信念と夢と拾う神。 上
鎌田が言っていた「その時」は、唐突に訪れたのだった。
「御免下さい。どうか、私の小説を読んでほしいのです」
カラカラと引き戸を開ける音と、声変わり前の澄んだ少年の声。応接室でふて寝をしていた陣佐はガバリと身を起こして、跳ねた髪を撫でつけた。
(コイツ、鎌田が言っていた奴か!)
慌てて玄関へ赴けば、玄関扉の前に、薄汚れたシャツを身に纏った細い体躯の少年が立っていた。追い返すには憚られる身なりだ。碌に飯も食っていないのか、元より大きいであろう瞳が痩せてギョロリとこちらを見据えている。その肌は、向こう側を見通せるほど白く透き通っていた。歳は十二、三程か。成程、お稚児さんと言われても納得する容姿だ。しかし痩せすぎだな。と陣佐は内心目の前の子供を値踏みして頷いた。
「……ウチは新聞は出しているが、文芸はやっていないぞ」
社屋の奥から姿を現した大男を前に気圧されたらしい子供は、ズッと一歩後退って陣佐の顔をまじまじと見た後、大きな瞳が零れ落ちてしまうのではないかと思う程にその両目を見開いた。
「何かついているか? 悪いな、昼寝していたんだ」
陣佐は首を傾げて自らの頬やら髪やらをペタペタと触る。しかし子供はその質問には答えず、慎ましい唇を小刻みに震わせながら問い掛けた。
「あなたは……半間、陣佐ですか?」
おどけてみせていた陣佐の動きがはたと止まる。
「何で俺の名前を」
少年は瞳を小刻みに揺らしながらそっと目線を逸らした。唇を強く噛んでいる。
「誰から聞いた。偕成の鎌田か」
責め立てるような陣佐の声にハッと呼吸を取り戻した少年は、自らを律するかのように勢いよく首を振った。黒髪がぱさぱさと少年の頬を打つ。
「いや……そんな事どうだっていい。私の小説を読むのか、読まないかだけに答えて欲しい」
その小さな手が差し出す原稿。その右手の中指には、その華奢ですっと通った指に似合わないタコができていた。陣佐はじっと紙の束を見下ろし、ややあってそれに手を伸ばす。
「今から読んでやる。適当にそこら辺に座ってろ」
その言葉に顔を綻ばせた子供は、ぐっと小さく拳を握ると軽やかな足取りで上がり框へ腰かけた。何だ、やっぱりただの子供じゃないか、と肩を竦めて笑った陣佐は、床にどすんと胡坐を掻いて原稿に目を落とした。
「……これ、本当にお前が書いたのか」
読んでいた時間がどれ程かは存ぜぬ。取るに足らぬことだからだ。陣佐の全身は衝撃で打ち震えていた。確かに、鎌田の言う通り出来の良い原稿だ。子供が書いたとは思えぬ筆致で綴られる文字の軌跡は、繊細ながらその奥には激情が流れるようで、鮮烈に陣佐を稲妻の如く撃ち抜いた。
子供が書いたから凄いのではない。純粋に、作品として出来が良いのだ。陣佐は呆気に取られて阿呆臭く口を開けっ放しにした面で子供を見やった。少年は口を真一文字に引き結んだ後、靴を脱いで床に座る陣佐の前に腰を下ろす。小さな膝小僧が二つ並んでいる。少年は胸に手を当てて真っ直ぐに陣佐を見据えた。
「……私は、私の作品に対して決して嘘はつかない。真に受ける人は今のところ居ないけれどね。ねぇ陣佐、貴方はそうではないと、貴方は、貴方だけは、私の文を、魂を、色眼鏡無しに真っ直ぐに見てくれると信じているのだけれども」
そうして陣佐を見つめる瞳は、こちらが息苦しくなる程、何かに訴え掛け、縋るような色を湛えている。陣佐は唾を飲み込んで、カラカラに乾いた声を絞り出した。
「……お前、何者だ。親は、故郷は」
少年は座っていたその身をすっくと起こして、胡坐を掻く陣佐をそっと見下した。
「……僕は橘波留日。ただ純粋に、物書きを志す者。親も、故郷も此処には無い。僕が持つのは、この身一つと綴る文字だけだ」
その言葉は、一言一言を陣佐へ刻み込むように放たれた。陣佐は胡坐を崩して立ち上がる。見上げていた波留日の姿は、立ってしまえば小さな小さな子供だ。親も何もないとは、その小さな体に一体何を背負い込んでいるのだろう。陣佐には、あの原稿と、少しばかり語られた素性において、この子供を摘まみだして見放す選択肢はなくなっていた。
「お前の望みは何だ。生憎、この朝星新聞社に文芸誌は無い。では、この小説を載せるために新聞に文芸欄を作ることか。それとも、元大手出版社勤めだった俺の伝手か」
その言葉に、波留日はキラキラと目を輝かせた。次いで、そうして高揚する気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸って吐く。
「陣佐さえよければ、文芸誌を作りたい。誰でも載せられる、才能を探すための門戸を。この世界を切り開き、未来まで届く物語を綴る、宝石の輝きを放つ才を持つ者を探したいんだ。そして君が、私や、その原石の担当編集になってくれ」
思ってもみない提案だった。文芸の世界は自由なように見えて息苦しく鬱屈としている。大学やら門下やら数多の派閥に分かれ、才を磨き合うように見えて潰し合い、上に認められなければ無価値・無才の厳しい世界。この子供は、そうして潰される才を嘆いているというのか。そして、その凝り固まった世界に一閃の切れ込みを入れようとしているのか。
「ねぇ陣佐、頼むよ」
目の前に選択が転がっている。陣佐は、乾ききった口内でごくりと喉を鳴らした。
(無謀だ。馬鹿げている)
否が応でも見せられてきた文字と情報の世界。それは陣佐に現実と諦めること、引きさがること、眉を下げて乾いた笑いを浮かべることを学ばせた。今回だってそうすべきだ。子供の戯言でしかない。それでも、なぜか心臓が高鳴って仕方ない。
諦める理由、断る算段を考えていた脳内は、今しがた手にしている少年の原稿を武器としてどう生かせばいいのかの計画にすり替わっている。あぁ、駄目だ、楽しい。陣佐は目を閉じて笑った。この決断の行く末は愚行になる。そんなこと分かりきっていると云うのに、自らの行く末に限界を感じていた陣佐は、その愚かさに賭けてみたくなった。
どうせ辞めるのだ。コケて損害を出した後にこの社を去るでも結果は変わらぬ。そう思えば陣佐を、何でもできるような全能感が包む。
「……かつ丼とオムライス、どっちが好きだ」
気付けば、陣佐はそんな事を口走っていた。ぽかんとした面を晒す波留日に、陣佐はニヤリと白い歯を見せて笑った。
「腹が減っては戦はできぬと言うだろう。なぁ?波留」
陣佐が波留日の頭を撫でれば、少年は目を輝かせて飛び上がり、大男の胸元へ飛び込んだ。
「ありがとう、ありがとう、陣佐……!」
「おうおう、お前の思い通りになるかは分かった事ではねぇが、拾ってやるよ」
「うん、うん……! 僕だって、何だってする!」
軽い身体を受け止めて背中を撫でてやれば、波留日は陣佐の肩口に顔を埋め、くぐもった声を上げる。
「……で、御注文は?」
「……オムライス、食べてみたい。卵がいっぱいの、肉もちゃんと入ってるやつ」
「はいはい。じゃあたらふく食えよ。奢ってやるからな」
陣佐はその言葉に微笑むと、縋り付いて泣く波留日をひょいと持ち上げて肩に乗せ、大きな一歩を踏み出した。
しかし当然ながら、その道のりが簡単なわけがない。わざわざ別の事業に赴いていた庄衛門の元を訪れた二人は、波留日の紹介もそこそこに、「文芸誌を作りたい」と進言をした。庄衛門は、やさぐれていた陣佐がいきなりやる気に満ち溢れ、そして年端もいかぬ子供を希望の星だのなんだのと連れてきた時には頭を抱えた。ついにこの男、狂ったか。と。
しかし、塞ぎ込んで腑抜けていた陣佐が未来を見据えて語る様は、嘗ての眩いばかりの姿を彷彿とさせる。情熱の行き場を無くして助けを求めていた男を飼い殺しにしている罪悪感が、全否定を躊躇わせる。
「……まず、やるなとは言わない。陣、お前がやりたい事を見つけられたのは喜ばしいことだ。だがなぁ……手始めにこちらでできる事は朝星新聞の広告欄に原稿募集の広告を載せるくらいだ。社内での待遇は結果が見込めたら考える」
陣佐が作った文芸誌の概要と計画書に目を落としながら、厳しい言葉を吐いた。
「金もツテも全部こちらでやってほしいって話だな。ったく、相変わらず損得勘定がお好きで」
陣佐は承知していたのか、食ってかかることもせず皮肉交じりに肩を竦めて笑う。そんな陣佐を見上げて、不安そうにその表情を伺う波留日の視線に気付くと、わしわしとその頭を乱暴に撫でた。
「なぁに、社長は面倒だから俺達を相手にしない訳じゃない。金も出さなきゃ口も出さない。自由にできるって事だよ」
「結果を出せば当然支援するさ。第一、この弱小の新聞社がこんな子供と文芸誌を始めるなんて、事業としては危険すぎる。社全体が倒れるわけにはいかぬ」
「そういうことか……」
波留日は合点したように頷いた。陣佐はそんな波留日の肩をがっしりと掴むと、驚いて見上げた顔にニヒルな笑顔を向けてみせる。
「裏を返せば、採算が見込めて金さえ用意できれば良いって事だ」
「それはそうだけど……」
不安そうな顔を浮かべる波留日に、陣佐は背広の内ポケットに入れていた手帳を取り出してみせた。
「やってやるよ。何のために俺が新聞部で精神をすり減らせていたのか、分かった気がするぜ」
帰りの汽車の中で通路側の座席に座り、手帳片手に何やら考え込んでいた陣佐は、隣に座り窓に貼り付いて外の景色を見る波留日へ口を開く。
「波留日、今から小説を何本も書いてくれ。できるだけ。そしたらそれを偕成に売り込む。お前は偕成で新人作家としてデビュウするんだ。偕成で名前売って、ここ朝星でお前の思い通りの文芸誌を作る」
波留日は窓から目を離して振り向くと、煙草をふかす陣佐に向かって眉を下げる。
「でも、偕成には断られた」
「小説の出来自体は良いと鎌田が言っていた。原稿は欲しがってるに違いない。……それならなんとでもできる。例えば……俺だけがお前を遣わせたジジイ作家と繋がった。そのジジイが俺だけを窓口にしたいと言っている。本物の橘波留日と連絡を取りたくば俺を通せ、とかな」
手帳に何やら細かく文字を書いていた陣佐は、顔を上げて悪戯小僧のような笑みを浮かべた。波留日は思わぬ作戦と陣佐の表情に一度目を見開き、頬を膨らませたのち頷いた。
「不本意だけど……分かった。書くよ。でも文芸誌を出すための資金はあるの?」
「今は無いが、ちょっとしたアテがあるんだ。期待しといてくれ」
陣佐はペンをポンポンと手帳に打ち付けて胸を張る。
「……うん。分かった。流石陣佐だね」
波留日は唇を弓なりにして、こてんと陣佐の逞しい肩にその身を預けた。汽車は揺れながら東京を目指す。




