甘酒と弟子と軍人サン。下
とある東京の陸軍駐屯地では、年末年始の休みを終えた軍人達が、鈍った身体を目覚めさせるように黙々と走り込みなどの鍛錬に励んでいた。息が白く立ち上る冬の朝、野太い掛け声や砂利を蹴る音が響いている。
その一角、木陰に隠れるようにして一人の若い士官が居眠りをしている。顔には読みかけの文芸誌を乗せ、軍帽は傍らに置きっぱなしになっていた。
「おい、またか。下士官に鍛錬の指示をして自分は昼寝とは。……平時だからいいものの、弛んでいるんじゃないのか」
そんな彼の元へ小言と共に大きな影が彼の姿に落ちる。それに気付いた彼は顔から誌をどかし、面倒くさそうに目を開いた。
「そう言うなって……。これは、いつどこでも休養を取れるようになる為の訓練だぞ」
欠伸混じりに眼を擦った士官は、どこか色気のある整った顔立ちをしており、軍人らしからぬ女が好みそうな風情を纏っている。
「ふざけるのも大概にしろ。このような態度では、いざという時に下士官が従わないという結果を招くぞ」
低く響く声でそんな彼を諫めた男は、無骨な風貌の大男だった。頑丈な体躯と引き締まった面持ちは、まさに日本男児という言葉が歩いているような佇まいだ。
「説教は要らないね。そういった有事の時は、どう足掻いたって人間の本性が出るんだから、俺達がどうこうできるものではないのよ?」
寝転がっていた色男は身を起こして脇に重ねていた何冊もの文芸誌を手に取る。
「ほら、それよりも娯楽はどうだい? 年末休暇に色々買ったんだ。文藝礼讃にすてら、それから杜若もあるぞ」
雑誌の束を押し付けられた男は、ムッとした顔で眉をしかめてそれをずいと押し返す。
「断る。何度も言っているが、文学なんて変な思想を振り撒くだけだ。女子供ならまだしも……。勇次郎、お前も読み過ぎると莫迦になるぞ」
「あら! 佐伯の坊ちゃんがまた大層な事を言ってらっしゃる!」
勇次郎と呼ばれた男はわざとらしく口元に手を当て、クツクツと肩を揺らした。
「やめないか!」
「またまた、官兵衛殿、照れずに仰って下さいよ、そうやって趣味のある俺が羨ましいって!」
「もう気が触れたか! その妄想力は呆れたものがあるぞ!」
官兵衛と呼ばれた無骨な男は、鬱陶しく絡んでくる勇次郎に拳骨を喰らわせる。そしてその弾みに散らばった雑誌に手を伸ばし、溜息をつきながら拾い上げた。
「……今人気の小説は、一体何なのだ」
普段の彼なら決して口にしないような問いだった。その声音は不器用で引っかかるようにぎこちない。ふいに発せられた官兵衛の言葉に、勇次郎は目を丸くして茶化すように口角をニヤリと吊り上げる。
「お? 無趣味の坊ちゃんが遂に……! 文学を貶しておいて、素直じゃないなぁ!」
「違う! ただ、話題をだな……!」
「ふーん……」
官兵衛は口ごもり、少し居心地悪そうに言葉を続けた。ほとほと不器用な男である。
「家に帰った時見合いの話が出た。長期演習が終わってからになるが、少しは話題の勉強をしていた方が良かろう」
「へぇー。それなら……、作家は『黎明の三連星』、三大文芸誌は押さえておくべきだな。あ、三連星は、現代文芸の基礎を築いた、池田川、桑原、鷺坂の三人のことを言うんだぜ」
勇次郎は三冊の雑誌を手際よく重ねて官兵衛へ渡した。まじまじとそれを見た官兵衛は、そのうちの一冊に目を留める。
「これは知っているぞ、鷺坂有太夫が主宰の誌だろう」
「おぉ、流石の官兵衛君も鷺坂氏と杜若はご存知か」
花の絵が控えめにあしらわれた、飾り気のない装丁の文芸誌。その頁を彩る文士たちは、いずれも文壇で名を馳せるような文学スタアばかりだ。
「鷺坂は池田川賞の審査員だろう。賞を取った作品くらいは読めと言われているからな」
淡々とそう告げた声には、縛られているような硬さがあった。読書を楽しんでいるというよりは、仕方なくこなしている様子が伺える。勇次郎は呆れたように肩を竦め、肘で官兵衛の屈強な身体を軽く突いた。
「そのような義務感で読んでいたら文学の良さは分からないね。君の奥方になる女は大変だ」
お道化た調子ながらどこか本音を交えたような口調に、官兵衛は不愉快そうに眉を顰める。
「好き勝手言っていないで、貴様も身を固めたらどうだ」
ぴしゃりと返したその一言に、勇次郎はペロリと赤い舌を出してアカンベェをしてみせた。
「嫌だね。俺はまだ自由の身で居たいんだ」
ひらりと軽やかに立ち上がった勇次郎は、三大文芸誌以外の雑誌をまとめて小脇に抱える。その軍人らしからぬ軽率さは、どこか世捨て人のような雰囲気を携えていた。
靴音を鳴らしながら歩き去っていった勇次郎の背に、官兵衛は思わず溜息を一つ洩らす。そして置き去りにされた彼の軍帽を引っ掴んで後を追い駆けた。
***
日脚がようやく伸び始めたとはいえ、夕暮れがまだ早い如月の下旬。松栄ミチが授業を終えて女学校の門を出ると、冷たい風がひゅうと吹き抜け、袴の裾を撫でていった。ミチは友人たちと連れ立って歩きながら、風で乱れる髪を耳に掛け直す。
女学生の学校帰りの話題といえば、憧れの先輩のこと、評判の演劇俳優、厳しい教師への愚痴など、他愛のない話ばかりだ。
ミチも時折声を上げて笑い、口うるさい教師への文句を垂れながら歩みを進めていた。しかしその纏う雰囲気の端々に、どこか浮き立つような様子が滲んでいる。
「――あ、少々宜しいかしら? 本屋に寄っても?」
角を曲がった本屋の前で、ミチは不意に立ち止まって友人達に声を掛けた。
「構いませんが、何を買われるの?」
「文芸誌を一冊」
友人達の質問に人差し指をぴんと立て、ミチは小さく笑ってから本屋の暖簾をくぐる。店の中は、紙とインクの香りというミチの大好きな匂いが立ち込めていた。
ミチは慣れた足取りで一直線に文芸誌売り場へと進み、棚に並んでいた冊子の中から迷いなく日々是好日に手を伸ばす。あと数冊しか残っていなかったそれを、まるで宝物を見つけたかのように大切そうに胸に抱えた。道端で待つ友人達は、そんなミチの様子にくすりと微笑む。
「ミチさん、最近暗かったけれど、何だか今日は機嫌がよさそうでよかったわ」
「そうね、あの子には笑顔が似合いますわ」
本屋から出てきたミチは、購入した文芸誌を愛おしそうに抱き締めていた。まるで人形を買って貰って喜ぶ子供のような様子に、友人達は顔を見合わせて彼女を取り囲む。
「それは、何ですの?」
浮かない顔だったミチを一瞬で笑顔にしたその文芸誌に興味が湧かないわけがない。ミチは愛しそうに包みを撫でてからそれを解き、誇らしげに皆の前へと宝物を差し出してみせた。
「日々是好日という文芸誌ですわ。誰でも文を寄せる事ができる、素敵な誌ですの!」
「誰でもって、誰でも?」
「えぇ、誰でも」
「へぇ! 面白いですわね。もし宜しければ貸してくださらない? 私、少女世界しか読んだことがありませんの。文芸誌なんて初めてだわ」
ミチは目を輝かせて首を縦に振った。長い髪がふわりふわりと犬の尾のように揺れる。
「構いませんわ!」
今にも、「これに載っている土江麻美という作家は私なのです!」「今月号から連載が始まった達川雷蔵は、私の師なのです!」と口走ってしまいそうで、ミチは吊り上がる口角のまま唇を噛んだ。
「ささ、帰りましょう? 私、今夜中に読んで、明日には皆様に読んでいただきたいくらいですの!」
「ふふ、そんなに焦らなくてもよろしいのに」
ミチはふわりと軽やかな足取りで友人たちを先導するように歩き出す。そんな彼女とすれ違った影が一つ。
「日々、是好日……? 聞いた事がないなぁ」
振り向きざまに呟いた男は、そのまま本屋に入り、陳列棚の中から聞いたばかりの雑誌を一冊抜き取った。興味深げに何頁が捲っては読み、また捲る。
「ふぅん……」
パタンと頁を閉じる音が静かに響いた。男はそのまま店主に会計を頼むと、小さく鼻歌を歌いながら懐に文芸誌を収める。
「やっぱり非番の日は街に出るに限るな、思いがけない出会いがある」
交差した軍旗の意匠が施された煙草箱を取り出すと、一本抜いて火をつけた。
「官兵衛が演習から帰ってきたら教えてやろーっと」
煙と共に吐き出された勇次郎の呟きは、夕暮れから宵へと変わりゆく空の色へ音もなく溶けていった。




