酒と狼藉とあの男。
「そちらは応接間でございます!」
「知の花魁が居るんだろ?! どれ、この私に一目見させなさい!」
「お止めくだされ!」
言い争う声と共に乱暴に床板を蹴る音が響く。陣佐は瞬時に部屋をぐるりと見渡し、出入り口が一つしかないことを把握すると、膝を立てて菜乃葉を隠すように後ろへ庇った。波留日もすぐさま菜乃葉の元へ駆け寄ると肩に手を置き、来たる不届き者に備えて守るように背を向け、襖の方を睨みつける。
片や雷蔵は、その徐々に近づいてくる声に息を呑むと、呼吸を浅くして蒼白の面を晒した。金縛りにあったかのようにその身を強張らせ、苦悶に満ちた表情を浮かべる。そのような雷蔵の異変を見た陣佐と波留日。
二人は視線を交わすと、陣佐が素早く雷蔵の首根っこを掴んで部屋の隅へ放り投げた。雷蔵の身体はされるがまま畳の上に転がり、勢い余って柱に頭をぶつける。申し訳なさそうに手を合わせつつ、陣佐は直ぐに口を真一文字に引き結んで構え直した。菜乃葉はその強い眼光はそのままに、身を低くして二人に守られる体勢へと入る。
「たかが遊郭の遣手婆が偉そうに私を引き止めるなど片腹痛い。私は客だぞ!」
「客とはいえ此処は格式高き華幻楼! そのような狼藉は許されぬわ!」
「貴様は大人しく菜乃葉とやらを出せ!」
そうしてガタガタと襖が揺れ、桟から外れんばかりの勢いで開け放たれた。
姿を現したのは、白髪交じりの髪を撫でつけた、口元の黒子が目を引く初老の男。神経質で自尊心の高そうな顔を酒で真っ赤に染めている。
酔って座った目で応接間をぐるりと一瞥した男は、陣佐や波留日など視界に入らぬという具合に無視し、舐めるような視線で奥の菜乃葉を品定めしてニヤリと口角を歪めた。男の背後には、彼の連れなのか、若い書生らしき青年達が同じような目でこちらを好奇の目で覗き込んでいる。菜乃葉はその視線に眉を顰めると、口を噤み衣手で顔を隠した。
「おいおいおい、これはこれは……」
陣佐はこうして現れた不届き者を前に額に手を当て、これは参ったと言わんばかりに苦笑を漏らす。波留日も元より大きな瞳を丸くし、喉から乾いた笑いが掠れ出た。
「いい加減におよし! アンタは……! アンタは、客としてやってはいけない事をしているんだよ! 初登楼で押しかけて来たと思ったら……! ウチの知の御職をそのような狼藉で拝めると思うな!」
応接間へ踏み入ろうとする不届き者へ、婆が最終通告と言わんばかりに声を張り上げた。普段は怒りつつも愛情深い温かさがあり、何があっても飄々としている彼女が怒り心頭で菜乃葉を守ろうとしている。
しかし男共はそれを鼻で笑った。そしてあろうことか、筆頭である初老の男は、黒子の口元を歪めて辺りに怒鳴り散らす。ビリビリと怒声が空気を震わせた。
「誰に口をきいているんだ売女の分際で! 私は杜若の主宰、鷺坂有太夫だぞ!」
あまりの態度に場が凍りつく。その隙を突いて鷺坂は悠々と応接間に押し入ると、菜乃葉を庇う陣佐と波留日を見下ろした。
「どこの若造と陰間崩れか知らぬが、退け。私はその女に用がある」
「……文壇の有名人がこんな事して、外に知れたらどうなることやら、ですよ、鷺坂先生」
陣佐は顔を引き攣らせながら、これ以上菜乃葉に近づけまいと非難の声を上げる。それを受けた鷺坂は、酔った瞳で不機嫌そうに陣佐を一瞥した。
「……君も文壇の人間か。見たことは無いがね。私に口ごたえをしたいならば好きにすればいい。ただ、私に楯突いてこの世界で生き残った者は居ないがね」
腕組みをして鼻で笑った鷺坂は、陣佐の肩を押しのけ、身を寄せ合って無礼者を睨みつける菜乃葉と波留日の元へ歩み寄る。
「ほぅ、女の方も大した美人だが、陰間の方も中々ではないか」
下衆で粘ついた視線が二人を絡め取り、鷺坂は菜乃葉の髪に触れようと中指に分厚いタコのある手を伸ばした。波留日はその手から庇うように菜乃葉の身を引き寄せて睨みつける。しかしその威嚇すら意に介さず、鷺坂は二人と距離を詰めた。
「触るな」
波留日の肩に指先が触れる直前、鷺坂の腕を、細く華奢で不健康な色の手ががっしりと掴む。その主は真っ青な顔で脂汗を滲ませ、眼鏡の奥の揺れる瞳で鷺坂を睨みつけていた。ガタガタとその手は震え、それが伝播して鷺坂の手元まで狂っている。
鷺坂は不躾な手を睨みつけてその主を見るや否や、大口を開けて笑い声を上げた。
「ははは! 誰かと思えば雷蔵じゃぁないか! 一体何処をほっつき歩いていたんだい! 会いたかったよ!」
その名前に鷺坂の背後に控えていた書生たちがざわりとどよめき、空気がざらりと揺れる。
「触るなと言っています。この手を下ろしてください」
雷蔵は歯を食いしばり必死の形相で、腕に込める力をより強くした。ギリギリと衣や骨が擦れ軋み、鷺坂は痛みに顔を歪める。
「誰に口をきいている」
「貴方の名などもう二度と口にしたくない」
相も変わらず威圧的な鷺坂の声に、雷蔵は全身を震わせながら毅然として答えた。
「それが師に向けて放つ言葉かね」
「貴方はもう師でも何でもない」
波留日と陣佐は、眼前で繰り広げられる二人のやり取りに息を呑む。もう疑うまでも無かった。波留日は小さく呟いた。
「そうか……雷蔵が云う、『あの男』は……」
雷蔵がその名を口にするのすら憚らせる程の過去を与えた人物。雷蔵が波留日たちと出会以前、奈落を彷徨う切欠を与えた人物。それが、文芸界の権威の一人、三大文芸誌『杜若』の主宰・鷺坂有太夫であった。
早逝の天才・池田川朔時と共に、この近代文芸の地盤を築いた重鎮。天才亡き世もなお文壇の最前線を歩み続け、池田川の名を冠した文学賞の創設にも奔走した文豪である。そうした輝かしい経歴を有する男と、前の酒に酔い遊女に狼藉を働くこの初老の男とが同一人物であると誰が信じられようか。
鷺坂は眉間に皺を寄せ、こちらに視線を寄越す陣佐へと目を向ける。そして合点が行ったかのように口角を歪めると、わざとらしく顎に手を当て首を傾げてみせた。
「成程。貴様、雷蔵と共に居るということは朝星の関係者か」
鷺坂は乾いた笑い声を上げて、雷蔵の手を勢いよく振り払って突き飛ばす。それに煽られて体勢を崩した雷蔵の顔面にすかさず手を伸ばし、前髪を掴んで引き寄せた。痛みで雷蔵の顔が歪む。
「日々是好日などという下賤な誌に擦り寄りおって……。雷蔵、貴様も落ちぶれたものだな。……まぁ、元々高みになど居らなかったが」
嘲笑う鷺坂。波留日と陣佐は気色ばって立ち上がり、鷺坂を睨みつけた。
「弱小の新聞社が、文芸の門戸を開くなどと気取りおって……気に入らん」
大柄な陣佐を前にしても一切臆することなく暴言を吐き捨てる鷺坂の姿はむしろ清々しい。腰が抜けてしまった雷蔵は前髪を掴まれたまま、歯を食い縛ってその腕に爪を立てた。
「橘波留日も橘波留日だ。それなりに良いものを偕成で出したにも関わらず、朝星などという場所に隠れおって。姿を出さないのも悪質だ!」
波留日の正体は公には隠されている。この空間にその張本人が居るとは知らず、鷺坂は波留日への罵倒も吐き始めた。彼の背後の廊下では、クスクスと鷺坂の書生たちが朝星新聞社の面々を嘲笑う声が聞こえる。
「……そうだ、雷蔵。貴様、折角書く気になったのなら私の処へ戻っても良いのだぞ? 手厚く世話してやろう。前のようになぁ!」
そうして雷蔵を見下す鷺坂の目。人間を虐げることを厭わぬ横柄で舐め腐った眼光。雷蔵がこの反吐の出るような眼差しに晒されるのは、これが初めてではなかった。
「世話、だって……?」
鷺坂の言葉に、腸が煮えくり返るほどの怒りと激情が雷蔵の中で渦巻く。
この感情に襲われるのも、これが初めてでは無かった。
怒りで真っ赤に染まる視界の奥。雷蔵のどこか冷静になった脳内で、思い出したくもない過去がまた呼び起こされる。




