↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
晴ル日々好日 ――崖っぷち草臥れ小説家、文豪に成るまで死ねぬ――  作者: 安藤未粋
一章 此世ノ地獄ヘ蜘蛛之糸ヲ垂ラス

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/80

絶望と縄と文芸誌。下


「お前が、あの橘波留日で、日々是好日の主宰だって……? 冗談も休み休み言ってくれ……!」


 波留日が主宰する文芸誌『日々是好日』は、都内の小規模な新聞社である朝星《ちょうせい》新聞社によって発行されている商業誌である。


 しかし、その性格は一般的な文芸誌とは大きく異なっていた。


 日々是好日では、出版社が原稿料を支払わない代わりに、審査も編集も一切行わない。思想・立場・文体のいかんを問わず、誰もが自由に投稿でき、検閲にさえ抵触しなければ、そのまま誌面に掲載される。つまり、掲載作のすべてが「投書」で成り立っているのだ。


 この仕組みのため、寄稿者の顔ぶれは多岐にわたり、まるで市民全員が同士であるかのような独特の一体感を生み出していた。刊行当初、朝星新聞社は日々是好日を特徴づける言葉として、「市井文芸誌」と銘打った。


「残念ながら冗談ではないよ。疑うのなら今すぐ編集部に来てもらってもいい」


 そして今から一ヶ月半程前、雷蔵はその市井文芸誌へ、自らが置かれた八方塞がりで絶望的な状況を打開するために、希望を託して原稿を送った。話題になればと、どうか誰かに届いて欲しいという願いを込めて。


 しかし、夢にまで見た文芸誌という舞台で世に出たはずの自分の言葉は、いざ活字となって並んでみると、ただの「文字の羅列」にすぎなかった。文士でもない様々な人間が投稿する数多の作品の中で、輝くはずだった文は一筋の光も放たず、灰色の中に沈んでいた。印刷された紙とインクの匂いが立ち上る中、雷蔵は、自分が信じてきたものがまるで幻だったかのように感じて立ち尽くした。


もしこの作品を、ただの読者や、あるいは文士が見たとしたら。彼らは何を感じるだろう。おそらく何も感じはしない。頁を捲るその数秒の間をただ通り過ぎていくだけだ。


 ――自分は何者でもないし、何者にもなれない。

 そんな言葉が胸の底からにじみ出て、喉元で重く滞った。


 雷蔵がそう思わされたのは、同じ号に掲載された橘波留日の短編が、あまりにも強烈だったからでもある。久々に筆を執ったというその作品は、ひとたび目にすれば、誰の記憶にも焼き付いて離れぬほどの力を持っていた。


 ――あぁ、何をしたって敵わない。


 彼の綴る、あの美しく、鋭く、そして恐ろしいほどの言葉を自分が書ける日は永遠に来ないだろう。


 一体彼はどんな人生を歩み、何を見てきたのか。雷蔵は恐怖した。地獄を味わったつもりであったのに、彼の文にはさらに深い奈落と、そこに差し込む眩い一筋の光があった。

 どうすれば、あの高さに辿り着けるのか。どれほど生まれ変わり、どれほどの痛みに身を晒せば、あの領域へ行けるのか。


 そんな絶望と畏怖が静かに雷蔵の胸の奥を締め付け、遂に、彼の中で何かがぽきりと折れた。


「……じゃ、じゃあ、俺は……こんな子供のために、死のうとしてたってのか……?」


 冬の空気に晒され、乾いて皮の剥けた雷蔵の唇がひくりと震える。掠れた息が嗚咽のように漏れ、それでも無理やり言葉が絞り出された。


 目の前に立つこの少年が、あの橘波留日だと名乗った。


 その瞬間、血が逆流するような熱が駆け巡り、焼けるような嫉妬と、どうしようもない怒りが、骨の髄まで満ちていく。


「そんな馬鹿な話があってたまるか!」


 叫びとも呻きともつかない響きが、冬の下町に響いた。

 雷蔵は着古されて煤けた着物の胸元を引っ掴み、眉を吊り上げ、歯を食い縛って目の前の少年を見下ろす。


「この俺を殺す男だぞ……! あの文で、俺を絶望に突き落としたんだ! もっと……もっと崇高で、貫禄のある男でなければ……俺が死ぬ意味が……!」


「……へぇ。君、死ぬの。何で?」


 酷く冷たい声がその発露を遮った。ハッとして声の主を見れば、先程の無邪気な少年然とした瞳とは一転、何もかもを飲み込む深淵のような黒が雷蔵を見上げているではないか。


「まだ何者にもなっていないのに、何も残せないまま、こんな若造に自尊心を引き裂かれて愚かにも喚きながら死ぬのかい」


 凍てつく声に雷蔵は腰を抜かし、足をもつれさせて情けなく座り込んだ。弾みで舞い上がった砂埃が、冬の乾いた空気に溶けていく。


「お、俺は……」


 言葉が続かない。ハクハクと溺れた魚のように口を開閉するしか無くなった雷蔵を前に、波留日は名案だと言わんばかりにニヤリと笑ってみせた。


「そうだ、達川雷蔵。そんな情けない死に方をするなら、その前に僕の世話係に御成りよ」


 その笑みは、悪戯を思いついた子供のように無邪気で、それでいてどこか恐ろしい。雷蔵はその形のいい唇から飛び出した言葉に唖然とし、その意味を漸く理解した後カッと青筋を立てて気色ばんだ。


「だ、誰が世話係になんて! 俺は誰の下にもつかない! 冗談じゃない!」


 なけなしの気力を振り絞って言い返せば、波留日は雷蔵の薄汚れた着物の襟を掴むと、ぐいと自分の方へ引き寄せる。そして拾い上げて手にしていたままの日々是好日をぐいと襟元へ捻じ込んでみせた。口封じと言わんばかりに。


「決めるも何もないよ。ねぇ、雷蔵?」


 その声は穏やかである一方、全く温度を感じなかった。雷蔵は鼻先が触れそうな程に詰め寄った波留日を前に、否応なしに目を合わせざるを得なくなる。そしてそんな波留日の瞳の奥で、ゴウゴウと音を立てて燃え盛る巨大な炎を見た。


(コイツは一体、何者なんだ……!)


 雷蔵の薄い胸の中は得体の知れない恐怖で埋め尽くされて瞬く間に体内へ蓄積し、喉元までせり上がる。雷蔵の呼吸は呆気なくままならなくなり、わななく唇を引きつらせると、叫び声にも似た悲鳴を上げて走り出した。


 下駄が片方脱げたのも構わず、後ろも振り返らずに地面を蹴る。逃げなければならないという直感だけが、死にかけて、死を望んでいた雷蔵を突き動かした。


 波留日はその情けない雷蔵の後ろ姿をじっと見つめて口を真一文字に引き結ぶ。そして、ゆっくりと膝を折ってしゃがみ込んで、地面に落ちていた縄を手に取った。



***



 少年の気迫にあえなく敗れた雷蔵は、ガタガタと立てつけの悪い引き戸を無理矢理開けて狭く薄暗い自室へと転がり込んだ。片方だけの下駄は脱ぎ損ねたまま、散乱した紙束で溢れる床を這って進む。


「死んでやる、死んでやる……! あの小僧、一体俺の何を知って、あんな口が利けるんだ! 馬鹿にしやがって!」


 雷蔵はバサバサと乱暴に着物の袂へ手を入れてしきりに腕を動かした。なけなしの金で買ったあるものを取り出すために。けれど、ない。肝心の縄が、どこにもない。


「アイツ持って行きやがった! 畜生が!」


 雷蔵は拳を床に叩きつけて歯を食いしばる。荒れた息づかいが部屋にこだました。


「いいや……何も死ぬ方法はアレだけじゃねぇ筈だ……!」


 血走った目で辺りを見回した雷蔵の目が、ふと一点を捉える。碌に手入れもせず、蜘蛛が巣を張りそうな程に放置された水瓶の横。転がっている錆びかけの剃刀。しばらく使っていなかったそれが、妙に眩しく見えた。


「太い血管を切ってやればいいんだろう……?」


 雷蔵は袖をまくり、腕の内側、皮膚が薄く血管が青く走っている部分に刃を当てた。ひやりと無機質な金属の温度が、日焼けとは無縁の白い肌を泡立たせる。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 冬なのにも関わらず全身から汗が噴き出し、額から顎を伝って滴った。一滴、二滴、三滴……。床に散乱する書き損じた原稿用紙にポタポタと汗が滲んでいく。


 視界が歪み、世界が、音が遠ざかる。酸素が足りない。雷蔵の手は痙攣し、剃刀の切っ先が跳ねた。


 ――あの原稿、どれほど嬉しかったか……本当にありがとう――


 キィンと耳鳴りがして、あの少年の声が蘇る。ふと気づけば、冷たい剃刀を持つ雷蔵の手にふわりともうひとつの感触が重なっていた。ひやりとした小さな手が、彼の指をそっと包み込む。


 ――どうか、これからも書き続けてほしい――


 ――雷蔵――


「っ……何で、だよ」


 あんなにも拒絶し逃げ出したのに。過ったのは彼の言葉、彼が呼ぶ自分の名だった。震える指の隙間から剃刀が零れ落ちる。床の上を転がる音がやけに大きく響いた。雷蔵は力み過ぎて震える己の右手をそっと抱きしめて蹲る。カチカチと歯の根が合わないまま、ひとつ言葉を吐いた。


「……最悪だ」


 死ぬ理由を作った奴が、その口で死ねない理由まで寄越してきた。腹の中で、喉の奥で、感情が膨れあがっては形にできず、ただ、ひとしずく、涙とも汗ともつかない水が、頬を伝って落ちる。酸欠で霞む頭のまま、雷蔵は目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。