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菜の葉と雪と巡り逢い。 下

「……アンタはずっと、私を忘れないで心配してくれていたんだねぇ」


 ようやっと息を整えられた雷蔵を見守り、菜乃葉はそっと目を細めた。安堵が滲むその穏やかな声に、長らく雷蔵の胸に沈んでいた重石がサラサラと崩れていく。


 生きることへの不安や、死ぬこと、忘れ去られることへの恐怖。それらすべてのきっかけとなった存在であり、雷蔵の中に悔恨として残り続け、奈落へ引き摺り下ろそうと蠢き続けていた面影が、今や夜の華として月を背負っていた。


 いつしか、障子の外にはちらちらと雪が舞い散りはじめている。その白い綿のような粒は、淡い花街の灯をぼんやりと滲む光を返していた。そんな夜の闇に、菜乃葉が吐き出す紫煙が溶けていく。


「私の家族は元気にしているか? あの飢饉を乗り越えられたか?」


 その問いは、彼女が長年心のどこかで蓋をしていた祈りに違いなかった。


「……雪姉が連れて行かれたあの年を越せずに死んでしまった。雪姉の家だけじゃない。村では沢山の人が死んだ」


 嘘をつく意味などない。雷蔵はしゃくり上げ、言葉に詰まりながらも、あの時、村であった事を洗いざらい話した。


「そうかい……。お父ちゃんもお母ちゃんも、皆死んじまったか……。どうりで、仕送りをしても宛先不明で返ってくるわけだ。やるせないねぇ、雷坊」


 菜乃葉の目が伏せられる。長い睫毛の影が頬に落ちた。その口調は、おどけてみせたような、呆れてみせたような声音であったが、言葉尻は湿ぼったく震えている。時折煙の隙間から覗くその目は、幼い頃に村の子供らと野山を駆けまわったあの日の情景を、胸の奥で手繰り寄せているようだった。


としは……雷坊の兄さんはどうしてる?」


 不意に漏れ出たその一言。雷蔵の長兄である俊臣としおみの名を彼女の口から聞き、雷蔵は口を真一文字に引き結ぶ。彼女と同い年の、雷蔵に似ず明るく誰にでも好かれていた兄。幼い頃から村の仲間たちの中心にいて、彼女とも特に仲が良かった。


「俊兄様は……二年前に俺が家族と絶縁してしまって、それからは知らない。でも、ちゃんと嫁さんを貰って家を継いでるよ。きっと、うまくやってる」


 雷蔵はちくりと胸に痛みを抱えながら、二年前の記憶を辿る。それでも表情だけは努めて穏やかに保とうとした。


「それは僥倖だねぇ。あぁ、心の重荷が下りた」


 その言葉を聞いた菜乃葉はふっと目を細めて口元を緩ませる。張り詰めていた表情が一瞬だけ、あの時のような無邪気な笑顔を覗かせた。雷蔵はその表情に『雪姉』の面影を感じ、堪らない気持ちになる。


「姐様、そろそろ御時間でありんす。あと五分程で旦那様が参られます」


 その刹那、襖の向こうから吉乃の声が掛かった。菜乃葉は吸っていた煙管の灰をカンと静かに落とし、窓辺から立ち上がる。そしてしなやかな所作で裾を払うと、襟元に手を添えて簡単に身だしなみを整えた。


「そうかい、ありがとう、吉乃。……雷坊、悪いが時間だ。アンタにこの世界は似合わないよ。早く帰んな」


 そうして雷蔵に向き直って部屋を出るよう促した菜乃葉の顔には、毅然とした格式高い遊女の気品が戻っていた。


「雪姉……!」


 しかしその声音はまだ幼子に言い聞かせるような温かい口調で、雷蔵はその温情にぐっと息を詰まらせる。


「きっとこうして会ってゆっくり話すのは最後さ。元気におやりよ、達川様」


「そんな……!」


 情けない声を上げた雷蔵の前で、菜乃葉は見せつけるように着物の裾を翻してみせた。女の艶やかな香の香りが鼻孔を擽る。


「私は華幻楼の御職、菜乃葉。その夜を買うには本来何十円も必要な女郎だよ。四半刻だけでも話せたのは幸運さ。朧に感謝しな」


 ゆっくりと襖を開けた菜乃葉。雷蔵も促されるがまま立ち上がるが、その背にどうしても言わずにはいられない思いが込み上げた。最後に後生だと言わんばかりに、突き動かされたように声を張り上げる。


「雪姉……! 俺、小説を書いているんだ! 日々是好日に!」


 足を止めた菜乃葉は、僅かに肩を揺らし、ちらりと振り向いて目を細めた。


「知っているよ。陣さんが持ってくる文芸誌だろう? 『介錯』の達川雷蔵は、やっぱりアンタだったんだね」


 胸の奥がぶわりと熱くなる。理屈も理由もなく、ただその一言が心を攫っていった。雷蔵は堪えきれずに再びぼろぼろと涙を流し、大きく頷く。


「また、おいでくれなんし」


 菜乃葉が最後に放ったのは、日常の挨拶のように軽やかな一言。遊女が客に告げる常套句だ。特別なものなど何もない只の挨拶が、雷蔵と菜乃葉の関係を表しているようだった。


 雷蔵はごしごしと着物の裾で涙を拭うと、菜乃葉と吉乃に深く頭を下げる。


「……また、日々是好日でお会いしましょう、菜乃葉さん」


 雷蔵は毅然として宣言すると、くるりと踵を返して階段を降りた。静まり返っていた空気が、階下に向かうにつれて騒がしく、賑やかになっていく。


「あ、雷蔵!」


「波留日……」


 帳場に戻れば、遣手婆と楽しげに談笑している波留日の姿があった。妓楼の灯に照らされたその横顔は、いつも以上に浮世離れした艶を帯びて見える。少年特有の無垢な色気に誘われたのか、登楼してくる男たちが思わず足を止め、ちらりと彼へ視線を寄越していた。


 だが、すぐさま遣手婆が「この子は売り物じゃないよ」と鋭い目を向ける。彼女の威嚇に男たちは肩をすくめ、そそくさと帳場を通り過ぎていった。当の波留日はそんなざわめきなどどこ吹く風といった様子で屈託のない笑みを浮かべると、雷蔵のもとへ軽やかに駆け寄る。


「不測の事態とはいえ、あの菜乃葉と御喋りだなんて、雷蔵も隅に置けないなぁ」


「朧への狼藉と菜乃葉の勝手な振る舞いに乗ったこと、波留日に免じて許してやるよ」


 遣手婆は煙管をゆるりとくゆらせながら、しわがれた声で皮肉めいた言葉を放った。


「あ、ありがとうございます」


 朧が無理矢理迫ってきたことに落ち度はないのかと釈然としないまま、雷蔵はこれ以上この婆を敵に回すと碌な事が無いだろうと思い頭を下げる。それに気付いているのかいないのか、遣手婆はしてやったり顔で雷蔵を見やった。


「やっぱり君に遊女の相手は無理だと思った。助けに来てよかったよ。若干遅かったけれどね。さぁ帰ろう、雷蔵。廓はもう十分見物しただろう?」


「……あぁ、そうだな、波留日、帰ろう」


 波留日の軽口に雷蔵は揶揄われているなぁと呆れて頷く。しかし波留日の言う通り、雷蔵自身、宴も遊女ももう満腹であった。故に波留日に腕を引かれるがまま、雷蔵は華幻楼の玄関に歩みを進める。


 敷居の前まで来たところで、雷蔵はふと足を止めて振り向いた。


「女将さん、えっと……、雪姉……菜乃葉さんを責めないでやって下さい。あの人は悪くない」


 しばし沈黙が落ちたのち、遣手婆はふっと目を細める。


「分かってるよ。菜乃葉の部屋に行って服も乱さず四半刻で戻ってきたアンタをね、信頼しない理由なんてあるもんかい」


 ひらりと手を振る婆に雷蔵はもう一度頭を下げ、華幻楼を去った。



***



 外へ出れば、大門の向こうはすっかり夜の帳が降りていた。細かい雪がちらつく中、雷蔵と波留日は社屋に向かって歩みを進める。


「そうか、菜乃葉が雷蔵の……」


 その道中、雷蔵は先程自分の身に起こった奇跡の巡り会わせについて話していた。


「うん、そう言われれば納得だ。前に菜乃葉も故郷に幼馴染を残してきたって話をしてくれた事があるんだ。その時はよくありがちな遊女の身の上話だと思ったのだけれど……ちゃんと彼女の話を深掘りしていれば、もっと君に早く出会えたのかな」


「……たらればの話はいいだろう? こうやって雪姉にも、波留日にも、ちゃんと会えたのだから」


 ぽつりと言葉を零す波留日に、雷蔵は穏やかな笑みを浮かべる。まるで憑き物が落ちたかのような温かい表情に、波留日もそっと微笑んでみせた。


「けれど、不思議なんだ。雪姉に会えて、胸につっかえていた重石がやっと取れた筈なのに、それでも書きたいという気持ちが溢れている。全身が震えるくらいに。書かなくちゃいけない。こんな俺でも、見つけてくれる人が、呼んでくれる人が、忘れないでいてくれる人が、確かに居たんだ」


 雷蔵は不意に歩く足を止める。突然の事に波留日は反応が遅れ、二人の間に一歩二歩の距離が生まれた。雷蔵は俯き、己の胸元を強く握り締める。地味な模様の羽織に、くしゃりと皺が寄った。そんな雷蔵の姿に波留日は何も言わず、しっかりと向き直ってみせる。


「波留日、俺は、書きたい。でも俺だけじゃ駄目だ。俺を、助けてくれ……!」


 そうして縋るように放たれた雷蔵の言葉。震え、張り詰めた糸が今にも切れてしまいそうな程切羽詰まったその声に、波留日はニカリと笑みを浮かべた。


「……だから、初めから言っているじゃないか、書け、と。書いたから、僕と君は始まったんだ。書くことで、僕達は前進する、未来を変えられる……!」


 その小さな両手を大きく広げ、力強く応えた波留日の姿は、夜の暗闇の中で輝くたった一筋の光のよう。神の遣いが地に降り立ったかのような一幕を前にして、雷蔵の瞳がパチパチと弾け、星が瞬く。


「……波留日、書かなきゃ、俺……、俺っ!」



***



 書かなければ。物語を綴らなければ。


 社屋に戻った雷蔵は、編集部の片隅で文机に向かう。小さなランプの灯を頼りにして一心不乱に万年筆を動かす様子を、波留日はソファに寝転んで静かに見守った。


 ――名前と記憶を失った男。唯一覚えていることは、暗闇に煌々と輝く巨大な灯台。男はそれだけを頼りに、自分の存在を確かめるために、旅をする。そして行く先で新たな記憶を紡いでゆく。


 雷蔵は興奮冷めやらぬまま、波留日に自分の描かんとする世界を語った。あんなにも苦しみながら、何かに追われるようにして書き殴っていたのが嘘のように、ただひたすらに書く悦びと快楽が雷蔵を支配する。


「……悪くない。君らしい、優しい物語だ」


 雷蔵の綴る文字を横から覗き込み、話す言葉を聞いた波留日は、目尻に皺が寄るほどに目を細めて微笑んだ。


 外を見れば、雪はしんしんと真夜中の東京に降り注ぎ続けている。

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