懐古と悔いと迫る波。 上
偕成出版の社屋、その屋上にて。春の陽気と肌寒い風に身を任せる着流しの男が一人、静かに天を仰いでいる。
「桑原先生、此処にいらっしゃったのですね」
彼の背後で階段へ続く扉がキィと開き、鎌田が羽織を片手に桑原の名を呼んだ。名を呼ばれた桑原は鎌田を一瞥すると、再び視線を空へ戻す。そんな彼の元へ鎌田はゆっくりと歩み寄ると、その肩に布を掛けてやり、隣で同じように天を見上げた。そろそろ青空が夕日に染められ、誰そ彼時がやってくる。
「かなり面倒な事になりましたね。まさか陣のあの電話の裏で、波留ちゃんがあんな目に遭っているとは。早く救ってやらないと」
陣佐が雷蔵の作品集出版の話を持ち帰ることができると、喜び勇んで帰っていったと思ったのも束の間のことであった。ボロボロの身なりのまま偕成出版を訪れた雷蔵の痛ましい姿に、二人はまるで冷や水を掛けられたように肝が冷える思いに襲われた。波留日を守れなかったことへの後悔と、日々是好日と自身の短編集を取引材料に波留日を連れ去られた怒りで震える雷蔵の姿は、到底見ていられるものでは無く。
慌てて女性社員に濡れ手拭と茶を出させ、応接間で顔を突き合わせた三人。日々是好日は一時休刊するというのが陣さんの判断です。と、雷蔵は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。そして次いで放たれた、その代わり短編集は死守したいという嘆願の言葉に、桑原は首を縦に振る。深々と頭を下げる雷蔵を見送り、今、桑原は社屋の屋上に上りて天を仰いでいた。
隣で煙草に火を点けた鎌田を横目に見て、桑原は徐に口を開く。
「奈津夫、小生の愚痴を聴いてはくれぬか」
その珍しく下の名を呼ぶ重々しい口調に、だらしなく背を丸める姿勢をしていた鎌田は、改めてすっと背筋を伸ばした。
「……有太夫も困ったものだ。あの子……朔ちゃんが死んでから、その信念を拗らせていると思ってはいたが、ここまでとは小生も思わなんだ」
桑原は、腕を着流しの袂にしまい、苦々しい表情を浮かべる。朔ちゃん、という聞き慣れぬ人の名を聞き、鎌田はやや時間を掛けて、早逝の天才・池田川朔時のことを懐古し呼んでいると気付いた。
「雷蔵君も、波留も、朔ちゃんの亡霊に囚われた者の被害者だ。……小生も、有太夫も、朔ちゃんのような子が、現世に執着してくれるような魅力ある世を作りたかった筈であるのにな。何を間違えてしまったのであろうか。朔ちゃんは、きっと賽の河原で小生達を嗤っているだろうよ」
肩をすくめて乾いた笑いを上げる桑原を見やり、鎌田はそっと首を傾げる。
「……お二人が、若くして池田川賞を創設するよう奔走なさったのも、文芸誌や同人誌の文化を盛り上げなさったのも、そのためですか?」
「少なくとも、小生はそう思っていた。朔ちゃんが変えた世界で、彼に憧れた者が彼を継ぐ者となりて、此の世をより良くするために。此の世を、より価値あるものにするために。しかし、有太夫は違ったみたいであるな……。朔ちゃんに囚われ過ぎていたのかも知れぬ」
桑原は鎌田の問いに対し、ゆっくりと頷いて目を伏せた。嘗て『黎明の三連星』と一括りにされた、文芸界の開拓者たちが歩んだ果ての姿に、鎌田は思わず言葉を失った。激動の時代に揉まれながら、それでも書き続けてきた男達の心情の吐露に圧倒されてしまう。
しかし、鎌田は今此処で問わねば永遠に訊けなくなるであろう疑問があることに気付いた。『黎明の三連星』の両翼を桑原と鷺坂に例えるならば、その中心を担うある人物について。
「その、先生……。池田川朔時が齢若くしてその命を自ら断ったというのは有名な話ですが……。一体何故に、彼はその生涯を閉じてしまったのでしょうか? その理由が、鷺坂の行動に影響を及ぼしているのかもしれないと思いまして……」
桑原は、首を傾げた鎌田の言葉に目を丸くし、困ったように眉を下げる。苦笑いという言葉が実によく似合う表情だ。
「……その実は、小生にも分からぬのだ。若くして才に溢れ、小生や有太夫といった、当時若手であった作家とも表立って大きな確執があったわけではない。金に困っていたわけでも、なんでもなかった。小生から見たら、朔ちゃんほど順風満帆な未来が待っている若手はいないと思っていたのだ」
桑原は肩に掛けていた羽織に袖を通し、くるりと身を回して屋上の手すりに体重を預ける。
「片や、その当人である朔ちゃんは……、出会った時から、創作への情熱に溢れる一方で、此の世や生きることに対して、とことん執着が無いように見えた。生も、死も、まるで大したことではないという風に」
池田川朔時。明治を代表する稀代の小説家。齢十六という若さで文壇に現れたと思えば、その命を断つまでの四年間で数多の傑作を遺した天才。非業の死を遂げたと語られる彼の真実に、鎌田はそっと口を噤んだ。
「彼の中では、生死の……、その境界がとても曖昧だったのであろうな。故にあの日……何の気なしに彼方の世界へ行ってみたいと思ってしまったのかもしれぬ。……一度そちらに行ったら、もう戻っては来れぬというのに。一人身軽に川へ身を投げた朔ちゃんは、呆気なく儚くなってしまった」
東の空に、夕暮れの色が滲み始めている。桑原は、そっとあの世とこの世を繋ぐ誰そ彼時の空に手を伸ばし、一度ゆっくりと息を吐いた。
「朔ちゃんの死は、その当時文芸の世界を生きていた人間達に、少なからず衝撃と悔恨を残した。有太夫もその一人だ。……そろそろ解放してやらねばならないやも知れぬな。……はは、朔ちゃんのことを話すなど、長らくしていなかったせいか。一度堰を切ると止まらなくて堪らん」
桑原は身を預けていた手すりから離れ、階下へ向かうために歩みを進める。鎌田はそれにつき従うように、彼の背筋の伸びた美しい後ろ姿を追い掛けた。
「……奈津夫、無理を言うが、陣が裏で動いていることに協力してやって欲しい。偕成の報道部も、小生が後ろに立てば言うこと聞くであろう」
桑原のために扉を開ける鎌田。桑原は屋内へ踏み入る最中、夕日の光を背負いながらぽつりと鎌田へそう呟いた。鎌田は階段を降りる『黎明の三連星』の一翼の背中を見下ろしながら、深々と頭を下げる。
「承知いたしました」
「……苦労を掛ける」
桑原の低く絞り出したような声は、階段の反響しやすい空気の中でも重く沈んで落ちていった。
***
東京の一角にある高級住宅街にて、その閑静な道を意気揚々と歩く一人の女性の姿があった。通りすがったご近所さんへ挨拶をし、愛想を振りまきながら、佐伯ミチは本屋へ向かう道のりを歩く。
「日々是好日を買って、あとは文芸礼讃も……」
ミチは今にも踊り出してしまいそうな足取りで、指折り指折り、購入する本に目星をつけていた。
それが数十分前の佐伯ミチの姿である。
そして今、佐伯ミチは、文芸誌が並ぶ棚の前で、呆然と立ち尽くしていた。
「え、そんな。どうして……」
彼女の視線は、本屋の壁に貼られていた一枚のビラへ釘付けになる。安い紙で急ごしらえに刷られたような粗末なそれに、ミチは何度も目を通して言葉を飲み込もうとした。しかし、拍動が耳元で早鐘を打つような煩さに全く以て頭が働かない。
「一体どうなさったというの。雷蔵さん、波留日先生、陣さん……」
何度目を擦っても、ビラに刷られた『日々是好日 一時休刊ノ御報セ』という字を見間違えることができない。
「原稿は受け付けるけれど、再開時期は不明、って、そんな……」
ミチは棚に並べられた日々是好日の三月号を見下ろす。
創刊当初は季刊として出していた日々是好日。主宰である橘波留日の評価と知名度が上がるにつれ、面白い文芸誌があると噂が広まるにつれ、日々是好日は分厚くなっていった。その流れは季刊から月刊になっても変わらず、雷蔵という専属の連載作家の登場でさらに日々是好日は盛況となる。筈であった。少なくともミチはそう信じていた。
しかし、今棚に並ぶ日々是好日は、数ヶ月前、後生大切に胸に抱えてもしっかり形を保てていた文芸誌と同じものとは思えぬ程に薄く、情けない姿をしているではないか。
その元凶となったのは、三大文芸誌である杜若の声明であった。権威ある者が否と唱えれば、どんなに良きものであろうと下賤に見えてしまうのだろうか。まるで蜘蛛の子を散らすように、波が引いていくかのように、寄稿者はみるみるうちに減ってしまった。
それでも残った数少ない寄稿者の一人である土江麻美こと佐伯ミチは、唇を噛み締めて杜若を睨みつけた。文芸誌売り場の一番目立つ棚に積み上げられた、質のいい紙の装丁で、読み応えのある厚みの本たち。ミチは一切それに手を伸ばさず、薄い日々是好日と文藝礼讃だけを手に取って会計へと向かった。




