手紙と傷とすれ違い。下
漸く緩んだ部屋の空気が、再び一瞬にして凍り付く。音を響かせる主は、あっという間に二階へ乗り込むと、勢いよく襖を開け放った。
「寛二、どうした!」
陣佐が息を切らして咳き込む寛二に駆け寄り、背を擦りながら声を掛ける。秋も終わり冬に差し掛かっているにもかかわらず、湯気が出そうな程に寛二の身体は汗にまみれていた。
「お、俺っ、少し前から、頑張って難しい文芸誌を読むようにするって言っただろ……? それでさ、杜若の発売が、今日だったから、読んでたんだ……! そしたらっ……! これっ……!」
寛二が懐から杜若の十一月号を取り出すと、波留日はそれを引ったくり、血眼になって頁を捲る。
「っ……!」
隣で身を屈め、波留日が動きを止めた頁を覗き込んだ陣佐は、ほぉ……と引き攣った笑顔を浮かべた。
「なになに……? 『今後、節操無ク原稿ヲ載セルヤフナ誌ニ原稿ヲ寄セタ者ハ、杜若ニ載セルニ値セズ。文士ヲ志ス者ハ、注意サレタシ』……。か、これは……大きく出られたな」
この声明は名指しでこそないものの、日々是好日のことを指している事は火を見るよりも明らかであった。波留日の大きな瞳がぐらぐらと揺らぐ。漸く血の気が戻ってきた雷蔵の顔が、再び蒼白に染まった。
「そんな事を書かれたら原稿を届ける人間が減っちまうんじゃないのか? 俺は日々是好日が好きだから出すけどさぁ! 一体何が気に入らなくて日々是好日を……!」
寛二が怒声を上げて苛立ちを顕わにする。ダンダンと古びた床を踏み馴らし、ミシミシと部屋全体が揺れた。雷蔵の薄い唇から、小さく浅い呼吸の音が響く。
「そ、それって……」
「警告書も相まって、まるで俺達を潰すような布陣だなァ。文芸界において杜若の権威は……言わずもがな、だもんなァ」
雷蔵の上げた弱々しい声に、陣佐は無理矢理笑うような上ずった声を上げた。雷蔵は、あぁと情けない声を上げてその場に座り込んでしまう。そんな雷蔵に手を貸しつつ、陣佐はある違和感に気付いた。普段ならば慌てて雷蔵の元へ駆け寄りそうな人間の筆頭である波留日が静かだ。波留日の様子を横目で見れば、杜若の頁を持つ小さな手が、強く握り締められてブルブルと震えている。陣佐は一度大きなため息をつき、寛二の肩に手を置いた。
「……寛二、教えてくれてありがとうな。今から俺達は作戦会議をする。色々決まったら報せるから外してくれねぇか、あと、おヒサさんに、原稿を取り下げたいって客が来たら名前と筆名、あと題名を控えて欲しいと頼んでおいてくれ」
「わ、分かった……」
陣佐の言葉に寛二はこくこくと何度も頷くと、額に浮かんだ汗を拭って階段を駆け降りていく。それを見送った陣佐は、肩を怒らせて俯く波留日に声を掛けて顔を覗き込んだ。
「波留、波留、大丈夫か」
ドンと大きな音が響き、蒼白の雷蔵は驚いてびくりと肩を震わせる。その音は、波留日がその震える手で、怒りに任せて乱暴に壁を殴りつける音だった。
「……だ、」
「おい、波留……」
「鷺坂だ! こんな事、アイツにしかできない! あの卑怯者めが!」
少年特有の甲高い声が怒りを顕わにして上ずる。波留日はその美しい顔を歪め、目を吊り上げてギリギリと歯を食い縛り、まるで鬼神の如き表情を見せた。陣佐もマッチを取り出すと、何度か点火に失敗しながら煙草に火を点けて煙を吐く。
「……そうだな。俺も初手は嫌がらせの手紙やら編集部に変な原稿を送りつけるやら、社屋に悪戯描きやゴミを投げ入れるくらいだと思っていたぜ。まさか、ここまで本気だとは……」
乾いた笑い声を上げる陣佐は、誤って煙を吸い込み過ぎたせいで思わず咽てケホケホと咳をした。煙草を持つ指先が微かに震えている。
「市井の文学好きからの原稿に依存する日々是好日にとって、これは警告書よりも酷い仕打ちだ……。最悪の事態、原稿が少なすぎて本にならない可能性だって……ここまで育てたのに! これからなのに! あんな臆病な卑怯者に、何でこんな……!」
波留日は鷺坂の下劣な大仕掛けに、足を踏み鳴らし感情を発露させた。そしてその最中、ハッとして目を見開く。
「杜若が吝類を野放しにしていたのは、アイツらが適当だったからじゃないんだ……! 野放しが許される環境だったからなんだ……! 鷺坂は検閲と繋がっていたんだよ! 莫迦だ、どうしてそれに気付かなかったんだ! クソっ! クソッ!」
波留日は何度も何度も古びた壁に拳を打ち付けた。白く陶器のような柔肌がみるみるうちに赤く傷付き、皮が捲れて血が滲む。雷蔵は取り乱す波留日を前にして、浅い呼吸の最中に掠れた声を上げた。
「波留日、止めてくれ! ……俺の、俺の、せいだよな」
波留日はヒュッと息を呑んで顔を上げる。雷蔵はカタカタと歯の根が合わぬ程に震え、唇までも不健康な紫色を呈し始めているではないか。
「俺が、文壇を追い出されたのに、みっともなく書き続けたから……!」
「それは違う! 違うよ……雷蔵。……お願いだからそんな事言わないでおくれよ」
波留日は語気を強めて雷蔵の言葉を否定すると、雷蔵の前でそっと跪いてみせた。そうして震える雷蔵の字書きの手を、もう一度傷付いた掌で包み込む。
「僕はそれを知った後でも君を手放したかい? そんな事は無い筈だよ。僕は君を文豪にするんだ。その道中にどんな障壁があったって構わない。何だってする」
「……波留日?」
「言っただろう? 見捨てはしないって」
そう言って笑ってみせれば、雷蔵の浅く早い呼吸は徐々に収まり、顔にも血の気が戻ってくる。それを確認した波留日はすっくと立ちあがり、窓際で煙草をふかしていた陣佐に向き直った。
「……陣佐、頼んでおいた手筈はどれだけ進んでいるんだっけ?」
波留日の声は、雷蔵に語り掛けるような穏やかな声ではなく、先程の怒りに狂うような金切り声でもなく、低く酷く冷静な声だった。陣佐は高く澄み切った空へ一度煙を吐いてから、灰皿に煙草を押し付ける。
「鎌田に頼んで連載の移動先は確保してもらっている。文藝礼讃とまではいかないが偕成の文芸誌だ」
「上出来だ。今すぐそっちに連絡して」
雷蔵は二人の間で繰り広げられる会話を理解できず、戸惑いながら離れゆく波留日の手を掴んだ。
「お、おい……波留日、何言って……」
波留日はその手を取ると、文机の上に転がっていた雷蔵のペンを握らせる。
「雷蔵、雷蔵はこれからは偕成で書くんだ。僕があの男の邸宅へ招かれてから、対策は講じておいた。日々是好日は……数か月様子を見た後、場合によっては廃刊にするかもしれないけれど……。大丈夫、君をもっと安全な場所へ……」
「……どういうことだ。偕成……? 廃刊……? は……?」
「言った通りだよ。君は変わらず書き続けられる。何の気兼ねも無く、ね」
狼狽える雷蔵とは対照的に、波留日は柔らかい笑顔と共にそう言葉を放つと、文机の上の書類を纏め始めた。
「何だよ、それ……。偕成に行ったら、別の編集がつくんじゃないのか? 日々是好日を無くすって……皆は……波留日はどうなるんだ、」
「そうだね、偕成に行ったら僕も若輩者でただの一作家だ。正体を明かしていないし、発言力なんて無いに等しいね。でも大丈夫、偕成なら……」
波留日は雷蔵の狼狽も想定の範囲内という風に、駄々をこねる子をあやす親の如くあしらってみせる。
そうして眉を下げて唇を震わせる雷蔵を横目に、迷いのない手つきで素早く、雷蔵が書きかけていた原稿を纏め始めた。雷蔵は何も受け入れられないままに時間と波留日に置いていかれる感覚に襲われ、形容しがたい怒りと悲しみと強い不安を覚える。
この取り繕うような明るい声と、何も背負わせまいとする小さな背中。それは雷蔵にとって痛いほどに見覚えがあるものだった。幼い頃に負った傷が、彼女の花魁道中で癒えたはずの傷が、再びズキズキと悲鳴を上げる。
「俺を見捨てないって言ったじゃないか!」
ツラツラと言葉を紡ぐ波留日を遮って、雷蔵は声を荒らげた。胸元の服を握り締め、俯いて丸まる肩は、怯えではなく怒りで震えている。波留日は一度目を見開いてから、そっと息を吐いて肩を竦めた。
「見捨てないよ、だってこうやって策を……」
「違う! そういうことじゃない! 波留日がいなければ、日々是好日がなければ、俺は……」
雷蔵は形になり切らない言葉を吐いて、もどかしそうに頭を振る。一方、自らが準備したことを受け入れようとしない雷蔵を前に、波留日も思わず声を荒らげた。手に持っていた紙の束を乱雑に文机に置き、ガシガシと頭を掻き乱す。
「でも、このまま僕が君を抱えていたら君は埋もれてしまう! ようやくここまで来れたのに!」
「それでも俺は日々是好日で書きたいと言った筈だ! どんなに出版社の奴が来ようと、俺がずっと断り続けた理由が、波留日には分からないというのか!」
波留日は雷蔵の叫びにハッと息を呑み、唇を噛んだ。感情を爆発させて睨み合う二人を前に、陣佐は何本目かの煙草に火をつけてパンと手を打ち鳴らす。その音に張り詰めた空気が弾け、二人は同時に陣佐の方へ視線を移した。
「波留、雷蔵、言葉を扱う人間が声を荒げちゃならねぇ。ちゃんと落ち着いて話し合え。俺は下行って寛二とおヒサさんの様子を見てくるから。……これから大変なのに仲間割れしちまったら世話ねぇよ」
陣佐はトントンと煙草の灰を落とすと、襖を開きひらひらと手を振って下へ降りていってしまった。静まり返る部屋には、互いを睨み合う雷蔵と波留日だけが残される。




