甘酒と弟子と軍人サン。
新たな年の幕開けを祝って、街は寒空の下で温かな賑わいを見せていた。神社へと続く参道では、紅白の幕が風に揺れている。
華やかな振袖に身を包んだ娘たちが談笑しながら町内を行き交い、出店の前では、菓子を買ってもらった子供達がはしゃいで手を叩く。正月だからと朝から盃を傾けた男たちの笑い声も冬の空気に混じって響き渡っていた。
土地神を祀る町内の境内は人で溢れ、縁起物の破魔矢や熊手を手に、寒さで赤くなる頬をそのままにして笑っている。
二礼二拍手一礼。波留日を真ん中に、雷蔵と陣佐は拝殿にてその喧騒を背に手を合わせる。がっしりとした大きな手、ペンだこで変形した血色の悪い手、そして華奢で小さい子供の手。三者三様の掌が並ぶ。
朝星新聞社の面子はほぼ全員が年末年始のために帰郷していたが、この三人は東京に残っていた。雷蔵は実家とは絶縁済みで帰る場所が無く、波留日も故郷は無いと申す。陣佐はそんな二人を見兼ね、社屋の番を買って出ているのだった。
「大正も十一年か。早いな」
参拝を終えた陣佐が小さく息を吐き、境内の隅で振る舞われていた甘酒を啜る。薫る紫煙ではなく、白い息がふわりと立ち上り、寒空へと混じって消えていった。
「今年も良い年になると良いな。なァ、波留日、雷蔵」
「そうですね……。波留日にこき使われないよう努力します」
雷蔵が眉を下げて苦笑いしつつ答えれば、波留日は手にしていた飴細工をくるくる回しながら、その困り顔をちらりと見上げる。
「また腑抜けたりしていたら容赦なく無茶振りをするからね、覚悟してよ」
雷蔵は悪戯に笑う波留日を見下ろし、寒さでかじかむ頬のまま穏やかに目を細めた。
「あぁ、分かっているさ」
彼らの帰る場所は、相も変わらず散らかった日々是好日編集部。その片隅の机には、着実に雷蔵が書き進める原稿用紙が積み上げられていた。
***
三ヶ日が過ぎて睦月も半ばを迎えたある日のこと。その日の陽光はやけに暖かく、一足早く春の訪れを伝えに来るようであった。
社屋の編集部では、その陽光を灯にして雷蔵は執筆に勤しみ、波留日はソファに腰掛け、赤鉛筆片手に雷蔵の書いた小説の推敲をしている。陣佐は一階の床に胡座を掻き、届いた原稿に目を通していた。穏やかな時間の経過に思わず欠伸をしたその時。
「御免下さい!」
玄関の引き戸の向こうで、小さな影が声を上げた。その聞き覚えのある声に陣佐は原稿から目を離して顔を上げ、胡座を解いて玄関へ向かう。
「よぅ、ミチ嬢ちゃん、久し振りだな。少し遅いが明けましておめでとう」
カラカラと戸を引けば、かじかんだ頬を赤く染めたミチが息を弾ませて立っていた。白い吐息がふわりと空に溶けていく。
「明けましておめでとうございます、陣さん! 本年も何卒宜しくお願い申し上げます」
深々と頭を下げるミチ。その明るく可愛らしい声が二階にいた波留日と雷蔵にも届き、階下へひょっこりと顔を覗かせた。
「波留日先生も、雷蔵さんも、明けましておめでとうございます!」
「ミチさん、今年も宜しくお願い申し上げます」
「ミチ! 早く中にお上がりよ! まさか挨拶だけってわけじゃないだろう?」
ミチは勢いよく一階へ降りてきた波留日の手招きに笑顔で頷くと、ブーツを脱いで応接間へ上がる。陣佐が火鉢に火を付ける間、彼女は手土産の菓子を差し出すと、次いで胸元に抱えた鞄から数枚の原稿用紙を取り出した。
「できましたの! 私の原稿!」
三人は声を上げて歓声を上げ、それを囲むようにして原稿に顔を寄せる。陣佐はまずその筆名に目を留め、にやりと口角を上げた。
「土江麻美……松栄ミチの並べ替えじゃないか」
揶揄おうとする陣佐の目線と口ぶりを跳ね除け、ミチはむしろ誇らしげに胸を張ってみせる。
「えぇ! 私は雷蔵さんの一番弟子ですもの!」
雷蔵は、彼女の言葉を受けて思わず額に手をやった。耳朶が羞恥で赤く染まる。陣佐はそんな雷蔵の肩を叩いてひとしきり笑った後、ん? と声を上げた。
「じゃあ本名で行くべきじゃねぇか? 雷蔵は仕方なしにあの筆名を絞り出したんだぞ。そもそも雷蔵は実名で文壇入りを望んでいたんだ」
陣佐の適切な指摘に、ミチは納得したようにポンと手を打つ。
「あ、確かにそうですわ。……でもいいのです。私は、文人としての名を文人として残せたらと思いますので」
「あい分かった。ちゃんと載せさせていただきますよ、土江先生」
陣佐がからかい混じりにそう言うと、ミチはパァと顔を綻ばせて深く頭を下げる。そして早速原稿に目を通した三人は口々にミチの作品の感想を語り、ミチは取り出した手帳にそれを書き連ねていった。
そしてその熱りが少々冷めた頃。ミチはふと姿勢を正し、ほんの少し唇を噛んだ。座る膝の上でキュゥと拳が握られる。
「……あの、本日は原稿をお渡しに来たのもそうなのですが、伝えなくてはならないことがありまして」
絞り出される声に、室内の空気が一瞬にして静寂に包まれた。雷蔵達は姿勢を正し、慎重な顔の彼女に向き直る。
「……私、今年の初夏にお見合いが決まりましたの。恐らくそのまま婚約しますわ。式を挙げるまで私はその方の許婚となります。ですから、こうして気軽に編集部へ伺うことも難しくなりますわ」
そう悲嘆に暮れながら告げたミチの姿は、強く気高い姿とは打って変わり、とても小さく弱く見えた。火鉢の中で炭がぱちりとはぜる音だけがやけに大きく響く。
「……先ずはおめでとう御座います、ミチさん。何がどうであれ、お祝いごとですから。幼い頃の貴女を見ていた俺からすれば、とても感慨深いことです」
静寂を切り裂くように口を開いたのは雷蔵だった。眉を下げ、ぎこちない笑顔を浮かべている。陣佐も顎に手を添えて何やら考え込む素振りを見せた。
「……そうだな。目出度い事は確かだが……その、御相手は良い人なのか? 変な奴だったら俺が調べ上げて破談にしてやるぞ?」
親身になりながら物騒な事を言う陣佐に、ミチは一瞬ぽかんと面食らったように目を見開き、次いでくすりと肩を震わせる。
「それに、大丈夫、ミチ。日々是好日は郵送でも原稿を受け入れてる。手紙を同封しても構わないよ。そんなに気を落とさないで。君の物書きとしての人生は始まったばかりなのだから」
波留日が身を乗り出し、ミチの肩に手を乗せた。その言葉を聞いたミチの瞳には光が宿り、潤んだ水面が揺れる。
「そうですわね。悲観的になり過ぎるのも良くありませんわ! 陣さん、何かありましたら、よろしくお願いいたします」
いつも通りの元気を取り戻し、背筋をしゃんと伸ばしたミチは、トントンと自分の胸を叩いて己を奮い立たせてみせた。
***
とある東京の陸軍駐屯地では、年末年始の休みを終えた軍人達が、鈍った身体を目覚めさせるように黙々と走り込みなどの鍛錬に励んでいた。息が白く立ち上る冬の朝、野太い掛け声や砂利を蹴る音が響いている。
その一角、木陰に隠れるようにして一人の若い士官が居眠りをしている。顔には読みかけの文芸誌を乗せ、軍帽は傍らに置きっぱなしになっていた。
「おい、またか。下士官に鍛錬の指示をして自分は昼寝とは。……平時だからいいものの、弛んでいるんじゃないのか」
そんな彼の元へ小言と共に大きな影が彼の姿に落ちる。それに気付いた彼は顔から誌をどかし、面倒くさそうに目を開いた。
「そう言うなって……。これは、いつどこでも休養を取れるようになる為の訓練だぞ」
欠伸混じりに眼を擦った士官は、どこか色気のある整った顔立ちをしており、軍人らしからぬ女が好みそうな風情を纏っている。
「ふざけるのも大概にしろ。このような態度では、いざという時に下士官が従わないという結果を招くぞ」
低く響く声でそんな彼を諫めた男は、無骨な風貌の大男だった。頑丈な体躯と引き締まった面持ちは、まさに日本男児という言葉が歩いているような佇まいだ。
「説教は要らないね。そういった有事の時は、どう足掻いたって人間の本性が出るんだから、俺達がどうこうできるものではないのよ?」
寝転がっていた色男は身を起こして脇に重ねていた何冊もの文芸誌を手に取る。
「ほら、それよりも娯楽はどうだい? 年末休暇に色々買ったんだ。文藝礼讃にすてら、それから杜若もあるぞ」
雑誌の束を押し付けられた男は、ムッとした顔で眉をしかめてそれをずいと押し返す。
「断る。何度も言っているが、文学なんて変な思想を振り撒くだけだ。女子供ならまだしも……。勇次郎、お前も読み過ぎると莫迦になるぞ」
「あら! 佐伯の坊ちゃんがまた大層な事を言ってらっしゃる!」
勇次郎と呼ばれた男はわざとらしく口元に手を当て、クツクツと肩を揺らした。
「やめないか!」
「またまた、官兵衛殿、照れずに仰って下さいよ、そうやって趣味のある俺が羨ましいって!」
「もう気が触れたか! その妄想力は呆れたものがあるぞ!」
官兵衛と呼ばれた無骨な男は、鬱陶しく絡んでくる勇次郎に拳骨を喰らわせる。そしてその弾みに散らばった雑誌に手を伸ばし、溜息をつきながら拾い上げた。
「……今人気の小説は、一体何なのだ」
普段の彼なら決して口にしないような問いだった。その声音は不器用で引っかかるようにぎこちない。ふいに発せられた官兵衛の言葉に、勇次郎は目を丸くして茶化すように口角をニヤリと吊り上げる。
「お? 無趣味の坊ちゃんが遂に……! 文学を貶しておいて、素直じゃないなぁ!」
「違う! ただ、話題をだな……!」
「ふーん……」
官兵衛は口ごもり、少し居心地悪そうに言葉を続けた。ほとほと不器用な男である。
「家に帰った時見合いの話が出た。長期演習が終わってからになるが、少しは話題の勉強をしていた方が良かろう」
「へぇー。それなら……、作家は『黎明の三連星』、三大文芸誌は押さえておくべきだな。あ、三連星は、現代文芸の基礎を築いた、池田川、桑原、鷺坂の三人のことを言うんだぜ」
勇次郎は三冊の雑誌を手際よく重ねて官兵衛へ渡した。まじまじとそれを見た官兵衛は、そのうちの一冊に目を留める。
「これは知っているぞ、鷺坂有太夫が主宰の誌だろう」
「おぉ、流石の官兵衛君も鷺坂氏と杜若はご存知か」
花の絵が控えめにあしらわれた、飾り気のない装丁の文芸誌。その頁を彩る文士たちは、いずれも文壇で名を馳せるような文学スタアばかりだ。
「鷺坂は池田川賞の審査員だろう。賞を取った作品くらいは読めと言われているからな」
淡々とそう告げた声には、縛られているような硬さがあった。読書を楽しんでいるというよりは、仕方なくこなしている様子が伺える。勇次郎は呆れたように肩を竦め、肘で官兵衛の屈強な身体を軽く突いた。
「そのような義務感で読んでいたら文学の良さは分からないね。君の奥方になる女は大変だ」
お道化た調子ながらどこか本音を交えたような口調に、官兵衛は不愉快そうに眉を顰める。
「好き勝手言っていないで、貴様も身を固めたらどうだ」
ぴしゃりと返したその一言に、勇次郎はペロリと赤い舌を出してアカンベェをしてみせた。
「嫌だね。俺はまだ自由の身で居たいんだ」
ひらりと軽やかに立ち上がった勇次郎は、三大文芸誌以外の雑誌をまとめて小脇に抱える。その軍人らしからぬ軽率さは、どこか世捨て人のような雰囲気を携えていた。
靴音を鳴らしながら歩き去っていった勇次郎の背に、官兵衛は思わず溜息を一つ洩らす。そして置き去りにされた彼の軍帽を引っ掴んで後を追い駆けた。
***
日脚がようやく伸び始めたとはいえ、夕暮れがまだ早い如月の下旬。松栄ミチが授業を終えて女学校の門を出ると、冷たい風がひゅうと吹き抜け、袴の裾を撫でていった。ミチは友人たちと連れ立って歩きながら、風で乱れる髪を耳に掛け直す。
女学生の学校帰りの話題といえば、憧れの先輩のこと、評判の演劇俳優、厳しい教師への愚痴など、他愛のない話ばかりだ。
ミチも時折声を上げて笑い、口うるさい教師への文句を垂れながら歩みを進めていた。しかしその纏う雰囲気の端々に、どこか浮き立つような様子が滲んでいる。
「――あ、少々宜しいかしら? 本屋に寄っても?」
角を曲がった本屋の前で、ミチは不意に立ち止まって友人達に声を掛けた。
「構いませんが、何を買われるの?」
「文芸誌を一冊」
友人達の質問に人差し指をぴんと立て、ミチは小さく笑ってから本屋の暖簾をくぐる。店の中は、紙とインクの香りというミチの大好きな匂いが立ち込めていた。
ミチは慣れた足取りで一直線に文芸誌売り場へと進み、棚に並んでいた冊子の中から迷いなく日々是好日に手を伸ばす。あと数冊しか残っていなかったそれを、まるで宝物を見つけたかのように大切そうに胸に抱えた。道端で待つ友人達は、そんなミチの様子にくすりと微笑む。
「ミチさん、最近暗かったけれど、何だか今日は機嫌がよさそうでよかったわ」
「そうね、あの子には笑顔が似合いますわ」
本屋から出てきたミチは、購入した文芸誌を愛おしそうに抱き締めていた。まるで人形を買って貰って喜ぶ子供のような様子に、友人達は顔を見合わせて彼女を取り囲む。
「それは、何ですの?」
浮かない顔だったミチを一瞬で笑顔にしたその文芸誌に興味が湧かないわけがない。ミチは愛しそうに包みを撫でてからそれを解き、誇らしげに皆の前へと宝物を差し出してみせた。
「日々是好日という文芸誌ですわ。誰でも文を寄せる事ができる、素敵な誌ですの!」
「誰でもって、誰でも?」
「えぇ、誰でも」
「へぇ! 面白いですわね。もし宜しければ貸してくださらない? 私、少女世界しか読んだことがありませんの。文芸誌なんて初めてだわ」
ミチは目を輝かせて首を縦に振った。長い髪がふわりふわりと犬の尾のように揺れる。
「構いませんわ!」
今にも、「これに載っている土江麻美という作家は私なのです!」「今月号から連載が始まった達川雷蔵は、私の師なのです!」と口走ってしまいそうで、ミチは吊り上がる口角のまま唇を噛んだ。
「ささ、帰りましょう? 私、今夜中に読んで、明日には皆様に読んでいただきたいくらいですの!」
「ふふ、そんなに焦らなくてもよろしいのに」
ミチはふわりと軽やかな足取りで友人たちを先導するように歩き出す。そんな彼女とすれ違った影が一つ。
「日々、是好日……? 聞いた事がないなぁ」
振り向きざまに呟いた男は、そのまま本屋に入り、陳列棚の中から聞いたばかりの雑誌を一冊抜き取った。興味深げに何頁が捲っては読み、また捲る。
「ふぅん……」
パタンと頁を閉じる音が静かに響いた。男はそのまま店主に会計を頼むと、小さく鼻歌を歌いながら懐に文芸誌を収める。
「やっぱり非番の日は街に出るに限るな、思いがけない出会いがある」
交差した軍旗の意匠が施された煙草箱を取り出すと、一本抜いて火をつけた。
「官兵衛が演習から帰ってきたら教えてやろーっと」
煙と共に吐き出された勇次郎の呟きは、夕暮れから宵へと変わりゆく空の色へ音もなく溶けていった。




