夏と身請けと蝉の声。下
遣手婆に連れられて歩くのは、妓楼の奥へと続く廊下だ。妓楼にあるまじき静寂が支配する空間に怯え、雷蔵はビクビクと肩を震わせながら歩く。華幻楼と馴染み深い波留日もよく知らない場所なのか、雷蔵の隣でキョロキョロとしきりに首を動かし、興味深そうに辺りを観察していた。
「此の先は……要人の接待用の応接間しかねぇよな……?」
その道中の廊下で、陣佐は眉間に皺を寄せ、小声で呟きながら腕を組む。その声に雷蔵と波留日は顔を見合わせ、眉の下がった不安そうな顔を陣佐に見せた。
「いいから黙ってついてきな。行けば分かるんだからグダグダ言うんじゃないよ」
婆に言われるがまま三人が通されたのは、陣佐の言った通りこじんまりとしつつ上品な雰囲気の応接間であった。茶の間の掛け軸は恐らく著名な書道家のものであり、畳も座布団も一目で上質なものだと分かる。部屋全体に漂う空気全体が気品を帯びていた。自然と背筋が伸びるような、そんな落ち着かなさが三人を包む。
その息が詰まるほどに格式高い部屋の中で、菜乃葉は相も変わらず珠のような輝きを湛えていた。彼女は凛とした姿で微笑み三人を出迎える。遣手婆は開店が近いため帳場へ戻ると言い残して退席した。
「突然の御呼び立て、御免なんし」
三人は促されるがまま座布団に座り、彼女の次なる言葉を待つ。そのあまりの静寂に、屋敷の表の方で繰り広げられる艶やかな箏の音や女たちの笑い声が漏れ聞こえてきた。開店の時刻を迎え、絢爛の花街にお客が登楼し始めたのだろう。菜乃葉はそっと口元を弓なりにし、指先を揃えて恭しく頭を下げた。
「この度、私菜乃葉、身請けされる運びとなりんしたこと、朝星新聞社の皆様方に御伝え致したく」
それは彼女がこの華幻楼を去ることを意味していた。その言葉に、雷蔵の目が大きく揺れる。
「目出度いじゃないか。社長やおヒサさんにも伝えておくよ。社長にはまた別途挨拶してやってくれ」
一方陣佐はその報告を受け、拍子抜けしたように正座を崩して胡坐になると、感慨深げに煙草に火を点けた。
「私が知の御職として旦那様に見初められたのも、山吹姐さんの指導と、辻の旦那様ら朝星新聞社の皆様の御陰」
「身請けかぁ……! おめでとう! 菜乃葉!」
波留日も手を打ち鳴らして喜びの声を上げる。しかし雷蔵は素直に祝う事などできる筈もなく、顔を歪めて思わず身を乗り出した。畳に突いた手が拳を握りしめ、畳の目に爪が引っ掛かってガリリと音を立てる。
「身請けなんてそんな……! その、御相手はいい人なのですか?」
「達川様、心配なさらずとも。旦那様は財閥のお方で、私が将棋に勝っても笑って下さるような器の広い御方。そのような御方に拾って貰えた私は幸せ者でありんす」
穏やかな笑みを浮かべる菜乃葉。しかしその目には強い眼光を湛えていた。この花街へ売られた時と同じ、運命を飲み込み腹を括り、自分の血肉とせんとする強い菜乃葉の姿。その覚悟を前に雷蔵はどうしようもなくなり、激情の矛先を失って力なく座布団に身を沈めた。
「雷蔵、知っているだろうけど、遊女の中でこうして要人に見初められて華のあるうちに花街を去れるというのは幸せなことだよ」
波留日が言い聞かせるように雷蔵の肩に手を置いて言う。そんな事は雷蔵とて百も承知のことだ。頭では分かっていても心が痛い。まるで自分が何もできなかったという悔しさを、過去の古傷を抉られているような感覚に、雷蔵は歯を食いしばって胸元を握り締めた。
「そうだ、花魁道中はやるのか? お前は華幻楼の御職、妓楼側としてもパーッと祝わなきゃだろう?」
雷蔵が今にも倒れてしまいそうな程蒼白な顔面をしている横で、陣佐の興味は次の話題へと移っていく。陽気な声が酷く場違いではあるが、陣佐の対応が一番望まれているものだ。菜乃葉は膝を正して陣佐の方に向き直ると、胸を張って誇らしげに口を開いた。
「おっかさんと旦那様が是非に、と。時期は葉月の中頃かと。我が華幻楼の格と、私が菜乃葉として御職を張ってきた意地を、どうか御一見くださいませ」
その佇まいには、微塵の不安も見られない。ここまで揺るがぬ強い眼光は、菜乃葉自身がこの宿命の中で逞しく生き抜いてきたという紛れもない証拠を示していることと同義であった。
「そうか、目出度いなァ、菜乃葉。日にちが決まったら言ってくれ。絶対に行くからよ」
陣佐は感慨深げに目を細めてゆったりと口角を上げる。波留日も黒髪が乱れるほどに深く頷き、菜乃葉の覚悟を目の当たりにした雷蔵も、最後はぎこちなく眉を下げて微笑んだ。
「皆様……。ありがとうございんす」
菜乃葉は雷蔵の不器用な笑顔を見て安堵したように肩の力を抜き、再び指先を揃え、深々と頭を下げる。その姿は、去り際まで美しい白鳥のようだった。
「もし何か困ることがあったら朝星新聞社においでね。僕達はいつだって菜乃葉の味方だからさ」
波留日はちょこんと座った座布団の上で屈託のない笑顔を浮かべる。そうすれば菜乃葉は眉を下げて顔を綻ばせた。
「そのようなことが起こらないよう願うばかりでありんすが、とても頼もしい味方は有難いでありんす。まさしく、夜を導く星明りであり、闇を切り開く朝の名を冠する気高き方々」
菜乃葉の言葉を受け、よせやいと陣佐が照れを見せたその刹那、バタバタという騒がしい音が響く。次いであの遣手婆が珍しく焦る声。何やら物騒な音が襖の向こうから聞こえてきた。
何事かと三人は会話を止め、じっと息を潜める。




