雨と類と熟れた桃。下
畳んだ傘を片手に帰路を進んで社屋へ戻った雷蔵は、引き戸に手を掛けたその瞬間、柔和な雰囲気を漂わせる夫婦と鉢合わせした。思わず飛び退いた雷蔵の仕草はまるで虫にでも出くわしたかのようで、夫婦は互いに顔を見交わし、困惑の色を浮かべている。
「そんな驚くなよ、雷蔵」
「じ、陣さん。この方々は……?」
玄関先で立ち尽くす二人の後ろから陣佐が顔を出して、雷蔵はほっと胸を撫で下ろした。陣佐は雨が上がったなァ、と眩しそうに空を見上げてから、その長い腕を伸ばして朝星新聞社の隣にある空き家を指差す。
「あそこに越してくる日向端夫妻だ。これから家の修理とかが入って騒がしくなるからって挨拶に来てくれたんだよ。誰かさんが屋根を踏み抜いたりしているからなァ? まぁそれはさておき、新婚さんなんだってさ、羨ましいねぇ」
「日向端です。夫の明彦と、」
「妻のキミです」
明彦は陣佐ほどではないが、すらりと華奢で背が高く、物腰の柔らかさから知的な雰囲気を漂わせていた。キミは小柄で、くりんとした大きな瞳が目を引き、気立ての良さそうな笑顔が魅力的な女性だ。雷蔵は二人の礼儀正しさに慌てて頭を下げる。
「た、達川雷蔵です。朝星新聞社には、作家として出入りしています……」
「そうでしたか。申し訳ない、怪訝な顔をしてしまって。達川さん、私達は東京に出てきたばかりですので、何かとご迷惑をお掛けすると思いますが、何卒宜しくお願い致します」
陣佐は早速明彦と打ち解けたようで、彼の肩に手を置き、雷蔵に不足していた情報を教えた。
「旦那の方は植物学者さんで、地元の山梨から異動してきたそうだ」
「桃も持って来ましたので、ぜひ召し上がって下さいね」
その隣でキミも雷蔵に語りかける。その田舎特有の素朴な雰囲気が温かく、懐かしさとともに自然と笑顔が零れ落ちた。
「ささ、今日は挨拶回りだけだから引き止めちゃいけねぇ。実際に越してくるのは文月の終わりごろだそうだ。じゃあな、日向端サン。帰り道には気を付けて」
陣佐の一声で二人は深々と頭を下げ、雨上がりの下町を寄り添いながら歩いて行く。その後ろ姿を見送り、雷蔵と陣佐が社屋の中に入ると、ふわりと桃の甘い香りが鼻孔を擽った。
「早速皮を剥いているのよ。陣さんも雷蔵君も、ほら、召し上がって?」
台所ではヒサが丁寧に桃の皮を剥いている。山梨のものとあって大振りで色が良く、皿の上で艶々と輝いていた。見ているだけでごくりと喉が鳴る。その隣では、一足先に波留日が一切れの桃を摘まみ食いしていた。
「あっ! 手前ェ波留日! 夫妻が来た時も置物みたいになって碌な対応しなかった上に摘まみ食いとは良い度胸だなァ!」
「雷蔵、この桃甘くて美味しいよ、流石甲府の桃だね。あとは皆で食べてよ、僕は十分食べているからさ」
波留日は悪びれる様子もなく指についた果汁まで味わうと手を洗い、陣佐と雷蔵に向かっていつになく真面目な表情を見せて口を開く。
「……今から籠って完成させようと思う。陣佐、鎌田君に原稿はそう待たせはしないと伝えておいて」
「お、おう。分かった」
そのままからかってやろうと意気込んでいた陣佐は肩透かしを食らった。硬い声音に若干の戸惑いを見せながら何とか返事をする。
「あと……雷蔵、」
そして次に波留日はくるりと雷蔵へ向き直った。
「砂浜の彼方もいいけれど、池田川賞に向けた作品の構成も考えようか。少しずつでいいからさ」
「え、何でそんな急に……」
雷蔵も波留日の矢継ぎ早の要求に眉を下げ、早速二階へ行こうとする波留日を呼び止めた。
「取り掛かりは早い方がいい。鷺坂が本格的に動き出す前に。さっきの吝類が訪問してきたことだって、十中八九今後の警告だろう?」
出来たら見せてね、と言い残し、波留日は階段を駆け上がってしまう。その間、波留日が一度も目を合わせてくれなかったことに気付き、雷蔵の背筋にサァと季節外れの冷たい風が吹き抜けた。
「……雷蔵を守ると言ったからには、アイツも腹を括ったんじゃねぇのか」
陣佐は上がり框に腰かけ、桃の入った皿をヒサから受け取る。竹串でそれを喰らえば、あまりの水分量にじゅるりと音が鳴った。
「美味いな! ほら、雷蔵もおヒサさんも食えよ! おーい!」
そうして舌鼓を打った陣佐は、奥の方で作業に追われている新聞記者達にも声を掛ける。そうすれば草臥れた様子の青年達が顔を出し、宝石のような桃を見て目を輝かせた。
浮かない顔で立ち尽くしていた雷蔵も、陣佐に促されるままそれを口に運ぶ。噛めば噛む程泉のように果汁が溢れ出し、口元から零れ落ちた。
頬が零れ落ちそうな程に甘い筈であるのに、雷蔵の顔は晴れない。賑わう皆を前にどこか上の空で、波留日が登っていった二階へ続く階段を唯々見つめていた。




