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意地と喧嘩と落ちる猫。

 狭く、本と紙に溢れた日々是好日編集部の部屋にて、雷蔵と波留日は互いに仁王立ちし、睨み合って対峙している。


「……あの時の言葉は、嘘だったのか?」


 沈黙を破るように、雷蔵は波留日に問いかけた。


「嘘じゃない! 嘘じゃないけど……!」


 まるて縋るようなその声音に、波留日は戸惑って目を逸らす。雷蔵の気持ちを蔑ろにしていたことに気付かされた罪悪感で目が合わせられない。


「嘘じゃないならなんだッて言うんだ! 俺は、波留日と……っ!」


 次いで責め立てるような雷蔵の言葉に、波留日はすぐに頭を振って声を荒らげた。


「何で分かってくれないのさ! 君が他社からの打診を受けていた時とは事情が違うんだ! 狙われているんだよ?! アイツを見くびってはいけない!」


「それを痛いくらい知っているのは俺だ! あの男がどれだけ下劣で卑劣かなんて、嫌になるくらい知っている!」


 雷蔵は自らの胸元を掴んで叫ぶ。しかし波留日も一向に折れようとはせず、眉を下げて訴えかけた。


「だからそんな思いをもう二度と君にして欲しくないって思うのは間違いなのかい?」


 波留日の苦しそうで不安そうな表情を前に、雷蔵は怯んでグッと息を呑む。しかしすぐにそれを振りほどくと、苦虫を噛み潰したような表情で声を振り絞った。


「そうやって逃げたらまた逆戻りだ! それに、逃げたってあの男は地の果てまで追いかけてくる!」


「だから逃げじゃない……! 偕成出版だったら鷺坂の力も及ばない。これは戦略なんだ。雷蔵を守るための!」


 雷蔵は波留日の言葉を前にして、眼鏡のレンズ越しに波留日へ鋭い目線を向ける。


「俺のために日々是好日を捨てるのか?」


「そ、れは……」


 波留日はその問いにすぐ答えることが出来ず、口ごもって目線を逸らした。雷蔵は強張っていた肩からゆっくりと脱力し、力なく床に座り込む。


「そうだというのなら、俺は、悔しくて悔しくて堪らない。だって俺は……俺は、日々是好日に救われて、日々是好日を愛しているからだ」


 先程と打って変わって力なく呟かれる独り言のような語りに、波留日は唇を噛んだ。血が滲む手を握りしめ、波留日は静かに雷蔵の紡ぐ言葉を待つ。


「大阪に呼ばれて、あの男に嘲笑われて、俺の夢を踏みにじられた後、俺はどうしようもなく心が折れた。あの日、東京までどうやって帰ったか覚えていない程に。そうして帰ってからも、しばらくは指一本動かせない程に身体が言うことを聞かなくなった」


 雷蔵は膝の上で拳を握り、震える声で言葉を吐いた。


「それでも俺は死にきれなかったんだ。何も残せないまま、何者でもないまま消えるのが怖かった。……でも書けば、懸賞に出せばあの男が俺を潰しに来る、そんな恐怖に支配されていた」


 雷蔵の脳裏には、書くことを否定され、追い詰められ、精神をぐちゃぐちゃに切り裂かれた過去がよぎる。泥沼に全身浸かったように、身動きも呼吸もままならない地獄のような日々が。


「だから日々是好日に縋ったんだ。俺がまだ滅んでないと、まだ書いて良いと確かめる為に!」


 突き落とされた先の暗闇で差し込む一筋の光。曇天の合間を裂く太陽の光、晴れ間のような希望。杜若では下賤な誌だと吐き捨てられていた、この誌なら……。


「だから……だから、俺は……俺を救った日々是好日を、愛しているんだ」


 波留日は眉を下げ、歯を食いしばりながら目を逸らした。雷蔵の真っ直ぐな言葉を前に、波留日は目の前の男を直視できずにいる。


「そう言われたって……分かっただろう? 鷺坂は力を持った卑怯者だ。そして検閲も……それに靡くような組織という事だよ」


 言い聞かせるような硬い口調に、雷蔵は迷わず首を横に振った。


「それでも構わない。俺は波留日と、波留日の元で書きたいと思うようになったんだ。あの男は今でも怖いさ。震えるくらいに。でも、日々是好日が失われることを天秤に掛けた時、俺は日々是好日が無くなることの方が、怖いと思った」


 波留日はきつく目を瞑り、聞きたくないというように首を振る。閉じた瞼がピクピクと震えていた。雷蔵は座り込んでいた姿勢から膝を立てて、ゆっくりと立ち上がる。目を逸らす波留日を見下ろし、自らの左胸に手を当て、毅然とした声を上げた。


「波留日と魂を燃やせないのなら、その魂は無価値とさえ思う。俺を救ってくれた波留日と共にいられないのなら、俺は……俺は死んだっていい!」


「っ……! そんな事、そんな事冗談でも言うな!」


 啖呵を切った雷蔵の言葉に波留日は弾かれるように顔を上げると、今までに無いくらい声を荒げてその胸ぐらに掴みかかる。雷蔵はその剣幕に面食らい、後ずさる足がもつれて体勢を崩し、ぐらりと後ろへ倒れ込む。


 衝撃で古い社屋がギシギシと軋み、傍らに積んであった原稿の束や本がバサバサと音を立てて崩れていった。天井からは長年こびりついていた埃が雪のように舞い落ちる。


 辛うじて受け身を取った雷蔵は、自らの胸ぐらを掴んだまま、腹の上で馬乗りになる波留日を見上げて唖然となった。波留日は耳まで真っ赤にしてその美しい顔を歪め、雷蔵を睨みつけて見下ろしている。食いしばる歯の間からは、フーフーと荒い息が漏れ出ていた。


「波留日……?」


「死がどれほどのものか知らないくせに、簡単に言うなッ!」


 着物の襟元を掴み、ガクガクと揺さぶる。雷蔵はその鬼神の如き剣幕に目を見開き、浅い呼吸で波留日を見上げた。波留日は雷蔵の困惑し怯えた表情にハッとして唇を震わせると、掴んでいた胸倉を放して項垂れる。


「……すまない。熱くなり過ぎた」


 波留日は雷蔵の胸の上に乗せた掌を握り締め、くぐもった声でぽつりと呟いた。


「あの男に啖呵を切り、君を守ると言った手前情けないけれどね、正直……投稿者も人質に取られ、検閲にも目をつけられた状態では、今まで通りに日々是好日を回す自信がない。君が期待する程僕に力は無いよ。……政府も、報道機関も、軍も、逆らったら呆気なく捕まるんだ」


 いつになく弱気な波留日を前に、雷蔵はゆっくりと身を起こす。自分の腹に跨って俯く、小さな身体を静かに見下ろした。自分を見つけ導いてくれた人間は、こんなにも小さく細く弱々しい姿をしていたのか。雷蔵は酷く狼狽して言葉を失う。


「僕は……雷蔵には、この自由な時代で自由でいて欲しい。これから、この国は地獄へ突き進んでいく。その果ては無意味に消費される命と、疑問を持つことすら許されない統一された思考だ。もう時間がないんだ」


 一息で吐き捨てた言葉。震える波留日の身体をふわりと雷蔵の腕が包み込んだ。


「なら、自由にさせておくれよ。俺だって、今の俺自身あの時の情けない俺だとは思ってない。だって……陣さんという頼もしい大人がいて、雪姉が幸せに生きてるって分かって。……波留日が傍にいてくれるから。波留日と一緒なら、皆となら大丈夫だって思う。例え茨の道だとしても」


「だから、僕は君が思う程……!」


 波留日は雷蔵の腕の中で顔を真っ赤にして必死に語気を強める。雷蔵もそうしてジタバタと暴れ始める波留日の言葉を遮って、その小さな体を強く抱きしめた。


「今なら! ……お前が流す血を躊躇いなく拭うし、お前の為に血を流したって構わないと思う」


 呼吸さえ苦しくなる力に、波留日はきつく瞼を閉じた。ぐるぐると脳内が焦りと迷いで歪む。そしてその思考さえ奪うかのように、雷蔵が腕に込める力は震えながらどんどん強くなっていった。波留日は溜息交じりに肩を竦めて微笑むと、雷蔵の背中に手を回してトントンと優しく撫で擦る。手の甲の傷は、血液が乾いて固まり褐色になっていた。


「……分かったよ、もう少し粘ろうか」


「波留日……!」


 漸く力を緩めた雷蔵の腕の中を抜け出して、波留日は窓際に肘をつく。


「陣佐を呼んできて。さっきの事は一度撤回するから、そのことについて話し合わなくちゃ」


「わ、分かった……!」


 雷蔵はよろよろと立ち上がると、爪先を引っ掛けて転びそうになりながら部屋を出て行った。一人残った波留日は、冬の高く澄み切った空を見上げて、ぽつりと独り言を零す。


「君の人生にこんなにも介入して、運命を変えて……。その責任は果たさなくちゃいけない、ということだろうね」


 にゃあ。波留日は思わぬ反応に目を丸くし、隣家の屋根に視線を移した。そこには、いつか雷蔵に無理難題を押し付けた御相手の野良猫が、香箱座りをして呑気に欠伸をしている。


「お前……。ふふっ。猫は呑気でいいね。こっちへおいで、ほら」


 波留日は窓から身を乗り出してちょいちょいと指先を揺らした。しかし釣れない態度の猫はぷいとそっぽを向くと、すっくと身を起こして社屋と日向端家の間の狭い隙間へ飛び降りてしまう。


「あー……」


 振られた波留日は残念そうに肩を落とし、乗り出していた身を元に戻した。しかしその直後、猫が降りた辺りからドスン、バタバタ、と鈍い音がして慌てて顔を出せば、猫が家の隙間からぴゅぅと道路に飛び出して人の間を縫い逃げていく後ろ姿が見える。


「猫も木から落ちる……ってこと?」


 波留日はくすりと微笑むと、二階へ上ってきた雷蔵と陣佐に改めて向き直った。

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