ハレと論戦と花魁道中。上
朝星新聞社の窓からは、雲一つなく清々しいほどの青空が広がっているのが見えた。編集部の壁に掛けられた月捲りの暦は、過ぎた日に斜線が入っている。その斜線は、赤く丸つけられた日曜日の前で止まっていた。
「波留日ー、先行くぞー!」
「うん! あともう少しで一区切りつくんだ! 追いつくからお願い! いい場所取っておいてよ!」
玄関先では陣佐や雷蔵、そして庄衛門やヒサ、新聞記者達までもが一同に介し、波留日の準備を待っている。
「あいわかった! 波留、気をつけて来なさい。戸締りも忘れずにね」
庄衛門の声がした直後、カラカラと引き戸が締まる音がした。波留日はほぅと息をついて文机の上にある原稿用紙にあと少しと言わんばかりにペンを走らせる。
そして数分後、波留日はペンを机の上に置いて大きく伸びをした。トントンと原稿用紙をまとめて立ち上がる。寝癖で跳ねる髪を撫でつけ、開けていたシャツのボタンをしっかり締めた。小さな足が床板を蹴り、階段を軽快な音を立てて降りていく。
上がり框に腰かけて靴を履いていると、突如不躾にカラカラと引き戸が開けられた。しかし波留日は何も言わずに、まるで目の前に人が居ないようにゆったりと、依れた靴下を膝下まで引き上げる。
「橘殿は御在宅か」
突然朝星新聞社の戸を開けた犯人は、袴姿の書生であった。カランコロンと下駄を鳴らして土間に踏み入り、座る波留日の前で立ち止まる。波留日が慎重に顔を上げて書生をみやると、それは何処かで見たような顔をしていた。凡そ、あの華幻楼の騒動に居合わせた、鷺坂の門下生の一人だろう。
「橘波留日は僕だよ」
名を呼ばれ、波留日は燃える炎が住む瞳で書生を見上げた。書生はそれを目の当たりにして、ギョッと顔を青ざめさせる。カラン、と後退った拍子に下駄が鳴った。
「……少し用がある。今時間が在るなら来い」
「……無いけど行くよ。案内して」
波留日はゆっくりと立ち上がり、玄関に向かって歩き出す。書生は慌ててそんな波留日の後ろを追い掛けて社屋を出た。
(菜乃葉……済まないね)
波留日は玄関を抜けた先で差し込む真っ直ぐな日の光に顔を顰める。そして朝星新聞社と自らの境界を閉ざすように、後ろ手にそっと引き戸を閉めた。
***
華幻楼の御職が身請け道中をするとあって、昼過ぎの花街はその姿を一目見ようとする男達で賑わっていた。女人禁制のためにヒサとは大門前で別れた雷蔵達。仲見世通りの中でも道中が良く見える場所を陣取って、菜乃葉の登場を今か今かと待ちわびる。
江戸や明治に栄華を誇ったこの遊郭文化、昨今規制が入ったりと肩身の狭い思いをしていた。そのような世間の中でこのように華やかな道中が行われるのは久々なのだと庄衛門が言う。
故に注目度も高く、美しい菜乃葉を一目見ようと人々は足を運ぶ。鼻と背の高い外国人も物珍しげに観光に来ているようだった。人混みで気分が悪くなりそうな雷蔵も、物珍しい異人の姿を思わず目で追う。
「波留日……遅いな」
懐中時計を取り出して歯軋りをする陣佐に、庄衛門も腕を組んで唸り声を上げた。気付けば、到底「後で追いつく」という範疇を超えている時間が経過している。
「だがな……もう人混みで身動きもできん状態だ」
「お、俺、迎えに行ってきます」
「まぁ待て、今ここを離れたらもう戻って来れん」
雷蔵が一歩踏み出そうとすれば、庄衛門がその腕を掴んで引き止めた。
「此処に来れなくとも何処かで見ているだろう。こうなってしまえば合流は難しい」
「そうだな、特に雷蔵。お前は菜乃葉の道中は見ねぇといけないだろう。波留日だって手前のせいで雷蔵が道中を見逃したってなったら、悔やみに悔やみきれねぇだろうよ」
「……で、でも」
眉を下げて大門の方を見やった矢先、華幻楼の辺りでおめでとうという声が上がり始める。菜乃葉が廓から外へ出たらしい。背伸びをするものや前のめりになるもので人混みがざわつき揺れる。それに押し潰されそうになりながら、雷蔵は必死に地面を踏みしめた。
「今の主役は菜乃葉だ。ほら、三味が聞こえてきたぜ」
そうして陣佐に促されるまま顔を上げれば、仲見世通りの奥からまるで天女のような美しい行列が姿を現している。
禿の吉乃に始まり、新造の朧など、菜乃葉に育てられ、華幻楼を支える女郎たちが菜乃葉の象徴である黄色の華やかな衣装を纏って歩いていく。三味線や鼓の音が重なり、見物人は夢のような光景に思わず嘆息した。
「雪姉……」
そしてその中央、最も目を引く美しい打掛を纏い、カラカラ、コロコロと高下駄を響かせながらしゃなりしゃなりと歩みを進める主役の花魁、菜乃葉。
日の光の下に晒される菜乃葉は、白粉に塗られた肌が眩く光り輝き、べっ甲の簪で結わえられた黒髪は艶やかで、誰もが見惚れて息を呑む可憐さだった。
軽やかに揺れる裾や簪が、まるで風に舞う花弁のように見える。人々は口々におめでとう、綺麗だよと叫び、菜乃葉を祝福した。陣佐や庄衛門も高く手を打ち鳴らしている。
雷蔵はまるで白昼夢のような光景にただただ立ち尽くした。そんな矢先、ふと、菜乃葉が観客の中の雷蔵を見留める。
「あっ……」
名前を呼ぼうとしても喉が貼り付いたように声が出ない。そうしてしどろもどろな雷蔵を見て、菜乃葉はくすりと口紅で彩られた唇を弓なりにして微笑んだ。
その笑顔は、自らの運命を受け入れて零れ落ちたような、あの時のものとは全く以て異なる。自らの足で進み行く、強く美しい、雷蔵が憧れた嘗ての小雪を彷彿とさせるものだった。
それに気付いた瞬間、雷蔵の目から大粒の涙が止めどなく零れ落ちる。菜乃葉は突然号泣し始めた雷蔵に目を丸くし、次には仕方ないねぇと言わんばかりに破顔してみせた。雷蔵は引き攣れる喉で歯を食い縛り、頬に手を添え、思い切り声を張り上げる。
「おめでとうございます! ……これからも、お元気でっ……!」
菜乃葉はこくりと深く頷いて、そっと大門の方へ視線を移した。そこには、黒塗りの自動車をつけた三十路ほどのが男が、心底幸せそうに頬を染めて菜乃葉の到着を今か今かと待っている。
「財閥のお世継ぎだもんなァ。流石菜乃葉。良い旦那を捕まえたなァ」
陣佐が関心と言わんばかりに腕を組んで頷いた。大門まで出た菜乃葉は、深々と花街へ頭を下げた後、そっと吉乃や朧を抱きしめ、旦那となる男の手を取って自動車へ乗り込んだ。
あの時と同じように彼女は男に連れられて去るというのに、雷蔵の心中は驚くほどに凪いでいる。もう大丈夫だと思えるほど、菜乃葉も雷蔵も強くなっていた。
(波留日……)
そして意外にも雷蔵の心を巣食っていたのは、未だに姿を見せない師、波留日への心配であった。




