夏と身請けと蝉の声。
季節は鬱屈とした梅雨が過ぎ去り、汗ばむような暑さが襲い来る頃となった。
随分と日暮れが遅くなった淡い夕焼けが忍び寄る空の下、雷蔵は数冊の日々是好日を包んだ風呂敷を胸に抱え、陣佐と波留日に連れられて再び華幻楼を訪れていた。
彼らが登楼した目的は、宴でも閨の逢瀬でもない。その証拠に、華幻楼はまだその暖簾を掲げておらず、花街全体も蝉時雨の合間に三味線を練習する音や談笑する声が聞こえてくるだけだ。軒先でごくりと唾を飲み込んで尻込みをする雷蔵の肩を叩いた陣佐は、厭わず開店前の戸を引いて門をくぐり、中へ足を踏み入れる。
「よー、邪魔するぜ」
帳場の近くを開店前の準備で忙しなく歩いていた遊女が一人、振り返って声を上げた。
「あっ! 陣! どうしたんだいこんな時間に!」
浅葱色の着物を纏った涼しげな目元の遊女が、ツンとしていた顔を綻ばせてこちらへ駆け寄る。まるで飼い主によく懐く子犬のような目だ。雷蔵はその変わり様に驚きつつ、どこか冷静に彼女を見やった。
「いつもの野暮用だよ、涼風」
甘い声で陣佐のもとへ駆け寄り腕を絡めた涼風は、雷蔵が胸元に抱える風呂敷を見つけると、合点したように頷く。
「そうか、今日は日々是好日の発売日か」
陣佐は相変わらず人好きする爽やかな笑みを浮かべると、空の帳場を見るや否や、背を伸ばして店の奥を覗き込んだ。大柄な彼からの目線であっても目当ての人物が見当たらなかったようで、陣佐ははてと首を傾げる。
「……涼風、女将は居るか?」
「おっかさんは奥で菜乃葉姐さんと話しているでありんす。私が呼んでくるから待っていてくれなんし」
「頼んだぜ。悪いな、用が立て込んで開店直前になっちまって」
陣佐に頼まれたことが嬉しかったのか、涼風は頬を桃色に染め、軽やかな足取りで屋敷の奥へと駆けて行った。彼女とすれ違う若い遊女や幼い禿たちは、その笑顔が珍しかったのか、まるで化物を見たかのように面食らって顔を見合わせる。それを通りすがった紅葉が見かけてクスクスと笑い声を上げた。
「ははは、相変わらず、涼風は陣さんにだけは甘いねぇ」
「……こうも分かりやすいと俺も困っちまうんだけどな」
「本当だねぇ、アイツに大金払ってる旦那達が泣くよ?」
陣佐は眉を下げて頭を掻く。紅葉は目を細め、唇を弓なりにして微笑んだ。そして可憐に踵を返す間際、彼女は陣佐とのやり取りを観察していた雷蔵へ色っぽい視線を向けて揶揄う。それに気付いた雷蔵の顔は、みるみるうちにその耳朶の先まで真っ赤に染まった。
雷蔵が陣佐や波留日と共に華幻楼や他の妓楼へ日々是好日を差し入れる行脚に同行するのはこれで数度目となる。
しかし雷蔵が妓楼の甘やかで艶やかな雰囲気や華やかな遊女たちとの会話に慣れることは一向になく、相も変わらず借りてきた猫のように強張って縮こまっていた。最近ではその態度に寧ろ遊女側がすっかり慣れてしまい、初心だの可愛らしいだのと揶揄ってくる始末だ。
「波留日、」
女将である遣手婆を待っていると柱の陰から小さな声が聞こえ、三人は吸い寄せられるようにその声の主を目で追った。帳場の柱に隠れて、おずおずとこちらを伺う小さな影がある。波留日はふわりと柔らかく微笑み、その影の名を呼んだ。
「吉乃」
彼女は菜乃葉の禿だ。雷蔵は良く知っている。菜乃葉と同じように白い肌と、警戒心の強い猫のような瞳が印象的な少女だ。そして菜乃葉の知を受け継いでよく本を読み碁を好む、次世代の『知の御職』の候補筆頭であるという。
「……読ませて」
波留日は雷蔵から風呂敷を受け取り、包みを開いて一冊をそっと差し出した。すると吉乃は頬を染めて波留日の元へ駆け寄ると、日々是好日を受け取って宝箱の蓋を開けるように頁を開く。
「あ、吉乃! ずるいわ! 私も!」
やがて、帳場には陣佐らの来訪を聞きつけた遊女達がわいわいと集まり始め、我先にと届けられた日々是好日へと手を伸ばした。只の文芸誌がここではまるで宝石や札束の扱いで、目次を見ては誰の文が載っているかと一喜一憂し歓声を上げる。そんな彼女達の姿を前に、波留日達は顔を見合わせて思わず破顔してみせた。
「コラ! アンタたち、もう直ぐ時間だよ! 持ち場に御付き! ……悪いね、陣、波留、雷蔵、この子らの感想はまた後で聞くにしておいてくれ」
涼風の言伝を聞いて帳場へ戻ってきたやり手婆の一言で、遊女達は頬を膨らませながらも、素直に蜘蛛の子を散らすように去っていく。その様子を見送った遣手婆は腕組みをして三人に視線を寄越し、ぐいと顎をしゃくった。
「アンタらには少し残ってもらうよ。菜乃葉からの御呼び出しだ」
その言葉に雷蔵の肩が強張る。波留日と陣佐は何の心当たりもない呼び出しに、はてと首を傾げて顔を見合わせた。
***
遣手婆に連れられて歩くのは、妓楼の奥へと続く廊下だ。妓楼にあるまじき静寂が支配する空間に怯え、雷蔵はビクビクと肩を震わせながら歩く。華幻楼と馴染み深い波留日もよく知らない場所なのか、雷蔵の隣でキョロキョロとしきりに首を動かし、興味深そうに辺りを観察していた。
「此の先は……要人の接待用の応接間しかねぇよな……?」
その道中の廊下で、陣佐は眉間に皺を寄せ、小声で呟きながら腕を組む。その声に雷蔵と波留日は顔を見合わせ、眉の下がった不安そうな顔を陣佐に見せた。
「いいから黙ってついてきな。行けば分かるんだからグダグダ言うんじゃないよ」
婆に言われるがまま三人が通されたのは、陣佐の言った通りこじんまりとしつつ上品な雰囲気の応接間であった。茶の間の掛け軸は恐らく著名な書道家のものであり、畳も座布団も一目で上質なものだと分かる。部屋全体に漂う空気全体が気品を帯びていた。自然と背筋が伸びるような、そんな落ち着かなさが三人を包む。
その息が詰まるほどに格式高い部屋の中で、菜乃葉は相も変わらず珠のような輝きを湛えていた。彼女は凛とした姿で微笑み三人を出迎える。遣手婆は開店が近いため帳場へ戻ると言い残して退席した。
「突然の御呼び立て、御免なんし」
三人は促されるがまま座布団に座り、彼女の次なる言葉を待つ。そのあまりの静寂に、屋敷の表の方で繰り広げられる艶やかな箏の音や女たちの笑い声が漏れ聞こえてきた。開店の時刻を迎え、絢爛の花街にお客が登楼し始めたのだろう。菜乃葉はそっと口元を弓なりにし、指先を揃えて恭しく頭を下げた。
「この度、私菜乃葉、身請けされる運びとなりんしたこと、朝星新聞社の皆様方に御伝え致したく」
それは彼女がこの華幻楼を去ることを意味していた。その言葉に、雷蔵の目が大きく揺れる。
「目出度いじゃないか。社長やおヒサさんにも伝えておくよ。社長にはまた別途挨拶してやってくれ」
一方陣佐はその報告を受け、拍子抜けしたように正座を崩して胡坐になると、感慨深げに煙草に火を点けた。
「私が知の御職として旦那様に見初められたのも、山吹姐さんの指導と、辻の旦那様ら朝星新聞社の皆様の御陰」
「身請けかぁ……! おめでとう! 菜乃葉!」
波留日も手を打ち鳴らして喜びの声を上げる。しかし雷蔵は素直に祝う事などできる筈もなく、顔を歪めて思わず身を乗り出した。畳に突いた手が拳を握りしめ、畳の目に爪が引っ掛かってガリリと音を立てる。
「身請けなんてそんな……! その、御相手はいい人なのですか?」
「達川様、心配なさらずとも。旦那様は財閥のお方で、私が将棋に勝っても笑って下さるような器の広い御方。そのような御方に拾って貰えた私は幸せ者でありんす」
穏やかな笑みを浮かべる菜乃葉。しかしその目には強い眼光を湛えていた。この花街へ売られた時と同じ、運命を飲み込み腹を括り、自分の血肉とせんとする強い菜乃葉の姿。その覚悟を前に雷蔵はどうしようもなくなり、激情の矛先を失って力なく座布団に身を沈めた。
「雷蔵、知っているだろうけど、遊女の中でこうして要人に見初められて華のあるうちに花街を去れるというのは幸せなことだよ」
波留日が言い聞かせるように雷蔵の肩に手を置いて言う。そんな事は雷蔵とて百も承知のことだ。頭では分かっていても心が痛い。まるで自分が何もできなかったという悔しさを、過去の古傷を抉られているような感覚に、雷蔵は歯を食いしばって胸元を握り締めた。
「そうだ、花魁道中はやるのか? お前は華幻楼の御職、妓楼側としてもパーッと祝わなきゃだろう?」
雷蔵が今にも倒れてしまいそうな程蒼白な顔面をしている横で、陣佐の興味は次の話題へと移っていく。陽気な声が酷く場違いではあるが、陣佐の対応が一番望まれているものだ。菜乃葉は膝を正して陣佐の方に向き直ると、胸を張って誇らしげに口を開いた。
「おっかさんと旦那様が是非に、と。時期は葉月の中頃かと。我が華幻楼の格と、私が菜乃葉として御職を張ってきた意地を、どうか御一見くださいませ」
その佇まいには、微塵の不安も見られない。ここまで揺るがぬ強い眼光は、菜乃葉自身がこの宿命の中で逞しく生き抜いてきたという紛れもない証拠を示していることと同義であった。
「そうか、目出度いなァ、菜乃葉。日にちが決まったら言ってくれ。絶対に行くからよ」
陣佐は感慨深げに目を細めてゆったりと口角を上げる。波留日も黒髪が乱れるほどに深く頷き、菜乃葉の覚悟を目の当たりにした雷蔵も、最後はぎこちなく眉を下げて微笑んだ。
「皆様……。ありがとうございんす」
菜乃葉は雷蔵の不器用な笑顔を見て安堵したように肩の力を抜き、再び指先を揃え、深々と頭を下げる。その姿は、去り際まで美しい白鳥のようだった。
「もし何か困ることがあったら朝星新聞社においでね。僕達はいつだって菜乃葉の味方だからさ」
波留日はちょこんと座った座布団の上で屈託のない笑顔を浮かべる。そうすれば菜乃葉は眉を下げて顔を綻ばせた。
「そのようなことが起こらないよう願うばかりでありんすが、とても頼もしい味方は有難いでありんす。まさしく、夜を導く星明りであり、闇を切り開く朝の名を冠する気高き方々」
菜乃葉の言葉を受け、よせやいと陣佐が照れを見せたその刹那、バタバタという騒がしい音が響く。次いであの遣手婆が珍しく焦る声。何やら物騒な音が襖の向こうから聞こえてきた。
何事かと三人は会話を止め、じっと息を潜める。




