布団と緑茶と原稿用紙。
「達川サァン、達川雷蔵サンは御在宅でしょうかァ」
引き戸が不躾に何度も叩かれる音で目を覚ました。
死に損なった身体にまとわりつく脂汗の、何と気持ちの悪いことか。
雷蔵は朝方の寒さにぶるりと身震いした後、今現在置かれている状況を把握して息を呑んだ。やや傾いているような玄関の、格子戸の向こうに人影が見える。ぼんやりと浮かび上がるその姿は、まじまじと見るまでもなく恵体をしていた。
(取り立てだ。そうでなければまさか……)
朝方の低血圧も相まって顔面蒼白になった雷蔵は、ジタバタと死にかけの虫のように床を這いずって部屋の隅の煎餅布団に潜り込んだ。孤独な雷蔵の元を訪ねてくる存在など、良縁な訳が無い。
「どうして……? 借金は返した筈だろ……? じゃあ何だ、何だってんだ!」
布団の中でひいふうみいと思い当たる件を指折り数えてみるも、焦りで頭がうまく回らない。ぐるぐると目が回って吐き気だけを連れてきた。喉の奥がひくついて舌の根が強張り、雷蔵は口元を咄嗟に掌で覆う。
(利息を払い切れていなかったのか……? それとも……。いや、そんな筈は無い……!)
その間も男は雷蔵を責め立てるように玄関扉を叩き続けた。このまま息を殺している間に諦めて帰ってくれやしないか。雷蔵はそんな一抹の希望を持って布団の中で縮こまる。
しかしそう願ったのも束の間、布団の外でガコンともガチャンとも形容し難い鈍い音が響いた。薄暗く淀んだ空気に満ちた部屋へ、早朝の陽の光と共にサァと新しい冷えた空気が取り込まれる。ふわりと床に散らばった紙が数枚舞い上がった。
「何だ、達川サン、居るじゃあないの」
引き戸を無理矢理外して押し入ってきた人影の正体は、雷蔵よりも少し年上に見える、洋風の外套がよく似合う洒落者の男だった。
「だ、誰だアンタ! 勝手に人の家に入ってきて! お巡りを呼ぶぞ! し、借金だって完済したんだからな!」
雷蔵が掛け布団を被ったまま顔だけ出して威嚇すれば、外套の釦を外していた男はキョトンと目を見開いてケラケラと声を上げて笑ってみせた。
「確かに今のは乱暴だったなァ! だが安心しな。俺は借金取りなんかじゃねェ」
男は丁寧に靴を脱いで上がり込むと、紙に溢れた床を掻き分けて、布団の虫となった雷蔵の前にすっとしゃがみ込む。男の体重を一身に受けた床板がギッ、と軋んで悲鳴を上げた。
「名乗るのが遅くなってすまねェな。俺はこういうモンだ」
男は慣れた手つきで外套の下に着ていた背広の胸元をゴソゴソと探ると、雷蔵の眼前に小さな紙きれを突き出す。雷蔵はそれが名刺だと分かると、社会の決まりに従っておずおずと両手を差し出して受け取った。怪訝な顔つきを隠さず、雷蔵は目を細めて名刺に書かれた文字の羅列を指でなぞる。
『朝星新聞社 日々是好日編集部 編集長 半間陣佐』
「な、な……!」
その意味を理解し飲み下すや否や、雷蔵は目の前の男の正体にあんぐりと口を開けて飛び退いた。後頭部を勢いよく壁にぶつけて長家が揺れる。天井の隙間から零れ落ちた埃がはらはらと降ってきた。
「な、何でそんな方が俺の所に……」
痛む頭を押さえながら、雷蔵は呆然と陣佐を見上げる。日々是好日へ寄稿した原稿は、波留日の執筆した作品の前では何の輝きもないただの石ころだった。編集長自らがわざわざ動くような価値など無い筈。
それに加えて主宰と道端で口論をし、負け犬も指差して嘲笑出来るほど情けない姿を晒して逃げたばかりだ。
「そりゃお前決まってんだろ。ウチの波留日先生がお前を気に入ったからさ。世話係に任命したってんで、お迎えに上がったわけよ」
可笑しくて堪らないという風に笑顔を浮かべる陣佐。やはり昨日のやり取りが夢でも何でも無く、波留日の言葉も冗談でなかったという事実に、雷蔵の全身から冷や汗が噴き出る。
「な、何でそんな事になるんだ……! 俺は、誰の弟子にも世話係にもなるつもりはない! それに、俺はアイツに散々悪態ついて逃げたんだぞ!」
「ウチの先生はそう簡単に諦める人間じゃねぇ。だからお前が大人しく折れな」
「嫌だ! あんな化け物の世話なんて俺にできるか!」
業炎が燃え上がる深淵のような、波留日の真っ黒い瞳が雷蔵の脳裏に過る。あれを目の当たりにし、自分の情けなさを詰め寄られるなど二度と御免だった。
「まぁまぁそう嫌がりなさんな」
「俺は誰の門下にも入らない! って、おい、なんでそれをお前が持ってるんだよ!」
そう宥める陣佐の手には、昨日雷蔵が買った首括り縄が握られているではないか。
「波留日が寄越したのさ。お前が嫌がるようなら、縛ってでも連れてこい、ってな」
「ひっ……! 厭だ! 厭だ! 止めてくれ! 誰か、誰かっ……!」
手元の縄をくるくると弄ぶ手つきは妙に手慣れていて気味が悪い。俺の縄だ返せ、俺は世話係になんてなるものかと問答しているうちに、雷蔵は抵抗虚しくもあっという間に被っていた布団ごとぐるぐると縛り上げられてしまった。
布団の芋虫が、床の上でうねうねと不気味にのたうち回り、くぐもった呻き声を上げている。
「これからよろしくな、雷蔵センセ。俺としてもあの我儘坊ちゃんの世話焼き仲間が増えて嬉しいぜ」
満面の笑みを浮かべながら、半間は簀巻きにした雷蔵を軽々と肩に担ぎ、玄関扉の壊れた古臭い長屋を出て行ったのだった。
***
簀巻きにした雷蔵を肩に乗せ、半間陣佐は下町の歩道を悠々と歩いた。布団の隙間から覗く雷蔵の足が、彼の歩調に合わせてぶらりぶらりと揺れる。通りすがる者は目を見張り、眉を顰め、ときに立ち止まっては何かを囁き合った。しかし陣佐自身はそんな視線を一切意に介す様子もなく、鼻歌交じりで歩き続ける。
やがて陣佐の足は年季の入った木造家屋の前で止まった。軒先には筆書きで『朝星新聞社』と記された簡素な看板が少し傾いてぶら下がっている。陣佐は肩の上で随分と大人しくなった雷蔵を持ち直すと、空いている片手で引き戸を開けた。
「御帰り、陣さん。それ……なぁに?」
「んー、波留日への大切な御届け物さ」
土間で台所仕事をしている女性が顔を上げ、布団の塊を見て首を傾げる。歳の頃は三十半ば程、華やかな顔のつくりに、髪を後ろにまとめた姿がよく似合っていた。
「ふふ、変なの。中身がお客様なら、後でお茶を御出しするよ」
「あぁ頼んだ。いつもありがとな」
陣佐は目を細めて笑う彼女に白い歯を見せ、踏めばミシミシと軋む階段を上がってゆく。大股で狭い廊下を進み、新聞部と札の掛かった襖を通り過ぎ、突き当たり、奥の襖を開けた。
「御苦労だったね、陣佐」
物置のような狭苦しい部屋には、原稿用紙や雑誌がうず高く積まれている。壁は本棚が一面を覆い尽くし、重たげに軋んでいた。古い書物とインクの香りが、辺りを落ち着いた雰囲気にする。
部屋の中央に置かれた小さな臙脂色のソファには、波留日が悠然と腰をかけていた。膝に一冊の本を乗せ、陣佐とその肩に乗る簀巻きを見やっている。
「全くだ。とんだ御遣いだよ、波留日」
陣佐は簀巻きの雷蔵を無造作に床の上へ放り投げた。鈍い音と共に、くぐもった呻き声が漏れる。しかし陣佐は意に介さずそのままむんずと布団を掴み、手早く縄を解いて思い切り布団を剥いだ。中で蹲っていた雷蔵は、暗闇から解き放たれて眩しさに目を瞬かせる。
「昨日振りだね、雷蔵」
波留日はソファから立ち上がり、すっとその白い腕を情けない体勢で転がる雷蔵の眼前へ差し出した。
「ようこそ。『日々是好日』の編集部へ」
雷蔵は、その細く華奢な指先に自分の汚れた手を重ねることが酷く場違いに思えた。口を引き結んだまま、波留日の手と整った顔を交互に見つめる。
年齢に見合わぬ叡智と、底知れぬ熱をその目に湛えた姿は、昨日と寸分も変わらずに浮き世離れしていた。
「ほら、雷蔵、立ちたまえよ。いつまでそんな情けない姿を晒すんだい」
波留日はいつまで経ってもピクリともしない雷蔵に痺れを切らしたのか、ゆっくりと身体を屈めて目線を合わせる。
雷蔵は決まりの悪さから波留日の目を見ないように、眉を下げてそっと下を向いた。隠すように自らの両の手を膝の上で絡めて握り締める。
波留日はすっと両手を伸ばして、雷蔵の手を取り、ゆっくりと絡まった指を解いていった。そして遂に解放した右手を握り締めると、迷うことなく雷蔵を起こし上げた。
***
湯呑みが三つと小さな洋菓子が小さな座卓に並ぶ。雷蔵は湯呑みいっぱいに湛えた柔らかな黄緑色の液体がゆらゆらと揺れる様子をぼんやりと眺めた。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう、おヒサさん」
床にどっかりと胡坐を掻いた陣佐が声を掛ければ、おヒサと呼ばれた女性はゆったりと目を細めて応える。雷蔵は彼女の洗練された上品な身のこなしにすっかり委縮し、肩を丸めてぎこちなく会釈をした。
「彼女はおヒサさん。ウチの社長の奥様さ。社長は他の事業で忙しいから此処に来るのは稀だが、おヒサさんは社長と結婚する前から俺と知り合いで朝星をいたく気に入ってくれてな。徹夜やらで色々疎かになりがちな俺達の面倒を見てくれるありがたいお人だ。あ、あと、その茶葉は俺の地元から送られた一級品だ。有難く飲みな」
「は、はぁ……」
どこか気の抜けた相槌を打ってしまい、雷蔵は咄嗟に湯呑みへ手を伸ばす。熱い湯気が鼻腔をくすぐり、緑茶の香りがかすかに胸を緩ませた。おずおずと口に運べば、心地の良い温度がじんわりと広がり、緑茶特有のほんのりとした甘さが鼻に抜けていく。雷蔵は両手で湯呑みを包み込み、ほぅと小さく息をついた。
「……落ち着いたかい?」
その声に顔を上げると、波留日は座卓越しにこちらを見つめ頬杖をついている。先程まで部屋の中で張り詰めていた空気が、いつの間にか静かに溶けていた。
「ねぇ、達川雷蔵。君は、『日々是好日』をどう思う?」
波留日は肩を丸めて座る雷蔵の襟元へ手を伸ばし、昨日から挟まったままだった日々是好日を抜き取って座卓の上に置いてみせる。雷蔵はそれを一瞥すると湯呑を包む手に力を籠め、顔を伏せた。水面に映るその顔は、言葉を吐くのに迷っているように瞳が揺れている。
「……何て性格の悪い、最悪な文芸誌だと思ったよ。いや、文芸誌とも呼ぶべきでない代物だ」
雷蔵は消え入るような声で、意を決したように口を開いた。
「こんなものに原稿を寄せるようになったら、自分は御仕舞いだと思っていた」
しばらく沈黙が流れた。陣佐は何も言わず胡坐を解いて立ち上がり、窓辺に歩いてゆく。手慣れた仕草でマッチを擦って煙草に火を点けると、薄く紫煙をくゆらせながら空を見上げた。その精悍な横顔は、まるで自らの誌を貶されたとは思えぬほど穏やかだ。波留日は少し目を細めて、湯呑みの縁に指を添える。
「君の考えは間違いじゃない。寧ろ、文壇にて成功を目指しているような文士には、僕達の理念や文芸誌は、とんでもなく下賤なものに見えて当然だろうね」
雷蔵は思わず目を見開いた。罵倒を浴びせた自分を咎めるどころか、まるでそれを肯定するかのような波留日の言葉に、戸惑いと困惑が入り混じった息を呑む。
しかし、いったん口から飛び出した言葉は二度と戻らない。ましてや、相手に受け入れられたと知れば、人の気は簡単に大きくなっていくものだ。
「一般人が原稿を寄せてそれを載せる……。市井文芸誌なんて随分と御立派な看板を掲げているが、やることは主義もへったくれもない、何の技巧もないただの駄文の寄せ集めだろ……?!」
そうして勢いづいた雷蔵は、熱を帯びた声で持論をまくし立てた。
だが、その熱は長くは続かずに少しずつ言葉が途切れはじめる。遂に雷蔵は俯いて顔を歪め、悔しげに下唇を強く噛み締めた。
「何の価値もない! 無い筈なんだ……」
温くなった緑茶の水面には、眉を下げて項垂れた、情けない男の顔が映る。
「でも、君はその下賤な誌に原稿を寄せた。希望を託した。そうだろう?」
波留日は言葉に詰まった雷蔵の心を見透かしたように問い掛けた。雷蔵は図星を突かれ、眉間に皺を寄せる。
「ではその駄文の集まりの何が君に訴えかけたのか、分かるかい?」
波留日の大きな瞳が背を丸めて小さく縮こまる雷蔵の姿を映した。言葉に詰まって動けなくなった彼を前に、波留日はパンと手を打って席を立つ。
「この話はまた後でにしようか。雷蔵、本題に入ろう。君は僕の『世話係』になったわけだ。早速、最初の仕事を任せるよ」
「だから俺は弟子とか門下生とかそういう誰かの下にってのは……」
未だにぐちぐちと煮え切らない雷蔵の主張を遮るように原稿用紙の束を無造作に引っ掴み、勢いそのままに座卓の上へドンと叩きつけた。
ガタリと冷めた緑茶の入った湯呑みが震え、茶の表面が小さく波打つ。雷蔵が驚いて顔を上げると、波留日はその正面で仁王立ちになり、キラキラと星が瞬いているような瞳で雷蔵を真っ直ぐに見下ろしていた。
「君には小説を書いてもらう。……『日々是好日』初の連載作家としてね。今日が霜月の二十一日だ。直近の締め切りは師走の十日。年末だから通常より五日早いんだ。多少無理はあるけれど、そうすれば縁起よく一月号に君の連載が始まる」
雷蔵は、波留日と目の前の原稿の束を交互に見つめ、まるで夢でも見ているかのように呆けて口をぽかんと開ける。ややあってその言葉を理解した途端、雷蔵の唇がカタカタと震え、ようやく搾り出すように言葉が出た。
「書いて、いいのか……? 世話係なのに」
波留日は雷蔵の問いに一瞬きょとんとした顔を見せ、次いで穏やかに口角を上げる。
「何を言うんだい。当然だろう? 僕は、君に書いて欲しくて君を探し出したのだから」




