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懐古と悔いと迫る波。 下

 東京近郊の閑静な住宅街。その一角に佇む、佐伯と表札の掛かった屋敷の廊下では、ミチが姑と共に床を拭き、箒をせっせと動かしていた。


「今日は官兵衛とその御友人がいらっしゃいますから、いつもより念入りに」


 姑は箒を握った手を止め、ミチの様子を見下ろして声を掛ける。


「はい、御義母様! 精が出ますわ!」


 ミチは明るく返事をすると、床に跪いて水拭きをする力をより一層強くした。タライに張った水に雑巾を浸して洗う。その雑巾を絞る所作の力強さを見やると、姑は割烹着の裾で埃っぽくなった手を拭った。


「掃除が終わりましたら次は夕餉の仕度です。誇り高き務めに邁進する佐伯の男達を支え、家を守るのが、わたくし達佐伯の女の役目」


 ミチはよい返事をして立ち上がり、タライを片付けて台所へ向かう準備を始める。


「最近とても家事に精を出していますね。素晴らしい心掛けです」


 手を洗い、大根の皮を剥き始めた姑がミチへ話し掛けた。かまどに火を点けるための薪を運んでいたミチは、眉を下げて肩をすくめ、笑顔を作ってみせる。


(手を動かしていないと日々是好日の皆様が心配でならないなんて言えませんことよ、御義母様……)


 団扇で風を送り込みつつ、ミチは口が裂けても言えないことを心の中で独り言ちた。


 日々是好日の三月号が発売されて数日。ミチの心の中は、愛する文芸誌を突如襲った危機への心配で淀みきっていた。ミチはそれを隠し、いつも通りを装う。



 日が傾き始めた頃、玄関の方から軍靴の硬い足音が響いた。煮物の味見をしていたミチは慌ててお玉と小皿を傍らに置き、パタパタと小走りで玄関へ駆け寄る。駐屯地が近いとはいえ、若い将校は常に任務や演習に追われて非常に多忙。故にミチが夫である官兵衛の顔を見るのは、本当に久し振りのことであった。


「官兵衛様、お帰りなさいませ。眞田様も、お久しゅう御座います」


 玄関先へ顔を出して主人を出迎えれば、外套と軍帽を脱ぎ、軍靴の紐を解いていた二人の若い男が顔を上げる。


「只今帰った、ミチ。元気にしていたか」


「よう、若奥様……」


 官兵衛と勇次郎は、畳んだ外套をミチに手渡して屋敷へ上がり込んだ。そんな二人をにこやかに迎え入れるミチの顔を、勇次郎は直視することができずに歯切れの悪い挨拶をする。官兵衛はそれに気付いたのか気付いてないのか、ミチから見えないように勇次郎を睨み、「余計な事をするな、言うな」と釘を刺した。


 一方のミチは努めて明るく振舞い、にこやかな笑顔を浮かべる。その張り付けた笑顔の口元が不自然に震え、前歯が下唇を小さく噛んだ。


(いけない……眞田様を見ると文学のことを思い出してしまうわ。しっかりなさい、ミチ。久し振りに官兵衛様と会うのですから、気持ちが沈んでいるなんて悟られては……)


「夕餉をご用意いたしますので、少々お待ちくださいませ」


 ミチは二人の外套と軍帽を片付けると足早で台所へ向かう。膳には茶碗と、煮物の皿、漬物の皿、御猪口と徳利。倒さぬよう慎重にそれを座敷へ運んだ。


 官兵衛と勇次郎が座布団の上に胡坐を掻く横で、ミチは徳利を傾けてそっと日本酒を御猪口に注ぐ。


「どうぞごゆっくり」


「ありがとう。おっ、この煮物は若奥様が? ……うん! 旨い!」


 勇次郎が早速煮物に箸を伸ばし、良く煮込まれた芋を口に放り込んだ。醤油の独特な香ばしい風味と、昆布や鰹の繊細な出汁の旨味が口の中に満ち溢れる。芋も程よい柔らかさで、ほのかな甘みと粘り気が食べ応えを作っていた。気付けば人参や蓮根へ箸が勝手に動く。ミチは旨い旨いと煮物を掻き込む勇次郎に頭を下げた。


「ありがとうございます。御義母様に作り方を教わりながら作りましたの。官兵衛様、お味の方はいかがでしょうか?」


「……旨い。よくできている」


 無骨で生真面目な官兵衛からの誉め言葉に、ミチは耳の端まで赤くなってはにかむ。二人の間に、初々しく気恥ずかしい空気が流れた。


「ミチさん、膳の御用意が終わりましたら此方へ。まだ御仕事がありますことよ」


「は、はい! 御義母様! ただ今!」


 座敷の襖が僅かに開き、姑が顔を出す。ミチは慌てて返事をすると、てきぱきと杓文字を片付けた。


「では、わたくしはこれで。夕餉が終わりましたら御風呂の支度を致しますので、御声がけください」


 そして洗練された所作で音もなく座敷をそっと去る。


「御母堂に相当仕込まれているなぁ」


 ひらひらと手を振ってミチを見送った勇次郎は、よく出汁の取れた味噌汁に舌鼓を打ちながらぽつりと呟いた。


「我が家の選んだ娘だ。その能力は買っていると聞く」


 官兵衛はさも当然というように言い切ると、人参に箸を伸ばす。勇次郎はふぅんと気のない相槌を打ち、徳利を傾けた。



***



「……風呂、御馳走さん」


「あぁ」


 浴衣に着替え、濡れ髪を拭く勇次郎が縁側で晩酌をする官兵衛の隣に腰を下ろす。空は本来ならば朧月夜の季節であるが、今宵は生憎の曇り空。夜闇が世界を支配していた。


 空気も湿ってすっきりせず、この様子では明日は雨が降るかもしれない。勇次郎は官兵衛の手から徳利を奪い、空いていたもう一つの猪口へ酒を注ぐ。


「折角の休みについて来ちまって言うのもなんだが、奥方のところへ行かなくてもいいのか?」


「そこまで気を回される筋合いはない。様子を見たらもう寝ていた。今行っても邪魔をするだけだ」


「そうか。野暮なことを言った」


 官兵衛は自分の猪口に残った酒をぐいと煽り、溜息交じりに勇次郎を睨んだ。勇次郎はおぉ怖いと肩をすくめる。その軟派で軽率な雰囲気を前に官兵衛は眉間に皺を寄せ、暗い縁側へ視線を移した。


「……というより、気まずいというのが正しいか?」


 普段より一段低い勇次郎の声が空気を震わせ、猪口を持つ官兵衛の手が止まる。


「お前だって迷っているんじゃないのか」


 勇次郎の目が真っ直ぐに官兵衛を射抜いた。風呂上がりで気分のいい空気を自ら切り裂き、勇次郎は官兵衛に剣を刺していく。

 

「俺は、命令に従うまで。それが軍人に最も求められることだ」


「またこのやり取りだ。堂々巡りはもう飽きた」


 毅然とした模範解答を一蹴し、官兵衛は縁側に足を投げ出した。鍛錬で傷のついた素肌が浴衣の裾から現れ、夜闇の元に晒される。


「奥方のことを考えたらどうだ? 自分の愛するものが、人が理不尽な目に遭っているのだぞ」


「何度も同じ話をするのはお前もだ。ミチに関しては、これを機に彼奴らから離れてくれた方がいい」


 ミチを話題に出して攻め方を変えた勇次郎であったが、それも織り込み済みであったのか取り付く島もない。官兵衛が放つ言葉は巡り巡って同じように文芸を愛する勇次郎にも深く刺さる。思わず勇次郎は勢いよく身を乗り出し、官兵衛を鋭い目つきで睨めつけた。


「それはあの子が決めることだ。いつも俺がお前の家に来ると、楽しそうに文芸の話をするあの子が今日はだんまりだ。それが何を意味するか、分からない訳じゃなかろうに」


「文学など、物語など、ありもしないことを見せられ、なれもしない他人の生を見せられるような、無駄なものじゃないか」


 勇次郎は官兵衛の頑なな態度を責め立てつつ、語気を強めて訴えかける。しかし官兵衛は首を横に振ると、胡坐を掻いた膝の上で浴衣を握りしめながら、まるで自分に言い聞かせるように吐き捨てた。


「無駄なものか。それがいいのではないか。自分が体験できないものを、世界を、文字と想像を通じて味わい、夢を見る。それが文学の醍醐味じゃないのか」


「それが俺には理解できない」


 勇次郎が何とか説得しようと訴えかけるが、あえなく官兵衛に一蹴されてしまう。暖簾に腕押しであると悟った勇次郎は、一度姿勢を正して縁側に座り直すと、溜息をついて項垂れた。


「お前の文学に対する考えは分かった。否定もしない。人の考えってのは様々だからな。……その私情が、妻が、今の任務に頑なになる理由だな?」


 官兵衛は口を真一文字に引き結んで何も言わない。勇次郎は乾き始めた濡れ髪をぐしゃぐしゃと掻き、体の向きを変え、改めて官兵衛と向き合う。


「敢えて言うぞ。奥方の表情は、お前に煮物を褒められた時より、土江麻美として朝星新聞社の面子と話していた時の方が輝いていた」


 鉄面皮のように無表情だった官兵衛の目が僅かに見開かれた。気付きたくなかったことを無理矢理突きつけられ、苛立ちが募る。


「それがどうしたというのだ。嫁に来ても、趣味の読書や執筆を続けさせてやるだけ、我が家は十分……」


「橘先生を捕え、あの子の拠り所を奪っておいて、どの口が言うんだ」


 勇次郎は官兵衛の言葉を遮り、自分達の心に重くのしかかる核心を突いた。官兵衛は鬱陶しそうに息を吐くと、膝を立てて勇次郎に詰め寄り、浴衣の襟に掴みかかって低く唸るような声を上げる。


「橘波留日があの件を飲むまで、こちらが身柄を持つことは変わらない。命令には従う」


「あの橘先生の身体を見てもか? 俺達が何をしているのか見るべきだ。俺はもう、これ以上堪えられる気がしない……!」


 勇次郎は官兵衛の手首を掴み、爪を立てんばかりに強く握り締めた。悲痛な叫びは掠れて上擦り、その目はじっと揺れて伏せられる。一触即発の張り詰めた空気が二人を包んだ。肩を揺らす荒い息だけが響く。その刹那。


 カサリ。


 裸足が畳を踏む小さな音がして二人は弾かれるように顔を上げた。


「官兵衛様、眞田様……?」


 震える手で柱を掴み、浴衣を纏った佐伯ミチが必死にその身を立たせているではないか。何故気付けなかった、軍人ともあろう者が。官兵衛と勇次郎は身体を強張らせて動けないまま、顔面蒼白のミチを凝視する。


「波留日先生に何かあったのですか? 日々是好日に、何をなさったのですか?」


 覚束ない足取りで歩み寄るにつれ、ミチの体内には怒りが少しずつ沈殿し、目が泥のように淀んでいった。


「あ……はは、」


 このまま般若にでもなりそうな雰囲気のミチに気圧され、勇次郎は官兵衛の腕を放し、両手を上げて苦笑いを浮かべる。


 一方の官兵衛は、掴んでいた勇次郎の浴衣の襟から力を抜き、ゆっくりと立ち上がってミチを見下ろした。小柄な彼女からすれば、腕を組んで仁王立ちをする彼は、まるで壁のように見えるだろう。


「盗み聞きとは感心しない。一体どこから聞いて……」


「全て聞いたわけではありません。声が小さく、聞こえにくかったですから。そんなことはどうでもいいのです。何故、皆様が、日々是好日が休刊になった理由を知っているのですか? 何故、わたくしの筆名を知っているのですか? 波留日先生の身柄を持つ? 一体どういうことですの?」


 ミチの語気が二人を責め立てるようにだんだんと強まっていく。薄く小さな肩が怒り、震える。俯いた顔は夜闇に紛れ、今彼女がどのような表情をしているのか、全くもって分からなかった。

 

「いいか、ミチ、あの子供は危険だ。言葉を巧みに操り、人を惑わせ誑かす。あれは化物だ。お前だってあれ以上近付いたら……」


 官兵衛は彼女の怒りをいなすように微笑みを顔に張り付け、両手を広げて歩み寄ると、悠々とした態度で落ち着かせようと肩に手を伸ばす。


「先生は悪い人じゃないわ……! どうしてそのようなことを仰るの? 先生に、日々是好日に何をなさったの?」


 しかしミチはその手を振り払うと、声を荒げて官兵衛を睨みつけた。小動物のような威嚇を官兵衛は含み笑いで切り捨てる。


「ミチ……。お前だっておかしいと思わないのか? あの姿だぞ? あの姿で、大人顔負けの文学作品を書き、数多の人間の信頼を獲得し、文芸誌まで主宰するなど……異常だ! あり得ないことだ! 橘波留日も、周りの人間も、全員……」


「そんなこと分かっていますわ!」


 ミチは官兵衛の説得を遮り、聞きたくないという風にかぶりを振った。髪は乱れ、胸元で握られた小さな両手は強張って戦慄いている。


わたくしだって初めは信じられませんでした。でも、あの方が、わたくしの大好きな作家を大切にしてくれると仰ったから。あの方の瞳が、嘘を言っているように思えなかったから。信じたのです……!」


 畳を踏みしめ、仁王立ちになったミチは官兵衛を見上げた。睨まれるかと思い身構えた官兵衛は、妻の表情を見て息を呑む。


「貴方様の言う通り、波留日先生はきっと……神様か何か、人ならざる存在だと思いますわ。わたくしや、日々是好日で書く人達のように、何かに迷ったり、文学を心に生きたいと願う人々を繋げてくれるような……。そう思わざるを得ませんもの。でも、それでもいいの」


 ミチは、柔らかく微笑んでいた。酷く、穏やかに。しかし夫を映す目は相変わらず淀んでいる。官兵衛はその冷たさに顎を上げ、怯えたように一歩後退る。


「本当は文学なんて御好きでは無く、家の為に話を合わせていただけなのですね。それなのに……。大喜びで貴方様に趣味を語らうわたくしは、さぞ愚かに見えたでしょう」


 妻の沈んだ声に、官兵衛は力無く首を横に振った。しかし、ミチはその全てを跳ね抜けるように俯き、そっと自らの胸に手を当てる。


わたくしの人生はもう定められ、その中で過ごすだけのもの。これからも貴方様の妻としての使命を果たすのでしょう」


 ぽつりと力無く言葉を呟いた後、ミチは再び小さな足で畳を精一杯に踏みしめた。下ろした髪を振り乱し、毅然とした表情で顔を上げる。


「ですが、本だけは、誰に言われて読んだわけでも、物語を書いたわけでもありません。誰かに好かれるために読んだわけでも、文学を愛しているわけでもありません。本だけは、わたくしが純粋に憧れて一から選んで進んだ道ですの。……わたくしは、わたくしの魂に従って書くのです。それは、誰に邪魔されて良いものでは無い筈」


 官兵衛はその言葉の中に隠れた棘に顔を顰めた。反対に、ミチは強張らせていた表情を崩し、眉を下げて哀しそうな笑顔を浮かべる。


「……貴方様は、わたくしの気持ちを分かって下さっていると、勘違いしていたみたい」


「まぁまぁ、奥様。官兵衛だって貴女を苦しめようとしたわけでは……」


 冷え切って薄くなっていくような空気に耐え切れず、勇次郎は立ち上がって二人の間に割って入った。歪んだ笑顔を浮かべ、場を和ませようと二人の顔を交互に見やる。しかしミチは首を横に振った。


「その任務とやらをわたくしのためにしていたのだとしたら、それは大変な失望。わたくしのことを何も見ていらっしゃらなかったということですから。……それに、眞田様」


 名を呼ばれ、勇次郎はミチを見下ろす。少女然とした丸い大きな瞳が、毅然として勇次郎を捉えた。顔を強張らせ、冷や汗を流す情けない男の姿が映る。


わたくし、貴方様は同じ文学を嗜むものとして親近感を覚えていましたの。ですが、その結果が()()、ですか……。大変、残念ですこと」


 ミチはそう言い残すと、くるりと踵を返し寝室へと静かに去っていった。官兵衛と勇次郎は、その姿を呆然として見送り縁側に立ち尽くす。


 パツ、と庭先の葉に雫が落ちて弾ける音がした。その音は一粒、二粒と間隔を短くし、やがてザァザァと夜の静寂を塗り潰す。

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