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翳と祈りと発つ葉月。 下

 パン、パン、と蝉時雨の合間に手を打ち鳴らす音が響く。残暑険しい八月の中旬。街の神社は初詣やどんど焼きの賑やかな雰囲気とは離れ、木陰と共に落ち着いた空間を作っている。その穏やかな緑の中、雷蔵は一人できつく目を閉じ、神前でしきりに何かを祈っていた。彼が祈る間、木陰は太陽の動きに合わせてゆっくりとその姿を変えて行く。首筋には汗が伝い、それに誘われた蚊が彼の耳元で唸った。雷蔵はそれでも一切厭うことなく、微動だにせず、ひたすらに祈る。


「……」


 幾分か経った後、雷蔵はようやっと瞼を開き、大きく息をついた。そして深々と頭を下げて踵を返す。鳥居を潜って参道を進めば、参拝者を呼び込み捕まえる門前町が待ち構えていた。


「そこの兄ちゃん! 浮かない顔して、暑気あたりかい?」


 雷蔵は足を止め、呼び止められた声の方を向く。気のいい老婆がニヤニヤとした笑顔で手招きをしていた。雷蔵が訝し気に店を見上げれば、「薬」と看板が掛かっている。


「暑気あたりや痺れ、手足のだるさに万能な薬、あるよ?」


 その言葉に誘われるように、雷蔵はふらふらと老婆の前に立って店頭に並ぶ品々を見下ろした。波留日は今、徳檀から薬の処方を受けている。雷蔵が余所から別の薬を持ってくるというのは何処か憚られた。


 それでも何とか辺りを見回し、雷蔵は商品を物色する。そんな中、雷蔵の目に一つの薬湯が留まった。そっと手を伸ばして指差すと、雷蔵は老婆の顔を見やる。


「この薬湯は何ですか? 身体の小さな者に飲ませても問題ないですか」


「これも身体の調子を整えるものさ。そうかい、アンタじゃなくて連れの方だったかい。安心しな。多少火照って夏には合わないかもしれないが、胃腸にも負担の少ないものさ」


 消え入りそうな雷蔵の声に、老婆の態度はがめつく粗野なものから柔らかい物腰へと変わった。彼女はしわがれた手を伸ばして何袋か薬湯を引っ掴むと、雷蔵の手を取って握らせる。豆鉄砲を喰らって固まる雷蔵に、老婆はトントンと手の甲を優しく撫でて微笑んだ。


「これはお試し分にくれててやるよ。浮いた金で連れに西瓜でも買っておやり」


 老婆の視線の先には、筋向いの果物屋がある。店頭には、でっぷりと太った大きな西瓜が、ぷかぷかと呑気にタライの中に浮かんでいた。


「……いいのですか」


「そんなアンタが死にかけた面下げちゃあこっちが心配になるし、そんな奴から金は取りたかないね。連れが大事なんだろう? 見てりゃあ分かるさ」


 老婆の言葉に雷蔵は唇を噛んで頷くと、深々と頭を下げて果物屋へと足を運んだ。


 大きな西瓜は、いくら紐で縛られ持ち手を用意してもらったとはいえ、炎天下の中で持ち運ぶのは骨が折れる仕事だ。軟弱な身体の持ち主である雷蔵は、額に汗を浮かべてヒィヒィ言いながら西瓜を運んでいた。指に紐が食い込んで血流を止めている。痺れと痛みが雷蔵の仕事道具である手を襲った。


 社屋まであと半分ほどのところで、雷蔵は西瓜の重みに負けて一休みしていた。道端の腰掛けに座り、膝の上に西瓜を置いて息をつく。温くなってしまうが仕方ない。額の汗を着物の袖口で拭い、上がる息を整える。そうして道行く人々をぼんやりと眺めていた雷蔵は、数分前の自分のように大荷物を持ち、ヒィヒィ歩いている見覚えのある人物がいることに気付いた。雷蔵は目を丸くして立ち上がり、西瓜片手に歩み寄る。


「類じゃないか……なんだその荷物。出立はまだじゃないのか」


 類はびくりと肩を震わせて振り向き、その声の主が雷蔵だと知ると、にへらと眉を下げて笑顔を浮かべた。ゴシゴシと額の汗を拭って、地面に置いた鞄をパンパンと叩く。


「長旅の練習を、と思ったんじゃ。この国ともおさらばじゃし、観光するのも悪くないじゃろう? それよか、立派な西瓜じゃのう。波留日への見舞いか? 今から出かけるんじゃなかったら一緒に食べたいくらいじゃ」


 相変わらずちゃっかりしている類から西瓜を庇うように抱え、雷蔵は曇った表情を浮かべた。


「……波留日は大丈夫なのか。俺を……置いていったりしないよな。波留日の身に何が起こっているんだ」


 縋るような声に、類はポリポリと頭を掻いて煮え切らないうめき声を上げる。


「……それはワシの口からは言えん。シュヒギムってヤツらしい。ただ、雷蔵は波留日を真っ直ぐに信じてやってつかあさい。それが波留日の幸せになるじゃろう」


「……何だよそれ」


 要領を得ない類の答えに、雷蔵は唇を噛んで呟いた。どろりとした不安が、雷蔵の前にゆっくりと頭をもたげる。その口を引き結び、俯いてしまった雷蔵の肩を少し強く叩いた。


「じゃあ、ワシは行くけぇ。波留日を頼んだぞ。波留日を支えることができるんは、最後には雷蔵だけじゃ」


 その痛みに肩を押さえながら、雷蔵はヒラヒラと掌を振って歩く類の後ろ姿を睨む。指先に食い込む西瓜の紐を握り締めた音が、小さくギリリと鳴った。



***



「波留日、西瓜を買ってきたから、皆で食べよう」


 帰宅した雷蔵は、冷えた井戸水に西瓜を浸した後、ヒサや陣佐、朝星新聞社の面々に声を掛け、最後に日々是好日編集部の扉を開けた。


「やったぁ! ありがとう、雷蔵! いいね、夏だね」


 布団から半身を起こして原稿に目を通していた波留日は、顔を華やがせてよいしょ、と床に手を突く。ゆっくりと立ち上がった波留日は、雷蔵の手を借りながら右足を引き摺って階段を降り、縁側に向かった。


「おう、おヒサさんが切ってくれてたぜ、夏らしくこっち来て食おう」


 茶を入れた湯呑が並ぶ盆を持っていた陣佐が顎で縁側を示す。そこには、新聞部の若手や、珍しく足を運んでいる社長である庄衛門、そして隣家の日向端夫妻が団扇や扇子を片手に、風鈴の音に涼みながら腰かけていた。


「波留ちゃん、身体は大丈夫?」


 ゆっくりと座って息をついた波留日の隣、キミは座る位置を変えてそっとその顔を覗き込む。波留日は驚いたように目を丸くした後、その眼を細めて笑顔を浮かべる。


「うん、大丈夫だよ。キミちゃんの方こそ、大丈夫?」


「私は大丈夫。もうそろそろ、遅いくらいだから不安だけど、頑張って元気な赤ちゃんを産むね」


 キミは小さな掌で自らの大きな腹を撫でた。波留日は小さく頷くと、手を伸ばして同じようにそこへ触れる。その瞬間、ぽこんとキミの腹が波打ち、波留日は慌ててその手を引っ込めた。驚く波留日に、クスクスとキミは笑い声を上げる。


「皆さんお待たせしました。一人一切れは必ずあるから、食べたりない人はおかわりがあるわ」


 そこへ切られた西瓜が並んだ大皿を持つヒサが現れ、縁側で今か今かと待ち構える男衆へ声を掛けた。新聞部の若造達はワッと寄り集まって我先にと大きなものへ手を伸ばす。


「波留日、キミさんもどうぞ」


 雷蔵は食べやすそうな大きさの西瓜を持ってくると、波留日の隣に腰掛けた。波留日は左手の手袋の指先を噛んでするりと引き抜くと、素手で果汁を滴らせる西瓜を受け取る。


 波留日は小さな口でシャクシャクと赤い果実にかぶりつき、口に残る種を飛ばした。その距離を新聞部の若造や陣佐達は競っているのか、賑やかな声が聞こえる。


「……波留日、頬についてるぞ」


 それを見物し、笑い声を上げていた波留日の口元に、雷蔵の親指が触れた。波留日の不調を具体的に知らせていない面子が居る中で、あの右手を晒すわけには行かない。しかし西瓜は手袋をしながら食べることはできない。利き手でない左手で食べるのはどうしても不自由だ。


「西瓜は、失敗だったか。ごめん……」


 肩を落とす雷蔵に、波留日は首を振って微笑む。美味しいよ、ありがとう。そんな言葉に雷蔵は漸く小さく笑顔を見せた。


「そういえば、どこだかに面白い話があったよな。田舎者が西瓜を化物の卵と勘違いする話」


 どうやら種飛ばし大会に勝利したらしい陣佐が、何切れ目かの西瓜を齧りながら思い出したように声を上げる。


「知ってる! 不気味だから割ってしまえって地面に投げつけてさ、赤い実が出たのを見て『ほら、血ィ出して死んじまった』って言うやつでしょ?」


 波留日が顔を上げて目を輝かせた。雷蔵も顎に手を添え数秒考え込んだ後、目を細めて微笑む。


「確か、関西の方の笑い話だったと思いますよ」


 それを皮切りに民話や寓話について語り始めた三人を眺めていた明彦が、西瓜を食べる手を止め隣に座る妻とその大きな腹に向かって声を掛ける。


「朝星の人たちは皆、物知りだねぇ。この人達も、お前の誕生を、心待ちにしてくれているよ」


 キミも明彦の言葉に頬を染めて頷くと、その掌を大きな腹に沿え、ゆっくりと撫で擦った。


「早く生まれておいで。皆さんの笑顔と、物語と、知識に触れて、優しくて素敵な子におなりよ」


 二人は、文学談義を繰り広げる雷蔵達や、未だに残った数少ない西瓜で種飛ばし対決をする若手達を眺め、顔を見合わせ笑いあった。そんな二人へ、割烹着を着たヒサが歩み寄って声を掛ける。


「キミちゃん、明彦さん、そろそろ夕方だし、このまま一緒に夕餉を食べてしまったら? ご飯は賑やかな方がいいわ」


「いいのですか?」


「ありがとうございます」


 二人が頭を下げたところを見た陣佐が、ふざける若手に声を掛けて後片付けとヒサの手伝いを指示した。


 日が落ち何処か寂しい夕刻、朝星新聞社の社屋だけは賑やかな声が響いている。



***



 残暑厳しい日差しの中、横浜の港では忙しなく人々が行き交っていた。時折異人と呼ばれる海外からの客も街を歩いている。


 雷蔵達は類の出立に合わせて汽車に乗り、この港町の地を踏んでいた。珍しい光景に、雷蔵は目を見開いて辺りをキョロキョロと見渡す。遠くには、保税倉庫である赤煉瓦の大きな建物が見えた。


「流石、国際的な港町だね。空気が違うや」


 陣佐に背負われながら、波留日も同じように目を輝かせて横浜の街並みを見物する。反対に、大男が人形のような見た目の子供を運ぶ様子は珍妙に見えるのか、道行く人も陣佐や波留日を見上げた。


「おーい、こっちじゃ! 波留日! 雷蔵! 陣!」


 港に近づいてきた頃、聞き覚えのある声に名前を呼ばれて三人はその声の主を探す。背の高い陣佐の視界に、荷物を手にしながらも精一杯手を振る類と、その師として彼の身柄を持つ徳檀が立っていた。


「悪いのぉ、忙しかったり色々あるんに、此処まで来て貰って」


「いいんだよ。仲間の門出くらい祝わせてってば」


 肩を竦める類に、波留日は屈託なく笑って陣佐の肩を叩く。それを合図に、陣佐は波留日を慎重に地面に降ろした。雷蔵はすかさず波留日の傍に寄り、その腕を貸す。


「それにしても、晴れて良かったね。これからの航海も恙無く進むことを祈るよ」


 波留日は雷蔵の腕に凭れながら類に笑顔を向けた。類も晴れ渡った横浜の空を眩しそうに見上げ、そうじゃな、と屈託なく笑う。


「……気をつけてくれよ。その……色々とありがとう。俺が鷺坂の門下生だった時から、ずっと」


 今まで何かにつけて類への当たりが強かった雷蔵も、長旅を前にして分厚い壁を乗り越えた。照れ臭そうに言葉を紡ぐ雷蔵に、類は眉を下げて微笑むと、首を横に小さく振る。


「結局ワシは雷蔵クンも波留日も、直接助けてやることができんかった。俺を助けてくれたんはそっちの方じゃ」


 珍しく素直な類に、三人は顔を見合わせて笑顔を浮かべた。そして各々準備していた本やペン、手拭などの品を押し付ける。突然の贈り物に狼狽えつつ、類は声を上げて笑った。


 類君、そろそろ時間だよ。という徳檀の言葉に、類も懐中時計を取り出して頷く。


「じゃあ、皆、世話になったのぉ。どうか、達者で」


「類こそね」


 荷物を持って背筋を伸ばした類は、その掌を軽く上げた。波留日の絹手袋が、それに応えるようにひらりと揺れる。


「ワシ、雷蔵クンの作品が海を越えて来るのを待っとる」


「そんな大袈裟な……」


 類は雷蔵の方を向き直り、悪戯っぽく白い歯を見せて笑った。雷蔵はその言葉を前に、呆れたように溜息をついたが、次には口を真一文字に引き結んで強く頷いてみせる。


「分かった。頑張るよ」


 雷蔵の力強い言葉に微笑んだ類は、次いで此処に至るまでの道を作ってくれた大人へ頭を下げた。


「徳檀先生も、陣も、感謝する」


「どうってことねぇよ」


「類君、元気でね」


 陣佐はぐちゃぐちゃと類の髪を引っ掻き回し、徳檀は数多の人を救ってきたその掌をひらりと振って微笑む。


 そして類はそれぞれの顔をもう一度目に焼き付けるように見た後、踵を返して一歩、港に向かってその足を踏み出した。


 その後ろ姿が見えなくなり、大きな旅客船の汽笛が鳴り響いた頃、甲板に身を乗り出して別れを惜しむ客に混じり、類が姿を現す。


「波留日ー!」


 類も手摺を掴んで身を乗り出し、声を張り上げて波留日の名を呼んだ。波留日は小さくなった類の姿をじっと見上げ、唇を真一文字に引き結ぶ。


「達者でな! また会う日まで!」


 動き出した船の上、類は千切れんばかりに手を振って叫んだ。波留日は大きく頷くと、いつか類がしてみせた人差し指と中指を立てる仕草をしてみせる。類はそれを見ると眉を下げ、白い歯を見せて破顔した。


 

「……行っちまったな」


 陣佐は海の上を進んでいく旅客船の大きさが胡麻粒ほどくらいになった頃、波留日を掬い上げて少し寂しそうに呟く。徳檀も小さく頷いて広大な海を臨むと、その先に待つもう一つの大陸へ思いを馳せながら口を開いた。


「無事に着くといいね」


 雷蔵は残暑厳しい熱を与える太陽の光を反射する水面に顔を顰め、それでもニヤリと笑みを浮かべる。


「アイツは悪運があるから、大丈夫だと思いますよ」


 その言葉に、陣佐や徳檀も間違いないと頷いて笑った。波留日はそんな三人を見下ろして微笑むと、陣佐の肩をポンポンと優しく叩く。


「さぁ、僕達も帰ろうか。僕達には僕達の日常があるのだから」


「あぁ、そうだな。八月もそろそろ終わりか。その割には暑くて秋の気配がねェが、月日が経つのは早いものだねェ」


 陣佐は波留日の言葉に頷いて、波留日を抱え直すとその足を踏み出した。陣佐の歩みに合わせて揺れる波留日を、隣で歩く雷蔵はそっと見上げて口を噤む。

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