締めと社長と華の香。
波留日や陣佐に尻を叩かれ、寛二や徳檀に出会ってようやく前を向き始めた雷蔵であったが、結局彼は連載小説の構成を纏めることができないまま、日々是好日の一月号に向けた締め切り日を迎えてしまった。
原稿を仕上げられなかった以上、雷蔵は陣佐や波留日が取り組む日々是好日の編集作業の頭数に数えられる。世話係として給金を貰っている以上、雷蔵も働かねばなるまい。そうして印刷所へ渡す決定稿を作るため、雷蔵は陣佐や波留日の手解きを受けつつ、日夜編集部へ届いた原稿を読み、忙しなくペンを動かした。
狭苦しい日々是好日編集部の部屋の中、年端もいかぬ少年と、六尺はあろう大男、そして草臥れた痩せぎすの男という三人組が一心不乱に無言で文机へ向かう様は、さぞ異様であっただろう。
「……こんな作業、たったふたりでやってたんですか」
雷蔵はうつ伏せになったまま眉間に皺を寄せ、掠れた声で陣佐に問うた。
大正十一年の幕開けを飾る一月号の原稿を印刷所に渡し終えたその日、三人は足の踏み場もないような床に死屍累々といわんばかりに転がっていた。
彼らがここまで疲弊している理由は明白。編集部に届いた原稿の数が跳ね上がったことに伴い、やるべき仕事が激増したためだ。
十一月号に掲載された波留日の短編によって誌の知名度が上がり、懇意にしている書店から次から仕入れ数を増やしたいと依頼があるまでになった。
さらに、多くの人々が日々是好日を手に取るということは、自分も是非に書いてみようと考える人が増えることを意味する。
「馬鹿言え。今まではどうにかなったんだよ。今月は先月の比じゃねぇ」
床に転がっていた陣佐は呻きながら首だけ上げて、やけに静かな波留日に目をやった。子供の小さな身体に鞭打ち、幾晩も徹夜を続けた波留日は、目の下に隈を浮かべ、散らかり放題のソファの上で蕩けている。
「……寄せられたやつを全部載せるってのは無理が出てきたんじゃねぇのか」
陣佐の言葉に波留日は片目だけ開けて、くぐもった声を絞り出した。
「それは嫌だなぁ……。『誰でも』という触れ込みが無くなるじゃないか」
それは決して我儘ではなく、日々是好日を立ち上げた時より、一本の柱としてそびえ立っている波留日の信条だ。陣佐はそれを分かっているのか、これ以上の言及を止め、無精髭の生えた顎に指を添えて考え込む。
「……上限の字数や頁数を減らすしかねぇな」
「背に腹は代えられない、ってやつ……? うぅ……それも嫌だなぁ」
波留日はぐちゃぐちゃと頭を掻きむしって眉間に皺を寄せ、葛藤の表情を浮かべた。元の顔色が悪いせいで、酷く思い詰めているように見える。
「まァ、それを考えるのは今じゃなくていいなァ……。あー……。久し振りに堪えるぜ……。このまま気絶できる……」
陣佐は再び脱力して床に全体重を預けると、そのまま白目を剥いて飛びそうになる意識に身を任せた。波留日も完全にソファの上で脱力し、雷蔵も臥せって半分気絶する。
しかし、そんな時、穏やかな眠りを妨害するかのように、階下で勢いよく引き戸が開かれる音がした。
「陣! 波留! 居るんだろう!」
ガラガラと野太い声が飛び込み、社屋全体に響き渡る。陣佐が柄にもなく不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、雷蔵は聞き覚えの無いその声にぼんやりと顔を上げた。
「社長ー……俺らは此処だぜ……」
陣佐が床に倒れたまま何とか声を張り上げると、ギシギシと階段を上ってくる足音が近づいてくる。そして勢いよく襖が開かれたと思えば、背広を着た恰幅のいい初老の男が姿を現した。
「ヒサから聞いたぞ! 『日々是好日』の評判は上々で、十二月号の出だしも良いとのことじゃないか! 一月号への作業も御苦労御苦労!」
社長と呼ばれた男は、葉巻を片手に豪快に笑いながら、ずかずかと足の踏み場の無い部屋に入り込む。そして死にかけの陣佐の近くにしゃがみ込んではその肩を遠慮も無くバンバンと叩いた。
「お陰様でー……」
されるがまま草臥れる陣佐の声。葉巻の男は、若いのに疲れてちゃあ駄目じゃないか! 誇り高き日本男児達よ! と白目を剥いている陣佐や、疲労困憊で脱力する波留日に無遠慮な喝を入れた。当然反論や反撃をする元気など微塵も無い二人は、くぐもった声で返事だけをする。
「ん、あぁ、君が達川雷蔵君だな!」
そして彼の視線は貧血と疲労で青白い顔をして転がっている雷蔵に向いた。完全に精魂尽き果てたという具合の陣佐のもとを離れ、雷蔵の前に腰を下ろす。高い葉巻の独特な甘苦い香りが雷蔵の鼻を突いた。
「私は辻庄衛門。実業家と言えば良いかね。朝星新聞社以外にも会社をいくつか持っていて、朝星は私の道楽でやっているようなものだ。君が来てから此処に顔を出すのは初めてか。ようこそ、我が社へ」
「あ……いえ、こちらこそ、何の挨拶もできず……。というか本来でしたら、私から御挨拶に伺うべきところを……」
雷蔵は碌にいうことを聞かなくなった身体に鞭打ち、慌てて身を起こすと、何とか正座でかしこまる。庄衛門はそれを手で制して笑い飛ばした。
「なぁに礼儀は気にするな。日々是好日編集部は陣佐と波留の独壇場だ。好きにやってくれ!」
その真偽を確かめるように陣佐と波留日に目をやれば、疲れた顔の二人が白い顔のまま力無く笑っている。どうやら真実らしい。
「君の『介錯』も読んだよ。私に文学の良し悪しは分からんが、波留曰く、君はとても良い人らしいからね。是非とも頑張り給え」
ポンポンと細く薄い肩を、分厚い掌で勢いよく叩かれた。それは陣佐の時の半分以下の力に見えたが、痩せぎすの雷蔵の身体は衝撃に耐えきれずガクガクと揺れる。その様子を、波留日は片目を開いて楽しげに眺めていた。
「さぁ、雷蔵君も来たことだし、十二月号の前祝いと行こうじゃないか! 雷蔵君、男なら、文士なら、是非とも学んでおくべき世界へ連れて行ってやろう。今回は三ヶ沢先生もいらっしゃるぞ!」
葉巻の煙をくゆらせながら庄衛門は立ち上がる。その言葉を聞いた陣佐が、半分気絶していたにも関わらずカッと目を見開いてガバッと身を起こした。
「社長! 太鼓持ちなら俺が!」
「この宴好きが! ガハハ!」
「え、えっ……?」
急に息を吹き返した陣佐に驚き、未だに合点が行かず目を白黒させる雷蔵に陣佐がニヤリと笑いかける。
「花街、遊郭に連れて行ってやるってことだ。年末だからいつもにも増してきっと華やかだぞ」
遊郭。昔から男の憧れの街として名高い、絢爛たる異世界。その名ばかりを聞いていた雷蔵は、眼鏡のレンズの先で大きく目を見開いた。
大学時代、同級生が女郎に入れ込んで借金をこさえたやら、同じ女郎を巡って殴り合いになったやらという噂話を聞くのも決して珍しいことでは無かった。
雷蔵は、そうして欲に塗れて身を滅ぼし行く人間共を横目に、口には出さずとも内心馬鹿にして蔑んでいた側の人間だ。
「いや、俺は……」
しかし雷蔵は顔を曇らせて難色を示す。それは、そうした輩と同じ穴の狢になるからや、現在精魂尽き果て満身創痍であるから、というだけではないらしく。
「俺は下戸で、社長を楽しませるようなことなんて……」
「何を言うか! 下戸ったって暴れたり怒鳴ったりする悪癖なのか? 文豪は酒癖が悪いとは聞くがねぇ? ほら、あの有名な文豪の鷺坂有太夫も相当な酒癖の悪さだと聞いたぞ!」
雷蔵は無理やりにでも連れて行こうとする庄衛門の言葉に、サァと血の気を引かせて青褪めた。嫌々と喚く幼い子供のように首をしきりに横に振り、ずるずると腰を抜かしながら後退る。
「い、いえ! あ、あの、俺は本当に遠慮させていただきたく……!」
「何を言うか! 若いのだからつべこべ言わずついて来なさい! 代金はこちらで持つし、一夜の夢を味わうのも悪くは無かろう! 遊郭で女を抱くなど、昔にも増して格式高く高級なものとなったが故に中々ないぞ! 若造にはまたとない機会だ!」
「雷蔵、遊郭だぞ?! 玉ノ井の女とは比べ物にならねぇぞ? アイツらは、話も知識も一級品だし、花街の様子は小説の参考にもなるだろうよ! 碁や将棋を打つだけでも楽しんどけ!」
庄衛門と陣佐の猛追に、涙目になりながら抵抗する雷蔵。何とか逃れようと放ったその一言が、彼ら二人に油を注ぐこととなった。
「お、俺はそもそもそういうのが苦手で……玉ノ井だって行ったこと無くて……!」
「なら尚更! 華幻楼の遊女達なら雷蔵君だって気に入る筈だ!」
膝を打って勢い付いた庄衛門は、決まりだと言わんばかりにがっしりと雷蔵と肩を組む。有無を言わせず、既に足は部屋の外へと向いていた。
「じ、陣さぁん……」
呆気なく捕まり、庄衛門の腕の中で情けない声を上げた雷蔵は、社長からの褒美に目を輝かせて水を得た魚のようになっている陣佐に、無駄だと思いつつ助けを求める。
「雷蔵、こういうのは戴きますって有難がっとくもんだ! さぁ、行こうぜ!」
しかし陣佐もまた、雷蔵の肩を庄衛門の反対側から抱く始末。一体その元気は何処から湧き出てくるのだろか。雷蔵はこの世の終わりだと言わんばかりに青褪めて口角を下げた。雷蔵の必死の説得や抵抗も虚しく、六尺の男と恰幅の良い男に挟まれた痩せぎすは、ずるずると引き摺られて部屋の外へ連行されていく。
「は、波留日ぃ……!」
雷蔵は最後の望みとばかりに振り返って波留日に助けを求めた。しかし、波留日は力無く苦笑を浮かべて首を横に振る。
「社長はね、言い出したら聞かないよ。今回ばかりは諦めた方がいい。それに折角だ、ウチの誌の最大の支援者である三ヶ沢先生がいらっしゃるというから、あの人に会うためだけでも行っておいで。僕は眠気が限界だ。子供の身体に徹夜は堪えるよ。陣佐、先生に宜しくと伝えておくれ。雷蔵、大丈夫、僕も後で行くからさ」
珍しく申し訳なさそうな表情を浮かべた波留日は、ぐったりとしながらソファの上でヒラヒラと手を振った。
「そんなぁ……!」
雷蔵の悲痛な声が社屋に響き渡る。こうして雷蔵はなすすべもなく、冬の夕暮れが迫る街へと連れ出されていった。




