杯と蕎麦と夜半の月。上
磨かれた革靴がカツカツと小気味よい音を立てて地面を叩く。正装軍服に身を包んだ優男の青年が、鼻歌を口ずさみながら街を闊歩する。通りすがる女学生や町娘がその颯爽とした姿に思わず頬を染め、互いに囁き合いながら、憧れの色を帯びた視線を向けた。
「お、本屋発見~。そういえば、まだ日々是好日の九月号を買ってなかったな。いやはや、もう十月になっちまった。時の流れと言うのは早いものだなぁ」
そんな視線などまるで意に介さぬ様子で、眞田勇次郎は独り言をぼやきつつ、軽やかな足取りで本屋の暖簾をくぐる。文芸誌の棚へ向かえば、三大文芸誌と名高い『文藝礼讃』『杜若』『すてら』をはじめ、各種の商業誌、自費出版の同人誌までが所狭しと並んでいた。
勇次郎は腕を組み、棚を右から順に眺めて物色する。その中に残り一冊となったお望みの品を見つけると、勇次郎は顔を綻ばせて真っ直ぐに手を伸ばした。しかし、そんな勇次郎の手に重なるように、もう一つの手が同じ雑誌を押さえる。
「お?」
勇次郎がその手の主を辿ると、帽子を目深に被った背広の壮年の男が、絶対放さぬという具合にこちらを睨みつけていた。
(おぉ、怖っ)
勇次郎は思わずパッと手を引いて、まるで道を譲るかのように掌を男へ向ける。男は小さく会釈をすると、それを手に取りすぐに会計へ持って行った。
(痛いな……。駐屯地内の売店だと日々是好日の取り扱いがないんだよ……。にしてもあの男、あんな堅っ苦しい面して文芸好きかよ。……まぁ人は見かけによらんってことだな)
取り損ねた獲物を惜しみつつ、勇次郎は軍帽を被り直して懐中時計を取り出す。そして時刻を確認すると大股で店を出た。
「いけねぇ、そう道草喰っている場合じゃねぇな。何せ、今日は目出度い日だからなァ」
秋口とはいえまだ残暑厳しい日差しに思わず顔を顰めつつ、勇次郎は目的地に向かい歩き出した。
***
神社の拝殿には、木の香が漂っている。恭しく神主が祓串を振り、鈴の音が響く中、祝詞が厳かに奏上された。
神主の前では、佐伯官兵衛が正装軍服を身に纏い、顎を引いて背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見据えている。眞田勇次郎は、後ろの来賓席からその儀式の様子をぼんやりと眺めていた。
(若くてきれいな嬢ちゃんじゃねぇか……。官兵衛には勿体ないくらいだぜ)
微動だにしない官兵衛の隣で白無垢を纏い、同じ様に背筋を伸ばすのは、彼の妻となる女性である松栄ミチだ。白く塗られた顔の下は、緊張で赤くなっているのか、青褪めているのかは分からない。
巫女が注いだ三々九度の杯を酌み交わす手は微かに震えており、その姿がとても初々しく、可愛らしく見えた。
――快活な女性だった。香水瓶も受け取ってくれた。感謝する。
見合いの後、不器用に頭を下げた官兵衛は年相応に初心な表情で、どこか落ち着かない様子を見せた。
――文学が好きらしい。女性ならば相応しい趣味だと思う。
あんなに文学に対し懐疑的であったのにもかかわらず、彼女はどうやら別なようだ。そんないつになく人間臭い官兵衛の様子を、勇次郎は物珍しげに見やった。
――彼女の話題についていけたのはお前のお陰だ。彼女側から是非にと話を頂いた。見合いがトントン拍子に進めば、父も喜ぶし一族のためにもなる。
(文学少女っていうんだったら、俺が貰いたいくらいなのになぁ。嬢ちゃんと話す時には話を合わせたみたいだが、俺だったらもっと……)
そう思って勇次郎は頭を振った。これは良くない考えだ。
(ただ、文学で話を合わせてくれた旦那が、それを内心敬遠していると知ったら、嬢ちゃんは悲しむだろうなァ)
欠伸を噛み殺し、仲良く玉串を神へ捧げる二人の後ろ姿を見守る。官兵衛の背中は大きく、国を護り妻を護るに相応しい頼もしさを湛え、妻となるミチの肩は小さく華奢で、守りたくなる儚さを持っていた。傍から見れば、『お似合い』というやつだろう。
(まァ、上手くやってくれよ。……結婚とやらの良さを、俺にも教えてくれ)
「あ、あの嬢ちゃんなら、日々是好日の九月号、持ってるかもなぁ」
良家の親族が杯を交わす中、勇次郎はぽつりと独り言ちた。




