ハレと論戦と花魁道中。下
都心の一角に構えられた大屋敷。その豪勢な庭には、数多の盆栽や桜の木だけでなく、鯉の泳ぐ池までがあった。
そのような絢爛の庭が臨める応接間にて。差し出された緑茶には口をつけず、波留日はソファに足を組み、目の前の初老の男と正々堂々対峙していた。
「ここが君の城ってわけだ。流石文壇の重鎮、多くの門下生を住まわせるだけあるね」
「急に御呼び建てして悪いね」
鷺坂有太夫はその顔に笑みを貼り付けて波留日を見据える。しかしその笑顔の奥にある目は、まるで凍てつくかのように鋭い。波留日はその視線に気付き、そっと固唾を飲んだ。
「急にって、ずっと狙っていたんじゃないのか? この日を。菜乃葉の身請け道中で僕らが出払うのを。花街に行く途中で僕を攫う気だったかい? それとも、君の自尊心を傷つけた菜乃葉と僕らへの当てつけかな?」
「それは考えすぎだよ、橘波留日君」
鷺坂は腕を組んで向かい合う波留日を見据える。互いに腹の中を探り合うような無言の応酬の数分が流れた。
「……人って酒を飲むと変わるんだ。自制心を失って思ってることが出ちゃうんだろうね」
波留日は先日の騒動における横暴な態度と現在の慇懃な態度を比較して嫌味を放つ。鷺坂は棘のある言葉も軽くいなし、卓上の緑茶に手を伸ばした。
「さぁね。少なくとも酒は良いものだよ、気分が良くなる。お子様には分からないだろうけどね」
舐めるような視線が波留日の頭から爪先までを走る。何度見たってこの橘波留日は子供にしか見えない。しかしその子ども特有の大きな瞳の中には、爛々と炎が燃え盛っている。
鷺坂は湯呑みを座卓の上に置き、体を大きく見せるようにソファに深く腰掛けて腕を組んでみせた。波留日は向けられる視線に対し不快そうに眉を顰めると、辛抱ならぬというように口を開く。
「世間話をしに来たわけじゃないんだろう? 僕だって暇じゃない。早く本題に入ろう」
そう促されて溜息をついた鷺坂は、もう一度口をつけて静かに話し始めた。
「日々是好日、大層な人気じゃないか。届く原稿の数も、売れ行きも順調なんだろう?」
「お陰様で、文壇入りを目指す大学生の力試しの場として機能したり、文士が気まぐれに短編を寄せるなんてこともしてくれるようになったよ。素晴らしい事だね、多くの人が自由に文を書いて、それを多くの人が読む。僕の理想の世界だ」
嫌味混じりで端々に棘のある言葉に、波留日は臆せずその応酬に立ち向かう。足を組み、満足そうな微笑みを浮かべた。一方鷺坂は肘掛にトントンと指を打ち、鋭い目で波留日を睨みつける。
「そうして節操なく俗人が綴るものを載せ続けるのは危険だ。心配になるよ」
「当然こちらも注意はしてるさ。まぁ、吝類を野放しにして、自分の門下生の管理も出来ないような君達の心配には及ばないね」
間髪入れない波留日の返答に、鷺坂は遠回しの牽制を諦めたのか、前のめりになって手を組み、口元に寄せて低い声で言い放った。
「達川雷蔵を手放せ」
「断る。今僕らが雷蔵を放てば君たちが彼を潰しに来るだろう。弱小新聞社でも、あるとないじゃ大違いだ。僕は絶対に彼を守る。もう二度と埋もれさせない」
しかし波留日は一切臆せず、凛とした声で言い返す。鷺坂は気に喰わんと言わんばかりに眉間に皺を寄せ、懐から葉巻を取り出した。
「……一体雷蔵の何が君をそんなに動かす」
「アンタも雷蔵の文を読んだなら分かる筈だろ。彼の文には心を揺さぶる熱がある。鬱屈として淀んだ感情さえも、まるで花火のように輝いて儚さを見せる」
鷺坂の呆れたような物言いに、波留日は前のめりになって持論を展開する。しかし鷺坂はふぅと一息ついて、まるで吐き捨てるように言葉を放った。
「……だからだ。そうして鮮烈に人の心を灼く作品は危険だ」
「そうかな? 僕は素晴らしいと思う。生きる気力を与え、前を向かせる。文学とは、魂の切り売りとは、そういうものだろう」
煙を吐きながら歯軋りをする鷺坂に波留日は真っ向から立ち向かう。その真っ直ぐに文学を愛し啓蒙する姿に、鷺坂の眉間の皺はより深くなった。
「だが、君は私に楯突くという意味を分かっていない。知っているかい? 雷蔵がウチを飛び出してからしばらく別名義で活動していたことを」
「彼から聞いたよ。それがどうしたというのかい」
ニヤリと歪んだ口角に、波留日は警戒心を引き上げて目を細める。
「彼はね、私から逃れるために関西の新聞社で行われた新人懸賞に作品を出したんだよ。当然、私は審査員ではなかった。だが結局、良いものは重鎮の目に届くものだ」
「まさか……」
波留日はその後に続く展開を予見し、その顔を青褪めさせた。
「編集に『是非直接話したい』と連絡を入れさせて大阪まで呼びつけた。あの子は素寒貧だったろうに、のこのこと出向いてさぁ! だから目の前で原稿を破り捨ててやったんだ! 私に歯向かって無事でいられると思うな、とね! 名前を変えたとて書き手が変わるわけじゃ無かろうに!」
声を上げて笑い始めた鷺坂に、波留日は気色ばんでソファから勢いよく立ち上がる。そして座卓に乗り上げ、ふんぞり返っている鷺坂の胸倉に掴みかかった。
「お前ッ!! 巫山戯るな! 雷蔵を弄ぶなよ! 雷蔵の魂は雷蔵のものだ! 誰にだって踏みにじり愚弄する事は許されない!」
声を荒らげる波留日だが、鷺坂は動じる様子もなく、眉を吊り上げる波留日を舐め腐った目で見る。応接間に不相応な、言い争う声を聞きつけたのか、襖が開いて数人の書生が飛び込んで来た。
「貴様! 先生に何をする!」
一人の書生が波留日を捕らえようとその小さい体へ覆い被さった瞬間、波留日はすっと身を引いてそれを躱す。そして体勢を整え書生の間合いへ入ると、目にも留まらぬ速さで襟元を掴み、見事な背負い投げをしてみせた。
「甘い! あんな殺気を出しておいてやり返されないと思ったか!」
ドシンと大きな音が鳴って畳から埃が舞い上がり、ギシギシと屋敷が揺れる。相手に受け身を取らせず、そのまま畳に押さえ込むような荒々しい様に、鷺坂を始め全員が呆気にとられて動きを止めた。
「それに、そんなんじゃ人は殺せない」
呻き声を上げる書生の腕から漸く力を抜いた波留日は、すっと立ち上がって冴えた目を鷺坂らに寄越す。地獄で燃え盛る業火を湛えたような瞳に睨まれ、此処に居る全員が息を呑み、じわりと一歩後退った。
「お前は一体、何者なんだ……」
やっとのことで絞り出した鷺坂の声に、波留日は困ったように首を傾げて笑ってみせる。
「さぁね、今の僕が何なのか、僕にもさっぱり分からない。気が付いたら隅田川の河原に転がっていたんだもの」
そうして半ズボンについた埃をパンパンと手で払った後、波留日は振り向いて鷺坂を一瞥した。
「警告は感謝するよ、鷺坂有太夫。でもね、僕は雷蔵が稀代の文豪になることを諦めない」
そう言い残して波留日は応接間を去り、廊下を進む。大股で、毅然とした態度で。まるであの男の権威を示すかのように立派に構えられたな門を潜った。そして振り向きざま、立ちはだかる大き過ぎる権力の牙城を睨みつける。
「私を敵に回して、タダで済むと思うな、餓鬼め……」
廊下の窓からそれを見た鷺坂は、踵を返して後ろに控えていた書生に向かい口を開いた。
「人を招く。……類は何処に居る」
「吝は花街で身請け道中があるからとそちらに……」
ぐるりと辺りを見回した鷺坂に書生が答えれば、呆れ半分笑み半分といった様子で鷺坂はため息をついた。組んだ腕の中でトントン、と人差し指を動かしてみせる。そして袂から帳面を取り出してペラペラと頁を捲り、書生に目配せをした。
「好都合だ。今から云う人間に連絡を取りなさい」




