夢と軌跡と腹括り。 上
俺があの飢饉を生き残ったのも、上京して大学へ通うことができたのも、すべて偶然で、幸運だったからだ。
山間の村で地主を務める父の三男として生まれた俺に、家督を継ぐ義務は端から無かった。法治国家としてこの国の仕組みが整えられていく中、父は村の土地問題に強くなるため法律家を欲しがっていた。
そのような中で、雪姉が身売りをして村を去って無気力になり、塞ぎ込んでいた俺に父は白羽の矢を立てた。長兄は家を継ぐことが決まっており、次兄は勉強よりも身体を動かす農作業の方が性に合っていたからだ。
「お前は東京に行って大学に行き、法律家になって俺を助けろ」と。
閉ざされ、空っぽになっていた俺の胸に、父は無理矢理その使命を押し込んだ。そして俺もまたその役割に縋らなければ自分を保つことができず、ひたすらに勉強をして十代を過ごした。
幸い勉強は苦では無く、やればやるだけ結果が出た。そうして、何も感じず、何も思わず、俺は大人になってしまった。
「達川、新しくできたもつ鍋の店に皆で行くのだが、君もどうだ」
「駄目だよ、達川は真面目だから誘っても無駄さ」
「あんなに堅物じゃあ、今後きっと苦労するぜ」
東京へ出て、青春を謳歌する同窓にそう囁かれ、笑われ、噂されても、俺は悲しいとも悔しいとも思わなかった。
***
「雷蔵君、君は大学を出たらどうするつもりだい?」
予科から大学本科へ進んだある日のこと。休日ののんびりとした時間の中、机に向かって法学書を読んでいた俺に、下宿先の旦那様、すなわちミチさんの御父上が徳利を片手にそう話しかけてきた時があった。
「故郷へ戻って、父や兄の手助けをします」
俺はずっと言われて決まり切った事を、馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。
「いやまぁ、それはそうなのだが……」
しかし旦那様は困ったように首を傾げ、来なさいと言わんばかりに顎をしゃくると、屋敷の縁側に腰掛けた。俺も本を閉じ、それに倣って失礼しますと腰を下ろす。広い庭では、女学校に入ったばかりのミチさんが飼い犬とじゃれて遊んでいた。
「そういった『務め』ではなくてね、君自身が何をしたいかだよ。旅をしたいとか、外国へ渡ってみたいとか、そういう望みは無いのかい?」
俺は渡された猪口をおずおずと受け取り、旦那様の言葉に首を傾げることしかできない。
「……特に、ありません」
酒に口も付けず、本心を吐く。自分の過去や心を見ても、自分の中には薄暗い喪失感と恐怖と不安が渦巻くばかり。
「君は大層真面目で、優秀で、勤勉で素晴らしいと思う。ミチが羽積に行けたのも君の家庭教師のお陰だ。きっといい縁談にも恵まれる」
旦那様は可愛らしい笑い声を上げて犬を追いかける愛娘を見守り、目を細めてから酒を一口煽った。
「話を戻そう。勤勉に法学の勉学に励む、結構。でもそれだけじゃあ駄目だ。君が弁護士として御父上を助けたり、民の問題に介入するとして、法律の知識だけで解決はできない。民を知り、理解し、寄り添う必要がある。君にそれができるか」
人差し指で旦那様は俺の胸を指差す。俺は全く以てそのような想像ができず、ただひたすら口を噤んだまま、その指先を見つめる事しかできなかった。
「まぁ、民に寄り添う、なんて士族上がりの私が言えたことではないけれどね」
そう言って肩を竦めて笑う旦那様は、次いで温かい眼差しを俺に寄越した。実の父にも向けられたことのないような穏やかなものだ。
「せめて信頼してもらうために親近感は大切におしよ。そうだな、依頼人とする雑談の話題とか。君はこんなにも熱心に本を読むのにそれは全て法学のものだろう。文学を嗜んでみるのはどうだ? 商家の旦那や地主にとって、文学は最大の娯楽の一つだ。好きな作家の話の一つや二つできることに損は無かろう」
実力ある法律家である旦那様の助言を無下にする理由もなく、そしてストンと彼の主張が腑に落ちた俺は、直ぐに大学の図書館に向かい、今までずっと素通りしていた文学や文芸の書架に足を運んだ。
今思えば、それがすべての始まりだったのだろう。
目についた本を手に取って開けば、その出会う世界全てがあまりにも鮮やかだった。全てのはじまりは、明治を代表する天才作家『黎明の三連星』の一人であり、早逝した明治を池田川朔時の作品だったと記憶している。
時を超えて知ることができる、その時代の、その人の風景や情熱。知らない世界や思想は鮮烈に俺の心を貫いた。気付けば、俺は図書館に並ぶ文学の本を殆ど読破するまでに文芸の世界へのめり込んでいた。
そしてその熱が創る方へと伝播していくのに、大して時間は擁さなかった。
***
「……雷蔵さん、何を書いてらっしゃるの?」
ある晩、机に向かってペンを走らせていた俺の手元を、障子を開けたミチさんがひょっこりと覗き込んできた。何者でもない自分が自惚れと憧れで綴る物語など、当然人に見せられるものでは無い。
インクが滲むのも厭わず咄嗟に掌を紙に被せて覆い隠したが、ミチさんは屈託のない純粋な笑顔でこちらの答えを待っている。逃げられないと観念した俺は掌を退けて正直に白状した。
「……物語を、書いています」
「まぁ、素敵! どのような御話なの? 私にも読ませて?」
俺の答えを聞かないまま、書き掛けの原稿をひょいと手に取ったミチさんは、ふむふむと気難しい顔をしてからぐったりと肩を落とした。
「……私には難しくて分からないわ」
つまらない堅物の男が見様見真似で書いた物語に、十代になったばかりの少女が面白いと思える要素などない。俺は肩を竦めて苦笑いをすると、白紙を取り出して机に広げてみせた。
「では、ミチさんが楽しめるような物語も書きます」
「まぁ、本当?」
その言葉に、ミチさんはキラキラと冬の星空のように瞳を瞬かせ、首を力強く縦に振ったのだった。こうして、俺の作家を目指す切欠は少しずつ何も無かった俺の心に刻まれて行ったのだろう。
***
大学も三年生になった頃、俺はすっかり生真面目な法学生から、文学にのめり込んで現を抜かす不真面目な学生へと成り果てていた。文学部でない引け目から、倶楽部や同人誌の集まりに顔を出すこともなく、たった一人で、黙々と読み、書き、たまにミチさんに物語を読んで貰うという生活を繰り返す毎日だった。
大学生としてそれは如何なものかとも思ったが、旦那様は勉学以外に打ち込めるものを見つけたことを、好ましい傾向だと褒めてくださった。俺自身も、法学の傍ら、こうして物書きになる人生も悪くないと思うようになっていた。
しかし、そんな俺にある転機が訪れる。
「新人懸賞……」
貸本屋で借りた文芸誌の巻末の広告に目を奪われた。それは出版社が共同で開催し、審査員は多くの門下生を抱える著名な文士達という大規模なもの。結果を残せば特別号に作品が掲載されたり、出版社から声が掛かるという。
試してみたい。己の力を。
結果を残せるとは到底思えなかったが、出すだけ出してみたらどうだろうか。どのみち俺は何も残せないまま親や兄の人生の一部分として消費されるのだ。一度くらい、自由に憧れを追いかける事は罪か。俺は頭を振り、一心不乱に原稿用紙に向かってペンを取ったのだった。
***
齢二十一の師走。年末の心地いい騒がしさが空気を賑わせ、皆が一年の終わりに対する淋しさと、来たる新しい年への希望で綯い交ぜになっている頃のことであった。
「達川殿は在宅か」
突然、松栄家を訪れた顔も知らぬ書生に名を呼ばれ、俺は引ける腰を何とか奮い立たせて歩み寄る。
「達川は、俺ですが……」
「少し用がある。今時間が在るなら来い」
おずおずと名乗り出た俺を一瞥した奴は不躾にそう言い放つと、さっさと踵を返して玄関を去ってしまう。俺は慌てて下駄を引っ掛けると、羽織も着ずにその背中を追い掛けた。
寒い筈なのに暑い。心の芯から何かが変わる予感で熱が込み上げる。そんな感覚が全身を包み、俺は息を切らしながら、スタスタと後ろを振り向かずに歩みを進める後ろ姿を追い駆けた。
書生は東京もさらに中心の街へ向かって行く。行き着いたのは洒落た高級パーラーだった。新築された外装がとても眩かったのを覚えている。洋風の装いをした男女がクリームソーダなどを喫して談笑する一階を通り過ぎ、喧騒から離れた二階へ。
半個室となって落ち着いた雰囲気のあるその空間は、只の大学生である俺にはとても場違いであるように見えた。俺を誘った書生は、相変わらず口をへの字に曲げ、顎をしゃくり、ある一つの半個室へ入るよう促す。
「し、失礼します……」
「やぁ、君が達川君だね」
中で珈琲をゆっくりと飲んでいた男が顔を上げて微笑んだ。間仕切りのステンドグラスが瞬いて俺の目を刺す。たまらず瞬きを繰り返した後、目の前の男の顔が、何度も読んだ『杜若』に載る主宰の写真の人物と同一であることに気づき、思わず仰天した。
「わ、わっ……! 鷺坂先生っ?!」
声がひっくり返り慌てて喉元を押さえる。その様子を見て目を細めた先生は、ゆっくりとペンだこで変形した中指が特徴的な右手を差し出した。
「如何にも。私は鷺坂有太夫だ。……驚いたよ。あれを書いた男がこんなに若くて端正な青年だとは」
触れた手は冬の気温でかさつき、少し冷えて心地よかった。
「知っている通り、私はあの新人懸賞にて審査員をしている。君の作品も読んだ。あれは素晴らしいね。面白い」
珈琲が白い湯気を上げる。濃い褐色の水面が揺れて、文豪を前に高揚し、だらしなく緩む俺の顔を映していた。一方、先生の珈琲の水面には、穏やかな笑みを張り付ける様子が映っている。
「君のことついて教えて欲しい。大学は? それとも誰かの門下に居るのだろうか」
テーブルに肘をつき、先生は立て続けに質問を投げかける。俺は目を合わせるのも恐れ多い気がして、両手でカップを包み込み、息を整えながら必死に一つずつ回答を紡いでいった。
「……早瑛大の法学部に在学していまして……、誰の門下生でもありません」
「早瑛……倶楽部や同人に所属は?」
「文学倶楽部も考えたのですが、法学の私が扉を叩くのは気が引けまして……。何も気にすることはないと思う反面、どうしても……」
「ほぅ……。君は完全な野良作家というわけだ。独学で良く此処まで来たね」
先生は顎に指を添え、口と目を弓なりにして優しく微笑む。先生の瞳に映る、肩を小さくしてぼそぼそと喋る俺はどれほど滑稽だっただろうか。先生はすっかり湯気を上げなくなった生温く黒い液体を飲み干すと、取っ手を中指で引っ掛けて人差し指を向けた。
「それなら、私の門下に入ると良い。生憎、君が出したものを受賞させてやることはできないが、君には才がある。私はそれを見抜いてやったのだ」
「え……」
先生は思いもよらぬ提案に呆気に取られる俺の顎を人差し指でなぞると、次いで高鳴って鼓動が煩い胸をトンとついた。
「考えなさい。身一つでも、今なら屋敷に空き部屋がある。私には君を受け入れる準備がある」
暗く閉ざし、たった一人だった世界が一気に開け、夢のまた夢だと思っていた眩い世界が誘う。そんな衝撃が俺の胸を打ち抜いた。
「え、えっと、その……。少し、考えさせてはくれませんか? あまりにも急で……」
「それもそうだね。では暫し待とうか。しかし、私の門下へ入りたいという人間はごまんといることは覚えていて欲しいね。悠長な対応はできないよ」
「は、はい……」
頭が上手く働かないまま、俺は「急いで回答を出さねば」ということだけを記憶してパーラーを出た。
***
そうして松栄邸へ戻った俺は、障子をきつく閉ざして畳の上に座り込んだ。震えが止まらない。全身が痙攣をおこしたように熱くなって、内臓までもがもんどりうって吐き気を催す。口元を押さえてボロボロと零れる涙をそのままに俺は声も無く泣いた。突如として目の前に開けた世界の大きさに、漠然とした恐怖が圧し掛かる。懐に入った先生の名刺は、帰宅した今もちゃんと存在していて、あのパーラーでの出来事が嘘では無いことを物語っていた。
――どうする。
突如現れた文士として生きる道。しかし俺には使命がある。勉学のために上京したのも、父が俺に使命を果たす事を求めたからだ。今更それを蹴り、何もかもを捨てて文士になることが許されるのか。答えは否。厳格な父が許す未来は見えない。
――それでも、と言ったら?
文士の道は険しいと聞く。当然だ。文芸の世界で名を挙げ御飯まで頂戴し生きるなど、並大抵の人間にできることではない。だから諦めていたのだ。何もない俺には到底無理だと。しかしどうだろうか、あの鷺坂有太夫から声が掛かった。才があると。
俺は全身に滾らせるような情熱をそのままに、壁に掛けられた月捲りの暦を見た。丁度年末だ。話をするなら、帰郷し新年の挨拶をしに行く時しかない。
遠い憧れが、輝く金色の糸となって目の前に垂れ下がる。その奇跡を逃すまいと、俺は縋るようにそのまま突き進んだのだ。




