現実と愛と掴む腕。 下
今宵も開店前の華幻楼には新聞のネタの糸口を探しに来た陣佐が訪れ、手土産片手に山吹と話し込んでいる。
「なぁなぁ、山吹、最近登楼した客に政治家や軍部の御偉いさんが来たりしてねぇか?」
そう無邪気な子供がお菓子をせがむように問いかけてみれば、煙管をしなやかな指先で持つ山吹は、紅を走らせた艶やかな唇を弓なりに微笑んで首を傾げる。
「そうだねぇ、陣さんになら言ってやってもいいかもねぇ。その代わり、うちの新造の涼風と菜乃葉と話してやっておくれ。あの子達、特に涼風は愛想が悪くて敵わない。釣れない態度は人気の性といえども、アレはやりすぎさね」
「ははは、こんな俺でよければ」
「そうやって卑下しなさんな。陣さんの明るさと人の良さは、男に不慣れで勝手の分からぬ子達には最高のお客様なの。おっかさんに頼んで安くしてもらうよ」
やり手婆が一目で気に入る見た目と気性の陣佐は、いつの間にやら華幻楼の遊女皆が好むものとなっていた。初めは用心棒として門前に控えていただけだったのが、いつの間にやらクセのある遊女の練習台として駆り立てられたりと、この華幻楼との縁は、思わぬ方向に転がっている。
「……で、ウチの社長とはどうなのよ」
陣佐はそうして信頼を置かれるくすぐったさに鼻をすすり、胡坐をかいて首を傾げる。
「可笑しい人よ。私の機嫌ばっかり伺って、何が欲しい? なにが好き? って。うふふ、可愛い人」
「ははは、年甲斐もなく全く……。まぁ、仲良くしてやってくれよ。俺の大切な社長様だからな」
「言われなくても。あの御方は素敵な御方よ? 私を、華幻楼一の、いや、この花街一の遊女にするなんて息巻いちゃって」
山吹は袖で口元を隠してクスクスと笑った。
「そうそう、情報よね。つい先日、ここの奥の座敷で見かけたのは……」
しかしすぐに山吹は陣佐の本命の話題を思い出し、口を開く。陣佐は胸元から手帳を取り出し、その艶やかで男を支配する唇から出る名前を夢中で書き綴った。今度こそ、正義のために自らのペンを振るうために。
しかし現実はそううまくいかないのが現実である。
「悪いな、陣。政府からこの事案は駄目だと」
「そんな事ばっかり、もううんざりだ! 変わらねぇじゃねぇか……。社長、本当にこの調子を続けるなら俺辞めますよ。三ヶ沢の件なんて、まだ誰も掴んでいない特ダネだ! それをみすみす逃すってのか!」
久々に出版社へ顔を見せた庄衛門は、顔を合わせるなり陣佐が最も嫌う言葉を吐いた。机を叩いて怒りを顕わにする陣佐を宥め、庄衛門も溜息をついた。
「そう言わずにな、陣。お前がいるお陰で新聞自体の出来は上がって売り上げは伸びているんだ。成り行きで君を雇ったが、今になっては君はわが社に必要な存在だ。頼むよ」
「……っ、そうやって規制が厳しい時代になっていることは分かってる。でも、前の会社に居た頃と変わらなくなったら、俺は辞めるぞ」
怒りを吐き出しきれず全身を震わせる陣佐に、庄衛門は冷静な目を向けた。
「辞めてどうする。きっとウチがそうなった頃には、どこの出版社も新聞社も一緒だ」
「……」
陣佐はその言葉に何も返す事ができず、折角掴んだ特ダネをそっと手帳に忍ばせた。
不完全燃焼で燻るその身に酒を浴びる。
「結局どこも一緒だ……。お前は楽しそうでいいな」
いつかと同じように陣佐の伏せる卓の上には、何本もの徳利が転がっていた。対して向かいの席に座る鎌田の顔は晴れやかで。
「楽しいっていうか、新しい、かな。俺達とは考え方の違う作家の相手をするってのは、骨が折れるが飽きないし、彼らの世界を覗けて飽きない」
「文芸か……。偕成は文藝礼讃をやっているもんなァ。そりゃあ飽きねぇよ」
陣佐の皮肉交じりの悪態を、鎌田はそのまま誉め言葉として受け取った。
「あぁ、強烈だよ。特にその文藝礼讃を仕切る桑原慶治先生、あの御方は頭の捩子が数本飛んでら」
そう言ってビールを煽る鎌田に、陣佐は苦笑いして乾いた笑いを浮かべる。
「ははは……」
「そんな疲れたお前に面白い話を。なぁ知ってるか? 最近出来のいい原稿片手に出版社を行脚している変な子供が居るんだ」
「なんだそれ」
怪談じみた導入に、陣佐はのっそりと顔を上げた。
「俺達のところにも来たんだが、これを持ってくるよう遣わせた大人は誰だいと問うても、『自分が書いた』の一点張り。自分を小説家にしてくれ、やりたい事があるんだと頼み込んでくる。大手は門前払いだろうからそろそろ中小のお前の所に来るかも知れない」
「なんだそれ」
「あの端正な顔つきじゃぁ、きっと何処かの作家お抱えの少年だろうな。お稚児趣味的な……?」
ニヤリと下世話な笑みを浮かべる鎌田を横目に、陣佐は逆上せた頬のままじっと臥せってその不思議な少年に思いを馳せた。
文芸の世界は報道の世界より幾らかマシかもしれないが、結局権威と利権がものを云う下らぬ世界だ。一体何を以てして少年の幼い体で地を駆け、小さい手で大人が犇めく汚らわしい文字の世界の扉を叩くのか。何を思って、その原稿を運ぶのか。
陣佐には、その少年の行動を笑う事がどうしてもできなかった。酒が回って世界がくるくると回る。陣佐はその歪んだ世界から逃げるように、そっと目を閉じた。
***
物思いに耽っていたら最寄り駅までついていたらしい。すっかり編集長が板についた陣佐はつり革から手を放し、人混みを掻き分けて電車を降りる。昔は大手新聞社でブイブイ言わせていた陣佐であったが、下町が拠点となった今では、都心の洗練された雰囲気はいつの間にか慣れないものとなっていた。
恐らく数十年前までは丁髷やらが闊歩していた江戸は、すっかり欧米の風に吹かれた町並みをしている。近年は木造ではなく鉄骨やら石やらで作られた背の高い堅牢な建物が軒を連ね始めていた。その文明開化の町並みの中に偕成出版の社屋はある。大柄な自分すら見上げる建物に、陣佐は苦笑いをした。
自らを証明する術や後ろ盾などがなかった、ただの子供であった波留日が足を踏み入れるにはあまりにも大きい魔城のようであると。
「御免下さい。朝星新聞社の半間と申します。文芸部の鎌田をお願いします」
陣佐は一度大きく息を吐いて吸うと、扉を開けて受付嬢へにこやかな笑顔を向けた。




