酒と色香と華幻楼。下
「わぁ……」
鮮やかな朱色の衣を纏った、柔らかい空気を湛える遊女がその姿を現した。その長く重そうな打掛や、丁寧に織り込まれた帯には、大小様々な紅葉の意匠があしらわれている。そして島田に結い上げた髪は艶やかに輝き、彼女が歩く度に後光のように飾られた髪飾りがゆらりと挑発的に揺れた。
三味を弾き、舞を舞う芸者たちも花街の華であることに違いはない。しかし遊女の背負うものは、それとはまったく異なるのだと雷蔵は肌で感じた。夜の色が人の姿を借りているような出で立ちに思わず感嘆の声を漏らす。
そして彼女の後ろには、まだうら若い遊女たちが何人か付き従い、彼女の格を示すかのように控えていた。今までもこの座敷は十二分に豪華絢爛で浮世離れした世界であった筈であるのに、遊女達はさらにその色を濃くする。淫らな香の匂いが、くらくらと脳を狂わせんとしていた。
「おぉ、紅葉、その簪は私が買ったものだな。お前の黒髪によく似合う」
「三ヶ沢様、ありがとうございんす」
三ヶ沢は顔を綻ばせ、紅葉と呼ばれた遊女を隣に侍らせる。紅葉が自らについていた若い遊女達へ目配せをして優しく頷けば、おずおずと彼女達も座敷へ入り、可愛らしく頭を下げた。しかしそんな遊女達の顔触れを見渡した庄衛門は首を傾げ、そっと紅葉に声を掛ける。
「紅葉、今宵菜乃葉は居ないのか」
「菜乃葉は御早く登楼された旦那様が居ります故、その方が御帰りになられるまで他のお客は取りんせん。その代わりと言えば聞こえはいいでありんしょうが、菜乃葉と私の妹達を連れてきんした。どうか可愛がっておくんなんし」
「そうか、分かった。その……いい旦那なのか。菜乃葉は、ヒサ……山吹の新造だったのだ。下らん男であったら黙ってはおかんぞ」
紅葉から酌を受けた庄衛門の視線は、娘を思う父のそれのように鋭かった。紅葉はその言葉を受け、そっと口元に優しい弧を描く。
「菜乃葉もよくその旦那様の御話を私に楽しそうに話すような、お優しい旦那様でおられんす。安心してくれなんし」
「そうか、山吹にもそう伝えておく。さて、じゃあ菜乃葉の妹と話そうか」
庄衛門は首を伸ばし、まだ若い遊女達の顔を改めて吟味した。観賞される彼女らの緊張した面持ちには、このような宴席に慣れていないあどけなさが浮かんでいる。紅葉はそんな顔振れの中、一人の遊女に目を合わせて手招きをした。淡い黄色と深い藍色の打掛を纏い、気の強そうな光を瞳に湛えた娘だ。
「朧、御酌を。朧は先日水揚げを終えて新造になりんした」
「改めてよろしくお願いいたしんす、辻の旦那様」
「そうか、朧ももう客を取るようになったか。禿だった頃が懐かしいな。ほら、もっと近くへ寄りなさい」
(新造は最近客を取り始めた遊女……。禿は、位の高い遊女の世話をして修行する見習い、だよな……?)
そうして遊女たちと談笑に興じる庄衛門達を横目に、雷蔵は彼らの話す言葉と、自らの聞いただけの知識を擦り合わせていた。遊女の笑い声も、男の自慢話も目の前で繰り広げられているにもかかわらず、雷蔵はどこか他人事にぼんやりとやり取りを眺める。
「ほら、雷蔵のところにも行ってやんな。日々是好日で連載小説を持つ事が決まっている有望株の作家だぜ。達川雷蔵、な。これから俺達と一緒に度々顔を出すと思うから、是非覚えてやってくれ」
遊女に囲まれ接待されていた陣佐の声に雷蔵は意識を取り戻し、目を見開いて首を横に振った。しかし遊女たちは陣佐の命令の方が上だと言わんばかりに、指し示された雷蔵を取り囲んで群がる。
「旦那様は作家さんでありんしたか。どのような御話を書いておりんしょう?」
そう口々に問い掛けてくる遊女たち。雷蔵は立ち上る濃い香の匂いにむせ返り、距離の近い彼女らに赤面して慌てふためきながら、しどろもどろにそれに応えていった。このような華やかな場を敬遠し、女との付き合いを軟派だとあしらってきた雷蔵にとって、この空間は過ぎた毒である。
慣れない空気に呼吸すら浅くなってきたような気がして、雷蔵の思考はどろどろと淀み、遠のく。気分が悪くなってきた雷蔵は、このままでは不味いと、助けを求めるように陣佐の方を伺い見た。
一方陣佐の周りでは、取り巻きが少なくなった隙を狙ったのか、一人の仲居が彼の元を訪れて耳打ちをしている。 そして次の瞬間、何やら陣佐は呆れたように額を押さえて空を仰いだ。
(陣さん、何かあったのか……?)
陣佐ばかりを見ている雷蔵の気を引こうと、一人の若い遊女が彼の細く痩せた肩にしな垂れかかる。その重さに耐えられずぐらりと身体が傾き、雷蔵は慌てて床に手をついた。彼女達がどれだけ小柄で軽かろうが、その纏う打掛や帯、そして髪飾りがずっしりと雷蔵を襲う。
「ねぇ、達川様。連載小説ってどんな御話を書かれるの? 私、楽しみだわ」
その重さにたじろぎながらも何とか倒れずに済んだことにほっと息を吐きつつ、雷蔵は問われた言葉に目を丸くした。
「君達は、日々是好日を読んでいるのか」
遊女たちは雷蔵の言葉に一様に頷き、誇らしげに胸を張る。それに合わせて髪飾りがきらりと揺らめき輝いた。
「えぇ、勿論。華幻楼は文士や政治家の先生が御贔屓にしてくださる格式高き楼。遊女の私達にも、知識が求められるのでありんす。新聞だって、他の文芸誌や雑誌だって。此処に買われた時に字が読めない子は、姐さんから教わるんでありんす」
「へぇ……」
彼女らの意地や、この華幻楼がなぜ庄衛門に気に入られているのかの理由を垣間見たような気がして、雷蔵は素直に感心の声を漏らす。そうして胸を張り、お気に入りの作品を楽しそうに話す姿を見て、あくまで主観ではあるが彼女達の絆や誇りを感じ、雷蔵はそっと口角を上に歪めた。そして、願ってもどうしようもないことが、雷蔵の心のほの暗い部分からぽろりと落ちる。
(どうか、あの子もこのような温かいところに……)
「あとは、日々是好日に限っては辻の旦那様が山吹姐さんを身請けした縁もありんす。旦那様はそれ以降も、社交の場としてずっと華幻楼を懇意にして下さっているのでありんす」
「山吹姐さんは、長くこの華幻楼の御職を張っていた遊女で、今は身請けされて辻の旦那様の奥方でありんす。今の御職である菜乃葉姐さんの姐女郎でもあったんでありんす」
「え、おヒサさんが……? 御職って、最高級の遊女のこと……」
思わぬ真実に雷蔵は驚きつつも、彼女のどっしりと構えた強かさや、よく気の利く細やかさ、そして上品な身の振り方を思い出し、どこか納得して頷いた。
「あとは、陣さんをウチのおっかさんが気に入ったのもそうでありんす。陣さんの事が嫌いな遊女は、此処には居ないでありんす」
「陣さんは毎回、日々是好日を持ってくるために華幻楼に来てくれて、私達はそれを楽しみにしているのでありんす」
「文芸誌だけじゃないわ。陣さんは外の世界の御話を沢山してくださるの」
頬を染めて陣佐の事を話す彼女達は、まるで歌舞伎の二枚目役者に恋をする普通の乙女のようであった。
「そう、なのか……」
雷蔵は遊女と和やかに話す陣佐へ目をやる。飄々として多少強引なところもあるが、面倒見が良く、仕事もできて誰にでも好かれる男。その人柄は周囲を和ませ、自然と信頼を集めているのだろう。
雷蔵は彼女達を通して自分の大切な人達のことを深く知れたような気がして、ほんのりと胸が熱くなるのを感じた。一度くらいこの異世界の空気を吸い込んでやろうと意を決し、雷蔵は膳に置きっぱなしにしていた杯に手を伸ばす。そして碌に酒も入っていないような小さな杯を傾けた。
「……凄いなぁ。陣さんも、そうやって勉強をして文を読む君達も」
たった一口の酒で頬を真っ赤に染めた雷蔵は、感嘆の声を漏らしながらそっと頬を緩めて微笑む。優しい笑みは思いがけず艶やかで、酒に火照った首筋の白さが、どこか無垢な色気を纏わせていた。
そんな顔負けの色を目の当たりにした女郎達は思わず息を呑み、無言で互いの顔を見合わせた。




