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夢と軌跡と腹括り。 下

 年末年始の帰郷に行った筈の下宿生が頬を腫らし、傷だらけで帰ってきたので、旦那様や奥様、そしてミチさんも大層驚いているようだった。新年早々、見苦しいものを見せてしまったと反省している。


 結局父を説得することは叶わず、俺は絶縁を言い渡された。烈火の如く怒り狂い、学費も下宿代も払わぬと言われた。当然だ。母は泣き、兄弟たちも軽蔑の眼差しで俺を見た。良心も痛み、取り返しのつかないことをしたという自覚はあったが、夢のために必要な犠牲だと切り捨てることは、何ら苦では無かった。


 二度と顔を見せるなと追い出された実家から東京へ向かう中、俺は雪姉がかつて人買いの男に連れられた時と同じ道を一人辿る。相変わらず、田畑を染め上げる一面の白銀は雪姉のように美しく、そして凛として冷たかった。


 帰る場所を失くしたと云うのに、不思議と心は晴れやかだった。虚であった俺の心に、文士として名を残せるという希望が注ぎ込まれて満ち溢れていたからであろう。


 そこからの俺は早かった。行く当てもない、失うものも何もない身となった俺は大学へ行かなくなり、荷物をまとめて松栄家を去る決断をした。


「君の御父上はそう言ったかもしれないけれど、私達は君が此処に居る事を全くもって構わないと思っているんだよ?」


「そうですわ、雷蔵さん! 行かないで!」


 旦那様やミチさんは俺を引き止めたけれど、松栄家には随分と迷惑を掛けてしまったので、これ以上世話になるわけにはいかなかった。そして俺自身、先生の屋敷という当てがあったが故に、決断を変えることはなかった。


 松栄家を発つ前夜、興奮して眠れず、縁側に腰かけて夜空を見上げていた俺に旦那様はそっと話しかけてきた。


「私は……此処に来た時の君を恐ろしく空っぽな子だと思った。自分の意志など何も無いように瞳は真っ黒で、張り付けたように微笑む君は、少年時代の若さと未熟さという独特な雰囲気と相まって異質なものに見えたものだ。それに比べ、今の君は好きなものを見つけ、突き進み、決断した。立派に血の通った思考する人間だ。それが私は嬉しい」


 そうして懐から凝った刺繍が施された袱紗を取り出し、俺に渡してきた。


「ただ、その選んだ道が生易しいものでは無いことは、素人の私でも分かる。そして、君がその選択をする片棒を私も担いでいる自覚があるから。これは私からの餞別だ。本当に君が困った時に使いなさい」


 俺は当然受け取れませんと断ったが、旦那様といるいらないの押し問答の末、無理矢理懐にそれを捻じ込まれた。その当時、まさかこの餞別に助けられるとは、これっぽっちも思っていなかったのに。



***



 文字通り身一つで鷺坂邸へ転がり込んだ俺を、先生は手厚く歓迎してくださった。部屋を用意し、飯を食わせ、原稿の整理や出版社への言伝を良く任せてくれた。俺もその期待に応えられるよう、俺を見つけてくれた恩を返せるよう、身を粉にして働いた。門下生達が作品を持ち寄り評価し合う品評会や、文学について議論する討論会にも必ず顔を出した。


「雷蔵は働き者だね。そうやって今までは一人で努力も怠ることなくやってきたのだね」


 文机に向かい、筆を滑らかに走らせながら、先生はそう言って微笑んだ。そう言った言葉の一つ一つに、俺は都度舞い上がって深々と頭を下げる。


「ありがとうございます……! 先生」


 今思えば、俺はなんて浅はかで世間知らずで、周りの見えていない馬鹿な奴だったのだろう。


 始めに雲行きが怪しくなってきたと思ったのは、他の門下生の風当たりが強くなったことだった。品評会や討論会の日取りを伝えられない、先生からの伝言を誤って伝えられ、失敗を手引きされる。お気に入りだと囁かれたり、悪口を言われたりというのは慣れるというか気にしなかったが、先生に迷惑を掛ける事にはほとほと困り果てた。


「いいよ。私は君が努力している事を知っている」


 呼びつけが漏れ、言われた時間に顔を出せず頭を下げる俺に先生は笑った。これで片手で数えるには多い回数となってしまった。冷や汗を滲ませていた俺は、先生の言葉にホッと胸を撫で下ろす。許された、先生だけは俺を評価してくれると肩の力を抜いた直後、先生は文机の上にあった分厚い紙束と古い本を投げて寄越した。バサリという大きな音に、思わず身を震わせる。穏やかな顔とはうって変わった横暴な仕草に、サァと思考が冷えた。


「え……」


「君も知っているだろうが有名な古典だ。この本に載っているすべてを模写しなさい。一日で。この紙を書ききるまで寝てはならないよ」


 顔を上げて先生を見れば、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべている。あの古典は、高校や大学に行った人間であったら空でも言えるような基本的なものだ。あのようなものを、書き写せなど、ただの時間の無駄としか思えなかった。酒癖の悪さからの悪戯や無茶振りを期待していたが、この顔は素面だ。この人は本気で俺にこんな事を言っている。


「……承知しました」


 その時は先生なりの思惑があってのことだろうと思っていたが、先生の要求は徐々に苛烈なものへと変わっていった。今思えば、先生に師事し、門下生らしい生活をしていたのなんて僅か数週間であったと思う。


「屋根裏部屋の書庫の整理をしなさい。終わるまで降りて来てはならないよ」


「酒を買って来なさい。三升ほど。一人で。電車も人力車も使ってはいけないよ」


「いろはを百篇書き連ねなさい。できても別に見せに来なくて構わないよ」


 そうした言伝はいつ何時も降りかかり、それに応えるために満身創痍になって、右手は無意味な文字の羅列を綴るために腱鞘炎で酷く痛んだ。代わりに使った左手も直に使い物にならなくなった。


 夜も呼ばれるために睡眠も自由時間も碌に取れず、何とか出席した討論会では予習不足で置いて行かれた。疲労で気絶して次に目覚めた時には部屋に誰もいないなんてことも一度や二度ではなかった。


 品評会には、出す作品を書く暇が無いので出られなかった。周りの門下生から見れば、俺は先生にばかり付き従って碌に勉強も研鑽もしない不真面目な奴だったのだろう。故に元から酷かった風当たりも悪化していった。物を隠される、殴られる、飯を捨てられる。日常だった。


 その当時から門下生の筆頭かつ、杜若の作家として活躍していた吝類やぶさかるいが助けてくれたこともあったが、それが見つかれば見つかるほど、扱いは陰湿になっていった。


 雪姉ほどではないが東北譲りの白かった肌は、心労で荒んで霞み、目元は黒ずんでいった。それでも、俺は初めて自分で選択したこの道を諦めるわけにはいかなかった。


 故に、熱を持って腫れた手で、数分の隙を縫って、俺は密かに書き続けた。いつか、いつか先生が認めてくれると、皆が読んでくれると信じて。いつか俺の作品が、名前が、遠くの、時までもを超えて届けばいいと願いながら。



***



「雷蔵、君は書くな。私の傍で私を見ていればいい。私の言うことを聞きなさい」


 そうして眼前で燃え盛る炎に、俺の心はぽきんと折れた。その火種は、俺が血の滲む思いで綴っていた物語。池のある豪勢な庭先で、俺はがくりと膝を追って座り込む。腰が抜けて力が入らない。立とうと思っても全く以て身体が言うことを聞かないのだ。


 何故。部屋の奥に隠していた筈の原稿用紙が、先生の手に渡っているのだ。物陰にガサリと動く影がある。目を凝らせば、門下生たちが目を爛々と輝かせて此方の様子を伺っていた。


「こんなものを書いたって、私の後ろ盾が無ければお前はただの人だ。どんなに足掻いたって表舞台には立てないよ」


 一枚一枚、真っ赤な炎に原稿用紙を落としながら、鷺坂は微笑みを絶やさず淡々と語る。薄く白い紙は、煌々と橙色に弾けた後、真っ黒く散り散りになっていく。そうしてどす黒く淀んだ灰は夜闇の空へ。願いを背負うことなく消えていく。


「君には確かに才がある。それは認めざるを得ない。しかしねぇ……そういった才ってのは、時に目障りなのだよ。この世界に君臨すべき人間はたった一人。それに迫ることは許されない」


 知らぬ間に溢れ出し零れ落ちる涙を、鷺坂は厚かましくも親指で拭ってみせた。炎に照らされて照る指の腹を、鷺坂は悪趣味にも口に運んで舐めた。俺のすべてを捧げさせ、散々喰らって骨の髄まで吸い尽くした鷺坂は、俺の絶望の味までをも貪った。鷺坂の手がするりと炎を前に脱力して座り込む俺の項から肩にかけてを撫でる。悪寒が全身を駆け巡って、俺はその手を振り払った。


「目障りって……! 先生は、先生は俺をっ……」


「君が純粋な世間知らずでよかった。だからこうして君を囲って潰せる」


 俺はまだ震えていう事を聞かぬ足で何とか立ち上がり、鷺坂を睨みつけた。しかし、そのガンに対して鷺坂は一瞬たりとも動じず、妖しく光る瞳を三日月にしてこちらを見つめる。


「そんな目で見てどうするつもりだい。此処を出て行くとでもいうのかい? 実家からも絶縁され、自ら下宿先を去り、大学も退学した人間が何処に行くつもりか。物を書くしかできない人間が文芸界を出たとて野垂れ死ぬだけだ。そして、私に逆らうという事は文壇から締め出されることと同義だ」


 そこで俺は気付いた。鷺坂は既に俺から全てを奪っていたのだと。今奪われたのではない。鷺坂は俺から居場所も学歴も、何もかもを奪い取ってから俺を囲い、最後に残った作家としての矜持や情熱を踏みにじった。あまりのことに呼吸ができず、俺は溺れるように肩で必死に息をして、何とか声を振り絞った。


「何処でも良い……。俺はアンタのいないところに行きたい……! 俺が馬鹿だった。破門でも何でも良い! 俺は、っ……もう、貴方の元にはつけない……」


 顔も見たくない。もうどうなってもいい。どのみち此処に居ようと居まいと、文士としての俺は殺される。そう思った俺は覚束ない足取りのまま、庭から屋敷を逃げるように飛び出した。


「痴れ者が」


 去り際、舌打ち交じりにそう吐き捨てたあの男の声が、今でも脳裏にこびりついて離れない。情けなかった。悔しかった。俺から全てを奪った存在が憎かった。そしてそんな甘言に騙されて何もかもを奪われた俺自身も、大嫌いで仕方なかった。



 ***



 たった今、そんな憎い存在が、俺を救ってくれた人を侮辱して笑っている。厚かましくも、あの地獄へ再び来いと誘っている。それだけで俺の震えは怯えから憤怒へと変貌した。それは全身を駆け巡って凄まじい勇気となり、俺を突き動かす。


「……断る」


 髪を掴まれ身動きが取れない中、俺は喉が千切れんばかりに大声を張り上げた。


「断るって言っているんだよ! 痴れ者がッ! アンタが波留日を語るな! 侮辱するな! 俺の居場所は日々是好日だッ!」


 叫び慣れぬ喉がひっくり返る。それでも俺は感情の発露を畳み掛けた。あの男は言うことを聞かない俺に苛立ち、歯ぎしりをしながら髪を掴む力を強める。頭皮が引っ張られる痛みと、髪が千切れるブチブチとした音が邪魔だ。俺はその憎き腕を掴み、ギリギリと軋むまで強く握り締めた。


「アンタの力が無くたって、アンタがどんなに邪魔をしたって、俺は日々是好日で名を残してみせる……!」


 乱れる髪の隙間から、あの男の気色ばんだ顔を睨みつける。そしてその男の向こう、雪姉を守るために立ちはだかってくれている波留日の姿が見え、俺の中で沸き上がる勇気が何倍にも膨れ上がった。


「波留日は俺を見捨てないって、そう言ったんだ! 俺を、俺をっ……!」


 あの男は舌打ちをすると俺を突き飛ばして畳へ叩きつける。蹲る俺に駆け寄り、あの男から庇うように立ち塞がった影が一つ。その影は、小柄ながらも大人を前にして一切怯む事をせず、激情で煮え滾った空気を纏っていた。


「アンタが雷蔵を傷付けた張本人か。あの鷺坂有太夫がこんな反吐が出るほどの糞野郎だとは思わなかったよ」


 少年然とした高い声を目一杯低くして、波留日が怒りを見せている。しかし波留日の正体を知らないあの男は、目の前の少年を自分に楯突いたただの子供と思って、偉そうにニヤリと口角を歪めた。


「君は何だ。陰間の分際で私にそのような口を利くか」


 興味本位、そして制圧のために、あの男は無遠慮に波留日の白磁のような頬へ手を伸ばす。しかし当然それは波留日によって叩かれ振り払われた。


「僕は陰間じゃない。アンタと同じ物書きだよ」


「……は?」


「雷蔵はアンタの元より、僕のところの方が輝ける。今更返せと言われたって返さない」


「餓鬼が偉そうに……口ごたえするなら嘘をついてからかっていないで橘波留日本人を連れて来なさい」


 不機嫌そうに眉間に皺を寄せたあの男は、勝ち誇ったようにそう言い放つ。しかし、波留日は間髪入れずに、自らの胸に手を当てて毅然として断言してみせた。


「波留日は僕だ。信じないなら別に信じなくていい。ただ、これ以上雷蔵を侮辱するのは許さない」


「は……? この、餓鬼、が……?」


 あの男は案の定、目の前の少年が波留日であることに衝撃を受け、思考が止まる。それを責めはしない。俺だって受け入れがたかったことだ。波留日は狼狽えるあの男の隙を突いて俺の手を取り、陣さんや雪姉に目配せをする。


「雷蔵、陣佐、菜乃葉、行こう。こんな奴と話したって何も生まれない。そもそも僕達の目的は登楼じゃないからね、こんな時間まで居座るのは野暮ってものだ」


「わっ、は、波留日……!」


 そうして促されるがまま、俺達は応接間を出た。部屋の外で一部始終の見物をしていた門下生達は、波留日を化物を見るような目で見る。波留日が先陣を切って廊下を歩けば、海を割るように人が掃けていった。


「皆様、こちらへ」


 雪姉が妓楼の上へ行くための階段の前で手招く。その言葉に甘え、俺達は妓楼の最上階にある『菜乃葉の部屋』に身を寄せていた。上品な香が薫る部屋の中に踏み入れた瞬間、俺は糸の切れた操り人形のように足がもつれて座り込んでしまう。膝が笑って立ち上がることができない。


「雷蔵、よくやった」


 陣さんがそう言って俺の肩を叩く。それで初めて、俺の全身が震えている事に気付いた。歯の根も合わなくてカチカチと音を立てている。


 波留日はそんな情けない俺に歩み寄ってしゃがみ込むと、頬をそっと包み込んで、額を合わせてきた。こつりと触れたひんやりとした肌が心地よくて、俺はそっと目を閉じる。


「大丈夫、雷蔵。深呼吸をして」


「波留日……すまない、俺が、もっと嫌がらずに真実を言っていれば……」


「言わなくていい。大丈夫。僕が君を守るということは変わらない。大丈夫。君の運命は確実に変わっているよ。何があろうと、僕が変えてみせるから」


 その掌は、自分のものよりも遥かに小さく、華奢で頼りないものであるはずなのに、とても大きなものに感じた。


 俺を拾い上げた救いの手に、最大の敬意と感謝と信頼を寄せて、俺は自らの掌を重ねる。



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