雨と類と熟れた桃。上
あの華幻楼での出来事は、少しばかり文壇を騒がせたという。鷺坂有太夫が遊女に狼藉をはたらいたこと、そして橘波留日が年端も行かぬ子供であるということ。それにどんどんと尾鰭がついたりつかなかったり。
文豪が集まる晩餐会に陣佐が顔を出した際、数人の文士に噂について尋ねられたとぼやいた。
前者は「想像通り」といった具合で、後者については、酔っ払った鷺坂の言うことを真に受けている者はいなかったらしい。
陣佐は「俺は嘘は言わなかったぜェ」といつも通りの飄々とした態度で、悪戯っ子のような笑顔を浮かべて舌を出した。
因みに、雷蔵と波留日がそういった文壇の集まりに顔を出せない理由は、雷蔵はあの鷺坂に目を付けられていたため、波留日はその正体を隠しているためである。日々是好日における社交の矢面は、全て陣佐が担っていた。
「っと、原稿は順調かァ? お陰様で日々是好日の売れ行きは上々。それに、『砂浜の彼方』は結構な人から好評の声を貰ったんだぜ。良かったなァ」
陣佐は文机に向かい話を聞いていた雷蔵の手元を覗き込み、ポンと頭を軽く叩く。雷蔵はその弾みで跳ねた髪を撫で付けながら、肩を竦めて笑みを浮かべた。
「期待に応えられるよう、増々精進します。あぁやってあの男にも啖呵を切ったんだ。より良いものを書かなければ」
僅かに開けた窓から吹き込む風は、真夏の雨の湿った空気を纏い、じわりと汗を誘う。大雨の中を縫って、一際強い一陣の風が舞い込んだ。それはひらりと雷蔵の隣で執筆に励む、日々是好日のもう一人の文士の原稿を舞い上げる。
「あっ、」
波留日が自分の書いた原稿が飛ばされて声を上げた。畳に胡座を掻いていた陣佐が素早く立ち上がり、それを空中で掴み取る。
「よっ、と。波留日センセも書くといったなら書いてもらわなきゃなァ。もう鎌田には橘波留日の原稿を持ち込むって言っちまってるんだからな」
「分かってるよ。ほら、返して」
そうして原稿を受け取った波留日は、迷うことなくスラスラと小さな手で文字を綴った。雷蔵はそんな師の美しい所作を、息抜き混じりにぼんやりと眺める。
外は、真夏の積乱雲が誘う大粒の雨が降っている。ザァザァと雨粒が弾ける音を背に、窓際で煙草をふかしながら、陣佐が独り言のように呟いた。
「……菜乃葉の花魁道中、晴れると良いなぁ」
「来週の日曜だっけ? 台風が来なければ、だね」
波留日がペンを置いて立ち上がり、壁に掛けられた月捲りの暦を見上げる。葉月の真ん中、赤く丸を付けられた日曜日がより一層目を引いた。
「雪姉なら大丈夫。晴れればそれが良いけれど、きっとどんな天気でも雪姉なら完璧な主役になれる」
雷蔵は読み返していた原稿から顔を上げ、目尻に皺を寄せて微笑む。
夏の雨の最中、その湿気に相応しく編集部がしんみりとした空気に包まれたその時であった。
「おーい! 雷蔵クン! 達川雷蔵はおるかぁ?」
その声を聞いた瞬間、雷蔵の顔は苦虫を噛み潰したように渋くなり、うへぇと声を上げる。波留日と陣佐はそんな雷蔵を見て、大声の主が何者かと窓を開けた。二人は身を乗り出して、社屋の前の通りを見る。
大雨が降りしきる空の下、一人の男が傘も差さずにしきりにこちらへ手を振っていた。
「おいおい、ありゃぁ……」
「雷蔵クン! 降りて来てやぁ! 後生じゃから!」
陣佐が苦笑いで雷蔵を見やる。頭を抱えている雷蔵は、叫び続ける男の声に痺れを切らすと、立ち上がってため息をついた。
「……少し出てきます。日々是好日には迷惑を掛けぬようきつく言っておきますから」
そうして不安そうな波留日の視線を背中に感じながら、雷蔵は緩慢な所作で階段を下り引き戸を開ける。そうすれば雨の香りと共に、湿気で外はねする髪をそのままに、細い目を弓なりにして笑う若い男が朝星新聞社へ舞い込んできた。
「ひゃあー、酷い雨じゃ! 久しぶりじゃのう、雷蔵! 生きとったんかワレェ!」
「類……。何でお前が此処に。此処は杜若の傘下でもなければ廓でもないぞ」
吝類。鷺坂が広島の遊郭で拾ってきた女形の芸妓及び太鼓持ちの青年である。鷺坂の下で物を書く一方、堅い文体が特徴の杜若派の作家の中で、稚拙でありながら色のある、退廃的な作品を書く異質な人間だ。
出身や軟派な性格、そしてその中性的な見目から遊郭や玉ノ井に精通した有名な遊び人としても知られており、学も無いことから雷蔵共々他の門下生からは良いように思われていなかった。
しかしその適当な性格と鷺坂の真の寵児であったことから類は全てを受け流し、そしてその期待に応えるように実力を残している。言うなれば、杜若の異端児だ。
「兎に角此処は都合が悪い。出るぞ」
雷蔵は傘を差して社屋から出ると、ゆっくりと街を歩き始める。なるべく朝星新聞社に杜若派の人間を近づけたくないという一心で雨の中を進んだ。
類は図々しくも雷蔵の隣を陣取って傘の中に入り、歩幅を合わせながら無邪気に話し始める。触れる肩から、じわりと雷蔵の着物へ水分が移っていった。
「ワシは謝りに来たんじゃ。なぁ雷蔵、ウチの先生がえらい迷惑掛けたのぉ。全く、初登楼の廓で大暴れなんて、ワシ聞いて吃驚したんじゃ」
まるで他人事のような物言いに雷蔵は胡乱な目を向けて、飄々とする類を睨みつける。
「そもそもあの男の廓遊びの根回しはお前の仕事じゃなかったのか。あの日、お前は一体何をしていたんだ。馴染みの店に行くでもなく、急に華幻楼にやってきて御職を出せだなんて。失礼極まりない振る舞いだったんだぞ。当然出禁を喰らったんだろう?」
未だに怒りは収まらないと言わんばかりに雷蔵がきつく責め立てれば、類は眉を下げて頭をポリポリと掻いた。しかし反省や申し訳ないという態度ではなく、おどけてみせるような、芝居掛かった仕草だ。
所在なく街を歩けば、いつの間にか川沿いの道に出ており、雷蔵は川縁に足を運ぶ。降りしきる雨粒が次々と川面に波紋を作っている。雷蔵はそれを見下ろして足を止めた。類はそんな雷蔵の横で道にしゃがみ込むと、手持ち無沙汰に雑草を引っこ抜いて川へ投げる。
「……いやぁ、アン時な、ちぃと色っぽ過ぎる小説を書いて検閲に引っ掛かってもうてな、内務省の通達で発禁を喰らうわ、取り調べに連行されるわで散々だったんじゃ!」
あっけらかんとケラケラ笑う類に、雷蔵は口をあんぐり開け、額を押さえて深いため息をついた。彼の作品が検閲に引っ掛かりがちで修正や取り下げの命令をよく受けるのは有名な話であったが、まさか連行されるまでになっているとは。
あの鷺坂の元で書き続けるに相応しく、胆力のある人物だと雷蔵は呆れながらも半ば感心してしまう。
「御役所にこってり絞られた後、次は先生の所で同じように絞られて、漸くお役御免になったんじゃ! してそのまま雷蔵の所へ来たんじゃ! あー、皆に虐められるワシ、可哀想!」
類はわざとらしくおいおいと泣き真似をしてみせた。顔を覆う手の指の隙間からちらりと外を覗き見れば、冷めた目で類を見下ろす雷蔵が見える。
「おぉ、怖っ」
「用がないなら早く帰ってくれ。俺だってお前ほどじゃないが忙しいんだ」
そうして踵を返そうとする雷蔵を、類は腕を伸ばして慌てながら引き止めた。彼は咄嗟に雷蔵の袴の裾を掴む。身体が揺れた弾みで雷蔵の差す傘からポロポロと雨露が落ちて地面で弾けた。
「違うんじゃ違うんじゃ。揶揄いに来たんじゃないんじゃ。ワシは警告しに来たんじゃ」
「……警告?」
雷蔵は足を止め、急に縋るように情けない声を上げた類の方へ向き直る。しゃがんだまま立ち上がる余裕さえないのか、類は自らの袴が泥に汚れるのも厭わず地面に膝をつき、いつになく真剣な面持ちで雷蔵を見上げていた。
性別も年齢も一見不詳で狐のような妖しさを纏っている顔が不気味さを放つ。一方、雷蔵を見つめる青み掛かった瞳は、波留日を彷彿とさせる真っ直ぐさを湛えていた。
「……気ィつけぇや。ウチの先生、良からんこと考えとるわ。雷蔵が再起しとること、橘波留日が年端もいかん子供じゃったこと……。全部が先生の神経を逆撫でしとる。なるべくワシが気付いて何とかしたいけぇが、どこまで抑えられるか……。ワシはあの時もあの後も、雷蔵に執着して傷付ける先生を止められんかったし、傷付く雷蔵を救うちゃることもできんかったんじゃ。じゃけぇ、そのくらいはさせて欲しいんじゃ」
袴を掴む手と反対側の手が、濡れた地面を握り締める。こんなにも地面を引っ掻いてしまえば、爪の間に泥が入り込むだろう。類の態度と言葉を受け、雷蔵の瞳が一瞬揺れた。しかしすぐに頭を振り俯いて、自らに言い聞かせるように口を開く。
「……あの男がどうしようが、俺達はひたすら書いて、人々の心に残る小説を作るだけだ。あの男のすることなんて別にどうでもいい。だって俺はもう一人じゃない。波留日や陣さんがいる。あの人達と一緒なら、俺は何にだってなれる気がするから」
言葉を紡ぐ度、雷蔵の揺れる瞳は爛々と輝いて光を湛えた。首も徐々に上を向き、その気持ちに応えるかのように空模様も好転して光の筋が降り注ぐ。雲間から差す光に、川面の波紋が煌めいた。
「雷蔵……」
「警告は感謝する、類。でも、俺達は負けない、絶対に。だって、俺達には魂があるから」
そう言って雷蔵は懐から手ぬぐいを取り出すと、地べたに膝をついている類へ渡した。そして踵を返すとひらりと手を振って朝星新聞社への帰路を歩き始める。残された類は立ち上がり、渡された手ぬぐいで泥を払った。
「……そうじゃのう。アンタ強うなったな、雷蔵。ワシも早う動かんと、なぁ」
そして懐から湿気た煙草とマッチ箱を取り出して肩を竦めると、それを袂に放り込んでフラフラと鼻歌混じりに東京の下町を歩き始める。




