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任務と兆しと託す文字。

 そうして与えられた極秘任務を胸に勇次郎は道端で溜息をつく。辿り着けないのか、辿り着く気がないのか、その答えは本人しか知らない。


「こんなコソコソ覗きなんかしようとせずに、俺も書いて近づいてみるとか……?」


 電信柱に寄り掛かり、官兵衛の監視が無いのをいいことにぶつくさと独り言ちる。そうして何気なく吐いた言葉にハッと目を見開くと、手を叩いて顔を華やがせた。


「そうだ、それがいい、だって、誰でも書くことができるのが日々是好日なのだろう? それに、もしかしたらこれがきっかけで俺も文豪に……?!」


 その独り言が全て口に出ていたのか、道行く人々が怪訝そうな顔で勇次郎を見ている。勇次郎はその視線に耐え兼ね肩を丸めた。


「……やめだ。馬鹿馬鹿しい」


 そうしてだらだらと道を歩いている最中、勇次郎は前方の道の隅でしゃがみ込んでいる小さな人影を見つけて駆け寄る。


「どうかなさいましたか。御気分が優れませんか」


 そう話し掛ければ、若い女性は青白い顔を上げてホッとしたように表情を緩めた。


「すみません、目眩がして動けなくなってしまって……」


「それはいけない。荷物をお持ちします。もし差し支えなければ、御自宅までお送りしますが。あ、私、眞田と申します。決して怪しいものではありませんよ」


 勇次郎はそっと微笑むと脇にあった風呂敷包みを持ち上げ、もう片方の手を女性に差し出す。


「あ、ありがとう、ございます……」


 そうしているとガタガタと往来を掻き分けるように道を進んでいた車が二人の横でブレーキをかけて止まった。そうして窓が開けば、可憐な若く美しい女性が顔を出す。


「もし、そこの御方、どうかなさいましたか?」


「おや、貴女は官兵衛の……」


 松栄ミチ改め佐伯ミチであった。ミチは思わぬ出会いに目を見開いてゆったりと会釈をして微笑む。


「眞田様! 御機嫌よう。……その方は?」


「往来で気分を悪くされたらしいのです。今から荷物を持って送ろうかと」


 勇次郎は手に持っていた風呂敷包みをミチに見えるように掲げてみせた。そうすればミチは車内側からドアを開けひらりと手招きをしてみせる。


「まぁ、それは親切ですわ。それなら狭くなってしまうけれど、これに乗るのはどうかしら? もし、そこの方、お名前は? 御自宅はどこにありまして?」


「あ……日向端キミと申します……。家は……ここからすぐなのですが……。二丁目の……」


 見慣れぬ車を前にしどろもどろなキミはすっかり委縮してしまっている。そんなキミを安心させるように微笑んだミチは、身を乗り出して手を差し伸べた。


わたくしもその隣に用がありますの! 尚更お乗りになられては如何? 揺れがお辛くなければ」


 そうしてキミはミチにされるがまま車に乗せられてしまう。勇次郎も荷物を手に身を乗り出した。


「奥様、私も同行した方が宜しいでしょうか?」


「お願いするわ。さぁ、こちらへ御荷物を」


 そうして運転手の隣に勇次郎、後部座席にミチとキミという窮屈な状態でコトコトと車が走り出す。キミは初めての車に、体調が優れないにも関わらず目を輝かせて辺りを見渡した。


「外出とは、珍しいですね」


「えぇ。わたくし、どうしてもお会いしたい方達が居まして。御義母様に無理を申し上げて外へ出していただきました。……眞田様は非番でいらっしゃいますか?」


「え、えぇ、まぁそんな所です」


 藪蛇だ。勇次郎はきまり悪そうに首を竦めると苦笑いする。しかしミチはそんな勇次郎の歯切れの悪さを気にせず、パッと顔を華やがせた。


「あら。休日に街を歩くのはわたくしも学生時代よくやっていましたわ。懐かしい。……そういえば、官兵衛様は次はいつお戻りになられますの?」


「今は書類仕事ですので、次の土日のいずれかには帰ると思いますよ。全く、結婚すれば宿舎から出られるというのに、官兵衛は……。新婚の嫁さんをほっぽって、薄情な奴ですよ」


 からかうように笑った勇次郎に、ミチもクスクスと笑って首を横に振る。


「そんな事ありませんわ。わたくし、御仕事に真摯な方は嫌いじゃありませんもの。それに、佐伯家の皆様はわたくしを温かく迎えて下さって、本を読むのも許して下さるの。辛いことはありませんわ」


 勇次郎はその言葉に瞬きをして口元に手を当てた。


「軍人家系であるのに……想像と違いましたな」


わたくしもです。どうやら、わたくしが嫁ぐ前に官兵衛様が色々言ってくださったらしくて」


「アイツも可愛いところがあるもんだ。嫁さんの趣味を理解してやろうっていう気遣いか」


 いつもの無骨で不愛想な彼が一体何をしたのかと首を傾げる。そしてミチは隣に座るキミを気遣いながら、嬉しそうに声を弾ませた。


「そうですわ、眞田様、わたくしが今から行く所も……」


「若奥様、到着致しました」


 そんなミチの声を遮り、進んでいた車がブレーキ音を立てて止まる。ミチは運転手に声を掛けると、手早く道路へ降り立って車内のキミへ手を差し伸べる。


「御苦労様。さぁ、キミさんも、こちらへ」


「え、えぇ……」


「ここは……」


 一方、キミの荷物を持ちながら、勇次郎は呆然と車が停止した家屋の前で立ち尽くしていた。その理由は明白。あんなに辿り着けない改め、辿り着きたく無かった朝星新聞社の社屋が目の前にあったからである。


「主人は仕事でいませんで、隣の奥方に声を掛けていただけると……」


「おヒサさんね? 分かりましたわ!」


 ミチは勇次郎に肩を貸すよう頼むと、勝手知ったる様子で朝星新聞社へ入り、引き戸を開けて声を上げた。


「御免下さい! お久しぶりです、ミチですわ! おヒサさんはいらっしゃいますか?」


「おぉ、ミチ嬢ちゃん、久しぶりだな。おヒサさんは今日は生憎社長と旅行だよ。そんな焦った様子で、どうしたんたい」


 代わりに出てきたのは、シャツが似合う大柄な色男。軍人で体格に恵まれている勇次郎も少し見上げる程の上背に、以前渡された写真を思い出して唾を飲む。


(確か、編集長の半間陣佐、だよな……)


「お隣のキミさんが倒れていらしたのを介抱しましたの」


「おっと、そりゃあいけねぇ。キミさん、大丈夫か? こっちに来て休みな。徳檀先生を呼ぶか?」


 ミチからキミを受け取って軽々と抱き上げると、応接室のソファへゆっくりと寝かした。


「貧血だと思います。冬で体調を崩しやすい季節ですし、暫く休めば大丈夫です……」


「あい分かった。でもあんまり酷いようじゃ診てもらった方が良いだろうよ。待っててくれ、波留日と雷蔵に茶を出させる」


 そうして階段の手前まで足を運ぶと、声を張り上げて呼び出す。


「ありがとうな、ミチ嬢ちゃん、見ず知らずの人を助けるその気概、立派なもんだよ」


 しかしミチは首を横に振り、気恥ずかしそうに肩を竦めた。


「いいえ、わたくしは当然のことをしたまでですし、動けなくなっていたキミさんを見つけて解放していたのは眞田様ですわ。そうでしょう、眞田様? ……あれ? 眞田様……?」


 ミチは同意を求めて振り返るも、先程まで土間に立っていた青年の姿が見えずに首を傾げる。慌てた様子のミチに、陣佐も片眉を上げて首を傾げた。


「眞田……?」


「主人の友人で仕事仲間の方ですわ。先程までいらっしゃったのに……」


「……まぁ、名乗るほどの者じゃねぇって粋な演出をしたかったのかもな」


「さもありなんですわ。眞田様、軍人さんとは思えない程明るくて素敵な方ですから」


 ミチが陣佐の言葉を聞いて、頬に掌を添え笑みを浮かべる。


「ミチ、久しぶり! 御太鼓結びも様になってるね!」


「小袖もお似合いですね、ミチさん」


 そんなミチのもとへ、トントンと階段を軽快な音とともに駆け降りてきたのは、白磁の肌の美少年と、眼鏡の草臥れた青年だ。


「波留日先生! 雷蔵さん!」


「ちょっと待っててね、雷蔵、お茶を淹れよう」


 テキパキと急須と湯呑を準備した二人は手分けをして湯を沸かし、澄んだ緑茶を注ぐ。湯呑の一つを持った雷蔵は応接室で休むキミのもとへ足を運んだ。


「久しぶり、結婚以来初めてだね。結婚後の女性がこうして街をふらついて、漢所帯の出版社に立ち入るなんて、危険な事をしちゃって大丈夫なの?」


 波留日は上り框に腰かけ、ミチにも座るようにトントンと床を叩き、湯呑を渡す。ミチはそれを受け取り、温かく上品な甘さの緑茶にほぅと一息つくと、華奢な指で湯呑を握り締めた。全身にぐっと力が入り、肩が怒るのが分かる。


「だってわたくし、私、居ても立ってもいられなくて、無理を言って来たのです……! 本当は先月、杜若が発売された時に駆けつけたかった。微々たることでもわたくしにできることがあれば、と……」


 波留日は表情をふっと緩めて緑茶を口に運んだ。


「そうだね、あの時は大変だったよ。もちろん今もね。ミチが十一月号も原稿を取り下げないでいてくれただけでも嬉しかった。大丈夫、ちゃんとミチの気持ちは僕達に届いているよ」


 その言葉を聞いて、ミチはやっと肩の力を抜く。


「それならよかった……。でも、わたくし、許せないんですの! 日々是好日が一体杜若に何をしたというのですか?! 本来言葉というのは自由であってしかるべき……。それをせき止めんとする杜若は、幾ら素晴らしい文章を書こうがその品性を疑います」


 膝の上に乗せた掌を握り締め、ミチは俯いていた顔を上げて波留日を真っ直ぐに見つめた。


「土江麻美は……日々是好日を応援致しますわ。原稿だって出しますわ!」


「威勢がいいことだなぁ」


「そうですね、ミチさんの原稿があるだけでとても心強くなれる」


 大きな影がミチの隣に腰かけ、さらに優しい声が振ってくる。陣佐と雷蔵が穏やかな笑顔を浮かべていた。


「大丈夫だよ、ミチ」


 波留日がぴょこんと飛び上がり、土間に躍り出る。そしてミチの手をそっと取って笑ってみせた。


「僕達は粘るよ。文芸を愛する人が、寄稿してくれる人がいる限り、日々是好日を続けるさ」


 ミチはきゅっと唇を引き結び、次いで花が咲き誇るような笑顔を浮かべてみせる。


「ではきっと日々是好日は無くなりませんわ。雷蔵さんも居ますし、わたくしが、土江麻美が居ますもの!」


 徐に立ち上がったミチは、懐からそっと封筒を取り出した。


「十二月号への原稿ですわ。どうぞお納めくださいませ」


「ありがとう、確認するね」


 波留日は封筒を破り、丁寧な字で綴られたミチの魂に触れる。


「うん、大丈夫。不備は無いよ。ちゃんと形にするからね」


 波留日の言葉を聞いてほっと息をついたミチは、深々と頭を下げた。


「ではわたくしはこれで失礼致しますわ。皆様、どうかお元気で、そして少し早いですが、よいお年をお過ごし下さいませ」


「うん、ありがと!」


「ミチさんも、良いお年を」


 雷蔵は玄関を出て、門の前に乗り付けている車へ向かうミチを見送る。


「……雷蔵さんが松栄家を出ていった先、身を寄せたのは杜若の鷺坂先生のところ、なのでしょう?」


「流石に気付かれますか。……そうですよ。暫くあの男の元で門下生をしていました」


 足を止めた振り向きざま、核心を突いたミチの言葉に、雷蔵はポリポリと頭を掻いて苦笑いをした。


「きっと雷蔵さんの才能に嫉妬しているのよ。雷蔵さんは素敵な物語を書かれるから。……どうか負けないで。今連載されている『砂浜の彼方』だって、次号で完結なのでしょう? わたくし、最終回も、次の御話も、楽しみにしていますから!」


 ミチは雷蔵のペンだこのついた手を取り、力強く握り締める。雷蔵も深く頷き、眉を下げてそっと微笑んだ。そしてミチが鉄の塊に乗り込んで黒い排気ガスを撒き散らす様子を見送り、踵を返す。


(……官兵衛の嫁さんが、日々是好日の作家だって……? しかも土江麻美! 俺、日々是好日の中だと結構好きな作家だぞ! でも……この騒動があるにも関わらず強く寄稿し続ける意思を見せる、って……。文学好きも行き過ぎだ……!)


 民家と社屋の狭い隙間に潜み、口を掌で押さえて息を殺していた勇次郎は、物音を立てないように身じろぎをして、深いため息をついた。


 玄関に戻ってきた雷蔵は、足をぶらぶらと揺らしてミチの原稿を読んでいる波留日の隣に腰かけ、すっかり冷めた緑茶に手を伸ばす。波留日はトントンとミチの原稿を膝の上で整えると、一息ついた雷蔵に向かって声を掛けた。


「今回の土江先生の作品も、腕を上げたよ。読むかい?」


「あぁ」


 雷蔵の伸ばされる手に向かって原稿を渡そうとした矢先、波留日の顔が歪む。


「痛っ」


 原稿が波留日と雷蔵の指先をすり抜け、床に落ちた。


「血が出てるじゃねぇか。紙で切ったか?」


 手元を押さえる波留日を陣佐が覗き込めば、右手の人差し指から血が滲んでいる。


「う、うん……多分?」


「波留日、見せてくれ」


 雷蔵は手早く棚から救急箱を持ち出すと、赤く血の滲む波留日の指先に手拭いを当て、ヨードチンキを取り出して丁寧に処置をした。自らを助け、文字を綴る波留日の手を、そっと慈しむように。


「できた」


「……ありがと」


 波留日は赤く塗られた指先を見つめ、キュッと唇を引き結ぶ。

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