手紙と傷とすれ違い。
東京の下町を彩るように鮮やかな黄金の葉をつけていた銀杏も、その衣を脱いで裸になり始めている。秋から少し物寂しい冬へと移り変わり始める霜月の初旬。
日々是好日十月号の出版を終え、十一月号の原稿整理に向けて動き出す狭間の時期。雷蔵達は編集部にて集まり始めた原稿をのんびりと纏めていた。各々、ソファに寝転がったり、文机に向かったり、窓際に腰かけたりと、思い思いの姿勢で文字へと向き合う。
「あ! ミチからの原稿だ! 手紙も入ってる! どれどれ……先月旦那様の演習終わりを待った結婚式が終わったそうだ。これで晴れてミチも佐伯ミチとなったわけだ」
波留日が届いた封筒の山からミチのものを見つけるとそっと顔を綻ばせ、目を細めて手紙を眺めた。質の良い紙の便箋には、季節を感じる紅葉の挿絵がついている。
「この原稿は……帝大在学中と書いてある。凄いな……」
文机で他の封筒を開けていた雷蔵が、原稿の差出人の情報を見て感嘆の声を漏らした。原稿用紙には、自信に満ちた筆跡でその人の考える美しい世界が展開されている。
雷蔵はその若さに溢れる文章を前にして眩しそうに目を細めると、トントンと原稿の端を揃えて纏めた。そんな封筒に溢れた編集部の窓際で、煙草を咥えながら原稿に同封された手紙を読んでいた陣佐がニヤリと笑った。
「こっちはすてらの門下生だ。門下の選考で落ちてしまったが、気に入っているので形にしたい、か。いいねぇ、その心意気」
すてらとは文藝礼讃、杜若に並ぶ三大文芸誌の一つである。雷蔵は陣佐の言葉に顔を上げると、ふっと表情を緩めた。
「門下生に自由が与えられているなら、きっとすてらは安泰だろうな。日々是好日が、そういう人達の助けになっているのなら、俺はその一員になれて誇りに思う」
波留日と陣佐は、雷蔵の柔らかい表情に気付き、そっと顔を見合わせて微笑み合う。この穏やかな時間をしみじみと噛み締め、二人は再び手元に視線を落とした。
そうして窓に吹き込む秋風を感じながら封筒を切り、原稿を仕分け、黙々と作業をしていると、ギシギシと重苦しい足取りで誰かが階段を登って来る音がする。その小さな音がどうしてかざわざわとした胸騒ぎを誘い、思わず三人は手を止めてじっと襖を見やった。
すぅと音もなく上品に開いた先に居たのは、その上品な顔を真っ青に染めたヒサ。その震える手には、原稿を入れるには小さ過ぎる封筒が握られている。陣佐と波留日の顔が強張った。
「陣さん、波留ちゃん、作業中に申し訳ないけれど、これ……」
おずおずと差し出された封筒。陣佐は食い入るようにじっとそれを見つめる。ヒサは封筒を握る手を震わせ、噛み締めていた唇をそっと開いて声を絞り出した。
「差出人は……検閲課よ」
「……貸してくれ」
その言葉に、一瞬にして編集部は零下の温度に支配される。陣佐は血の気の引いたヒサの手からそれを受け取り、封を切って中の書類を取り出した。口をへの字に曲げながら読み下す。雷蔵と波留日は、陣佐の大きな背中をじっと見つめて見守った。
「波留日、来たぞ。……事後検閲の警告書だ。……やられたな。不適切な表現、だってよ。何がやばいのか、これじゃあ分かんねぇな」
陣佐は整えていた髪をガシガシと乱して、床に書類を放り投げる。雷蔵は持っていた原稿を文机に置き、バタバタと転びそうになりながら床に落ちた警告書に駆け寄った。そのインクに汚れ、ペンダコで歪んだ雷蔵の手は、小刻みに震えている。
「どうして……? 変な作品は無かったし、事前検閲は通ったじゃないか……!」
「これは警告だ、発禁じゃない。……ただ、思想なのか、風俗なのか、何が抵触したのかが分からねぇんだよな。対策の仕様が無い、と言えばそうなる」
「そんな……!」
陣佐の言葉に、雷蔵が痛々しい叫び声を上げた。警告書を握る手に力が入り、ガサガサと音を立てて紙切れ一枚が皺くちゃになっていく。波留日はそんな雷蔵の手からひょいと警告書を取り上げ、ふむふむとそれに目を通した。
「大丈夫だよ、警告程度じゃ何の損害も無いさ。気にし過ぎないで、雷蔵」
その言葉は、雷蔵を安心させるような声音に見せかけて、どこか自分に言い聞かせるような慎重さも孕んでいた。雷蔵は波留日の言葉を飲み込み、瞼を閉じてそっと息を吐く。
「そう、だよな……。俺達は何も悪いことなんてしていないんだから……」
語尾が弱々しく尻すぼみになっていく。波留日は雷蔵の震える手を包み込み、目を閉じた。相も変わらずひんやりとした感触は、今の雷蔵を芯から安心させるもの。その体温が手からゆっくりと全身を伝い、困惑と怒りで煮え滾る全身を冷やしていく。
「……変わらず続けて行こう。もし警告が続くようなら、『一体何が駄目なんだ!』と殴り込めばいいさ」
波留日は拳を高く上げ、弾けんばかりの笑顔を浮かべてみせた。その晴れ渡る青空のような波留日の様子に、雷蔵と陣佐は肩を竦めて顔を見合わせる。そして頷き合って、放り出していた編集作業に取り掛かろうとしたその時。
「波留ちゃん! 陣さん! 雷蔵! 大変だ!」
階段を駆け上がってくるバタバタと乱暴で騒がしい音が響いた。漸く緩んだ部屋の空気が、再び一瞬にして凍り付く。音を響かせる主は、あっという間に二階へ乗り込むと、勢いよく襖を開け放った。
「寛二、どうした!」
陣佐が息を切らして咳き込む寛二に駆け寄り、背を擦りながら声を掛ける。秋も終わり冬に差し掛かっているにもかかわらず、湯気が出そうな程に寛二の身体は汗にまみれていた。
「お、俺っ、少し前から、頑張って難しい文芸誌を読むようにするって言っただろ……? それでさ、杜若の発売が、今日だったから、読んでたんだ……! そしたらっ……! これっ……!」
寛二が懐から杜若の十一月号を取り出すと、波留日はそれを引ったくり、血眼になって頁を捲る。
「っ……!」
隣で身を屈め、波留日が動きを止めた頁を覗き込んだ陣佐は、ほぉ……と引き攣った笑顔を浮かべた。
「なになに……? 『今後、節操無ク原稿ヲ載セルヤフナ誌ニ原稿ヲ寄セタ者ハ、杜若ニ載セルニ値セズ。文士ヲ志ス者ハ、注意サレタシ』……。か、これは……大きく出られたな」
この声明は名指しでこそないものの、日々是好日のことを指している事は火を見るよりも明らかであった。波留日の大きな瞳がぐらぐらと揺らぐ。漸く血の気が戻ってきた雷蔵の顔が、再び蒼白に染まった。
「そんな事を書かれたら原稿を届ける人間が減っちまうんじゃないのか? 俺は日々是好日が好きだから出すけどさぁ! 一体何が気に入らなくて日々是好日を……!」
寛二が怒声を上げて苛立ちを顕わにする。ダンダンと古びた床を踏み馴らし、ミシミシと部屋全体が揺れた。雷蔵の薄い唇から、小さく浅い呼吸の音が響く。
「そ、それって……」
「警告書も相まって、まるで俺達を潰すような布陣だなァ。文芸界において杜若の権威は……言わずもがな、だもんなァ」
雷蔵の上げた弱々しい声に、陣佐は無理矢理笑うような上ずった声を上げた。雷蔵は、あぁと情けない声を上げてその場に座り込んでしまう。そんな雷蔵に手を貸しつつ、陣佐はある違和感に気付いた。普段ならば慌てて雷蔵の元へ駆け寄りそうな人間の筆頭である波留日が静かだ。波留日の様子を横目で見れば、杜若の頁を持つ小さな手が、強く握り締められてブルブルと震えている。陣佐は一度大きなため息をつき、寛二の肩に手を置いた。
「……寛二、教えてくれてありがとうな。今から俺達は作戦会議をする。色々決まったら報せるから外してくれねぇか、あと、おヒサさんに、原稿を取り下げたいって客が来たら名前と筆名、あと題名を控えて欲しいと頼んでおいてくれ」
「わ、分かった……」
陣佐の言葉に寛二はこくこくと何度も頷くと、額に浮かんだ汗を拭って階段を駆け降りていく。それを見送った陣佐は、肩を怒らせて俯く波留日に声を掛けて顔を覗き込んだ。
「波留、波留、大丈夫か」
ドンと大きな音が響き、蒼白の雷蔵は驚いてびくりと肩を震わせる。その音は、波留日がその震える手で、怒りに任せて乱暴に壁を殴りつける音だった。
「……だ、」
「おい、波留……」
「鷺坂だ! こんな事、アイツにしかできない! あの卑怯者めが!」
少年特有の甲高い声が怒りを顕わにして上ずる。波留日はその美しい顔を歪め、目を吊り上げてギリギリと歯を食い縛り、まるで鬼神の如き表情を見せた。陣佐もマッチを取り出すと、何度か点火に失敗しながら煙草に火を点けて煙を吐く。
「……そうだな。俺も初手は嫌がらせの手紙やら編集部に変な原稿を送りつけるやら、社屋に悪戯描きやゴミを投げ入れるくらいだと思っていたぜ。まさか、ここまで本気だとは……」
乾いた笑い声を上げる陣佐は、誤って煙を吸い込み過ぎたせいで思わず咽てケホケホと咳をした。煙草を持つ指先が微かに震えている。
「市井の文学好きからの原稿に依存する日々是好日にとって、これは警告書よりも酷い仕打ちだ……。最悪の事態、原稿が少なすぎて本にならない可能性だって……ここまで育てたのに! これからなのに! あんな臆病な卑怯者に、何でこんな……!」
波留日は鷺坂の下劣な大仕掛けに、足を踏み鳴らし感情を発露させた。そしてその最中、ハッとして目を見開く。
「杜若が吝類を野放しにしていたのは、アイツらが適当だったからじゃないんだ……! 野放しが許される環境だったからなんだ……! 鷺坂は検閲と繋がっていたんだよ! 莫迦だ、どうしてそれに気付かなかったんだ! クソっ! クソッ!」
波留日は何度も何度も古びた壁に拳を打ち付けた。白く陶器のような柔肌がみるみるうちに赤く傷付き、皮が捲れて血が滲む。雷蔵は取り乱す波留日を前にして、浅い呼吸の最中に掠れた声を上げた。
「波留日、止めてくれ! ……俺の、俺の、せいだよな」
波留日はヒュッと息を呑んで顔を上げる。雷蔵はカタカタと歯の根が合わぬ程に震え、唇までも不健康な紫色を呈し始めているではないか。
「俺が、文壇を追い出されたのに、みっともなく書き続けたから……!」
「それは違う! 違うよ……雷蔵。……お願いだからそんな事言わないでおくれよ」
波留日は語気を強めて雷蔵の言葉を否定すると、雷蔵の前でそっと跪いてみせた。そうして震える雷蔵の字書きの手を、もう一度傷付いた掌で包み込む。
「僕はそれを知った後でも君を手放したかい? そんな事は無い筈だよ。僕は君を文豪にするんだ。その道中にどんな障壁があったって構わない。何だってする」
「……波留日?」
「言っただろう? 見捨てはしないって」
そう言って笑ってみせれば、雷蔵の浅く早い呼吸は徐々に収まり、顔にも血の気が戻ってくる。それを確認した波留日はすっくと立ちあがり、窓際で煙草をふかしていた陣佐に向き直った。
「……陣佐、頼んでおいた手筈はどれだけ進んでいるんだっけ?」
波留日の声は、雷蔵に語り掛けるような穏やかな声ではなく、先程の怒りに狂うような金切り声でもなく、低く酷く冷静な声だった。陣佐は高く澄み切った空へ一度煙を吐いてから、灰皿に煙草を押し付ける。
「鎌田に頼んで連載の移動先は確保してもらっている。文藝礼讃とまではいかないが偕成の文芸誌だ」
「上出来だ。今すぐそっちに連絡して」
雷蔵は二人の間で繰り広げられる会話を理解できず、戸惑いながら離れゆく波留日の手を掴んだ。
「お、おい……波留日、何言って……」
波留日はその手を取ると、文机の上に転がっていた雷蔵のペンを握らせる。
「雷蔵、雷蔵はこれからは偕成で書くんだ。僕があの男の邸宅へ招かれてから、対策は講じておいた。日々是好日は……数か月様子を見た後、場合によっては廃刊にするかもしれないけれど……。大丈夫、君をもっと安全な場所へ……」
「……どういうことだ。偕成……? 廃刊……? は……?」
「言った通りだよ。君は変わらず書き続けられる。何の気兼ねも無く、ね」
狼狽える雷蔵とは対照的に、波留日は柔らかい笑顔と共にそう言葉を放つと、文机の上の書類を纏め始めた。
「何だよ、それ……。偕成に行ったら、別の編集がつくんじゃないのか? 日々是好日を無くすって……皆は……波留日はどうなるんだ、」
「そうだね、偕成に行ったら僕も若輩者でただの一作家だ。正体を明かしていないし、発言力なんて無いに等しいね。でも大丈夫、偕成なら……」
波留日は雷蔵の狼狽も想定の範囲内という風に、駄々をこねる子をあやす親の如くあしらってみせる。
そうして眉を下げて唇を震わせる雷蔵を横目に、迷いのない手つきで素早く、雷蔵が書きかけていた原稿を纏め始めた。雷蔵は何も受け入れられないままに時間と波留日に置いていかれる感覚に襲われ、形容しがたい怒りと悲しみと強い不安を覚える。
この取り繕うような明るい声と、何も背負わせまいとする小さな背中。それは雷蔵にとって痛いほどに見覚えがあるものだった。幼い頃に負った傷が、彼女の花魁道中で癒えたはずの傷が、再びズキズキと悲鳴を上げる。
「俺を見捨てないって言ったじゃないか!」
ツラツラと言葉を紡ぐ波留日を遮って、雷蔵は声を荒らげた。胸元の服を握り締め、俯いて丸まる肩は、怯えではなく怒りで震えている。波留日は一度目を見開いてから、そっと息を吐いて肩を竦めた。
「見捨てないよ、だってこうやって策を……」
「違う! そういうことじゃない! 波留日がいなければ、日々是好日がなければ、俺は……」
雷蔵は形になり切らない言葉を吐いて、もどかしそうに頭を振る。一方、自らが準備したことを受け入れようとしない雷蔵を前に、波留日も思わず声を荒らげた。手に持っていた紙の束を乱雑に文机に置き、ガシガシと頭を掻き乱す。
「でも、このまま僕が君を抱えていたら君は埋もれてしまう! ようやくここまで来れたのに!」
「それでも俺は日々是好日で書きたいと言った筈だ! どんなに出版社の奴が来ようと、俺がずっと断り続けた理由が、波留日には分からないというのか!」
波留日は雷蔵の叫びにハッと息を呑み、唇を噛んだ。感情を爆発させて睨み合う二人を前に、陣佐は何本目かの煙草に火をつけてパンと手を打ち鳴らす。その音に張り詰めた空気が弾け、二人は同時に陣佐の方へ視線を移した。
「波留、雷蔵、言葉を扱う人間が声を荒げちゃならねぇ。ちゃんと落ち着いて話し合え。俺は下行って寛二とおヒサさんの様子を見てくるから。……これから大変なのに仲間割れしちまったら世話ねぇよ」
陣佐はトントンと煙草の灰を落とすと、襖を開きひらひらと手を振って下へ降りていってしまった。静まり返る部屋には、互いを睨み合う雷蔵と波留日だけが残される。




