酒と色香と華幻楼。上
大門の向こうは甘ったるい香の匂いと騒がしい笑い声が入り混じる、華やかで猥雑な夜の海だった。提灯の明かりが人波に滲み、男たちは酒気を纏いながら、夢と欲に足を取られている。
「はぐれるなよー」
犇めく人と独特な臭いに酔っ払い、疲れも相まって気分が悪くなってきた雷蔵は、揺れる視界の中で陣佐の背中を頼りにフラフラと足を進めていた。
そうして辿り着いたのは、華やかな遊郭の中でも一際格式の高そうな廓だった。
「華幻楼……」
刻まれた看板の文字を見上げ、雷蔵はぽつりと呟く。庄衛門と陣佐は廓の色めいた雰囲気に呑まれる雷蔵を手招いた。
二人が慣れた様子で屋敷に入れば、帳場で煙管を吹かしていた遣手婆が顔を上げる。
「辻様と陣じゃねぇか。初見さんのツレもいるね。いらっしゃい、ようこそ華幻楼へ。三ヶ沢様ならもうお上がりだよ。……おい、風の間へ御案内しな」
雷蔵は初めて踏み入る世界に尻込みしながら恐る恐る会釈をした。彼女はその任に相応しく鋭い目つきで、そんな雷蔵を値踏みする。その視線がグサグサと刺さり、雷蔵は居心地の悪さから陣佐の身体を盾にするようにしてそっと隠れた。
遣手婆から指示を受けた仲居に導かれ、「風」と札が掛けられた部屋の前に通される。仲居は跪き、恭しく襖に手を掛けた。
「先生、お連れ様がお上がりになりんした。失礼致しんす」
襖が開けば、そこには別世界が広がっていた。着飾った芸者が三味を弾き、箏を奏で、しなやかに舞っている。あまりの華やかさに雷蔵の目は眩み、星が舞う。座敷の上座には、白髪まじりで恰幅のいい男がそんな芸者達を肴に杯を煽っていた。
「遅いぞ庄衛門殿! おぉ、陣もおるか!」
「本日は誌の締日でおりました故、少々遅れまして申し訳ありませんね」
「十二月号の前祝い、ありがたき幸せです。何卒これからも御懇意に」
庄衛門と陣佐が恭しく頭を下げ、座布団に腰を下ろす。そのやり取りに出遅れ立ち尽くす雷蔵に、助け舟を出すようにそっと陣佐が手招きをした。三ヶ沢の目は当然のように見慣れぬ雷蔵へと向けられる。
「して、その若者は」
「コイツは十一月号に初寄稿した作家、達川雷蔵です。波留日の目に留まり、今は俺達の編集部に所属してくれていましてね。是非とも三ヶ沢先生に紹介したいと思いまして」
「た、達川雷蔵、です。宜しくお願い致します」
緊張に震える声と共に頭を下げると、三ヶ沢は先程の鋭い目とは打って変わり、穏やかな眼差しを向けた。
「そうか、私は三ヶ沢修之介。国会議員をしている」
「国会……議員」
その響きに、雷蔵は殴られたような衝撃を受けて気が遠くなる。青褪めた雷蔵を見て三ヶ沢は腹を抱えて体を揺らした。
「なぁに、此処での私の立場は弱いものよ。そう委縮せず、陣くらい無礼な方が私も楽だ」
そう言って杯を煽る三ヶ沢は、政治家らしい風格とどこか親しみやすい人徳を湛えている。
「雷蔵君は大学には通っていたのか?」
「え、えぇ。早瑛大の法学部に。中退しましたが……」
「そうか! 早瑛か! 早瑛の法学部は優秀な者が多いと聞いている。波留の目に留まるとは、きっと君もそうなのだろう」
期待を掛けられてキリキリと痛み出す胃を抱えながら、雷蔵は無理に口角を歪めた。
「そうであればいいのですが……」
「日々是好日の名が上がれば、私としても万々歳だ。初めは陣に弱みを握られて金を巻き上げられたんだが、今では私も新進気鋭の誌に出資する先見の明がある人物の立場だ」
そう言って茶目っ気を帯びた笑みを浮かべる三ヶ沢は、まるで悪戯っ子のようで、艶やかな空気に満ちたこの宴席には不似合いに思えた。
「君が頑張ってくれれば、私も鼻が高い。まぁ、そういったがめつく狡い男と見做してくれて結構だよ」
そうして彼は雷蔵の肩を叩くと、今日は楽しんでくれと言い残して彼の話題は庄衛門との時事談義へと移っていく。
「して、南満州での商売は如何様で……?」
「おかげさまで満鉄筋の流通にはようやく目処がつきまして」
「ほほう、それは御目出度い。恐らく我が帝国は、満鉄を足がかりに満州そのものを取り込むつもりであろう……」
「しからば、先生もそうお考えに? そもそも、それは可能なのですか?」
「ふむ、私が思うに、あの地における他国の影響が大きすぎると。我が国がどれだけ存在感を示せるかで風向きは変わろう。欧米列強も狙っていないわけがない。次の内閣にて動きがあるやもしれん」
繰り広げられる議論は経済から政治まで多岐に渡り、雷蔵にはまるで別世界の話のように思えた。
「難しい話は参っちまうなァ、雷蔵」
一人黙り込んでいた雷蔵の元へ徳利を片手に訪れたのは陣佐だ。頬をほんのり赤く染め、声もわずかに上ずっている。彼が酔っている事は明白であった。雷蔵は自分用に置かれた徳利の酒を陣佐の杯に注いで首を傾げた。
「陣さんだって新聞記者だったのでしょう? ああいう話は好きじゃないのですか?」
「あぁ、嫌いじゃぁない。寧ろ俺の得意分野だ」
遠慮なく杯を飲み干し、それどころか徳利までもを奪い取って、陣佐は昔を懐かしむように目を細める。しかしその表情は只の懐古ではなく、どこか影を帯びた大人の色を湛えていた。
「……三ヶ沢先生の弱みとやらもそういうこと、ですか?」
「週刊新聞しか出していない中小の新聞社がいきなり文芸誌なんて創れる訳ねぇからな。温めておいた特ダネを片手に三ヶ沢先生に『文芸誌の創刊に向けた支援、如何ですか?』って聞いただけさ」
勘付いた雷蔵の問いに対し、陣佐は口角を緩め、意味ありげに唇を歪める。その表情は、先程の三ヶ沢よりもよっぽど意地の悪い悪戯っ子の顔をしていた。
「す、凄い……」
矢張りこの男は只の編集者や新聞記者では片付けられぬ大きな器を持っている。雷蔵は感嘆の声を漏らした。
「まぁ、生真面目なお前にこの場は気詰まりで居心地悪いかもしれねぇが、勉強だと思って楽しんでくれ」
そう言って雷蔵の頭を乱暴に撫でた陣佐は、機を見計らったかのように二人の間へ割って入り、徳利を片手に屈託の無い笑顔を浮かべた。
「あ、社長! 先生! 杯が空ではありませんか~! 御酌致す!」
その大きな背中を見送りながら、雷蔵は彼の残したつまみをそっと口に運ぶ。上品な味付けが舌の上で弾けた。今、この宴席で雷蔵が楽しめるのは精々酒の肴程度だ。この場を彩る三味も舞も輝くように華やかではあるが、雷蔵はその誂えられた美に息苦しさも覚えてしまう。
(今この座敷にいるのは、芸者……)
陣佐や庄衛門の言うように社会勉強にすべきだと割り切り、彼女達の弾く三味に耳を澄ませていた頃。
「三ヶ沢先生、紅葉の支度が整いんした。芸者衆はまもなくお暇に」
仲居が静かに座敷へ入り、庄衛門と三ケ沢へ声を掛ける。その言葉に談笑していた皆が口を噤み、目線は鮮やかな絵が描かれた襖へと注がれた。
「そうか、入れ」
三ケ沢の声に従い、音もなく襖が開く。




