鯛と甘味と雪景色。下
土間から座敷へ続く途中の板の間に寝そべって悠々と本を読んでいた波留日は、カラカラと引き戸を開ける音にパッと顔を上げた。頬杖をつき、帰ってきた男に向かってにっこりと嫌味なくらいの笑顔を浮かべてみせる。
「すっかり散歩が日課になったね。御帰り、雷蔵」
「日課になってたまるか! お前が俺を遣いに出すから仕方なくだ! この寒空の中、何分並んだと思っているんだ!」
土間に仁王立ちし、寒さで鼻先と頬を真っ赤にした雷蔵が肩で息をしながら声を荒げて波留日に抗議した。そのまま大股でずんずんと歩みを進め、胸に抱えていた大きな紙袋を、寝そべる波留日の眼前にどさりと置く。
「ほらよ、鶴十のどら焼きと羊羹だ。これでいいだろ」
始まりは数時間前のこと。相変わらず連載小説の構想に煮詰まり、うんうん唸っていた雷蔵を見兼ね、波留日は気楽な口調で雷蔵に言い放った。
『そうだ雷蔵、最近できた浅草の和菓子屋に甘味を買い行ってよ。えっと、店の名前は何だっけかな……』
『浅草……? 鶴十か? はぁ? 連日凄まじい行列で買うのもやっとだって噂だぞ!』
『そう嫌がらずにさぁ、此処で腐っているよりは健全だろう? さぁさぁ、行った! どら焼き、それから羊羹も欲しいな。新聞部の皆の分も、たんと買っておいで。はい、お代はこれで! じゃあ行ってらっしゃーい!』
『お、おい! こら! あー……またかよ! この野郎!』
そうして無理矢理金を握らせ、波留日は寒いからと嫌がる雷蔵を外へ放り出した。渡された紙袋を待ってましたと言わんばかりに漁った波留日は、早速どら焼きを頬張る。
「ん……! 流石鶴十のどら焼き! 矢張り美味だね!」
拗ねたように上がり框へ腰掛ける雷蔵の隣に、波留日も身を起こしてちょこんと座った。そして再び紙袋を覗き、どら焼きを一つ、雷蔵の口元へと寄越す。
「ありがとう、雷蔵。雷蔵も食べなよ。寒いと思ったからお茶だって準備しているんだ」
雷蔵は口をへの字にしていたが、どら焼きのこんがりとした皮を一瞥すると、むんずとそれを掴んで口へ押し込んだ。
「……美味い」
丁度いい焼き加減の皮の風味と、上品な餡の甘さが口の中に広がる。強張っていた肩の力が解けていく様を横で見つめ、波留日はそっと微笑んだ。そしてぶらぶらと白い足を揺らして天井を仰ぐと、ぽつりと世間話をするように言葉を零す。
「ねぇ雷蔵、君は何のために書くの? 君の魂の源は、一体何?」
雷蔵は言葉に詰まる。核心を突かれたような問いだった。それが分からなくて日々悩んでいるのだ。波留日が見た自分の中に燃え盛る魂とは、一体何なのか。波留日はそんな雷蔵を見兼ねて自ら口を開いた。
「……僕はね、自由にものを書きたい。思ったこと、感じたことを、自由に、誰にも邪魔されず、ただただ綴りたい。愛するものを愛でて、何にも捉われず、ね」
波留日はごろんと身体を倒して仰向けになる。雷蔵は拍子抜けしたようにそんな波留日を見下ろした。
「そんなの、誰だって思ってることだろう。……この前も、あの吝類の小説が検閲に引っかかったって新聞に出てたぞ」
「君は分かってないなぁ。そういうことだけど、そういうことじゃないんだよ」
「なんだそれ……」
謎かけのような波留日の言いように、雷蔵は小首を傾げる。波留日は白い足をぶらりと揺らしながら、空を掴むように手を伸ばした。
「この身が朽ち果てるまで書き続けられたら、なんて思ってるんだ」
その腕は相変わらず白く美しい陶器のような肌をして、内側から光っているようだった。積もりたての雪みたいだ、と雷蔵は思う。
この美しい白を、雷蔵は知っている。
「俺は……」
その白に、酷く唐突に記憶の扉が開かれた。随分前の記憶が色褪せながら、走馬灯のように脳裏を過る。
***
冬は一面の雪景色に覆われるような厳しい地で、自分は生まれ育った。村人たちの農地を守る厳格な父と静かな母の元で、優しい兄達と気の強い姉妹と共に。
毎年、雪が世界を覆う朝は、寝巻のまま兄弟で真っ先に戸を開けた。誰も踏み入れていない白い世界に裸足のまま進めば、雪の結晶がぷちぷちと弾けるような感覚が擽ったかった。呆れる大人の目をよそにそのまま銀世界を駆けて行けば、村の子供達も同じように声を上げて走り回っているのだ。
雪のように白い肌をした、綺麗なあの子。雪の精のように儚く、凛とした声で自分の名を呼んでくれる、あの子も。
「俺は……」
あの年は、何かが狂っていた。
やけに涼しい夏を超えて秋になるにつれ、村人たちの顔がどんどん曇っていった。そうしているうちに徐々に食べるものが無くなり、学校に友人が来なくなり、逃げただの、死んだだの囁かれるようになった。
いなくなった人、死んだ友人。村の中では消えた人達は忘れ去られていった。まるで、初めから存在しなかったかのように、酷く呆気なく。
「俺は……っ」
あの子も、枯れ果てた田畑の一面が雪に覆われた日の夜、いなくなった。名前を呼んで引き止めても、あの子は諦めたように笑うだけ。
『雷坊、その名前も忘れな。どうせもう、呼ばれることのない名だよ。アンタは恵まれてるし、頭も良いんだから、立派になりな』
そう言い残して、あの子はいってしまった。結局、娘を売って首の皮一枚繋げたあの子の家族も、冬を越せずに皆死んだ。
あの子の名を呼ぶ者は、もういない。あの子は確かに此処に存在した筈なのに、それをもう誰も知らない。そんなの、あんまりだと思った。
***
「……俺は、怖い」
雷蔵は溢れ出る記憶の奔流に堪らず顔を覆い、くぐもった声を上げた。
「生まれたからには俺が生きたって証があって欲しい。誰にも忘れられたくない。俺の人生が価値あるものだって信じたい」
あの時、自分が何も変わらず生き永らえることができたのは、見送る側だったのは、ただただ幸運だったからだ。自分の存在は、とてつもなく脆い。
「でも人の生ってのはそんな大層なものでもないし、他人によって簡単に売り買いされたり、そもそも簡単に死んじまうんだから、確かなものなんて、どこにもない」
胸につっかえていたものを吐き出すように雷蔵は話す。そんな男を波留日は黙って見つめていた。
「……それでも怖かったんだ。俺の人生が、無意味なものになることが」
背を丸めた、消え入りそうな声。波留日は雷蔵の独白を全身で受け止めると、天井を仰ぎ見てぽつりと言葉を零す。
「……文を書けば、死んでもそれが残る。筆者として名が残る。紫式部も馬琴も、もうとっくにこの世にいないのに、僕達はその名を知っている。時を超えて、彼らに触れる事ができる。それが君の思う文の価値、というところか」
雷蔵は波留日の言葉に乾いた笑い声を上げ、ふっと息を吐いて床に寝転がった。背中に冷たい床板の感触が沁みる。
「でも俺には、そんな証明ができるほどの才も、何も無かった」
額に腕を乗せ、みっともなく歪む表情を隠すようにした。波留日はぎゅっと拳を握り、そんな雷蔵を奮い立たせるように声を上げる。
「そんなことない……! 才はある! それに、僕がいる」
雷蔵はその力強い声音に、腕をどかして視線を寄越した。そこには、どんと自らの胸を叩き、細く華奢な足で確と仁王立ちする波留日がいた。小さい身体で精一杯胸を張ってふんすと笑ってみせる。
「ははは、そうだな。……お前の期待に、応えなきゃなぁ」
雷蔵は身を起こし、困ったように眉を下げて微笑みながら波留日を見やった。
そんな折、編集部の階上から急ぐ足音が響いた。トントン、とせわしない音を立てて階段を駆け下りてきたのは陣佐だ。額には軽く汗を滲ませ、いつになく焦った様子である。
「悪いな、一寸出てくる。今回珍しく寛二と徳檀先生の原稿が無いんだ。向こうの出し忘れか此方の紛失か分からないからな、確認のために行ってくる」
「それならこれを持って行くと良いよ。鶴十のどら焼きさ」
波留日は素早く土間の台所に置いてあった皿にどら焼きと羊羹を取り分け、残りを陣佐に渡した。陣佐はそれを目に留めるや否や、顔を綻ばせてそれに飛びつく。
「うぉっ! 最近話題の奴じゃねぇか! さては……雷蔵を走らせたな?」
どら焼きの香りを嗅ぎながら、ふとその裏に潜む犠牲に気づき、彼は波留日にじろりと視線を向けた。
「えへへ」
桃色の舌をぺろりと出して誤魔化す波留日。次の瞬間には、陣佐の拳骨がその脳天を容赦なく叩く。
「この馬鹿! 全く……毎度言うが、あんまり虐めてやるなよ。なぁ雷蔵、こんな小僧放ってお前も来い。日々是好日に寄稿する他の作家に会うのは刺激になるだろ」
頭を押さえて痛いとゴロゴロのたうち回る波留日を尻目に、陣佐は雷蔵に手招きをした。
「は、はい!」
雷蔵はそんな波留日を気の毒だと思いつつ、陣佐の提案に乗らない手はないと慌てて羽織を引っ掛け、玄関を出る大きな背中を追い掛けた。




