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現実と愛と掴む腕。 上

 トントン、と机上で原稿を揃えて封筒に入れる音が狭い部屋に響く。手慣れた陣佐の様子を、雷蔵と波留日は固唾を飲んで見守っていた。


「……よし。二人ともお疲れさん。まずは第一関門だな。行ってくる」


 鞄に封筒を丁寧に仕舞い、陣佐は帽子を目深に被った。封筒の中には、取引道具である波留日の原稿と、桑原慶治に献上する雷蔵の力試しの原稿が入っている。


 弥生の上旬であるこの季節。外は冷たく寒さは残れど、吹き上がる風にどこか春の気配を感じた。そんな空の下を半間陣佐が歩く理由は、偕成出版へ向かい、この原稿を渡して波留日の願いを叶えるためだ。


(確かに、鎌田が言っていたように俺も変わったよな。ガキの俺に、大人になった俺が辺境の文芸誌でたった一人編集をやっているだなんて言ったら、絶対に信じないだろうよ)


 ふわりと前髪を乱す風に眉間に皺を寄せ、陣佐はひと月半程前のサシ飲みを思い出して一人でにて笑ってみせた。ふと、こんな風の強い日に朝星新聞社へ入る決意をし、社長と取引をしたなぁと思い出しながら。



***



 情熱だけが空回りする虚しさたるや。若さを持て余し、高い志を抱いていた青年、半間陣佐にとって、その不完全燃焼は苦痛でしかなかった。


 商人の次男坊に生まれた陣佐は、幼い頃から大人たちの宴席に忍び込むことが好きだった。大人たちが話す、広い世界のことが好きだった。我ら極東の小国が北の大国を打ち破ったとか、列強の仲間入りだとか、知らぬ言葉が次々と飛び交い、我が国が世界を牽引していくのだと熱を帯びていく。


 その活気に包まれながら、陣佐は日の丸のめんこを握りしめて同じ空気を吸い込んだ。パチパチと弾けるようなざわめきが肌の上で火花のように散り、自分が生きるこの世界のことをもっと知りたくて、気難しい顔で新聞を読む大人たちの真似をして紙面を手に取ったものだ。


 今思えば、ませて洒落臭い餓鬼であっただろう。しかしそんな子供を父は気に入り、次男にも関わらず期待を寄せて学をつけることを許した。そして鎌田は高等商業学校で出会った学友だ。


「なぁ陣。此処を出たらどうするつもりだ? 家業は兄貴が継ぐんだろう?」


 長火鉢の煙の中、薄暗い酒場で燗酒をあおりながら、鎌田は眼鏡をくいと上げて首を傾げた。二十歳を目前にした若き青年達は、進路を決めねばならぬ岐路に立っていた。


「決まってるさ。俺は新聞記者になる。世の中の真実を掴んで筆にし、民衆に広い世界を伝えるんだ。たとえ地を這ってでもな」


 陣佐は強く拳を握り、安酒の居酒屋がまるで演説舞台かのように高らかに宣言してみせる。ニコニコとその様子を眺めていた鎌田の顔を覗き込むように、陣佐は鎌田に詰め寄った。


「お前は?」


「……まだ考え中だな。ここは予科だし、本科に進むのも一つかもしれん」


「じゃあ俺は一足先に社会へ出て正義を遂行するさ。俺の活躍に目を見張るといい」


 そうして成績優秀で社交的だった半間陣佐は、誰もが知る新聞社に入社し、政治部の人間となった。手帳とペンを携え、身一つで駆けずり回り、陣佐はどんなに些細な事でも取材し、記事を書いた。しかし。


「この人は駄目だ。支援してもらっているんだから。こんなのをうちで出したら何をされるやら」


「この記事は出せない。民衆を混乱させてしまう」


「この事件は警察の方で内密に処理されるから外に出しちゃいけない。残念ながら没だよ」


 書いた記事の大部分は、追った事件の大半は、そんな理由で切り捨てられた。それでも数は書き、その出来は良かったから残った記事はきちんと評価された。


 しかし、陣佐の願う正義は、陣佐が望む未来は、陣佐が踏み入れた世界には何処にもなかった。


「もう限界だ……」


 酒場で日本酒を煽り、陣佐は卓に伏せる。辺りには彼を囲うように空になった熱燗が何本も転がっていた。


「分かるぜ、俺だってこの数か月で厭になっちまってるんだからさ。もう新聞部じゃなくて雑誌や文芸の方に移動しようかと思ってるんだ」


 大学へ進んだ鎌田も本科を卒業し、大手出版社である偕成出版に勤めはじめていた。陣佐と同じように社会に揉まれ、彼の前にも空になったグラスが転がっている。


「そんなお前に少し提案」


 草臥れやつれた陣佐の様子を見ていた鎌田が、足元に置いていた鞄に手を伸ばして一部の新聞を取り出した。


「朝星週報……」


「お前は知ってるかもしれないが、実業家の辻庄衛門が半ば道楽でやっている中小規模の新聞社だ。刊行しているのはこの週刊新聞。俺達のような大手が使い捨てたり、触れられないような事件を深掘りしたり、民衆のくらしに密着した記事を書いている」


 陣佐は酒でぐらつく視線でじっと記事を睨む。週刊新聞らしく、丁寧な紙面だ。悪くない。陣佐は審査員にでもなったつもりで口をへの字に曲げてじっとそれを読み下した。と、いつか自分が切り捨てられた事件についての記事が端に印刷されているではないか。


「あ……」


 当たり障りないように、それでも懸命に事実を追おうとする気概が見える。何処か親近感の湧く熱意に、陣佐はじっと唇を引き結んだ。


「今居る大手の待遇やら何やらを捨てるのは忍びないかもしれないが、お前には合っているんじゃないのか、と」


 鎌田はそっと卓の上にある新聞を指でなぞり、胸元のポケットからペンを取り出す。


「うちの社長の行きつけの遊郭に行く時に辻殿を見かけてな。少し興味が湧いて調べたんだ。そうしたら朝星新聞社を知り、彼の通う遊郭に行き着いたわけだ。その遊郭の名は華幻楼。お前も様子を見てみると良いさ」


 新聞の端に華幻楼、と達筆に綴られたそれを、陣佐は酒で揺れる瞳でじっと見下ろした。



***



 花街は相変わらず欲と金の澱でくすみ、それを隠すかのように灯や飾りが煌めいている。陣佐はそれなりに小綺麗な格好で人混みを闊歩し、花街の奥へ鎮座する格式高き妓楼へ足を運ぶ。今までの情報収集のための登楼はしていたが、ここまでいい所は初めてで気が引ける。しかも誰かの金ではない。自腹を切って、だ。


「いらっしゃい……。まぁ合格か。一見さんかい?」


 帳場で楼を仕切るやり手婆が、来店した陣佐を頭のてっぺんからつま先までを舐めるように見定めて煙を吐く。


「まぁ、そうなるか。俺は少し遊女と世間話をしたいだけなんだ」


「おや、粋な男だねぇ。ここに来る若い男は、どうしても会いたい女がいるとくしゃくしゃの札握り締めて鼻息荒く飛び込んでくるってのに」


「いやぁ……此処の女郎達は皆美人さんだからなァ」


「嘘だね、大方アンタは報道の人間だろう。此処に来る大物狙いかい」


「……バレちまいましたか。いやぁ、冷やかしのつもりじゃねぇんですけど」


「ここまで取り繕わないで馬鹿正直にいう奴があるかい」


 陣佐が困ったように眉を下げて言えば、婆はニヤリと口角を上げて興味深そうに首を傾げる。


「小僧、名前は?」


「半間陣佐だ」


「陣佐か。 その顔といい、身体といい、気概といい、気に入ったよ」


 婆は煙管の灰をカン、と勢いよく落とすと、振り返って後ろに控える女中に声を掛けた。


「おい、今時間が空いてる話上手はいるかい? この小僧をお通ししな」


「私が出ようか? おっかさん。丁度今日はお客が遅くに来る予定なんだ。それまで私が御相手するよ」


 見世から顔を出したのは、煌びやかな顔が目を引く、美しい女郎だった。凝った刺繍があしらわれた濃い黄色の打掛が眩しい。


「山吹かい。……陣佐、アンタ運がいいよ。この山吹は人気の娘さ。気立てが良くて物知りでね。ウチの華幻楼が知の妓楼と呼ばれる理由の一人さ。それにこの子は、気に入った男しか登楼を認めないんで有名なんだ。そんな山吹が自ら声を掛けるとはねぇ。……山吹、アンタの望み通り、半間様の御相手を頼むよ」


 その一声で、陣佐は山吹と呼ばれた女郎に連れられ、妓楼の中を歩く。


「悪いな、人気の遊女がこんな若造の相手を」


「いいえ、私、半間様はとっても自信に溢れているように見えて、何処か不安を抱えているような、そんな感じがいたしんした。だから声を掛けんした。私は高いけれど、出世払いということにいたしんしょう」


 山吹は広い部屋を屏風で仕切った割床ではなく、少々狭い個室へ向かいその襖を開いた。どうやらこの女郎、思った以上に位が高いらしい。傾城の一歩手前というところか。陣佐は出世払いで良いと言われながらも、財布の底が抜けていく感覚に、ごくりと一度喉を鳴らした。そして震える唇を何とか開く。


「半間様なんて他人行儀な。陣とでも呼んでくれ」


「……じゃあ、陣さん。一体全体、どんな御話をいたしんしょう」



***



 初めて陣佐が華幻楼の敷居を跨いで数週間。今宵も陣佐は山吹や女郎達と雑談に花を咲かせた。さりげなく妓楼の人間達に取り入り、いつの間にか用心棒的立ち位置を手に入れるなど経費削減の努力はしているものの、女郎の時間を貰うには相応の金が要る。


 ただの客ではなく、特別な客として見てもらうためとはいえ、陣佐の財布はそろそろ底を突きそうになっていた。しかも今日は女郎を取り合う男共が店先で殴り合いの喧嘩を起こし、その仲裁に入ったせいで頬を一発殴られた。痛い出費に痛い損害だ。風が強いせいで元々ぐしゃぐしゃだった髪がより乱れる。


(辻の旦那にも会えなくちゃぁ困るんだがな……。来てはいるらしいんだが、入れ違いでどうしても会えねぇ。山吹目当てらしいが……まだ登楼は認めてないって言っていたな。全く、お高い女だぜ。お陰で素寒貧だ)


 なけなしの金で買う安い煙草に火を点け、花街の大門を潜って娑婆へ出る。口内が鉄臭くて塩っぽい。まだ唇が切れている感覚がして顰め面をした。溜息交じりに天を仰げば、淀んだ澱の膜が無くなり、高く漆黒の空が広がっている。


「おい若造、最近華幻楼に取り入っているのはお前か」


 煙を吐いた矢先、背後から低い男の声が聞こえて呼び止められた。陣佐はゆっくりとした動きで足を止めると、ニヤリと口角を上げて付けたばかりの煙草を地面に落として踏み潰す。


「その声、さては辻の旦那だな?」


「若造、貴様は山吹の旦那なのか、山吹を愛しているのか」


 陣佐は思ったよりもこの男が山吹を思慕していることに感謝した。わざと大げさな素振りでゆらりと振り返ってみれば、そこそこの資産家が護衛も付けずに、大柄でガタイの良い陣佐とたった一人で対峙しているではないか。


「いやぁ、俺はそんなつもりはねぇなぁ。ただ向こうがどう思っているかは知らねぇよ」


「何度も登楼して山吹に会っているというのにその台詞か」


「だって俺は山吹と床入りはしてねぇし、他の女郎とも御喋りはしているからな。あの人が特別な訳じゃねぇよ」


 陣佐は洋袴のポケットに手を突っ込み、笑い声混じりにわざと男の神経を逆撫でするようなことを吐く。


「不埒な」


 当然、馴染みの女郎が居るにもかかわらず他の女郎に手を出すことは御法度だ。この男が怒りを見せるのに何の間違いも無い。陣佐がただの客で全員と床入りまでしていたらの話だが。


「そうやって俺の不義理を言うんじゃなくて、素直に山吹に近づくなと言えばいいんじゃねぇの」


 陣佐は煙草を一本取り出して火を点ける。吐いた煙が漆黒の空にくゆんで消えていく。


「一人の立派な男が、若造相手に煮え切らずチクチクと。資産家の辻庄衛門様が姿を見ただけの女郎に年甲斐もなく一目惚れたぁ、アンタも可愛いところがあるじゃねぇの」


 挑発的な台詞で煽ってみれば、庄衛門はこの失礼極まりない若造に青筋を立てている。


「っ、」


「まぁ、俺が山吹に気に入られたってのは事実だ。その俺が紹介して口利きすれば人気者の山吹にだって会えるかもしれねぇけど」


 陣佐は庄衛門を交渉の場に引きずり込み、一枚の札を出す。


「……何が望みだ」


 庄衛門は胡乱な目で陣佐を睨みつける。


「俺は半間陣佐という者だ。新聞記者をしている。登楼していたのも、女郎の話し相手として懇意にして貰っていたのも情報収集のためだ。ああいう場所は、口も財布も頭も緩くなったお偉いさん方の宝庫だからな。で、これが俺の書いた記事」


 懐を探り、陣佐は庄衛門に一束の新聞を投げて寄越した。それを怪訝な顔で受け取り開いた途端、庄衛門の顔色がガラリと変わる。


「この新聞……! 大手じゃないか! お前……朝星を潰しに来たのか」


「まさか。末端の記者である俺にそんな権限があるとでも?」


 陣佐は警戒心を顕わにする庄衛門に声を上げて笑うと、今まではその身長故に見下ろしていた男の前に跪いた。


「俺を雇わねぇか。……俺は疲れちまったんだ。どんなに取材しても、結局は上の権力で握り潰される、そんな世界の正義の無さに」


 膝の上で握る拳が震える。庄衛門は思わぬ取引内容に面食らって目を見開いた。


「私に貴様を引き抜けと……? 待て、そんなことをしたらお前の会社に喧嘩を売るようなものじゃ……」


「じゃあ山吹には辻庄衛門のつの字も口にしねぇ」


 庄衛門の困惑を隠せない様子を前に、陣佐は下手に出ていたのを一転してぺろりと舌を出した。


「っ、この卑怯者めが……! それに、貴様は朝星新聞が自由と思っているかもしれないが、大手同様検閲や政府の目はあるし、大手だから守られている部分があるとも言えるぞ」


 そんな陣佐の態度に怒りと呆れを見せた庄衛門。しかしその心配の言葉を陣佐は遮る。


「それでも! 彼処に居たら俺は腐っちまう。今の俺がいる世界は、箱庭同然だ。俺は、俺は筆によって正義を書きたいんだ」


 陣佐は自らのシャツの胸元を引っ掴み、顔を上げた。庄衛門は街灯に照らされるその精悍で、必死な顔を見下ろし、暫く迷ったように目を泳がせると、困ったように眉を下げて笑い声を上げた。


「……若いし青い。眩しくて目が痛いよ。この大馬鹿者め。……だが、そんな馬鹿が嫌いじゃないのも事実だ」


 額を小突くと、不意を突かれた陣佐はそのまま尻もちをついた。


「そして、この馬鹿を気に入って、女に会うために言う事を聞くアンタも大概だ」


 そう減らず口を叩く陣佐に、庄衛門は乾いた笑い声を上げてそっと手を差し出す。


「間違いない」


 陣佐はその手をしっかりと掴み取った。

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