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信念と夢と拾う神。 下

 その後、文藝礼讃にて正体不明の天才作家が誕生したのは束の間であった。


 鮮烈に文芸界にその名を刻んだ「橘波留日」は、直ぐに自らの主宰する文芸誌へ着手した。誰もが原稿を寄せる事ができるという異端極まりない市井文芸誌の存在を知らしめたのは、朝星新聞の隅に原稿募集の広告、そして陣佐が自らの足で大学や高校の校門前で配ったビラという粗末なものであった。


 それでも、原稿の書き方すら知らぬ情熱だけで生きる大工見習の青年や、翻訳が趣味の変わった医者などが少しづつ集うようになった。


「日々是好日、完成だな」


 少しずつ集まった原稿を、丁寧に丁寧に纏めて出来上がった文芸誌を、陣佐は感慨深げに眺める。


「これを書店や商店に搬入するまで安心できないよ」


 波留日は編集部の古びたソファに寝転がりながら、気を引き締めるように硬い口調で陣佐に念を押す。


「でも……ありがとう、陣佐」


 波留日は徐に身を起こし、陣佐を真っ直ぐに見つめた。黒曜石の双眼が、疲れても興奮冷めやらぬ若い男の姿を映す。


「得体の知れない僕を拾ってくれて。陣佐がいなければ僕は、何も始める事ができなかった」


「それはこっちの台詞だ」


 陣佐は柄にもなく大真面目な面持ちで口を開く。


「お前と出会ったあの時、俺は文字に携わることを辞めようと思っていたんだ。それをもう一度文字の力を信じてみたい、お前の夢を叶えたいと情熱を思わせてくれたのは、お前のお陰だ」


 波留日はその言葉を聞いて大きく目を見開くと、そっと息を吐いて微笑んだ。そして陣佐の手にあった日々是好日を抜き取ると、ソファから降りて窓際に駆け寄る。外は晴れ渡っている。


「才能を探し出すんだ。未来を変える、最高の原石を……!」


 波留日は眩い太陽に、出来上がったばかりの誌を掲げてみせた。陣佐は微笑ましくその小さな背中を見守っていたのだが、窓から差し込んだ日光が弾けるその合間に、どこか青年のような逞しさを垣間見た。


「……」


 ほんの一瞬だけ見えたその幻影に、陣佐は思わず息を呑んで動きを止める。白昼夢のようなそれを、陣佐はもう一度目に留めようと眉間に皺を寄せた。


「……熱っ!」


 しかし突然指先に熱を感じて現実に引き戻される。いつの間にか煙草が燃え尽きて殆どが灰になっていた。


「ははは、何してるのさ。陣佐の手だって、僕達の未来を変える手なんだ。大切にしてもらなわくちゃあ困るよ、編集長?」


 波留日はくるりと振り向いて笑った。



***



 その無邪気な笑顔を思い出す度、陣佐の心はどこかくすぐったいような感覚や、自らを奮い立たせるような使命感と綯い交ぜになって、くしゃっとした笑顔が浮かぶ。


 陣佐は興奮でふわふわした気分のまま、偕成出版の社屋内にある電話を手に取った。


「……もしもし、交換さん? 朝星新聞社をお願いします」


 電話線を繋いでもらう時間さえ惜しかった。壁にもたれる陣佐の爪先がトントンと急かす。


『……もしもし、朝星新聞社です』


 ややあって雑音混じりに聞こえてきたのは声変わり前の少年の、凛とした儚い声。


「波留日! 俺だ、陣佐だ!」


 陣佐は今一番話したい人間の声に顔を綻ばせて受話器に顔を寄せる。


『陣佐! 電話を寄越したってことは……!』


「あぁ! 桑原先生と鎌田から許可が出た……! 再来月かその次の礼讃にお前の原稿は掲載されるし、雷蔵の方は準備が整えば小規模だが書籍化してくれると!」


『最高だ! ねぇ雷蔵、雷蔵!』


「おい馬鹿、電話代はタダじゃねぇんだ、切るぞ」


『そうだよね、陣佐、ごめん! じゃあ、祝い酒の準備をしておくよ! 今から帰れば三十分くらいだよねぇ! 陣佐が帰ってくる頃は留守にしているかもしれないけれど、居ても立っても居られない! ねぇ雷蔵!』


 陣佐はそのはしゃぎ様にくすりと笑うと、じゃあ楽しみにしてるぜ、と言い残して受話器を置いた。波留日が社屋にて精一杯に背伸びをして壁掛けの電話を使う後ろ姿を思い浮かべれば、くすりと勝手に笑みがこぼれる。


 そして財布から小銭を何枚か取り出すと、忙しげに帳簿をつけていた事務員に軽く会釈をして机の端に置いた。顔を上げた事務員の若い女性は、爽やかな陣佐の笑顔に頬を染める。陣佐は荘厳な造りの廊下を進み、玄関口へ向かった。


「陣、」


 扉に手を掛けたところで鎌田に呼び止められる。


「お前、やっぱり今の方が輝いてるぞ。見ているこっちも嬉しくなる。波留ちゃんの話をしてよかった、協力できる立場でよかった、ってな」


 一息に吐き出された言葉を一身に受け、陣佐は思わず吹き出して破顔した。


「何だよ、改まって。此処で終わりみたいな。始まったばかり、これからだろう? 頼りにしているぞ、奈津夫なつお


 そしてひらりと手を振り、陣佐は扉を開いた。外はまるで自分らを祝福するかのように晴れ渡っている。澄んだ空気が、淡い青を真っ直ぐに運んで来た。


 硝子玉のようなその色は、藍玉と呼ばれる宝石を彷彿とさせた。文芸界やら社交界やらに顔を出す時に見る、夫人が身に纏う宝飾品の一つだ。あぁ綺麗だなと思うが、残念ながら今の陣佐には波留日や雷蔵の綴る原稿の方が輝いて見える脳をしていた。


 ――才能を探し出すんだ。未来を変える、最高の原石を……!


 電話口ではしゃぐ波留日の声に、いつかの記憶が呼び起こされる。


「……アイツが言う最高の原石、が、達川雷蔵だったんだよな」


 二年前、大正十年の十一月。締め切り間際に届いた一束の原稿。一番初めに封を切り、原稿の確認をしたのは陣佐だった。『介錯』と名付けられたその短編は、確かに理論や法則も無く陣佐を驚かせた。


 しかし、それ以上にくしゃくしゃの原稿用紙に、インクが掠れた筆跡、所々に混ざる破滅的な台詞が、作者が正常な精神状態でないことを物語っていた。


 どうしたものかと考えあぐねていた矢先に波留日が傍らの封筒に書かれた名前と住所を見て、雷蔵の原稿に飛びついたのだ。あの時の、波留日が顔を綻ばせる様子に陣佐は思わず呆気に取られた。


 挙句、「十一月号が発売されたら達川雷蔵に会いに行く」と宣う始末。まるで、雷蔵を待っていたかのような振る舞いだったと陣佐は思う。


(まぁ、アイツの存在自体が可笑しいからなぁ……今更気にしても意味ねぇな)


 駅までの道中、陣佐は道沿いに並ぶ店の中に美味そうな揚げ出し豆腐を見つけた。波留日が祝い酒を準備しているのなら肴に買っていっても良いだろうと思いふらりと立ち寄る。


 顔の良さと人当たりの良さから何個かおまけしてもらった袋を提げて電車に乗る。流れていく景色を眺めていると、見慣れた街並みが近づいてきた。陣佐は最寄り駅に着くと人混みをかき分けて地面を踏む。


 暫く歩けば、偕成には到底及ばぬ、温かみのある木造の社屋が見えてくる。玄関を開ければ奥の方で新聞部の奴らが締め切りに向けて忙しなく動き回るバタバタとした音がする。


 いつもの日常だ。今すぐにでも喜びを分かち合いたい波留日と雷蔵は買い出しに行ってまだ帰ってきてないらしい。おヒサさんは社長の別件で出払っている。


「っと……皿は……」


 食器棚を物色し、揚げ出し豆腐を入れる大皿を探す。滅多に台所に立たない陣佐は、ヒサの体格に合わせた低い棚を背を丸めて覗き込む。丁度奥に、乳白色の陶磁器を見つけた。


「いい皿があるじゃないの」


 台所にそれを置き、餡で光り輝く豆腐を載せる。ただそれだけにも関わらず、皿に盛られただけで大層な料理に見えた。葱でも刻んで乗せてやれば良いのだが生憎そんな技術は陣差に無い。


 盛り付けた皿を手にして鼻歌交じりに土間を歩いていると、引き戸を蹴破らん勢いで何かが社屋へ飛び込んで来た。


「陣さん!」


 その影はそのまま戸の珊に足を引っ掛け床に倒れ込んだ。この寒い中、草鞋を片方だけつっかけて、足袋は泥だらけ。着物も汚れて分厚い眼鏡は蔓が歪み、唇は切れ口元からは血が滲んでいた。


 到底、祝い酒を買いに行ったとは思えぬ雷蔵が、息を切らして地面に転がっている。陣佐は目を丸くして、まるで演出家が付いているようなその一幕を眺めた。


「は、波留日がっ……! 連行されたっ……!」


 咳き込みながら放たれたその一言で、観客側だった陣佐も舞台に引きずり込まれる。あまりのことにその手から皿が零れ落ち、ガチャン、と鈍い音を立てて土間に落ちた。皿は割れ、折角の揚げ出し豆腐も型崩れし、土にまみれて無残な姿になり果てる。


 陣佐は倒れ込んで息も絶え絶えな雷蔵を拾い上げると、地面を蹴って社屋を飛び出した。


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