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晴ル日々好日 ――崖っぷち草臥れ小説家、文豪に成るまで死ねぬ――  作者: 安藤未粋
五章 忌ワシキ過去ヲ破ル

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夏と身請けと蝉の声。上

 季節は鬱屈とした梅雨が過ぎ去り、汗ばむような暑さが襲い来る頃となった。


 随分と日暮れが遅くなった淡い夕焼けが忍び寄る空の下、雷蔵は数冊の日々是好日を包んだ風呂敷を胸に抱え、陣佐と波留日に連れられて再び華幻楼を訪れていた。


 彼らが登楼した目的は、宴でも閨の逢瀬でもない。その証拠に、華幻楼はまだその暖簾を掲げておらず、花街全体も蝉時雨の合間に三味線を練習する音や談笑する声が聞こえてくるだけだ。軒先でごくりと唾を飲み込んで尻込みをする雷蔵の肩を叩いた陣佐は、厭わず開店前の戸を引いて門をくぐり、中へ足を踏み入れる。


「よー、邪魔するぜ」


 帳場の近くを開店前の準備で忙しなく歩いていた遊女が一人、振り返って声を上げた。


「あっ! 陣! どうしたんだいこんな時間に!」


 浅葱色の着物を纏った涼しげな目元の遊女が、ツンとしていた顔を綻ばせてこちらへ駆け寄る。まるで飼い主によく懐く子犬のような目だ。雷蔵はその変わり様に驚きつつ、どこか冷静に彼女を見やった。


「いつもの野暮用だよ、涼風」


 甘い声で陣佐のもとへ駆け寄り腕を絡めた涼風は、雷蔵が胸元に抱える風呂敷を見つけると、合点したように頷く。


「そうか、今日は日々是好日の発売日か」


 陣佐は相変わらず人好きする爽やかな笑みを浮かべると、空の帳場を見るや否や、背を伸ばして店の奥を覗き込んだ。大柄な彼からの目線であっても目当ての人物が見当たらなかったようで、陣佐ははてと首を傾げる。


「……涼風、女将は居るか?」


「おっかさんは奥で菜乃葉姐さんと話しているでありんす。私が呼んでくるから待っていてくれなんし」


「頼んだぜ。悪いな、用が立て込んで開店直前になっちまって」


 陣佐に頼まれたことが嬉しかったのか、涼風は頬を桃色に染め、軽やかな足取りで屋敷の奥へと駆けて行った。彼女とすれ違う若い遊女や幼い禿たちは、その笑顔が珍しかったのか、まるで化物を見たかのように面食らって顔を見合わせる。それを通りすがった紅葉が見かけてクスクスと笑い声を上げた。


「ははは、相変わらず、涼風は陣さんにだけは甘いねぇ」


「……こうも分かりやすいと俺も困っちまうんだけどな」


「本当だねぇ、アイツに大金払ってる旦那達が泣くよ?」

 

 陣佐は眉を下げて頭を掻く。紅葉は目を細め、唇を弓なりにして微笑んだ。そして可憐に踵を返す間際、彼女は陣佐とのやり取りを観察していた雷蔵へ色っぽい視線を向けて揶揄う。それに気付いた雷蔵の顔は、みるみるうちにその耳朶の先まで真っ赤に染まった。



 雷蔵が陣佐や波留日と共に華幻楼や他の妓楼へ日々是好日を差し入れる行脚に同行するのはこれで数度目となる。


 しかし雷蔵が妓楼の甘やかで艶やかな雰囲気や華やかな遊女たちとの会話に慣れることは一向になく、相も変わらず借りてきた猫のように強張って縮こまっていた。最近ではその態度に寧ろ遊女側がすっかり慣れてしまい、初心《ウブ》だの可愛らしいだのと揶揄ってくる始末だ。


「波留日、」


 女将である遣手婆を待っていると柱の陰から小さな声が聞こえ、三人は吸い寄せられるようにその声の主を目で追った。帳場の柱に隠れて、おずおずとこちらを伺う小さな影がある。波留日はふわりと柔らかく微笑み、その影の名を呼んだ。


「吉乃」


 彼女は菜乃葉の禿だ。雷蔵は良く知っている。菜乃葉と同じように白い肌と、警戒心の強い猫のような瞳が印象的な少女だ。そして菜乃葉の知を受け継いでよく本を読み碁を好む、次世代の『知の御職』の候補筆頭であるという。


「……読ませて」


 波留日は雷蔵から風呂敷を受け取り、包みを開いて一冊をそっと差し出した。すると吉乃は頬を染めて波留日の元へ駆け寄ると、日々是好日を受け取って宝箱の蓋を開けるように頁を開く。


「あ、吉乃! ずるいわ! 私も!」


 やがて、帳場には陣佐らの来訪を聞きつけた遊女達がわいわいと集まり始め、我先にと届けられた日々是好日へと手を伸ばした。只の文芸誌がここではまるで宝石や札束の扱いで、目次を見ては誰の文が載っているかと一喜一憂し歓声を上げる。そんな彼女達の姿を前に、波留日達は顔を見合わせて思わず破顔してみせた。


「コラ! アンタたち、もう直ぐ時間だよ! 持ち場に御付き! ……悪いね、陣、波留、雷蔵、この子らの感想はまた後で聞くにしておいてくれ」


 涼風の言伝を聞いて帳場へ戻ってきたやり手婆の一言で、遊女達は頬を膨らませながらも、素直に蜘蛛の子を散らすように去っていく。その様子を見送った遣手婆は腕組みをして三人に視線を寄越し、ぐいと顎をしゃくった。


「アンタらには少し残ってもらうよ。菜乃葉からの御呼び出しだ」


 その言葉に雷蔵の肩が強張る。波留日と陣佐は何の心当たりもない呼び出しに、はてと首を傾げて顔を見合わせた。

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