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菜の葉と雪と巡り逢い。 上

 夜も更け宴の空気が落ち着いてきた頃。襖が再び音もなく開き、機を見た仲居が近づいて三ヶ沢と庄衛門に耳打ちをした。


「御床の支度が整いました」


「そうか、ではそろそろ御開きとしようか。庄衛門殿はいつも通りに?」


「ええ。私はこれで。今宵も良い宴でしたな。妹達も皆美人だ、華幻楼は安泰でしょう」


 三ケ沢と一言二言交わした庄衛門は、和気あいあいと談笑する陣佐と、たった一口の酒で既に音を上げている雷蔵に声を掛ける。二人はゆっくりと腰を上げ、座って皺の寄った衣服を整えた。


「陣、雷蔵君、私はヒサがいる故これで御暇するが、お前達はどうかヒサの妹達を可愛がってやってくれ」


 仲居から外套を受け取りつつ、庄衛門はさも当然と言わんばかりに宣う。庄衛門に倣い羽織りを貰おうと仲居に声を掛けようとしていた雷蔵の手が止まった。


「え、え……?」


 硬派を貫く雷蔵であれど、『可愛がる』の意味が分からぬほど初心ではない。雷蔵は否応なしに訪れた夜の海において、浅瀬に立っていたつもりが、知らないままに引き返せないようなところにまで流されてしまったことを悟る。雷蔵は助けを求めるように隣の陣佐を見やった。


「有難く頂くぜ、社長」


 しかし陣佐は相変わらず人好きする笑顔を浮かべ、調子よく手を合わせる。そんなちゃっかりしつつも憎めない陣佐の素振りに、庄衛門は呆れながら腕を組み、片眉を上げた。


「そう言ってなぁ、陣佐。先程の仲居の耳打ち、お前の登楼を聞きつけた涼風すずかぜの言伝だろう。涼風の揚代は流石の私も中々に出せんぞ」


 味方は居らず、繰り広げられる会話の意味も分からず、雷蔵は涙目になりながらオロオロと惑う。その足取りは酒のせいで何処か覚束ない。そんな雷蔵の元へ、紅葉の肩を抱いた三ヶ沢が面白いものを見つけたと言わんばかりに近づいてきた。


「雷蔵、あやつ等の言っている涼風は、この華幻楼の遊女の中で三本の指に入る御職……上級の遊女のことだ。紅葉に涼風、そして山吹の禿であった菜乃葉だな。皆美しく魅力的なのだが、特に涼風はその名の通り、客に対する涼し気で釣れない態度が有名なのだ。あの冷ややかな目に睨まれたいという男はごまんといる」


「陣さんはそんな涼風が笑顔を見せる、数少ない男でありんす」


 三ヶ沢に腕を絡ませ、紅葉はそっと微笑む。彼女の笑顔はふんわりと柔らかく、三ヶ沢はそれを横目で見て鼻の下を伸ばした。


「えぇ、陣さん、もう御相手が決まっているの?」


「アンタたち、涼風の邪魔をしたら只じゃ済まないよ。陣さんは諦めな」


 陣佐を取り囲んでいた遊女達は、紅葉の一声を受けて残念そうに口を尖らせると、揃いも揃って未練がましい視線を投げかける。すまねぇな、と陣佐は彼女達に両手を合わせて肩を竦めた。軽薄そうな仕草ではあるが、不思議と憎めないその姿に、遊女たちも穏やかに口角を上げる。一方の陣佐はそのまま庄衛門に向き直ると、少しばかり真面目な声音になった。


「一寸だけ出してくんねぇかな、社長? 俺がちゃんと払うしさ。アイツ、こんな俺を呼び寄せるためだけに身揚げするって言うんだぜ?」


 庄衛門は目を細めて陣佐を見やる。身揚げとは、遊女が気に入った男を登楼させるために、自分の揚代を自らが払うことをいう。釣れない態度が売りの涼風の取る行動とは思えず、庄衛門は暫し考え込んだ後、よしと膝を打った。


「……分かった。お前も長年世話になっている相手に好かれて光栄な事だろう。私が華幻楼に恩があることもあるしな。だがな、これは良くない流れだぞ。涼風は馴染みでもない男を呼び、お前は自力で登楼もできぬような一新聞社の男だ。お前と涼風は釣り合わない。それを忘れるなよ」


 その言葉には年長者として釘を刺す重みがあった。かたじけない。そうして頭を下げる陣佐は、先程とは打って変わって真摯な男の姿をしていた。普段は見られない陣佐の真剣なやり取りを見ていた雷蔵の肩に、ふいに柔らかくもずしりと重い影がのし掛かる。


 彼女は庄衛門に酌をしていた朧という若手の遊女だ。可愛らしくも気の強そうな目は、まるで獲物を喰わんとする鷹のようであった。野望に満ちた瞳は、本来ならば庄衛門や三ヶ沢、そして陣佐を相手取りたいと叫んでいる。


「達川様も今日は泊まっていかれんしょう? もし良ろしければ私が御相手致しんす」


 しかし庄衛門はヒサという妻に操を立て、三ヶ沢は紅葉の常連、陣佐は涼風に迫られているという状況。彼女は最後の選択肢として雷蔵の腕に絡みついていた。甘い声を揺らし、ぴたりと身を寄せてくる。


「いや、俺は……」


 雷蔵は身を引こうとするが、女の指先がしなやかに彼の袖を掴んだ。逃がすものかという強かな意思が、細い指に込められている。背にはたらりと脂汗と冷や汗が伝い、どこからともなく雷蔵へ悪寒を運んできた。


「私、最近水揚げされたばかりでお客が少ないのでありんす。陣さんの御仲間であられる達川様に御相手して貰ったら、頑張れる気がするんでありんす」


 彼女は視線を上げ、潤んだ瞳で雷蔵を見つめる。丁寧に紅が引かれて飾られる上目遣いは、波の男であれば陥落する程の熱を帯びていた。しかし雷蔵はその瞳の奥の野望や打算に満ちた眼光まで見透かしてしまい、得体の知れない恐怖を覚える。


 頭から喰われてしまうと鳴り響く警鐘に、雷蔵はただひたすら困惑の色を浮かべて断りの言葉を吐いた。色仕掛けも効かぬ情けない男を前に、朧は頬を膨らませて唇を尖らせる。


「雷蔵君、折角だ。君も私やヒサの顔を立てると思って可愛がってくれ」


 庄衛門は雷蔵の誘惑に苦戦する朧を見て笑いながら促した。朧は嬉しげに頭を下げるが、雷蔵は狼狽えるばかり。


「ありがとうございんす、辻の旦那様。達川様、くれぐれも御無礼のないよう、お務めさせて頂きんす」


「しゃ、社長?! そ、そんな……! 俺はそんな……」


 雷蔵が言い終える前に、庄衛門は他の遊女たちに笑顔で見送られ、三ヶ沢と陣佐は手慣れた様子であれよあれよとそれぞれの閨へと消えていってしまった。すっかり寂れた座敷に残されたのは雷蔵と朧の二人だけ。まさかこんなことに巻き込まれるとは、と呆気に取られて立ち尽くす雷蔵の古臭い着物の袖を、朧は逃がすまいとしっかり掴み、引っ張る。


「おーい、朧、あまり雷蔵を揶揄ってやるなよ」


 雷蔵の様子を不憫に思ったのか、陣佐が振り向きざまに声を掛けるも、無情にそれは聞き流されてしまった。


 そうして半ば無理矢理に連れて来られたのは、広い部屋を屏風で仕切った割床の一角。狭い仕切りの中には布団が敷かれ、すぐ傍の屏風の向こうでは男が遊女を喰らう声が聞こえる。それが一層雷蔵の心をざらりと撫で、顔から血の気が引くのを感じるほどに胸を騒がせた。


「駆け出しの新造故、こんな場所しかご案内できずごめんなんし」


 雷蔵は聞きかじっただけの知識を総動員する。自分の部屋を持ち客を接待できるのはある程度の位の遊女だけだ。朧はつい先日水揚げを終えたばかりと言う。この待遇は妥当の扱いなのだろう。このような、薄暗くあけ透けな場所で自らを明け渡して。


 そして本来、遊女は三度の登楼の後床入りが許されると聞く。しかし目の前の朧は今にもその着物の下の肌を晒さんとしていた。幾らこちらの身分が知れており、庄衛門の縁によるものとはいえ、自らを簡単に開く姿が痛々しく、雷蔵は必死に首を横に振る。


「いや、俺は本当にそんなつもりなくて……! あ、そうだ、御話しましょう? だって、決まりでは、初登楼で床入りだなんて……! そうでしょう?」


「どうかそのようなこと仰らないでくれなんし。辻の旦那様の御顔を立てるためにも、精一杯お務めさせていただきんすから」


 雷蔵の懇願を、朧は一蹴して受け流してしまった。そうして、そっと襟を指で撫でて緩めると、着物の間から赤い襦袢が覗く。わずかに肌の香りが立ちのぼり、やがてうら若い柔肌が雷蔵の目の前で露わになった。雷蔵が焦りで抜けそうになる腰を引いて後退れば、朧はしなやかな身を寄せて雷蔵を布団に押し倒し、逃がさないと言わんばかりに、ぐっと跨り圧し掛かる。


「本当に、止めてください! ひっ……!」


 首筋の肌に細い指が這う感覚、帯に手を掛けられる気配に、全身を悪寒が駆け抜けた。小さく笑う声、湿度のある息遣い、衣擦れの音。見上げれば、こちらを喰らわんとする馬乗りになった影が目と口を三日月にして笑いながらそびえている。


 雷蔵は、狙われた小動物が滅茶苦茶に逃げ惑うように、反射的に朧の肩を軽く突き飛ばした。途端、朧の悲鳴が短く響いてぐらりと体勢を崩し床へ倒れ込む。拍子に屏風が派手な音を立てて倒れた。隣で楽しんでいた遊女と客が、不意の乱入者に何事か、興が削がれたと言わんばかりに顔を顰める。


「あ、あっ……す、すみませ……」


 雷蔵は慌てて身を起こして屏風を立て直すと、突き飛ばしてしまった朧に目をやった。彼女は乱れた衣をそのままに、朧は顔を真っ赤にして肩を震わせている。


「何だい! ただのツレなクセしてこの私を突き飛ばすなんて! 辻の旦那様の金で登楼しているくせにこの狼藉……!」


 羞恥と怒りが入り混じった朧の金切り声が響いた。彼女の自尊心を傷つけたことは雷蔵にも痛いほどに分かる。震えながら顔を真っ青にして何度も頭を下げる、情けのない男を、朧はキッと睨みつけた。


「御免で済まされると思っているのかい! おっかさんに言いつけてやる!」


 遊女と庄衛門の両方の顔に泥を塗ってしまった事実を突きつけられ、雷蔵は生きた心地がしないまま浅い呼吸を繰り返す。


「朧、何事かえ」


 その時、二人の騒ぎを聞きつけたのか、徐に部屋の襖がすぅと開いた。薄暗く淀んだ部屋に、仄かで甘く、上品な香の匂いがふんわりと立ち上る。


 姿を現したのは、鮮やかで目の冴えるような黄色い着物で身を飾った遊女だった。真っ白な肌の手には赤く塗られた爪。衣装には手の込んだ刺繍が施されている。そして彼女の後ろには、まだ年端もいかぬ少女が静かに後ろに控えていた。彼女は禿、見習い女郎であろう。禿を伴う遊女となれば、紅葉のような格の高い上級の遊女に違いない。雷蔵は顔を上げることができないまま、恐怖に支配されてうまく働かない頭で思う。


「菜乃葉姐さん! 聞いておくんなまし、この客が……!」


 この朧は自らの姐女郎、そしてこの華幻楼に君臨する上級遊女の名を呼んだ。彼女は朧の訴えにじっと耳を傾け、やがて僅かに眉をひそめる。そしてするりと雷蔵の方へ目線を寄越した。


「取って食いは致しんせん。どうかその顔を上げてくれなんし、旦那様」


 雷蔵は彼女に促され、おずおずと俯いていた顔を上げる。その時になって初めて、雷蔵は菜乃葉と呼ばれた遊女の顔をしっかりと見ることになった。


 薄暗い灯の下でもなお光るように輝く、透き通るような白い肌。このまるで新雪が積もった田畑のような清らかさを、雷蔵は知っている。


「雪姉……?」


 思わず口をついて飛び出した言葉に、雷蔵自身も仰天して口元を押さえた。雷蔵の言葉を受けて目を見開いた菜乃葉は、一瞬考え込んだように口を噤む。その沈黙の後、彼女は身を屈めて朧の乱れた襟元を静かに直してやると、そっと声を掛けた。


「朧、アンタは独り善がりなところがある。達川様が一度でもアンタと閨を過ごしたいと申されたかい? 」


 朧はハッとして唇を噛むと、小さく首を横に振る。菜乃葉は拗ねて言い訳をしそうな妹分を諭すように頷いてみせた。


「アンタのことだ、出世を焦ったのだろう? 全く、私の新造だというのに、手柄に固執して縋って自分を見失うんじゃないよ。この地獄の中、自分を必要以上に無下にするなんてしちゃいけない。幸いにも私らは華幻楼に買われたんだ。せめてできる範囲で誇りを守るんだよ。達川様に閨のお世話は要らない。……朧、おっかさんに言って今からでも見世に出して貰いんさい」


「はい……」


 不満げな顔をしながらも、朧は小さく頷いて雷蔵に頭を下げ、足取り重げに遣手婆の待つ帳場の方へ歩いて行った。しかし、雷蔵の心境は既に別のことで埋め尽くされている。


吉乃よしの、次の旦那様は何時ごろ来られるか分かるかい」


 菜乃葉が禿の少女に問えば、吉乃と呼ばれた彼女は俯きがちに小さな声で答えてみせる。


「あと四半刻程でありんす」


「そうか、それまで朧の無礼の尻拭いに、達川様と少しお話をさせておくれ。時間になったら声を掛けてくれなんし」


「だけんど、おっかさんに何と言えば……」


「私に指示されたと言いなんし。悪いのは全部私さ」


 そこまで言われてしまったら逆らえぬのだろう。吉乃は不安げな面持ちのまま、小さく頷いて足早に帳場へ駆けて行った。その後ろ姿を見送り、菜乃葉はそっと雷蔵を振り返る。


「……雪、か。その名前で呼ばれるのは久しぶりだね。少し話そうか。さぁ、こちらへ」


 そう言って差し出された彼女の手は柔らかく白くしなやかで、雷蔵の冬の乾燥した空気に晒され、字を書いて節くれだってしまったような荒れた手とは大違いだった。


 雷蔵は白魚のような手に導かれて立ち上がり、上の階へと歩みを進める。階段を上るごとに外の喧騒は遠のいて、世界がまるで隔たれていくかのようだった。柔らかな灯の下、障子越しにゆらぐ香の煙が、雷蔵の思考をゆらゆらと揺らす。


 通されたのは華幻楼の最上階、俗世とは切り離された別世界。端正に整えられた真綿の布団、金箔をあしらった蒔絵の鏡台、艶やかな打掛、将棋や囲碁の盤。そして、棚には何冊かの本が並ぶ。整然としたその空間に、雷蔵はただ呆然と立ち尽くした。その沈黙を裂くのは、懐かしさを帯びた穏やかな声。


「……元気にしてたか、雷坊」


 その一言に、雷蔵は肩をびくりと跳ねさせて顔を上げた。声の主は、ゆったりと窓際に腰かけてこちらを見ている。柔らかな灯に照らされた面影はやはり間違いない。雷蔵は、次は確信をもって口を開いた。


「雪姉……小雪姉さん……っ」


 実に十五年は口にしていなかった「あの子」の名を呼ぶ。足元から力が抜け、その場にがくりと膝をついた。声だけは必死に抑えようと歯を食い縛りながら、顔を覆い、恥も外聞もなく涙を零した。


「泣くんじゃないよ、相変わらずの泣き虫だねぇ」


 彼女は片方の眉をわずかに上げて破顔すると、そっと雷蔵の頭に手を添える。その仕草は、幼馴染の姐さんが可愛い弟分を愛でるような温かいものだった。


「雪姉……良かった、良かった……っ」


「よしな。私の名前はもう菜乃葉だよ。この華幻楼の『知の御職』とは私のことさ」


 そう言って、菜乃葉は雷蔵から手を離し、煙管に火を点け紫煙をくゆらせる。そして、床にしゃがんだまま、引き攣った嗚咽を漏らす雷蔵を慈しむように見つめた。


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