鯛と甘味と雪景色。上
松栄ミチ、華の十七歳。
彼女の青春は、雷蔵との再会によって輝き出す筈、であった。
松栄と表札の掛かった広い屋敷の居間では、三人の人間が座って食事をしている。箱膳の上には、鯛の煮付け、白米、具が沢山入った味噌汁。どれも質が良く、手の込んだものが並んでいた。
「そうか! 雷蔵君が……! そうか、そうか……本当に良かった……」
上座にて静かに食事をしていた男が、娘の言葉に笑顔を浮かべる。ミチの父も、ずっと雷蔵の行く末を心配していたのだろう。父の柔らかな笑顔を見て、ミチも頬を桃色に染めながら味噌汁の碗を手に取った。
「もしまた彼が困るような事があったら、躊躇わずに来なさいと伝えなさい」
そう言いながら鯛の煮つけに箸を入れる。よく調理されて赤茶色に輝いた魚皮が裂け、ほろほろと白い身が崩れた。
「ミチ、お前も心の荷が無くなって清々しただろう」
「はい、御父様! ですから私、雷蔵さんと同じように……!」
ミチは目を輝かせて声を弾ませ、身を乗り出す。夢を語ろうと開かれる無邪気で純粋な口。しかし父はそれを遮るように茶碗を膳に置いた。カチャンと鋭い音が響き、ミチは思わず口を噤む。
「それで、ミチ。丁度いい時機だ。いい縁談がある。受けなさい」
「え……」
ミチの指からするりと箸が零れ落ち、床に転がった。突然のことに愕然として母を見るも、彼女はほくほくと幸せそうに微笑み、失礼しますと席を立ってお見合い写真を片手に舞い戻ってくる。ミチは言葉を失い、箸を落として空っぽになった掌で拳を握った。
「二人ほど話を進めていたのだが、一人はどうしても結婚したい人が出来たと言って先方から断られてしまってね。お前の御相手は陸軍名門の佐伯家の嫡男だ。写真を見たが、良き日本男児という感じで申し分ない。今年の四月に士官学校を卒業し、九月に少尉になられたばかりの優秀な殿方だ。お前を任せるに値する立派な御方だよ。法曹界にいる我々にとっても、軍部と繋がりができることは悪いことでは無い」
父は母が持ってきたお見合い写真を受け取り、満足げに微笑んだ。見せられた写真には、顔は整っているが、如何にも無骨で堅物な雰囲気を醸し出す若い軍人が映っている。精悍な青年であることを、中年の男でないことを、素晴らしき幸運だと思うべきなのだろうか。ミチは写真を見下ろして小さく唇を噛み締めた。
「お前も十七だ。嫁ぐには十分な歳になったし、器量や気品も大層美しく育ってくれた。少し跳ねっ返りなところもあるが、それも可愛げの一つだろう。お前は私達の誇りだよ。雷蔵君という心配事も良い形で綺麗さっぱりなくなったわけだし、そろそろ私達を安心させておくれ」
「ミチ、御父様は随分長いこと待って下さったのですよ」
父と母。四つの眼がぐさぐさとミチを刺す。その痛みに耐えきれないというようにミチは俯いた。いつか、いや、近いうちと覚悟はしていたことだ。寿退学をした同級生だって何人もいる。普通のことだ。父も母も、何も可笑しなことは言っていない。だとしても。
どうして? 私はこれから雷蔵さんのように文字を書いて自由に生きたいのに。
その言葉がミチの胸に溢れんばかりに湧き出てくる。しかし、喉につかえてどうしても出てこない。代わりに出てきたのは、ありふれたつまらない返事だった。
「分かりました……」
煮付けにされた鯛の目は、白く濁っている。
***
翌日、フラフラと覚束ない足取りで女学校の門をくぐったミチ。雷蔵との再会に急な縁談。波乱に満ちた一日に揉まれ、碌に眠れなかった。
「ミチさん、御機嫌よう」
そんなミチの後ろからポンと肩を叩く同級生。ミチと同じように袴を穿き、艶やかな髪をリボンで結わえた少女だ。
「御機嫌よう……」
緩慢な仕草で振り向いて返事をしたミチの姿に、彼女はぎょっと目を見開いた。
「……どうなさったの? そんな浮かない様子で! 顔色も悪いわ。早く教室へ行きましょう」
浮かない顔をしたミチの手を取り、足早に階段を上る。教室に入れば、談笑していた同級生たちは酷い顔色のミチを心配し、甘味を差し入れるなどして取り囲んだ。されるがまま椅子に座ったミチは、助けを求めるように彼女達を見上げる。
「……皆は、縁談を受けたりしているの?」
ミチの言葉を聞いた彼女らは、顔を見合わせクスクスと上品に笑い声を上げた。
「勿論ですわ。私達がこの学校で勉学に励むのも良妻賢母になるため、ですし」
「私は御母様が選り好みしていらして、一向に決まる気配がないの。そうこうしているうちに行き遅れてしまいますわ」
「私はこの前政界の方とお会いして……! 歳が三十も離れていて、御父様に嫌だと泣いて縋りましたの!」
彼女らはミチの問いかけをきっかけに、口々に自分の経験を自慢し愚痴っている。ミチはぼんやりとそれを他人事のように眺めてため息をついた。そんな様子を見た同級生の一人が、ハッとして身を乗り出す。
「まさかミチさんにも来たのですか……!」
「羽積随一の本の虫のお相手、気になりますわ!」
「どのような御方? 学者様? 政界の方? それとも軍部の方?」
そしてそれを皮切りにして口々に質問攻めを受けるミチ。ずいと問い詰められるその気迫に圧倒されながら、何とか言葉を絞り出した。
「ぐ、軍、の……方……」
「まぁ! 勇ましそうで素敵ね!」
再び会話に花が咲く中心で、ミチは一人青ざめたまま俯く。私には、結婚よりもやりたいことがあるのに。心に灯った炎をどうして消さねばならないの。
もどかしさとやるせなさが溢れ出し、涙として瞳が潤む。水中にいるかのように、同級生の言葉がくぐもって聞こえて理解ができない。耐え切れないというように立ち上がろうとしたその時、朝礼の予鈴が響いた。
「あら、時間だわ、残念。もし体調が悪かったら先生に言うのよ」
そう口々にミチを気遣う言葉を残し、彼女達は自分の席へと帰っていった。一日はいつも通りに始まり、ミチを巻き込んでいく。教科書を開いて、ミチはぽつりと呟いた。
「雷蔵さん、先生……」
余所見した窓から覗く空は、嫌味なくらいに晴れ渡っている。




