告白と危機と転換点。 上
陣佐の連絡を受けた波留日は、今にも小躍りしそうなほどに喜びを全身で表していた。
一方、電話の対応を波留日に任せ、新作の構想と書籍化に向けた過去作の推敲に集中していた雷蔵は、階下にて自分を呼ぶ声にのっそりと身を起こす。
ギシギシと床を鳴らしながら様子を見に行けば、波留日は雷蔵を目に留めるや否や飛び掛からん勢いで抱きついた。雷蔵の細い体躯はその衝撃に耐えられず、そのまま後ろへバタンと倒れ込む。
「った……。波留日……?」
後頭部を庇って強かに打ち付けた肘や背中に顔をしかめつつ、雷蔵は細めた視界の中で波留日の表情を伺う。
「雷蔵! ついに君の作品集の話が通った!」
そうして見た波留日の顔は、キラキラと星を瞬かせんばかりに光り輝いており、雷蔵は痛みではなくその眩しさで目を細めた。そして波留日の言葉の意味を理解して目を見開く。
「……本当か?」
「そうだよ! 遂に形になるんだ! 祝い酒を買いに行こう! 陣佐が帰って来る前に!」
波留日はぴょんと飛び跳ねて雷蔵の身体から離れると、未だに実感が湧かず呆然とする男の手を取って早く早くと急かす。雷蔵も興奮で上気する頬をそのままに、波留日に導かれるがまま社屋を飛び出した。
***
街へ出た波留日は、その上機嫌な気分そのままに店を渡り歩き、あれもこれもと買い込む始末で、雷蔵は仕方なしにその荷物持ちを任されていた。満帆の紙袋を抱え、鼻歌を歌う波留日を追い掛ける。立ち並ぶ店に目移りしながらキラキラと星を纏う波留日に、雷蔵は胸を引き絞られるような気持ちに襲われた。自分の夢を共にかなえようと手を取り、それが叶う目前となって自分以上に喜ぶその姿が眩しく見える。
「……波留日」
そんな折、ふと雷蔵は波留日を呼び止めた。波留日はくるりと振り向いてこてんと首を傾げる。
「なぁに、雷蔵」
「ありがとう」
その真っ直ぐな言葉に、波留日は大きな瞳を見開いた。
「日々是好日が無ければ、俺はきっと何も成せないまま死んでいた。それこそ、俺は日々是好日でも結果を残せず何も変えられなかったら、退学した大学に忍び込んで、俺が文学に傾倒したきっかけである池田川朔時の本に原稿を挟んで死んでしまおうと思っていたんだ。そうなればきっと、俺は誰にも文を届けられないまま塵芥として終わっていただろう」
雷蔵は乾いた笑い声交じりに告白をして、恥ずかしげに鼻をすする。波留日は地面を蹴って雷蔵に駆け寄り、向かい合った。紙袋の底を支える手に、絹の手袋で覆われた小さな手が触れる。
「……だとしても。僕は君を見つける。だって僕は君の一番の贔屓だからね」
雷蔵は波留日の言葉に眉を下げて微笑んだ。その真っ直ぐで純粋な言葉が何処かくすぐったい。しかし、それがすとんと胸に落ちるほど雷蔵は素直で無かった。
「なぁ波留日。波留日は、何で、こんなに俺を……」
波留日は尻すぼみになった雷蔵の問いに、じっと黙り込んでしまう。下町の路端で、無精な風貌の青年と、白百合のような少年が向かい合って立ち止まるという奇妙な画が出来上がった。
「それは……僕が……」
ややあって漸く口を開いた波留日。しかしその言葉は呆気なく乱入者によって遮られる。
「橘波留日と達川雷蔵だな? 少し話をお聞かせ願いたい」
二人は弾かれるように顔を上げ、声の主を見やった。此方を汚らわしいものを見るような、胡乱な目で見下す、無骨な男。外套も帽子も質が良いと一瞬で判断できるものを身に纏っている。
「名乗りもせずに失礼な奴だなぁ、お兄さん誰ですか」
波留日は一歩踏み出して雷蔵を後ろ手に庇い、わざと悪餓鬼のように食って掛かる横柄な態度を取った。
「……陸軍所属の佐伯という者だ」
男はため息をついて外套の内側に手を突っ込むと、自らの身分を示す手帳をこちらへ見せて寄越す。波留日の後ろで、雷蔵がひっ、と喉を引き攣らせる音がした。
「佐伯サンかぁ……。名乗られたからといって、はいそうですかと言う事を聞くわけもないのにね」
「は、波留日……軍人さんにそんな……」
軽口を叩く波留日に、雷蔵は顔を青くする。口を塞いでしまいたいが、生憎雷蔵の両手は買い込んだ満帆の紙袋で塞がっている。波留日は佐伯と名乗った男の背後をじっと見つめ、少し離れた道端に自動電話があるのを目に留めた。そして人目も憚らずに眉をひそめる。
「……大方鷺坂の差し金だろうね。忌々しい奴め」
目の前の佐伯に聞こえないように、波留日は雷蔵に耳打ちした。雷蔵はその言葉に青褪め、唇を噛み締める。
「……此処じゃあ目に付くだろう」
佐伯は顎で狭い路地裏を示し、入るよう促した。
「このままじゃあ埒が明かないか……。悪いね、雷蔵。先に帰ってよ」
波留日は歯噛みし、一人で佐伯の後について行こうとする。しかし雷蔵は咄嗟にその小さな背中を呼び止めた。
「波留日、……俺も行く」
「雷蔵。言うことを聞いて。僕がどうなったって……」
波留日は雷蔵の言葉を諫める。しかし普段は文句を垂れながらも波留日の言うことを聞く雷蔵であったが、この時ばかりは頑として動かないというように首を横に振った。
「子供を一人にはできない」
「子供、ね……」
波留日は諦めたように小さく息を吐くと、微笑んで路地裏に足を進める。雷蔵はごくりと唾を飲み込み、軍人と少年の背中を追い掛けた。
薄暗くなった路地裏で、佐伯と名乗った軍人が振り返る。刀のように鋭い眼光が二人を捉えて睨みつけた。波留日は大荷物を抱える雷蔵を庇うように足を広げて立つ。雷蔵も紙袋を持つ腕に力を込め、肩を怒らせた。
「先ず確認からさせてもらう。貴様は橘波留日か」
「如何にも。僕は橘波留日だ」
「朝星新聞社が出版している市井文芸誌、日々是好日の主宰か」
「そうだ」
波留日は毅然として答える。男は眉をピクリと震わせると、口元に手を当てて低く唸るように呟いた。
「……信じ難いな」
「よく言われるよ」
波留日は口角を引き攣らせて歪んだ笑みを浮かべる。後ろでそれを見守る雷蔵は、胸が張り裂けん思いで佐伯を睨みつけた。極度の緊張で雑踏が遠のき、まるで世界から音が消えたかのように静寂が支配する。
そうして四つの瞳に睨まれるも佐伯は一切意に介さず、小柄な二人を見下ろして毅然と言い放った。
「貴様らが進めている書籍の出版について、要人から自粛を求められている。それに対し、合理的かつ協力的な判断に基づいた対応をして頂きたい」
「……つまり雷蔵の作品集の出版を取りやめろ、と?」
波留日は腕を組んで、佐伯を下から睨めつける。黒く大きな瞳がどろりと佐伯を映した。雷蔵が凄まじい恐怖を抱いた波留日の眼だ。佐伯はそれを前にして目を合わせていられなかったのか、ふっと目線を逸らした。
「……そう受け取ったのならば、そういう事なのだろう」
的を得ない佐伯の返答に、雷蔵は思わず眉間に皺を寄せた。波留日は腕を組んでやや考え込むような仕草をすると、パッと破顔してみせる。
「そっか。じゃあ断固として断る!」
その、何もかもを跳ねのけんばかりの輝く笑顔に、佐伯は呆気に取られて言葉を失った。どう反応すればいいのか分からない。詰問も脅しも、本来の己の務めではない。故に他の主義者や思想犯やらが、同じような圧力を受けてどう反応するかは分からない。だがそれを差し引いたとしても、この少年の態度が異常であることは、火を見るよりも明らかなことだった。寒風の中、佐伯の背に冷たい汗が一筋伝う。
「僕は僕の心情に基づいて行動する。例えその道を塞ぐものが時代を作った文豪だとしても、僕は僕の魂に従う」
波留日は自らの胸に手を当て、まるで宣誓でもするかのように言い放った。声変わり前の少年が持つ頼りない声。その上ずった響きが、薄暗い路地裏の壁に反響し、静寂を震わせる。佐伯は、その何にも靡かぬような強い信条を前にして、胸の奥で得体の知れぬ不安が膨らむのを感じた。
「……その行動が、どのような結果を引き起こすとしてもか」
佐伯が地を這うような声で問うた。雷蔵が二人の応酬を前にごくりと息を呑む。痩せた体躯の首筋、冷や汗で湿った喉仏がゆっくりと上下した。片や波留日は毅然と軍人を見上げ、穏やかな笑みを浮かべる。
「あぁ。構わない。僕は、僕の望みを叶えるために此処にいるからね。そのためならなんだってするさ」
恐れも躊躇いもないその笑みは、自分が辿るであろうどんな可能性すら受け入れているようで、佐伯は思わず唇を噛んだ。なぜか胸の奥に、説明のつかない寒気が走る。
路地裏を渡る風が、佐伯の外套と雷蔵の羽織をはためかせた。
少年の小さな胸に宿る信念の重さを感じ取り、佐伯は小さくため息をついた。
「……仕方ない。ならば、悪く思うな」
低く呟くと、佐伯は地面を蹴って瞬時に波留日との間合いを詰める。咄嗟に身を捩らせた波留日だったが、佐伯の大きな掌が細い腕をがっしりと掴んだ。そのまま腕を後ろへねじり上げられ、身動きを封じられる。その押さえつけようとする強い力に、波留日は足を踏ん張って抵抗した。
「っ……! 手荒だなァ!」
そして隙を見て佐伯の手を振り払うと、飛び上がって外套の襟元に掴みかかり、素早く足を掛けて引き倒そうと立ち回った。しかし相手のがっしりとした体躯はビクともしない。逆に自分の身体が持ち上がってしまい、波留日は柄にもなく舌打ちをした。
「……ほう。武術の心得があるか。しかし、身体が小さい上に軽い。一般人ならどうにかできただろうが、生憎こちらも訓練は受けているのでな」
佐伯はわずかに眉を動かしていとも簡単に波留日の攻撃をいなすと、拳を静かに構える。そして波留日の薄い腹にドンと押し込んだ。鈍い音がして、波留日の身体がくの字に折れる。
「ぐっ……!」
波留日は、低い呻き声を漏らしながら地面に倒れ込んだ。佐伯は即座にその上体を押さえつけ、動きの鈍った小さな体の両腕を後ろにねじり上げる。その間僅か数秒。雷蔵は目の前で繰り広げられた大立ち回りに唖然と立ち尽くしていた。二人の放つ殺気に気圧され、足が釘打たれたかのように動くことができない。
「……波留日!」
ようやく絞り出した雷蔵の声に、腕を掴まれ拘束される波留日が顔を上げる。振り乱れた髪、荒い息、痛みで歪む顔。そんな波留日の顔を見た瞬間、雷蔵は視界が真っ赤に染まったような錯覚に陥った。脈拍が跳ね、理性が一瞬で吹き飛ぶ。「相手は軍人だ」「体格が違う」「怖い」「逃げなくては」。普段であれば浮かぶ言葉が消し飛び、考えるより先に、身体が動いた。
「波留日を放せ!」
荷物を抱えたままの姿勢で、彼はほとんど反射のように地面を蹴る。叫び慣れない声がひっくり返り、掠れた音を立てた。喧嘩などしたことのない軟弱な雷蔵の身体から繰り出された突進は、呆気なく佐伯に躱され、そのまま地面に突っ込んだ。ガシャンと派手な音が響き、破れた紙袋からはゴロゴロと祝いの品が転がり落ちる。
「放せっ……! 波留日を放せよ! これが子供に、市民にすることかよ!」
雷蔵はめげずに身を起こすと、蔓の曲がった眼鏡をそのままに、再び佐伯に向かって突進しようと地面を蹴った。しかし、その攻撃は虚しく空振りに終わり、佐伯はよろける雷蔵の足を引っ掛けて転ばせる。地面に転がった拍子に砂埃が立ち上り、佐伯は眉間に皺を寄せた。
「喧しい。人の目につくだろう! これでも穏便に済ませようとしたのだ……悪く思うな。達川雷蔵」
佐伯は硬い革靴の先で、砂埃に塗れて蹲る雷蔵の腹を蹴る。これ以上の追及をさせないための最低限の攻撃のつもりだろう。
「うっ……!」
しかし、細く痩せぎすな雷蔵の体躯には過ぎた衝撃だった。刺激に驚いた雷蔵の胃がひっくり返り、熱い液体が逆流する。湿った音と共に酸っぱい臭気が辺りに広がった。
「っ……波留、日」
壊れたゼンマイ仕掛けの人形のように身を震わせ、雷蔵は焦点の合わない目で波留日に手を伸ばす。腕を掴まれ身動きを封じられていた波留日は、悲痛な面持ちで雷蔵に叫んだ。
「雷蔵! 僕はいい! 逃げろ! 逃げて、陣佐に……!」
雷蔵はその言葉にかろうじて反応し、吐瀉物で濡れた地面に手をつくと、ふらつく脚で立ち上がる。無残に転がった総菜の包みを踏んでひっくり返りながら、雷蔵は薄暗い路地を抜けて行った。
「……このまま連行するんだよね? いいよ。煮るなり焼くなり好きにすると良いよ」
波留日は雷蔵の後ろ姿を見送ると、ぐいと顔を上げて佐伯に引き攣った笑みを見せつける。この状況でも笑みを絶やさぬ子供を前に、佐伯は眉間に皺を寄せた。




