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懐古と悔いと迫る波。 中

 狭い部屋で眠りにつき、目を覚ますを繰り返して数日。流石に手首を括られ、椅子に縛り付けられるような拘束からは解かれていたが、薄暗い部屋に持ち込まれた煎餅布団という酷遇からは逃れられない。申し訳程度の窓から差し込む朝日を数え間違えていなければ、今日は日々是好日三月号の発売日だ。波留日は、布団からゆっくり身を起こし、軋む身体を欠伸混じりに伸ばした。


「今日も、暇だなぁ……。向こうは、どうなっているかな」


 波留日は布団の上で胡坐を掻き、ひたすらに時間が経過するのを待つ。佐伯に抵抗し捕らえられたこの数日間、無駄な時間を過ごし、残された者達へ迷惑を掛けている自覚があった。しかし、何をされようと、どれだけ拘束されようと、彼らの言うことを聞くわけにはいかない。その決意だけで波留日は静かに耐え生きていた。


 恐らく彼らの部下であろう下士官が申し訳程度の朝食である茶碗の麦飯と、嫌がらせのように薄く切られたたくあんを持ってくる。彼は中の人間を見るな、話すな、目を合わせるなと言われているのか、扉を僅かに開くと、入り口の床に盆を置いて逃げるように去ってしまった。波留日は盆をに歩み寄ると持ち上げて机の上に置き、絹手袋のまま箸を握ってそれをもぐもぐと頬張る。


「……雑穀交じりの方が、馴染みがあるなぁ……」


 その質素な朝食を平らげると、波留日は掌を合わせてぽつりとぼやいた。その声は誰に聞き入れられるわけでもなく消え、波留日は手持ち無沙汰に椅子へ腰掛け、目を閉じて考え事をするように腕を組む。そして昼に近い時刻となった頃、人気の少ない空間に、カツカツと軍靴の鳴る音が二人分。波留日の鼓膜を震わせた。波留日は目を開け、鍵の掛かった唯一の扉を見つめる。


「御早う、官兵衛殿。今日もいい天気だねぇ。ほら御覧よ、窓から差す光が麗らかだよ。お、勇次郎殿も一緒だとはねぇ、珍しい」


 鍵が開いて入ってきた大柄の男に、波留日は満面の笑みを浮かべて小さな窓を指差した。官兵衛は眉間に皺を寄せ不快感を露わにしながら波留日の向かいに腰かける。片や勇次郎は苦笑いを浮かべつつ、手に持っていた折り畳み椅子を広げて官兵衛の隣に座った。


「日々是好日は、本日発売の三月号を以て無期限の休刊に入ると掲示がされた」


 官兵衛は酷く淡々とした声で波留日に告げる。波留日は思わず舌打ちをすると、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。


「陣佐め、余計なことを……」


 官兵衛は波留日の恨めしそうな様子を眺め、次いで腕を組み口を開く。


「賢明な判断だろう。あとは達川雷蔵の短編集だが……」


「それは断る。何があろうとそれだけは絶対に譲れない。それは向こうだって分かっている筈だ」


 ここに閉じ込められて幾度目かのやり取りを波留日は毅然として跳ね除けた。互いに譲らぬ規律と信条がぶつかり合い、二人はいがみ合う。狭い部屋に流れる険悪な雰囲気に耐え切れずに二人の間へ割り込んだのは勇次郎であった。まぁまぁと典型的な仲裁の台詞を吐きながら、大人げない官兵衛を落ち着かせる。


「なぁ、そんなことよりもやるべきことがあるだろうって」


「……矢張りお前はこの任には向いていない」


 官兵衛は勇次郎に宥められ、不服そうに唸った。


「どうでもいいね、そんなこと」


 勇次郎が官兵衛の小言を一蹴し、二人の間に険悪な空気が流れる。そして波留日に向き直ると、にこやかな笑顔を浮かべた。


「先生、風呂に入りましょう。もう長いこと拘束してしまっていますから。衛生観念の点としても非常に大切です」


「へぇ、大層な高待遇だね」


 波留日は腕を組み、思わぬ提案に眉を下げて笑う。勇次郎は波留日に立ち上がるよう促すと、部屋を出るよう案内した。その様子を睨みつけている官兵衛の視線に気づき、勇次郎は当てつけのように波留日に語り掛ける。


「先生はまだ罪を犯しているわけではありませんので。俺が上官に交渉し、許可を頂きました。この拘束自体が秘匿されているため、士官の浴場を特別に案内します。軍規違反となりますが、この一部始終が内密な特例ですので」


「ありがとう、勇次郎」


 波留日は決まりに従って手錠を掛けられ、その顔を隠すために布を被せられると、久し振りに部屋の外を出た。視界は布で覆われているため、足元と、肩を掴む勇次郎の手だけが頼りだ。人気が少ない時間や場所を狙っているのか、軍靴の音は始終二人分。波留日は無駄な抵抗をせずに二人に従う。



 点検中と札の掛かった小さな士官用の浴室は、下士官が使う芋洗いのような荒々しいものとは異なっていた。布を取り除かれた波留日は、暫くその眩しさに目を瞬かせると、見慣れぬ光景にキョロキョロと辺りを見渡す。


「今の衣服は洗濯します。不便ですが、乾くまで私の服を着て、袖や裾を捲って下さい。あと、監視はつきますから。そこはご不便をお掛けします」


 波留日は勇次郎の言葉に一度ぎょっと目を剥いた。シャツのボタンに伸ばした手が、躊躇うように宙を彷徨う。しかし、白かったシャツは薄汚れ、白い肌もくすみ、絹糸のような髪も既になりを潜めてしまっていた。勇次郎の言うように、これ以上は衛生上宜しくない。波留日はややあって諦めたように肩を落として頷いた。


 彷徨っていた絹手袋の手がシャツのボタンを摘まみ、器用にプチプチと外していく。白く細い、少年然とした未熟な体躯が姿を現した。体格に優れた大人の男達で構成されたこの空間であまりにも不釣り合いだ。厳しい監視に混じる、物珍しいものを見る好奇の目線に、波留日は小さくため息をつく。次いで、波留日は絹手袋の指先を噛み、するりと手から引き抜いた。


「おい待て、何だその傷は」


 官兵衛が声を上げる。そして波留日の腕に手を伸ばして掴んだ。波留日は無理に曲げられる腕の関節に顔を歪める。しかし、官兵衛と勇次郎の二人が釘付けになっていたのは、波留日の苦悶の表情ではなく、隠されていた彼の指先だった。頬や腹、背を包むような滑らかな白い肌ではなく、醜く赤く爛れた皮膚が彼の指先を蝕んでいるではないか。


 波留日は驚き狼狽える二人を前に手を振り払うと、何を今更と呆れたように溜息をつく。もう片方である左手の手袋を脱ぎ、ズボンにも手を掛けた。自然と二人の視線は波留日の左手に注がれるが、その指先は白く美しいままだ。


「見たらわかるだろう、爛れているんだよ。これは拘束される前からあったものだし、見た目ほど痛むわけじゃない」


 その視線があまりにも監視の域を超えて煩かったのか、波留日は面倒臭そうに右手を二人の前に突き出して見せる。それは酷い火傷のような傷の様相をしていた。皮膚は痛々しく爛れて引き攣っている。


「だとしてもこれは……治療はしているのですか?」


「しても無駄だからしない。君達も無視していいよ」


 勇次郎は突き出された波留日の手を取り、指先をまじまじと見た。見れば見るほど尋常ではないその傷に、痛みを想像して顔が歪む。


「でも、右手って、先生の利き手じゃ……」


「ペンは握れるし、文字も書ける。問題ない」


 しかし波留日は何ともないというように勇次郎の手を振り払うと、浴室の引き戸へ手を掛けた。ペタペタと床を歩く裸足の音も、その背丈も、痩躯の身体も、何もかもが未熟な少年の姿であるにもかかわらず、その背中はこちらが圧倒されるほどに大きい。


「お、俺、先生の服を洗って来る」


「あ、あぁ……」


 勇次郎は脱衣所に散らばった波留日の衣服をかき集め、部屋を飛び出してしまう。官兵衛も呆然と立ち尽くして虚ろな返事を返した。


 静まり返った脱衣所には、波留日が浴室で湯を流す音だけが漏れ聞こえる。



 ***



 春の夜の花街を、霞んでぼんやりとした月が見下している。夢のような世界と現実を隔てる大門を潜り、一人帰路につく男が一人。


「よぉ、やぶさか


「……アンタらは、」


 口元の化粧が取れずに四苦八苦し、手拭でゴシゴシと顔を擦りながら歩く男を呼び止める声。手拭を襟元へ押し込み、吝類やぶさかるいは、自分の前に躍り出た二つの影にじっと腰を落として構える。


「そう身構えるな。警告は感謝しているんだぜ。お陰で偕成出版との繋がりを強くする時間を作れた」


 背広の良く似合う大男――半間陣佐が吸い終わった煙草を地面に落として踏み潰した。その隣では、達川雷蔵がじっと地面を踏みしめて類を見ている。


「……申し訳ない。ワシも警戒されて結局動けんかったんじゃ、」


 類はじりじりと後退り、自分を射抜く四つの瞳を見つめ返した。こめかみに白粉混じりの冷や汗が伝う。


「謝るのはまだ早ぇ」


 獲物を狩るような目をしていた陣佐が、弁明しようと口を開く類を止めた。その気迫に、類は口を噤み、再び一歩後退る。陣佐は逃がさんと言わんばかりに背広の胸ポケットから万年筆を取り出し、その切っ先を類へ向けた。


「お前には協力してもらうぞ、ペンによって成す正義のために。今から俺達は……鷺坂の牙城を崩し、波留日を救う」


「類、もしも申し訳ないと思っているのだったら協力して欲しい」


 二人の言葉に類は息を呑む。そして今にも襲い掛からんとにじり寄る陣佐を、類は慌てて制止した。両手を前に突き出し、待てと叫ぶ。


「その話を此処でするんは危険すぎる。……大体、あんなことがあったのに何でワシがアンタらの所に行けんかったか考えて欲しいんじゃ」


 そう言って類はちらりと自らの後方を見るよう目で訴えた。陣佐と雷蔵が促されるがまま類の後ろを見やれば、大門の影に一人の書生がこちらを窺っているではないか。陣佐と雷蔵は顔を見合わせて類の次の言葉を待つ。


「ワシは今から、アンタらとワシについた監視から逃げる。そうじゃな……。雷蔵、何時ぞや腹割って話した場所で落ち合おう」


 夜闇に紛れて消えてしまいそうな程小さい声で類はそう呟くと、くるりと踵を返して下駄を鳴らしながら走り去ってしまった。


「おい! 待て! っ、雷蔵……! 何だ、お前と類が落ち合った場所ってのは!」


 類を見張っていた書生は慌てて類を追い掛ける。片や陣佐は膝を打って怒鳴り声を上げた。雷蔵は陣佐に急かされてその顔に苦笑いを浮かべ、酷く気まずそうに口を開く。


「そ、その……玉ノ井の、茶屋、ですね。自棄酒して潰れていた所を、運び込んでくれたことがありまして」


「雷蔵が一人で玉ノ井……。はぁ、説教は後にして反対側から行くぞ。あのまま類を逃がす訳には行かねぇんだ」


 額に手を当て呆れる陣佐は、雷蔵の頭を拳骨でこつんと打つと、案内を頼むと言って雷蔵を先導者にした。雷蔵も酔って虚ろであった記憶を必死に手繰り寄せ、その一歩を踏み出す。




 相変わらず玉ノ井は薄暗く、自らの魂と身体を削って生きる女たちが息づいている。饐えた臭いと酒の香。一歩路地裏へ入れば、特有の空気が迷い込んだ人間を包んだ。


「……もし、その提案を断るって言うたらどうするんじゃ。波留日を解放してやりたいのは山々じゃが……。ワシじゃって、金や人脈が作れんくなるんは都合が悪いんじゃ」


 上手く追っ手を撒いた類は、狭苦しく薄暗い茶屋の一室で胡坐を掻き、無事に落ち合えた陣佐と雷蔵の二人と対峙する。類が放った言葉に、陣佐は胡乱な目を向けて類を見やった。


「検閲官との癒着の他に、お前の存在そのものの不正も暴く。お前さんの戸籍……あれはまるで急に人間が生えてきたみてぇな、筋の通らない設定だったなァ。遊郭育ちの身分が曖昧なんてのはよくある話だが、それにしたってあの記録はおかしい。誰が見てもそう思うさ。そんなものが公になれば、今までのらりくらりと誤魔化してきたお前も、無事では済まねぇな。鷺坂が裏口を作ってお前さんの検閲を甘くしていた工作も、癒着の補強になるなぁ」


「はは……、この短期間でそこまで調べたんか。……脱帽ものじゃのぅ」


 類は乾いた笑い声を漏らし、膝を打って胡坐を組み直す。陣佐は煙草を咥え直し、苛立ち混じりに言葉を吐いて捨てた。


「短期間? 波留日が拘束されてから何日経っていると思っているんだ。むしろ遅すぎるくらいだ。……お前は協力してくれると思っていたが保険でな。花街の出ってことで何か掘り出せると思って調べてみりゃぁ、思いのほか上玉が出てきたってわけだ」


「……とは言われても、のぅ」


 ポンポンと胡坐を掻いた膝の上、陣佐は手帳を打ち付けて類の返事を待つ。類は胡坐を掻いた膝の上で、拳を握り下を向いた。静寂が空間を支配する。


「……その金と人脈で何がしたいんだ。お前が舞うのも、書くのも、金のためだといつも言っていたじゃないか」


 それを切り裂いたのは雷蔵だった。眼鏡の奥の双眼が、類の青み掛かった瞳を捉える。静かな声音と訴えかけるような雷蔵の眼に、類は観念したように天井を仰いだ。


「……行きたい場所があるんじゃ。外国じゃ。そのために金も、身分も、行くための伝手もいる。向こうの世界を見て、暮らしていけるような方法が必要なんじゃ」


「意外だな。ちゃらんぽらんなお前のことだ、一生遊んで暮らしたいとか、女を侍らせたいとか、そういうのかと思ったぜ」


 陣佐が揶揄うように眉を上げ、面白がって身を乗り出す。煩そうに陣佐を睨みつけた類は、再びどっかりと胡坐を掻いて溜息をついた。


「ワシは身分も無ければ金もない存在じゃった。そんな中でワシの舞を気に入り、拾って根回ししてくれたんが先生じゃ。幾ら外道の意地悪親父とはいえ、ワシが先生の所に居続ける限り、金や、外国へ伝手のある人脈が舞い込んで来る。もし協力して欲しいんじゃったら、ワシが先生を裏切るに値する価値あるものを交渉材料とせぇ。雷蔵は知っておるじゃろ、ワシは利益が最優先じゃ。人情も大切じゃが、流石に今回はそれを超えとる」


 類の声音には、迷いとも焦燥ともつかぬ揺らぎが滲む。このまま押せば行けるかもしれない。解決の糸口を探るように、陣佐と雷蔵は俯いて唸り、考え込んだ。


「外国……。あ、」


 重苦しい静寂が空気を支配する中、雷蔵が小さく声を上げる。何かを閃いたように、その瞳に微かな光が宿った。


「外国……、あぁ!」


 陣佐も雷蔵の目配せでようやく合点がいったらしい。手を打ち、唇の端を上げ、悪いことを思いついた小僧のように、類へ笑顔を向ける。


「俺達に協力すれば、いい人脈を紹介してやる」

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