく。


 あの後の朝も、ミチはいつもと変わらず早く起き、飯を炊き、主人と客人に朝餉を運んだ。佐伯に嫁いだ女の使命として。


 そして同じように使命に生きることを課せられた若い男二人も、その顔に平時の面を貼り付け、彼女の盛った飯を喰らい、彼女のつけた味噌汁を啜った。彼女の拭いた廊下を進み、彼女の磨いた軍靴を履き、規律と忠誠の世界へと戻っていった。


 雨粒が屋根を叩く音を聞きながら、ミチは再びため息をつく。


(朝星新聞社に手紙を書きたいけれど……。この調子ではきっと検閲で止められてしまう。わたくしができることなんて、もう……)


 重い足取りで、広い屋敷の一部屋一部屋を掃いた。座敷、客間、そして、官兵衛の自室。ミチは恐る恐る襖を開き、綺麗に整理整頓された部屋に踏み入る。


 机の脇の本棚には、戦術や鍛錬に関する書物や、士官学校時代の教科書と思しき冊子が並んでいた。文学の本などほんの数冊だけ。


 ミチはそれが意味することに肩を落とすと、壁に箒を立て掛けて本棚に近づく。膝をつき、すっかり埃を被ってしまった文学本の並ぶ棚に手を伸ばした。


「『五月雨の寡黙なる様』……。官兵衛様、嘘はついていらっしゃらなかった……」


 いつか話したことを思い出し、ミチはそっと口角を緩める。埃に汚れた表紙を手で拭ってやり、頁をゆっくりと開いた。


「ミチさん、御遣いを頼まれて……」


「えっ?! わっ!」


 流石、『黎明の三連星』の一翼。桑原慶治の書く世界に引き込まれ、思わず時間を忘れて読み耽っていると、突如襖が開いて姑が顔を出す。


 驚いたミチは飛び上がって体勢を崩し、前のめりに転んで官兵衛の部屋をひっくり返した。棚や机の上のものが揺れて転がり、落下する。


 ミチは自分のしでかしたことを目の当たりにするや否や、真っ青になって床に散乱した本や荷物を掻き集めた。


「掃除の途中に余所見とは……感心しませんことよ」


「も、申し訳御座いません……!」


 呆れた視線を浴びながら、ミチは肩を丸くして小さくなる。拾い集めた冊子を集めて揃え、棚に戻した。


「丁度いいわ。この官兵衛の服、押し入れの行李こうりに仕舞っておいてくださる?」


「は、はい!」


 姑はついでと言わんばかりにミチへ官兵衛の季節外れになった服を預ける。ミチはすぐに押し入れを開け、上半身を突っ込んで葛籠を取り出した。丁寧に大きな服を小さく折りたたみ、仕舞い込む。そして奥へそれを押入れの奥へ収めようとしたその時。


「あいたっ、」


 ミチは仕切り板に頭を強かに打ち付けた。ガタン、と鈍い音がして押入れが揺れる。その拍子に、上段に積み上げられた荷物が崩れ落ちた。


 どんがらがっしゃんと騒がしい音が響き、更に部屋が惨状と化す。姑は頬に手を当て、呆れ顔で深いため息をついた。


 ミチはか細い声で何度も詫びながら、大慌てで片づけをする。そんな中、落下した箱の一つが、蓋が開いて転がっているのに気付いた。


 隙間からは、ボロボロと紙切れが零れ落ちている。 


「これは……?」


 ミチはそれに手を伸ばし、紙切れを拾い集めながら蓋を開いた。


「あら、これは……。懐かしい。官兵衛、こんなものを懇切丁寧に残すなんて。よっぽどこの本が好きだったのね」


 埃混じりの箱の中には、ビリビリに破り裂かれた古い雑誌が仕舞われている。もう色褪せ、原形は留めていない。


 それでも色のついた他よりも分厚い断片をかき集めれば、辛うじてそれが子供向けの読み物雑誌であることが分かった。船形帽を被った子供が戦艦の玩具を手にしているような表紙絵だろう。


 姑が後ろからそれを覗き込み、目を丸くして懐かげに声を上げた。


「官兵衛様が、本を……? それに、どうしてこのような……」


 ミチが無残に引き裂かれた紙切れを握り締め、肩を震わせる。じっと俯いたまま、少年雑誌だったものを見るミチの背中を見下ろすと、姑は少し言葉を選ぶように間を置き、静かに口を開いた。


「……あの子が十かそこらだった時の話よ。……あの時は、北国との戦に我が国が勝った頃」


 姑は頬に手を当て、首を傾げて左上を見つめる。


「陸軍よりも、海軍の活躍が大きく取り上げられていたでしょう? 教育のために読ませていた少年雑誌も、海軍の将校さんの武勇伝ばかりでね。あの子、それにすっかり影響されたのよ。新聞紙で船形帽を作って、『将来は海軍の大将になる』なんて言って……」


 ミチは小学校へ通っていた頃、休み時間に上級生の男子生徒たちが海兵の真似事をしてかけっこをしていた風景を思い出していた。手元にあるボロボロの雑誌に描かれた少年も、船を手にして勇ましく天を見つめている。


わたくしから見れば、可愛らしい憧れや遊びに過ぎなかったのだけれど……。それを御父様がご覧になって、烈火の如くお怒りになったの」


 「海兵に憧れるとは何事か」と叱責したこと。


 雑誌を破り、殴り、官兵衛もろとも夜の外へ放り出したこと。


 姑の声は淡々としていたが、その内容は重く、ミチの胸に沈んだ。


「後にも先にも、あの子が父親からあそこまで叱られたのは、あれきりでしたわ。きっと、それほど堪えたのでしょうね」


 ミチは姑の言葉を聞き、俯いて眼前に広がる惨状を噛み締める。切れ端を握る手に力が籠った。


「……御義母様、」


 畳の上を手が滑り、落ちた切れ端をかき集める。手に溢れんばかりのそれを、箱の中に再び収めた。姑は、傍から見れば塵芥同然の紙切れを、まるで花弁のように愛おし気に掬い上げる様子を見下ろす。蓋までしっかりと閉めた後、ミチはゆっくりと立ち上がり、姑に向き直った。


「この部屋を片付けましたら、言いつけ通りに御遣いへ参りますわ。その途中……、寄り道をしても宜しいでしょうか? ……糊が、欲しくて」


「え、えぇ……。構わない、けれど」


 ミチの言葉に、姑は不思議そうに首を傾げる。今更この雑誌に何の用なのか、と言わんばかりの視線を跳ね除け、ミチは散らかった部屋を片付け始めた。



***



 波留日が姿を消してからどんよりと淀み切っている朝星新聞社の社屋に、今日は珍しく明るい声が響いている。日向端家の妻であるキミが上がり框に腰かけ、ヒサと共に茶と菓子を囲んで談笑をしていた。


「実際、どうなんでしょう? お腹が尖ると男児って言い伝え。おヒサさんは知っていますか?」


 キミは湯呑を両手で包み込み、揺れる水面を見つめて首を傾げる。ヒサは唸って顎に手を添えると、懐かしそうに微笑んでみせた。


「私の周りじゃああまり頼りにならなかったわ。ただ、女子は母親の美を奪うって、嫌われてたねぇ……」


 ヒサは、自分が生きてきた、絢爛の一方で殺伐としていた鳥籠世界を思い出す。しかしそのようなことを知る由もないキミは、眉を下げて自分の頬を包み込んだ。


「えぇ……? 嫌だ、私、不細工になってますか?」


 その素直で純粋なキミの姿を前に、ヒサはクスクスと声を上げて笑い飛ばしてみせる。不安そうに丸まる肩を撫で、幼子を宥めるように首を傾げた。


「キミちゃんったら、心配しすぎ。キミちゃんは可愛いし、旦那さんはどんなキミちゃんでも愛してくれる。だって考えてもご覧なさい。あの方が、自分の子を産んでくれる女を、不細工になったからって見向きもしなくなる男に見えて?」


「明彦さんはそんな方じゃありません!」


 頬を膨らませるキミにヒサは深く頷くと、膨らみが目立ち始めた腹をそっと優しく撫でる。


「じゃあ大丈夫。そんな事より、やや子が無事に生まれてくることを祈るのみ。美しさなんて、本当の愛があったら要らないの」


 ヒサの言葉にハッと目を見開いたキミは、柔らかく微笑んで頷いた。温かい茶を啜り、二人は身を寄せ合って緩やかな時間の流れを味わう。


 しかし、それを切り裂くようにバタバタと騒がしく玄関扉が開く音がして、ヒサはバッと顔を上げた。


「よう。おっ、今日はキミさんも一緒か。久し振りだな。体調はどうだ?」


 ボサボサと荒れ放題の髪に、薄汚れた外套。使い古した肩掛け鞄は詰め込み過ぎて型崩れを起こしている。土間に放って脱いだ革靴は土埃で汚れ、輝きを失っていた。いつも通りに軽口と気の利いた言葉を吐く様子は変わらない。しかし、その精悍な顔立ちはやつれ、目元は黒ずんでいた。髭も伸ばしっぱなしで、誰が見ても分かるほどに、疲れが全身からにじみ出ている。


「陣さん! お陰様で、悪阻も落ち着いてきました」


 キミはそれに触れず、陣佐の気持ちだけを受け取って会釈をした。陣佐は床にしゃがんで転がった革靴を揃えると、歯を見せて笑顔を浮かべる。


「そうかいそうかい。そりゃあ良かった」


 よいしょ、と膝に手を突き立ち上がったその瞬間、陣佐の身体がぐらりと揺れた。二、三歩よろめいて壁に手を突く。ドンと鈍い音がして、陣佐の体重を支えた壁がミシミシと悲鳴を上げた。インクで汚れた手は小刻みに震え、首筋からはつぅと冷や汗が流れる。


「っ、危ねぇ……」


「ねぇ陣さん、いい加減休んだ方がいいんじゃ……? このままじゃあ倒れるのも時間の問題よ……!」


 ヒサは慌てて陣佐の元へ駆け寄った。ズルズルと座り込んだ陣佐の肩を支え、最近の不摂生を激しく諫める。しかし陣佐は首を横に振り、膝を立てて立ち上がった。


「ここで休んじゃあ男が廃る。早くアイツを解放してやらなきゃならねぇ、早く、その元凶を叩かなきゃならねぇ……。俺は、俺のできることを……!」


 一歩踏み出すも、がくりと膝が笑ってしまう。倒れ込んだ弾みで、肩掛け鞄の緩んでいた金具が外れて中身がこぼれ出た。所狭しと文字が書き殴られた紙がバサバサと床に広がる。一見真っ黒と見紛いそうなそれに、ヒサは思わずギョッと目を剥いた。


「あと少し、あと少しなんだ……。これを纏めて……」


 陣佐はヒサの手からそれを奪い取ると乱暴に鞄の中へ押し込み、身体を引き摺りながら階段を踏みしめていく。


「陣さん……」


 ヒサとキミはその満身創痍な後ろ姿を見送ることしかできず、ただ祈るように手を握り締めた。




 合図もせずに陣佐が編集部へ踏み入れば、原稿用紙に埋もれ、取り憑かれた様に文字を綴る雷蔵が息をしている。


 いつか波留日に撫でられ、結わえて貰っていた雷蔵の髪はその影もなく、ボサボサに荒れ果てていた。


「よぉ……。原稿の出来はどうですかァ、達川先生ェ」


 陣佐は外套も背広もそのまま、波留日の定位置であったソファに倒れ込む。ギシリと床板が軋んで悲鳴を上げた。


「足りない……」


 ぽつりと零れ出る声は、掠れてまるで生気がない。


「足りない! 何もかも!」


 雷蔵は癇癪を起こして文机の上にある紙やペンを薙ぎ払った。バサバサと紙束が宙を舞い、インクの瓶が畳に落ちて黒い液体がじわりと染み渡る。陣佐は重い身体に鞭打ち、鞄から手拭を取り出してそこへ押し付けた。白い手拭がみるみるうちに黒く染まっていく。


「心が滅茶苦茶で、波留日に教えてもらったことが何一つとして出来ない……!」


 張り詰めていた糸が切れ、抱えたものが決壊したのか、歯の根が合わないのかカタカタ震えたまま、雷蔵は頭を掻きむしって悲痛な声を上げた。目からはボロボロと限界だと言わんばかりに大粒の涙が零れ出て、原稿用紙に染みを作る。


「波留日があんな目に遭ったのに、あの時、俺は何もできなかった……! 波留日がこの瞬間、今も、何をされているか分からないのに! 俺は! 一体……何をしているんだ……! こんな事をしている場合じゃ、」


「書け。それがお前のやるべきことだ」


 紙を滅茶苦茶に握り締めて項垂れる雷蔵の肩を掴み、陣佐は無理矢理顔を上げさせた。インクに汚れた手のまま雷蔵に触れ、着物へ血のように黒が移る。


 雷蔵はその言葉に目を見開くと、陣佐の顔を見上げた。自分と同じようなボロボロの姿に思わず息を呑む。いつも余裕綽々で頼もしい陣佐の、ここまで疲れ果てた姿を目の当たりにするのは初めてだった。


 陣佐は歯を食いしばって雷蔵の薄い肩を握り締める。ギリギリと骨が軋む感覚に、雷蔵は顔を顰めながらも前を向いた。


「分かってる。お前が無力感を感じるのは痛いほどに。でもな、この件に関して、お前ができることは何もない。波留日だけが囚われたのには向こうの事情がある。お前は波留日に救われたんだ。……波留日と鷺坂は俺が何とかする。それが俺のできること、やるべきことだ」


 陣佐は雷蔵がなぎ倒して床に転がったペンを拾い、雷蔵の手に握らせる。ゴツゴツとした逞しく大きな手が、華奢な手を包み込んだ。


「お前ができること、やるべきことは、波留日の願いを叶えること。鷺坂の圧力に屈せず書き続けることだ。……いいか、あと少しだ。あと少しで鷺坂の牙城を崩す。波留日も取り戻す。お前はどんと構えていろ。それが鷺坂の脅威になる」


 雷蔵は陣佐の手の中でゆっくりと拳を握り締めると、涙でドロドロになった顔をそのままに鼻を啜って深く頷く。陣佐も、再び雷蔵の瞳に生気が戻ってきたのを確認し、少しばかり頬を緩めて首を縦に振った。


 荒れ放題になった雷蔵の頭をポンポンと撫でつける。雷蔵の纏う、黒く鬱屈とした雰囲気がゆるりと和らいだ。


「陣さん! 電話よ!」


 階下からベルがけたたましくなる音と、次いでヒサの呼ぶ声が響く。陣佐は膝に手をつきゆっくりと立ち上がると、乱れた髪をかき上げて目を細めた。


「……類だな。何か掴んだか」


 肩掛け鞄に手を突っ込み、手帳とペンを取り出す。そして先程までふらついていたとは思えぬ足取りで階段を駆け下りていった。

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