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桜と友と藤の花。上

 咲き誇る桜が春の訪れを知らせて暫くが経った。波留日は川沿いにて散った花弁を拾い、無邪気に遊ぶ子供たちを横目に見ながら歩く。卯月も中旬に差し掛かったこの頃はすっかり桜吹雪の季節となり、川面は一面の桜色、圧巻な花筏を見下ろす。ふと、波留日の鼻先へ花弁がひらりと舞い降りた。


「咲いた花なら……」


 細く美しい指先でそれを摘まみ、歌を口ずさみながら天に翳す。春の少し霞んだ青い空と、淡い桃色。波留日は眩しそうに目を細めると、その花弁を川面に投げ入れた。川沿いを離れて、ゆったりと社屋へ歩みを進める。



 雷蔵が日々是好日での連載、『砂浜の彼方』を初めてから数か月が経過した。その静かで落ち着き、神秘的ながら人間性もある独特の優しい物語は、読んだ人々の胸を揺さぶったようだ。二月号から僅かしか展開されていないにも関わらず、少しずつ達川雷蔵は文壇の中で名を刻み始めたらしい。


 誌を仕入れたいと朝星新聞社を訪ねる書店や商店が増えた。遅くも雷蔵の秘めたる可能性に気付いた出版社が雷蔵を引き抜こうと朝星新聞社に訪れることも増えた。


 庄衛門や陣佐は誌の売れ行きが伸びた事で喜び、波留日は雷蔵の物語がより多くの人々に届くことで笑顔が増える。通りすがった商店にて、錚々たる文芸誌に並んで自分達の誌が売られているのを見れば、くすぐったいような気持ちに包まれた。


 春の陽気の中を軽い足取りで進む波留日が戻ったのは、勿論朝星新聞社の社屋だ。小さな庭の生け垣は、萌黄色の若芽が開き始めている。その柔らかい葉を指先で突いて寄り道しながら引き戸に手を掛けると、古く薄い社屋の壁を通り越して、雷蔵と知らない男の声が聞こえてきた。手が止まる。波留日は日向端邸と社屋の隙間に回り込むと、背伸びをして僅かに窓を開き、息を殺して中を覗き見た。


「どうだい達川君、是非ウチで書いて貰いたいと思ってね」


「申し訳ありません。まだまだ若輩者でして、拾って貰った御恩もありますし、朝星で修業をさせていただきます」


 社屋の上がり框では、腰を落とした男がしきりに雷蔵を口説き落とそうと雄弁に語っている。その対応をする雷蔵は、おずおずと床に正座をし、猫背になって眉を下げていた。


「……そうかそうか。日々是好日での連載も始まったばかりだものな。しかし別の社で書きたいとなったら是非ウチに連絡をくれ。原稿料だって色を付けよう」


「はい、そのようなお言葉、勿体ないくらいです。ありがとうございます」


 柳のように細く華奢で弱く見える雷蔵であるが、その心根は大樹のように重く動かぬ。男の説得も虚しく、雷蔵は毅然としてその誘いを跳ね除けた。幸いにして男は気を悪くする事も無く、せめてもと名刺を握らせて帰っていった。その後ろ姿を見送り、雷蔵は肩から力を抜いた。首を鳴らして欠伸をする。


「受ければよかったのに」


 その声に雷蔵は片目を開けて窓のほうを見やった。そこには窓枠にしがみ付きながら、顔の半分だけを覗かせてこちらを覗く波留日がいる。雷蔵はまたかと言わんばかりに溜息をついてみせた。


「聞いていたのか? 何度も言っているが、俺はまだ未熟すぎる。……器用では無いし、そんなに多くの仕事を抱えていけるような人間じゃない。俺は、今の物語に命を掛けたい」


 床の上で胡坐を掻いた雷蔵は、頬杖をついて胡乱な目をしてみせた。その間、波留日は玄関に回り込み、社屋に入る。細かい木くずが彼の白いシャツについていた。


「第一、表に出たのは『介錯』と今の連載の三ヶ月分。まだ始まったばかりなのに、それだけで判断してくるだなんて」


「編集者というのは先見の明があるものだよ。それに、僕は君を『介錯』だけで判断したけれど?」


 波留日は雷蔵の肩におぶさるように凭れると、こてんと首を傾げてみせる。雷蔵は重いと愚痴を零しながら波留日の頭を乱暴に撫でた。


「……波留日は違う。何人か俺の元を編集者が訪ねてきたが、お前のように心を動かされる言葉を使う人間は居なかった」


 目を細めて笑う雷蔵を見上げ、波留日は唇をうずうずさせて頬を染める。


「きっと、波留日の言う『魂』を見たんだろうな」


 しかしそう独り言ちる雷蔵の背後で、波留日は一転して顔に影を落とした。


「……でも、君が目指している『名を残す』ことにおいて、朝星新聞社には力不足だ。会社の規模が小さすぎる。そう言わざるを得ない」


 そもそも出版社に他社の者が乗り込んでお抱えの作家を口説くなど、失礼極まりない振る舞いなのだ。それがまかり通っているのは、朝星新聞社が文壇において弱い立場であることを意味していた。珍しく現実的な事を言う波留日に雷蔵は驚きながらも、そっと穏やかな顔を見せる。


「そうかもしれない。けれど、お前が俺を文豪にしてくれるんだろう?」


「……雷蔵」


 初めて会った日の翌日、波留日が雷蔵を説得して日々是好日に取り込んだ時の言葉だ。雷蔵は振り向いて波留日の大きな瞳を覗き込む。


「俺はお前を信じると決めた。だから、そんな見捨てるようなこと言わないでくれよ」


 信頼しきった声音に、波留日はそっと息を呑んだ。喉仏の目立たぬ滑らかな首から、ごくりと小さな音が鳴る。


「……うん、分かった。そうだ、今日の進捗はどうだい? 見せてよ」


 波留日は身を起こすと雷蔵の腕を取り、編集部への階段に足を掛けた。


「あぁ、言い回しで迷っている部分があって波留日に何種類か見て欲しいと思っていたんだ」


 雷蔵はされるがままに顔を綻ばせ、その小さな手を握り返す。

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