煙草と迷子とある一線。
冬の気配も本格的になり、年末の雰囲気が忍び寄る師走の初旬の頃。東京の下町には、外套を纏って日の丸印の煙草を吸いながら、忙しない人々の雰囲気に似合わずブラブラと所在なく散歩をする男の姿。
「何故に陸軍の士官ともあろう俺がこんな事を……」
袂から取り出した紙切れに書き留めた住所とにらめっこをしつつ、眞田勇次郎は一人でに悪態をついた。馬車や車、人々が歩く往来で立ち尽くす。
「確かここら辺なのだが……。道を何本か間違えたかぁ?」
ポリポリと頭を掻き、勇次郎は首を傾げると、次いで深い深いため息をついた。白い息がほわりと浮かんでは冷たい空気へ馴染んで消えていく。
「……何でこんな事しなきゃならねぇんだよ。日々是好日が、そんな、まさか、ねぇ……」
もう一度確認した紙切れには、住所の上に『朝星新聞社』とも書いてあった。勇次郎はそれをじっと一瞥し、口を噤み眉間に皺を寄せる。そしてゴツゴツとした掌でそのまま紙切れを握り潰すと、何故自分がこんな場所に居て、こんな事をしているのか、その事の始まりを思い出していた。
欧州で鳴り響いた銃声を皮切りに世界中を大波の如く飲み込んだ争いが終わって数年。この世界は恒久の平和を目指す一方で、仄暗い空気が立ち込めている。
勇次郎ら軍人はその香りを先んじて感じながら、戦のない生活を享受していた。北への出兵も泥沼化して数か月前に撤退したばかりだ。東京にて士官として勤務する勇次郎と官兵衛からしたらそれすらもどこか他人事で、仕事を終えた後の僅かな自由時間を悠々と過ごすことができる。あの時も、そうして空いた時間を自由に使っていたのだった。
勇次郎は官兵衛の個室に入り浸って買ったばかりの文芸誌を布団に寝転びながら嗜み、一方の部屋の主である官兵衛は机に向かい、几帳面な筆致で気難しい顔をしながらゆっくりと手紙を書いていた。因みに、官兵衛は他人の部屋に入り浸って何の拍子か怒られても知らないぞ、俺は警告したからなという台詞を勇次郎に何度言ったか分からず、既に諦めている。
「佐伯少尉、眞田少尉はそちらにいるか」
トントンと戸を叩く音に二人は顔を上げ、官兵衛は「それ見たことか」と厳しい視線を向けた後、直ぐに腰を上げてドアを開いた。
「眞田少尉は此方に。申し訳ございません、何度忠告しても聞きもせず……」
ドアの前に立っていたのは二人直属の上司。呆れ顔の官兵衛に同情の視線を送った男は次いで身体を傾け、部屋の奥で気まずそうに正座をして肩を丸める勇次郎を見やった。
「二人とも、少し来たまえ。重要な話がある」
そうしてさっさと廊下を歩きはじめてしまった上官の背中と互いの顔を交互に見つめる二人は、慌てて解いていた第一ボタンを閉め、上着を着込み、軍帽を被って駆け出した。
「……貴様らには、ある人物の依頼によって極秘の監視任務を与える」
そうして招かれた執務室にて、椅子に深々と腰掛ける上官が放った言葉に、机の前で直立して並んだ二人は鳩が豆鉄砲を食らったかのように目を見開いて顔を見合わせる。諜報は勇次郎ら陸軍士官の仕事ではない。専用の部隊がある筈だ。そもそもそのような特殊な任務を士官学校を卒業したばかりの少尉たちがやるというのは少々畑違いなように思えた。
しかしできないともやりたくないとも言えるはずがない。それを分かっていて上官は指令を続ける。机の引き出しから取り出した封筒を開き、書類を二人の前に広げた。何人かの写真も挟みこまれており、自然と二人の視線はそちらに注がれる。
社長らしき壮年の男と美しい女性の夫妻、軍人になれば大層重宝されるであろう大柄な体格をした背広の男、如何にも苦労する書生といった、ボサボサの髪を伸ばしっぱなしにしている眼鏡で痩躯の男。そして、まるで人形のように顔が整った幼い子供。上官は書類と写真を見比べ、一枚の写真を選び取る。
「日々是好日を刊行する朝星新聞社、そしてその主宰である橘波留日とその周辺の人物の監視だ。信じられないことだが、この少年が橘波留日、らしい」
「はぁ?」
勇次郎は上擦った声を上げて写真をまじまじと観察し、机上に並べられた他の写真も手に取った。
「こんな子供がですか? こっちの眼鏡でも、こっちの背広の男でもなく?」
上官は同感だというように頷く。勇次郎は口元に手を当て、もう一度まだあどけなさの残る白磁の肌を持った少年を映す白黒の紙を穴が開くほどに見つめた。
「何故陸軍の少尉である我々がこのような任務を……。検閲などの仕事は軍ではなく政府の仕事では。我々にそのような重大な任務が適切に遂行できるか……」
一方の官兵衛は興味無いというように冷静に事態を把握し、書類を一瞥して苦い顔をする。
「それは重々承知だ。こちらも出来のいいものを期待している訳では無い。……姿勢だけ見せれば良いのだ」
上官も同じように苦笑して書類の端を指先で弄った。
「そういうものに関わらず我々尉官を使うとは、何やら面倒そうな依頼ですね。……公の指令では無いのでしょう」
勇次郎は拝借していた写真を机上に戻しつつ、じっと上官に視線を送る。見つめられた上官は決まりが悪そうに目を逸らすと、咳払いをして椅子に座り直した。
「如何にも。私が世話になった検閲官の方からの依頼でな、先んじて調査された内容も相まって断るのも野暮だったのだ。眞田少尉、佐伯少尉、私の顔を立てると思って頼まれてはくれないか。眞田少尉はよく本を読み、文芸誌を買っているのを知っている。調査のためには文芸を知っている方がよかろう。佐伯少尉はこの不真面目な眞田少尉の監視を頼みたい」
珍しく下手に出た上司を前に二人は顔を見合わせる。日々是好日は勇次郎にとってはお気に入りの文芸誌であり、官兵衛にとっては妻が愛する文芸誌だ。この極秘任務は二人にとってただの依頼として片付けられない理由がある。官兵衛は勇次郎の瞳が揺らいでいる事に気付いた。その視線が意味することが分からない程官兵衛も鈍感ではない。
しかし、幾ら「依頼」という形であろうと、幾ら内密で表に出ないものであろうと、上官からの命令は命令。宥めるような視線を送った官兵衛に、勇次郎も諦めたように目を伏せる。二人は改めて背筋を伸ばすと、その先まで神経を張り巡らせた指先で敬礼をしてみせた。
「御意、謹んでお受け致します」




