第8話 俺は俺、私は私
舞台袖は、暗かった。
けれど、真っ暗ではない。
中央ステージから漏れる白と金の光が、黒い幕の隙間から細く差し込んでいる。
足元には、照明ケーブル。
壁際には、予備のマイクスタンド。
天井の近くでは、可学ドローンが小さな羽音を立てて旋回している。
遠くから観客のざわめきが聞こえる。
クリスマスパーティーの音楽。
イルミネーションの明滅。
ステージ装置の駆動音。
そして、ときどき混じる、玉藻先生の悲鳴。
「タロウくん五号ぉ! その回線は触っちゃだめぇん!」
続いて、椎凪先輩の冷静な声。
『玉藻先生、右手のリモコンを床に置いてください』
「これは非常停止用よぉん!」
『非常事態を増やす用に見えます』
「信用がないわぁ!」
『あります。危険人物としての信用が』
そのやり取りが、無線から聞こえてきた。
俺は思わず言った。
「向こうも大変そうだな」
目の前のナオキが、少しだけ笑った。
「他人事みたいに言うんだな」
「他人事じゃないのが嫌なんだよ」
「なら、逃げなければいい」
「逃げてない」
「まだ舞台袖にいる」
「……今から出るところだった」
「そうか」
ナオキは中央ステージの光を背にして立っていた。
白と黒の衣装。
姫ではない。
王子でもない。
俺が知っているどの役にも似ていない。
ただ、誰かに着せられた衣装ではないことだけはわかる。
肩には短いマント。
胸元には銀色の飾り。
スカートではなく、動きやすそうな黒いショートパンツとロングブーツ。
髪は少しだけ結ばれていて、顔立ちは俺と同じなのに、表情はまったく違う。
堂々としている。
腹立つくらいに。
俺は息を整えながら、ナオキを見た。
ステージの向こうでは、鳴海愛が生徒会スタッフに指示を飛ばしている。
百瀬先輩は風紀委員と一緒に観客席側の安全確保。
椎凪先輩は放送回線の切断作業。
玉藻先生は、たぶん怒られながら何かを止めようとしている。
美咲と宙は、俺の少し後ろにいた。
美咲はすぐ動けるように身構えている。
宙はアリスを抱え、じっとナオキを見ている。
アリスだけが、やけに楽しそうだった。
「主役同士の対面ダ」
「うるさい」
俺が言うと、アリスは首をかくんと傾けた。
「オマエ、主役なのにずっと袖にいるゾ」
「今から出るって言ってるだろ」
「言ってるだけダ」
人形に正論を言われると腹が立つ。
俺はナオキへ視線を戻した。
「ナオキ」
「何だ」
「おまえは俺から出てきた」
「そうだな」
「だから、俺の一部だ」
言った瞬間、ナオキの目が少しだけ細くなった。
怒ったわけではない。
でも、柔らかくもなかった。
「一部だった」
ナオキは言った。
「でも、今は私だ」
その声は静かだった。
けれど、はっきりしていた。
「勝手に決めるな。私が何者かを、おまえが決めるな」
「決めてるのはおまえだろ」
俺は一歩前に出た。
「勝手に出てきて、勝手に暴れて、勝手に俺の顔で好き放題して」
「好き放題?」
「そうだろ! 学校壊して、放送乗っ取って、昔の映像まで見せて!」
「おまえにだけだ」
「そういう問題じゃない!」
声が大きくなった。
舞台袖のケーブルが足に当たる。
俺は構わず続けた。
「おまえは、俺が隠してたことを勝手に引っ張り出した。見たくなかったものまで見せた。あんなの、俺の許可なしにやっていいことじゃない」
「許可?」
ナオキの声が冷たくなった。
「私が出てくる時、おまえは私に許可を取ったのか?」
「それは、事故だろ」
「そうだ。私は事故で生まれた」
一瞬、空気が止まった。
ナオキは笑っていなかった。
「私は、おまえが望んで生まれたわけじゃない。誰にも呼ばれていない。気づいたら、私は私になっていた」
「……ナオキ」
「それなのに、おまえは私を『一部』と言う。『元に戻す』と言う。簡単に」
「簡単に言ってない」
「言った」
ナオキは近づいてきた。
俺と同じ顔が、目の前にある。
でも、その目は俺よりずっとまっすぐだった。
「勝手に出てきた? 勝手に暴れた? 勝手におまえの顔で好き放題した?」
「ああ」
「勝手に押し込めてきたのはそっちだ」
俺は言葉を失った。
ナオキの声は震えていた。
怒りで。
悔しさで。
たぶん、それ以外の何かで。
「可愛いって言われるたびに、嫌だったんだろ」
「……」
「女の子みたいって言われるたびに、笑ってごまかしていたんだろ」
「……」
「姫役が似合うって言われて、本当は腹が立ったんだろ」
「……」
「嫌だって言えばよかったのに、言わなかった。怒ればよかったのに、怒らなかった。やめろって言えばよかったのに、冗談にして飲み込んだ」
ナオキは自分の胸を押さえた。
「その飲み込んだものが、こっちに来たんだよ」
何も言えなかった。
喉の奥が詰まる。
ナオキの言葉は、ひどく乱暴だった。
でも、嘘ではなかった。
俺はずっと、怒るのが苦手だった。
嫌だと言うのが苦手だった。
真面目に言えば、場が壊れる気がした。
軽く流せば、楽だった。
だから流した。
流してきたものが、消えたわけではなかった。
どこかに溜まっていた。
ナオキは、それを持って生まれたのかもしれない。
美咲が後ろで、小さく俺の名前を呼んだ。
「直樹」
でも、美咲はそれ以上言わなかった。
たぶん、ここは俺が言う場所だと思ってくれたのだろう。
俺は拳を握った。
「……嫌だったよ」
声が、思ったより低く出た。
ナオキが黙る。
「可愛いって言われるの、嫌だった。女の子みたいって言われるのも嫌だった。似合うからって、勝手に衣装を当てられるのも、写真撮られるのも、笑われるのも嫌だった」
言葉にすると、胸の奥が熱くなった。
ずっと言わなかったこと。
言えなかったこと。
言ったら何かが壊れると思っていたこと。
「でも」
俺は少し息を吸った。
「たぶん、本当に嫌だったのは、『可愛い』って言葉そのものじゃない」
ナオキの目が揺れた。
「可愛いって言われるのが全部嫌だったわけじゃない。顔がどうとか、似合うとか、それだけならまだいい。でも、そこから勝手に決められるのが嫌だったんだ」
俺はステージの光を見る。
眩しい。
あんな場所に立ちたいと思ったことはなかった。
でも、立ちたくないと思うことばかり考えて、自分がどこに立ちたいかは考えていなかった。
「可愛いから姫役。似合うから着ろ。面白いから笑え。嫌がる顔も可愛い。そうやって、俺の反応まで役にされるのが嫌だった」
ナオキは小さく息を吐いた。
「わかってる」
「だろうな」
「私は、おまえだから」
「でも、もう同じじゃないんだろ」
「同じじゃない」
ナオキはすぐに答えた。
「同じじゃない。だから、私は私のやり方で怒った。逃げないで、見せてやるって思った。見られるくらいなら、こっちから見せつけてやるって」
「学園征服で?」
「最初はそれが一番強そうに思えた」
「雑だな」
「おまえから出てきたからな」
「俺のせいにするな」
「半分はおまえのせいだ」
「半分か」
「そう、半分」
ナオキは少しだけ笑った。
けれど、その笑みはすぐ消えた。
「……でも、わからなかった」
「何が」
「私が存在していいのか」
その声は、急に小さくなった。
さっきまでの堂々としたナオキとは違う。
昨日、こたつの中で紅茶を飲んでいたナオキに少し近かった。
「私は直樹から出てきた。直樹の記憶がある。直樹の過去がある。直樹の嫌だったことも、恥ずかしかったことも、腹が立ったことも覚えてる」
ナオキは自分の手を見る。
「でも、身体は違う。声も違う。考え方も、少し違う。美咲に可愛いって言われて、嫌じゃなかった。衣装を選ぶのも、少し楽しかった。舞台に立つのも、怖いけど嫌じゃなかった」
俺は黙って聞いていた。
ナオキは続ける。
「そうしたら、わからなくなった。私は直樹なのか。直樹じゃないのか。直樹の一部なら、いつか戻るだけなのか。戻ったら私は消えるのか」
美咲が息をのむ音がした。
宙も、静かにナオキを見ている。
アリスは何も言わなかった。
「玉藻先生の装置で戻せるって聞いた時、怖かった」
ナオキは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「でも、怖いって言ったら、私は直樹と別の存在になる気がした。だから、言えなかった」
「……消えたくないのか」
俺が聞くと、ナオキは少しだけ顔を伏せた。
そして、うなずいた。
「消えたくない」
その言葉は、今までのどの宣言よりも、はっきり聞こえた。
「昨日まで、私はいなかった。だから、消えても元に戻るだけなのかもしれない。でも、美咲が手を引いてくれた。宙が半分だって言った。鳴海先輩が私を処理対象じゃなくて本人って言った。玉藻先生は危ないけど、私をナオキちゃんって呼んだ」
「玉藻先生の評価だけ雑だな」
「危ないのは事実だ」
「そうだな」
ナオキは俺を見た。
「みんなと話して、舞台に立って、私は思った。私は、もう少しいたい」
俺は言葉を探した。
簡単に、いいとか悪いとか言えなかった。
昨日までいなかった存在。
俺から出てきた存在。
俺の記憶を持っている。
俺の怒りを持っている。
でも、俺ではないと言う。
そして、消えたくないと言っている。
どう答えればいいのか、わからない。
でも、ひとつだけ言えることがあった。
「俺は」
俺はナオキを見た。
「姫役なんかやりたくない」
ナオキは一瞬きょとんとした。
それから、小さく笑った。
「じゃあ、やらなきゃいい」
「そうだな」
「そんな当たり前のこと、今さら?」
「今さらだよ」
俺は苦く笑った。
「俺は今まで、それをちゃんと言えなかった。やりたくないって言う前に、面倒だから逃げた。こたつに戻った。笑って流した」
「直樹らしい」
「うるさい」
「でも、今は?」
ナオキが聞いた。
俺はステージの方を見た。
光の向こうに、生徒たちの気配がある。
クラスメイトもいる。
高橋もいる。
西野もいる。
俺を姫役にしようとしたやつらも、謝ってくれたやつらも。
たぶん、俺を見るだろう。
勝手に見るやつもいる。
興味本位で見るやつもいる。
でも、俺が何を言うかも、たぶん聞く。
「俺は姫役なんかやりたくない」
もう一度、言った。
「でも、逃げるんじゃなくて、自分で断る」
ナオキが目を見開いた。
少しだけ驚いているようだった。
「直樹が?」
「悪いか」
「いや」
ナオキは首を横に振った。
「悪くない」
美咲が後ろで小さく笑った。
「やっと言った」
「うるさい」
「褒めてる」
「おまえの褒め方、わかりづらい」
「直樹の素直さよりはわかりやすい」
宙がぽつりと言った。
「……行けばいい」
アリスが続ける。
「主役は遅れて出るモノダ」
「俺は主役じゃない」
「じゃあ、何だ?」
その問いに、俺は少しだけ笑った。
「今から決める」
俺は舞台袖から一歩踏み出した。
光が強くなる。
ステージ上の空気は、舞台袖とは違った。
音が大きい。
視線が多い。
イルミネーションが眩しい。
中央ステージの前には、生徒たちが集まっていた。
全校生徒とまではいかない。
でも、かなりの人数だ。
みんな、ナオキの征服劇を見ていた。
そして今、俺が出てきたことで、ざわめきが広がる。
「時雨くん?」
「男の方?」
「直樹?」
「ナオキちゃんもいる?」
「あれ、二人並ぶの?」
声が刺さる。
見られている。
やっぱり気持ち悪い。
落ち着かない。
でも、足は止めなかった。
俺はステージ中央へ向かった。
マイクスタンドがある。
さっきナオキが使ったものだ。
俺はそれを掴んだ。
手が少し汗ばんでいる。
美咲が舞台袖から見ている。
宙もいる。
ナオキは、少し後ろに立っている。
俺を見ている。
俺は息を吸った。
そして、言った。
「俺は、姫役はやらない」
ざわめきが起きた。
笑い声も少し聞こえた。
でも、俺は続けた。
「似合うとか、面白いとか、そういう理由で勝手に決めるな」
声が、思ったより大きく響いた。
スピーカーを通して、学園全体へ広がる。
「俺は、可愛いって言われるのが全部嫌なわけじゃない。顔のことを言われるのも、たぶん慣れてる。でも、それを理由に、俺の役を勝手に決めるな」
客席が静かになっていく。
高橋が見えた。
姫衣装のまま、真面目な顔でこちらを見ている。
西野もいる。
手元の台本を抱えて、頷いている。
「嫌なら嫌って言えばいい。そう言われたら、その通りだと思う。俺は今まで、ちゃんと言ってこなかった。だから今、言う」
俺はマイクを握り直した。
「俺は、姫役はやらない」
もう一度、はっきり言った。
「俺は俺だ」
その瞬間、背後から足音がした。
ナオキが隣に立った。
俺と同じ顔。
けれど、違う衣装。
違う目。
違う立ち方。
ナオキは、観客席を見た。
それからマイクに向かって言う。
「私は、やりたいからやる」
声はよく通った。
「誰かに押しつけられたからじゃない。似合うと言われたからでもない。直樹の代わりでもない」
ナオキは自分の胸に手を当てた。
「私は、私の役を選ぶ」
観客席が静まり返る。
ドローンの羽音だけが聞こえる。
遠くで、何かの装置が低くうなっていた。
俺とナオキは並んで立った。
同じ顔。
違う二人。
ナオキが俺を見た。
俺も見た。
示し合わせたわけではない。
でも、言葉は自然に出た。
「俺は俺だ」
「私は私だ」
声が重なり、少しずれて、ステージの上に広がった。
その瞬間、周囲の可学装置が大きく震えた。
照明が一度、強く白く光る。
ドローンの動きが乱れ、すぐに安定する。
タロウくん3号の胸部に走っていた赤い光が、ゆっくり青へ変わっていく。
暴走していた音響が静かになり、勝手に動いていた舞台装置が停止した。
生徒たちの間から、驚きの声が上がる。
椎凪先輩の無線が入った。
『可学反応、低下。制御系、順次復旧しています』
玉藻先生の声が続く。
『すごいわぁん。自己同一性の再定義で幻実因子が安定してるぅ』
「日本語で言ってください」
俺が思わず言うと、玉藻先生は興奮気味に答えた。
『二人が自分を自分だって認めたから、装置が落ち着いたのよぉん!』
「最初からそう言ってください」
観客席から、ぱらぱらと拍手が起きた。
最初は小さかった。
やがて広がっていく。
拍手。
歓声。
困惑混じりの笑い。
「何だったんだ今の」
「でも、なんかよかった」
「時雨くん、ちゃんと言ったな」
「ナオキちゃんかっこいい」
「高橋姫も頑張れー!」
高橋が客席の端で「俺!?」と叫んでいた。
少し笑いが起きる。
俺は力が抜けた。
ステージの上で、膝から崩れそうになる。
ナオキが隣で支えた。
「大丈夫か」
「おまえに支えられるの、変な気分だ」
「私も変だ」
「だろうな」
美咲が舞台袖から駆け寄ってきた。
「直樹! ナオキちゃん!」
「ちゃん付けはまだ続くのか」
ナオキが言うと、美咲は笑った。
「嫌ならやめる」
ナオキは少し考えた。
「……今は、いい」
「じゃあ続ける」
「軽いな」
宙も近づいてきた。
アリスがサンタ帽を揺らしながら言う。
「半分同士、ちょっと戻ったナ」
「戻ったのか?」
俺が聞くと、宙は首を横に振った。
「……戻ったんじゃない」
アリスが続ける。
「立ったんダ」
よくわからない。
でも、何となくわかった気もした。
そこへ、鳴海愛がステージに上がってきた。
いつものように落ち着いている。
ただし、少しだけ疲れているようにも見えた。
「時雨直樹、時雨ナオキ」
「はい」
「何だ」
ナオキの返事に、愛は一瞬だけ眉を上げたが、すぐに続けた。
「可学装置の暴走はほぼ収束した。人的被害はなし。物的被害は、後で玉藻先生が責任を持つ」
「ええん、やっぱりぃ?」
遠くから玉藻先生の声がした。
愛は無視した。
「ステージ進行は一時中断。安全確認後、各クラスの演目を再開する」
「再開するんですか」
俺が聞くと、愛は当然のように言った。
「この程度で行事を止めれば、鏡星学園ではない」
「今日三回目くらいですよ、それ」
「必要な時に言っている」
そこへ玉藻先生が駆け込んできた。
白衣を翻し、息を切らしている。
背中の「反省中」ステッカーはまだ健在だった。
「直樹ちゃん! ナオキちゃん!」
「先生、また何かやらかしたんですか」
「違うわよぉん。今回は朗報」
「先生の朗報、だいたい不安なんですけど」
「ひどいわぁ」
玉藻先生は手に持ったタブレットをこちらへ向けた。
画面には、二つの波形が表示されている。
青と赤。
俺とナオキだ。
さっきまで乱れていた波形が、今は並ぶように安定していた。
「今なら、二人を一人に戻せるわよ」
空気が止まった。
拍手も、ざわめきも、遠くなった気がした。
俺は玉藻先生を見た。
ナオキも玉藻先生を見た。
美咲が息をのむ。
宙は静かに目を伏せる。
愛は何も言わない。
玉藻先生の声だけが続いた。
「二人が自分を定義し直したことで、幻実因子が安定してる。統合するなら、たぶん今が一番安全」
たぶん。
いつもの軽さが混じっているはずなのに、今の言葉は重かった。
元に戻る。
一人に戻る。
それはつまり、どういうことなのか。
俺はナオキを見た。
ナオキも俺を見た。
さっきまで言えたはずの言葉が、何も出てこなかった。
俺は俺だ。
私は私だ。
そう言った直後に。
一人に戻れると言われた。
ナオキは黙っていた。
俺も黙っていた。
ステージの上で、二人分の沈黙だけが、やけにはっきりと残った。




