第3話 玉藻先生に相談してはいけない
俺は二階の窓辺で、人生が音を立てて崩れていく様子を見ていた。
いや、人生というほど大げさなものではないかもしれない。
だが少なくとも、今日一日については完全に崩壊していた。
学校を遅刻した。
姫役にされかけた。
空から落ちてきた謎の光に直撃した。
俺が増えた。
その増えた俺を幼馴染に見つけられた。
そして今、知られてはいけない相手ランキング一位の玉藻妖狐先生が、よりによって家の前に立っている。
ランキング二位は母親。
三位は生徒会長の鳴海愛。
だが今は一位がぶっちぎりで危険だ。
玉藻先生は白衣姿だった。
冬の住宅街に白衣。
しかもその下は黒いニットとタイトスカートで、教師としてはたぶん許される範囲なのだろうが、白衣のせいで全体的に怪しい研究者感が消えていない。
風で長い髪が揺れる。
先生は美咲とナオキの前で、にっこり笑っていた。
「あらぁん? 直樹ちゃん、今日はずいぶん女の子っぽいわねぇん」
ナオキは固まっていた。
顔が俺と同じなので、固まり方も俺っぽい。
ただ、俺ならその場で「違います」と反射的に言うところだが、ナオキはまだ自分が何者なのか処理しきれていないせいで、口が開かないらしい。
美咲も一瞬固まっていた。
だが美咲は、立ち直りが早い。
「あ、玉藻先生。こんにちは」
「こんにちはぁ、美咲ちゃん。今日は学校じゃなかったかしらぁん?」
「学校でした」
「過去形なのねぇ」
「ちょっと、直樹を回収しに」
「直樹ちゃんを?」
玉藻先生の視線がナオキへ向く。
ナオキはぴくっとした。
「……私、ですか?」
言ってから、ナオキ自身が少し戸惑った顔をした。
玉藻先生の目が光った。
見間違いではない。
光った。
あの人は、面白そうなものを見つけたときだけ、本当に目が光る。比喩ではない。たぶん何かの可学処理が入っている。
「私?」
先生は首を傾げた。
「直樹ちゃん、いつから一人称が私になったのかしらぁん?」
「えっと」
ナオキが困る。
美咲が横から助け舟を出そうとして、まったく助けにならないことを言った。
「先生、実はこの子、直樹じゃないんです」
俺は二階で頭を抱えた。
言った。
言いやがった。
美咲、おまえはどうしてそう、最短距離で爆弾を起動するんだ。
玉藻先生は一瞬だけぽかんとした。
「直樹ちゃんじゃない?」
「はい」
「でも、見た目は直樹ちゃんよねぇ」
「見た目は直樹です」
「声も似てるわねぇ」
「声も似てます」
「じゃあ直樹ちゃんじゃなぁい?」
「でも違うんです」
「どう違うのかしらぁん?」
美咲は一瞬、俺の部屋の窓を見た。
目が合った。
いや、俺はカーテンの隙間から見ているので、普通なら目は合わない。
だが美咲は、なぜか俺の居場所を正確に把握していた。
幼馴染、怖い。
俺は全力で首を横に振った。
言うな。
絶対に言うな。
先生に話すな。
今すぐナオキを連れて逃げろ。
美咲は俺を見た。
玉藻先生を見た。
ナオキを見た。
そして、ものすごく真剣な顔で言った。
「先生、相談してもいいですか?」
「美咲ぃぃぃ!」
俺は二階から叫んだ。
叫んだ時点で手遅れだった。
玉藻先生が、ゆっくりと顔を上げる。
「あらぁん?」
白衣の悪魔が、俺の部屋の窓を見た。
「直樹ちゃん、そこにいるのねぇん」
終わった。
完全に終わった。
俺はカーテンを閉めた。
意味はない。
気持ちの問題だ。
数分後、玉藻先生、美咲、ナオキの三人が俺の部屋にいた。
玄関から普通に入ってきた。
逃げる暇はあった。
だが俺は逃げなかった。
なぜなら、こたつに入っていたからだ。
自分でも最低だと思う。
けれど、冬のこたつは人間の判断力を著しく低下させる。これは科学、いや可学ではなく真実だ。
俺はこたつ布団に顎まで潜りながら、現実から目をそらしていた。
「直樹」
美咲が言う。
「起きて」
「俺は今、魂だけ旅に出ている」
「戻ってきなさい」
「無理だ。遠い国にいる」
「こたつの中でしょ」
「ここは冬の王国だ」
「くだらないこと言ってないで出てきなさい」
美咲にこたつ布団をめくられた。
冷気が入ってくる。
「寒い!」
「現実の方が寒いのよ」
「何だその名言っぽい暴力」
俺は渋々こたつから顔を出した。
玉藻先生は部屋の中央で、俺とナオキを見比べていた。
白衣のポケットからメジャーを取り出している。
なぜメジャー。
「ふむふむ」
先生は俺を見る。
次にナオキを見る。
また俺を見る。
またナオキを見る。
「双子?」
その第一声は意外に普通だった。
美咲が説明しようと口を開く。
「先生、実は――」
「違うわねぇん」
玉藻先生は美咲の言葉を遮った。
「骨格の基礎データはほぼ同一。でも、体組成が違う。性別差異あり。声帯も微妙に違う。けれど顔の相似率は双子というより自己複製に近い。記憶反応もたぶん共有。なるほどなるほどぉ」
先生は楽しそうに手を叩いた。
「未知の幻実因子による自己分裂現象ね」
部屋が静かになった。
俺はゆっくり言った。
「先生」
「なぁに?」
「いま理解したふりしましたよね」
「失礼ねぇん。半分くらいは本当に理解したわよぉ」
「半分しか理解してないじゃないですか」
「未知の現象なんだから、半分理解できれば上等よぉ」
ナオキが小さく言った。
「幻実因子って何ですか?」
「幻実空間に由来する未分類の情報粒子、みたいなものねぇん」
「みたいなもの?」
俺が聞き返すと、玉藻先生はにこっと笑った。
「詳しくはまだわかってないの」
「わかってないものをわかった風に言わないでください」
「でも響きがいいでしょう? 幻実因子」
「研究者としてそれでいいんですか」
「可学者だからいいのよぉん」
可学者は便利だな。
玉藻先生はナオキの周囲をぐるっと回り始めた。
ナオキは落ち着かない様子で身を引く。
「あの、見ないでください」
「見ないと調べられないわぁ」
「調べる前提なのが怖いです」
「こっちの直樹ちゃんはずいぶん礼儀正しいわねぇ」
「こっちって言うな」
俺が言うと、玉藻先生はこっちを見た。
「そうねぇ。区別しないと不便ね。男の子の方が直樹ちゃん。女の子の方がナオキちゃん?」
「勝手に決めるな」
「でも、そう呼んでるんでしょう?」
美咲があっさり言った。
俺は睨んだ。
「おまえはどっちの味方だ」
「面白い方」
「最低だ」
「状況が最低なんだから、せめて面白がらないと」
玉藻先生は楽しそうにうなずく。
「いい心がけねぇ、美咲ちゃん」
「先生に褒められると不安になります」
「それより、話を聞いた限りでは、とっても貴重な現象よぉん。空から落ちてきた光、身体的分裂、性別差異、同一記憶、自己認識の揺らぎ」
先生の声がだんだん弾んでいく。
「分裂? 性別差異? 同一記憶? 最高の教材じゃない!」
ナオキが一歩後ずさった。
俺もこたつごと後ずさりしたい気持ちになった。
美咲がそっと俺に近づいてきて、小声で言う。
「もしかして相談相手、間違えた?」
ナオキが即答した。
「かなり」
「今さらかよ!」
俺は叫んだ。
「だからさっき窓から全力で首振っただろ!」
「だって、玉藻先生なら何かわかるかなって」
「わかる前に分解する人だぞ!」
「分解はしないわよぉん」
玉藻先生が笑顔で割り込む。
「必要がなければ」
「必要があったらするんですか!」
「大丈夫。今回は分解より統合が先ね」
統合。
その言葉に、俺とナオキは同時に反応した。
「統合?」
ナオキが聞く。
玉藻先生は白衣のポケットからタブレットを取り出し、何やら画面を操作した。
「二人に分かれたなら、一人に戻せばいい。単純明快でしょ?」
「単純明快に言うな」
俺は身を乗り出した。
「戻せるんですか?」
「理論上は」
「その言葉、信用度低いですよね」
「でも試す価値はあるわ」
嫌な予感がした。
これまでの人生で、玉藻先生が「試す価値はある」と言って、無事に済んだ話を聞いたことがない。
「詳しいことは、研究室で調べましょう」
玉藻先生がそう言った瞬間、俺とナオキは同時に立ち上がった。
「「絶対嫌だ」」
声が揃った。
美咲が少し感心したように言う。
「そこは本当に同じなんだ」
「感心してる場合か」
「実験室は嫌です」
ナオキが真剣な顔で言った。
「玉藻先生の研究室って、学校で一番危ない場所って噂です」
「失礼ねぇ」
玉藻先生は頬に手を当てた。
「あたしの研究室は二番目よぉん」
「一番はどこですか」
「旧書庫B」
「ああ……」
なぜか全員納得した。
鏡星学園メディアアーカイブの地下旧書庫B。
噂によると、未登録資料や怪しい本が集まっていて、過去に図書委員がひとり絵本の中へ落ちたとか落ちてないとか。
その話の信憑性は知らないが、この学園では妙にあり得る。
「とにかく行きません」
ナオキが言う。
「俺も行かない」
「でも、ここで調べるには機材が足りないのよぉ」
「じゃあ調べなくていいです」
「放っておくと、二人の存在が不安定になるかもしれないわよぉん?」
玉藻先生の声が少し変わった。
軽い口調のままだが、言葉は重かった。
ナオキが黙る。
俺も黙った。
「不安定って、どういう意味ですか」
美咲が聞いた。
「消えるかもしれない。混ざるかもしれない。もう一人増えるかもしれない」
「最後が一番嫌なんですけど」
俺は思わず言った。
玉藻先生は肩をすくめる。
「可能性の話よぉん。でも、未知の現象を放置するのは危険。これは本当」
それはたぶん、嘘ではなかった。
玉藻先生は危険人物だが、完全な馬鹿ではない。
むしろ、頭はものすごくいい。
ただし、倫理観と安全管理がたまに昼寝しているだけだ。
俺はナオキを見た。
ナオキも俺を見た。
同じ顔で、同じ迷い方をしている。
美咲が腕を組んだ。
「行くだけ行って、危なそうなら逃げる?」
「それが現実的か」
「でも先生の研究室に入ったら逃げられない気がする」
「俺もそう思う」
玉藻先生がにこにこしながら、ポケットに手を入れた。
「大丈夫。逃げる必要なんてないわ」
「先生、その手は何ですか」
「可学式睡眠パッチ」
「睡眠?」
聞き返した瞬間だった。
玉藻先生の手が素早く動いた。
ぺたん。
俺の首筋に何かが貼られた。
隣で、ナオキの首筋にも同じものが貼られる。
「あ」
美咲が声を上げた。
「先生!?」
「ちょっと眠るだけよぉん」
「それ一番やっちゃダメなやつ!」
美咲の声が遠くなる。
俺は首筋に手を伸ばそうとした。
だが、指先に力が入らない。
視界がぐにゃりと曲がった。
「玉藻、先生……」
「安心して。目が覚めたら研究室よ」
「それが……安心できない……」
ナオキの声がした。
「直樹……」
「ナオキ……寝るな……」
「そっちも……」
そこで意識が落ちた。
次に目を覚ました時、俺は透明なカプセルの中にいた。
妙な機械音が聞こえる。
低い駆動音。
電子音。
水が泡立つような音。
そして、どこかで「ピコーン」と間抜けな音が鳴っている。
「……どこだここ」
俺は身体を動かそうとした。
動かない。
手足が固定されている。
透明なカプセルの内側から、外の様子が見えた。
そこは、研究室だった。
広い。
無駄に広い。
天井には太い配管が走り、壁には意味のわからない計器が並び、棚にはカラフルな液体が入った試験管や瓶がずらりと置かれている。
青。
緑。
紫。
なぜか七色に発光している液体もある。
生き物のように動いている液体もある。
見なかったことにした。
部屋の中央には、俺の入っているカプセルと、もう一つ同じカプセルがある。
隣のカプセルにはナオキがいた。
眠っている。
その顔は俺と同じなのに、やっぱり少し違って見える。
カプセルの前では、玉藻先生が白衣を翻しながら操作盤を叩いていた。
その横には、金属製のロボットが二体立っている。
いかにもロボットという見た目だった。
丸い頭。
四角い胴体。
ぎこちない腕。
胸にそれぞれ『タロウくん1号』『タロウくん2号』と書かれている。
ネーミングセンス。
「お目覚めかしらぁん?」
玉藻先生が振り返った。
「先生」
「なぁに?」
「拉致は犯罪です」
「人聞きが悪いわねぇん。緊急保護よぉ」
「首に睡眠パッチ貼って連れてくるのは緊急保護じゃない」
「細かいことは気にしない」
「気にします」
「直樹ちゃんは神経質ねぇ」
「まともなだけです」
カプセルの外に、美咲もいた。
椅子に座らされている。
というか、たぶん見張られている。
「美咲!」
「あ、起きた」
「なんで普通にいるんだ!」
「私も止めたんだけど、タロウくんに運ばれた」
美咲はタロウくん1号を指差した。
タロウくん1号は親指を立てた。
腹立つ。
「大丈夫なのか」
「私は寝かされてないから大丈夫。あんたたちより扱いはマシ」
「マシか?」
「椅子あるし」
強い。
美咲はこういう時、本当に強い。
俺なら普通に暴れている。
いや、今カプセルの中で暴れられないが。
「ナオキは?」
「まだ寝てる」
美咲の声が少し心配そうになる。
玉藻先生は軽く手を振った。
「大丈夫よぉん。睡眠深度がちょっと違うだけ。女の子の方が可学反応が強いみたいねぇ」
「それ大丈夫じゃない気がします」
「大丈夫、大丈夫」
「先生の大丈夫ほど信用できない言葉ないですよ」
「それでね」
玉藻先生は華麗に俺の不満を流した。
「二人を元に戻す装置を作ったわ」
「いつ」
「さっき」
「さっき?」
「あなたたちが寝てる間に」
「俺たち、どのくらい寝てました?」
「三十分くらい」
俺は思い切り叫んだ。
「三十分で作った装置に人間を入れるな!」
研究室に声が響いた。
ナオキが隣のカプセルでぴくりと動いたが、まだ起きない。
玉藻先生は両手を腰に当てた。
「失礼ねぇん。設計は前からあったのよ」
「何の設計ですか」
「二つのものを一つに戻す装置」
「そんな雑な装置の設計を前から持ってることが怖い」
「いつか使うと思って」
「いつ使う想定だったんですか」
「双子のプリンを一個に戻すとか」
「プリンと人間を同じ装置で扱うな!」
美咲が頭を抱えた。
「先生、やっぱりこれ危ないんじゃ」
「大丈夫。理論上はたぶん戻るわ」
ナオキの目が、そこで開いた。
「……たぶん?」
第一声がそれだった。
彼女はカプセルの中で、ゆっくり視線を動かした。
研究室。
機械。
タロウくん。
玉藻先生。
美咲。
俺。
そして、自分が固定されているカプセル。
「……最悪」
「俺も同感だ」
ナオキは玉藻先生を見た。
「先生、たぶんって言いました?」
「言ったわねぇん」
「戻らない可能性は?」
「あるわぁん」
「別のものになる可能性は?」
「なくはないわぁん」
「消える可能性は?」
「たぶん低いわぁん」
「たぶんが多い!」
ナオキが叫んだ。
俺と同じ意見だった。
こういう時だけ、完全に同じだ。
「心配しすぎよぉ。可学は挑戦の学問。未知へ踏み出す勇気がなければ、未来は開けない」
「その未来に俺たちを勝手に踏み出させるな」
「直樹ちゃん、名言ねぇ」
「メモるな!」
玉藻先生は操作盤を叩いた。
カプセルの中に淡い光が満ちていく。
まずい。
本当に始める気だ。
「先生、待って!」
美咲が立ち上がった。
「本人たちの同意なしはダメでしょ!」
「緊急事態だから、事後承諾で」
「それは承諾じゃない!」
「美咲ちゃんは法律に詳しいのねぇ」
「常識です!」
ナオキがカプセルの中で必死に身じろぎする。
「直樹、どうする?」
「どうするって、固定されてる」
「何かいい手は?」
「ない!」
「即答しないで!」
「俺だって混乱してる!」
装置が低い音を立て始めた。
うぉん、うぉん、と重たい音。
カプセルの外側に、意味不明な文字列が走る。
数字、波形、星座みたいな記号。
俺はその中に一瞬、旧書庫の蔵書番号のようなものを見た気がした。
幻実因子。
自己分裂。
俺とナオキ。
何かが、胸の奥でざわつく。
まるで、見えないページがめくられているような感覚。
「リンク率、上昇中」
玉藻先生の声はいつになく真剣だった。
「自己同一性、二系統に分岐。記憶層は共通。感情層、微妙に差異あり。面白いわねぇ」
「面白がるな!」
「だって面白いんだもの」
カプセルの光が強くなる。
ナオキの顔が苦しそうに歪んだ。
「ナオキ!」
「だ、大丈夫……じゃないかも」
「先生、止めて!」
美咲が叫んだ。
「もう少しだけ」
「止めて!」
「統合点が見えそうなのよぉん」
その時、研究室の照明が一瞬またたいた。
びかっ。
ばちん。
次の瞬間、部屋が真っ暗になった。
「停電!?」
美咲の声が響く。
装置の駆動音が不安定になる。
うぉん、うぉ、う、うう、と低くうなるような音に変わる。
俺のカプセルの光は弱まった。
だが、ナオキのカプセルだけ、逆に強く光った。
「おい、そっち何か光ってるぞ!」
「直樹、見えてる!」
ナオキの声が震えている。
玉藻先生が暗闇で叫んだ。
「タロウくん2号! ブレーカー!」
『リョウカイ』
機械音声が響く。
がしゃん、がしゃんとロボットが走る音。
直後、研究室の照明が戻った。
だが装置は完全には復旧していない。
警告音が鳴る。
『エラー。エラー。自己同一性分岐反応、逆流。可学反応、異常増幅』
「先生!」
美咲が叫ぶ。
「まずいかもぉん」
玉藻先生の声が初めて少し青ざめた。
「かもじゃない!」
ナオキのカプセルの中で、光が爆ぜた。
俺は目を開けていられなかった。
白い光。
金色の光。
黒い影。
何かが、ナオキの中へ流れ込んでいくように見えた。
同時に、俺の胸の奥が空洞になるような感覚がした。
何かが抜けた。
いや、抜けたというより、もともと俺の中に押し込められていたものが、向こう側へ流れていった。
怒り。
悔しさ。
可愛いと言われるたびに笑ってごまかした気持ち。
姫役にされそうになって逃げた情けなさ。
見られることへの抵抗。
見られたい気持ち。
認められたい気持ち。
全部、ぐちゃぐちゃになって、ナオキの方へ。
「ナオキ!」
叫んだ瞬間、俺の意識が遠のいた。
今度は眠気ではない。
落ちるような感覚だった。
暗闇の中で、誰かの声がした。
――役を決められる前に。
――自分で、決めろ。
目を開けた。
だが、動けなかった。
いや、俺ではない。
視点が違う。
俺は、俺のカプセルの中に眠っている自分を見ていた。
違う。
これはナオキの視界だ。
そんな馬鹿なことがあるかと思ったが、なぜかそうわかった。
ナオキの目が開く。
彼女の身体が、カプセルの中でゆっくり起き上がる。
固定具が外れていた。
どうやって外したのかはわからない。
光が消えていく。
玉藻先生が恐る恐る近づいた。
「ナオキちゃん……?」
ナオキはゆっくり顔を上げた。
その目は、さっきまでとは違っていた。
寝ぼけた不安も、戸惑いも消えている。
妙に澄んでいて、妙に堂々としている。
ナオキはカプセルから降りた。
裸足で床に立つ。
白い制服の裾が揺れる。
彼女は研究室を見回した。
そして、静かに笑った。
「わかった」
玉藻先生が後ずさる。
「何が、かしらぁん?」
「私は、学園を征服するために生まれたのだ」
沈黙。
美咲がぽかんとした。
「……はい?」
玉藻先生の顔から血の気が引いた。
「失敗したわねぇん」
「言い方!」
美咲が叫んだ。
ナオキは悠然と歩き出した。
タロウくん1号と2号が反応する。
『ナオキサン、タイチョウハ』
「悪くない」
ナオキはロボットの顎に指を当てる。
ロボットに顎があるのかは微妙だが、たぶんその辺を触った。
「君たち、私の部下になれ」
『ブカ』
『ブカトハ』
「命令を聞く者だ」
『リョウカイ』
タロウくん1号と2号が同時に敬礼した。
美咲が叫ぶ。
「了承早っ!」
玉藻先生が操作盤へ走る。
「タロウくんたち、命令上書き! 所有者権限、玉藻妖狐!」
だが、モニターには赤い文字が出る。
『所有者権限、現在:時雨ナオキ』
「なんでぇ!?」
玉藻先生が本気で驚いている。
ナオキは笑った。
「可愛いものは、私の味方をするらしい」
「ロボットは可愛くないと思う!」
美咲の突っ込みが響く。
ナオキは玉藻先生を見た。
「妖狐先生」
「な、なぁに?」
「この研究室、悪くない。だが狭い」
「結構広いわよぉん」
「私の舞台には足りない」
「舞台?」
「そうだ」
ナオキは研究室の中央に立ち、片手を胸に当て、もう片方の手を高く掲げた。
その姿は、芝居がかっていた。
だが、不思議と似合っていた。
俺がやったら絶対に自分で恥ずかしくなって途中でやめる動きだ。
でもナオキは、ためらいなくやる。
「鏡星学園は、私がもらう」
モニターが勝手に起動した。
研究室の各所に設置された画面が、一斉にナオキの姿を映す。
玉藻先生が青ざめる。
「まさか、学園放送システムに接続してる?」
「している」
「いつの間に!?」
「さっき」
「可学反応でシステム侵入してるわぁん……」
美咲が頭を抱えた。
「何それ、どういうこと?」
「簡単に言うと、ナオキちゃんが玉藻先生の研究室を乗っ取った」
「簡単に言っても意味がわからない!」
ナオキはタロウくん1号と2号を従え、研究室の出口へ向かう。
玉藻先生が止めようとした。
「待って、ナオキちゃん。征服はちょっと明日にしない? 今日は準備不足だし」
「征服は思い立った時が吉日だ」
「そんな吉日ないわよぉん!」
ナオキは振り返り、にっこり笑った。
「先生、協力してくれたことには感謝する」
「協力というか事故というか」
「だから、今回は見逃してあげる」
「見逃す?」
ナオキが指を鳴らした。
タロウくん2号が玉藻先生の背後に回る。
「え、ちょっと、タロウくん?」
『スミマセン、ヨウコサマ』
「待って、あたしのロボットでしょぉん!?」
タロウくん2号は、なぜか玉藻先生の白衣の背中に「反省中」と書かれたステッカーを貼った。
玉藻先生はその場に崩れ落ちた。
「ひどいわぁん……」
ひどいのはそこか。
美咲がナオキに駆け寄ろうとする。
「ナオキちゃん、待って!」
ナオキは美咲を見る。
さっきまでの柔らかい表情が、一瞬だけ戻った。
「美咲」
「何してるの。こんなの、直樹が困る」
「直樹はいつも困ってる」
「そうだけど!」
「だから、私が決める」
ナオキの目が少し鋭くなる。
「押しつけられる前に。笑われる前に。見られるだけの役になる前に。私が、舞台ごと奪う」
美咲は言葉を失った。
その言葉は、急に冗談ではなくなった。
ナオキは笑っていた。
でも、その奥には何かがあった。
怒りに近いもの。
寂しさに近いもの。
俺がずっと見ないふりをしてきたもの。
俺はまだカプセルの中で眠っている。
でも、その声だけは、なぜか聞こえていた。
ナオキは再び背を向ける。
「行くぞ、タロウくん」
『リョウカイ』
『ガクエンセイフク、カイシ』
「言い方が物騒!」
美咲の声を背に、ナオキは研究室の出口へ向かった。
扉が開く。
冷たい廊下の光が差し込む。
ナオキの姿が、その向こうへ消える。
研究室に残されたのは、美咲、玉藻先生、そして眠ったままの俺だった。
次に俺が目を覚ました時、まず見えたのはカプセルの天井だった。
「……ん」
頭が重い。
身体も重い。
でも、手足の固定は外れている。
俺はカプセルから這い出た。
文字通り、這い出た。
膝に力が入らない。
研究室の床は冷たかった。
「寒い……」
最初に出た感想がそれだった。
世界征服より寒さが先に来るあたり、俺は俺だと思う。
「直樹!」
美咲が駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんはやめて」
「ここどこ」
「玉藻先生の研究室」
「最悪だ」
「それは最初から」
俺は周囲を見た。
研究室は散らかっていた。
モニターのいくつかが割れている。
コードが床に転がっている。
タロウくんたちはいない。
玉藻先生は床に倒れていた。
白衣の背中に「反省中」と書かれたステッカーが貼られている。
「……何があった」
俺は聞いた。
美咲が困った顔をした。
「簡単に言うと」
「簡単に言ってくれ」
「ナオキちゃんが、学園征服を始めた」
俺は黙った。
何を言っているのかわからなかった。
いや、言葉の意味はわかる。
だが、内容が理解できない。
「……寝起きにそういう冗談はきつい」
「冗談じゃない」
「じゃあ夢か」
「現実」
「帰りたい」
「どこへ?」
「こたつ」
「今それどころじゃない」
「俺にとっては常にそれどころだ」
その時、研究室のメインモニターが勝手についた。
ざざっ、とノイズが走る。
画面に、ナオキの姿が映った。
彼女はどこかの広い部屋にいた。
たぶん、玉藻先生の別施設か、学園の放送室か、その中間くらいの危険な場所。
背後にはタロウくん1号と2号が控えている。
ナオキは、俺と同じ顔で、俺なら絶対にしないような堂々とした笑みを浮かべていた。
『聞こえるか、鏡星学園』
スピーカーから声が響く。
俺は固まった。
美咲も固まった。
床の玉藻先生が、薄目を開けた。
「あらぁん……やっぱり放送システム、取られてるわぁ……」
「先生、寝てる場合じゃないですよ」
「失敗した実験の後は、少し寝たいのよぉん」
モニターの中で、ナオキは高らかに宣言した。
『私は時雨ナオキ。今日から、この学園の役は、私が決める』
胸の奥が、いやな形で跳ねた。
ナオキの言葉は冗談みたいなのに、冗談だけではなかった。
『鏡星学園は、私がもらう』
画面が切れた。
研究室に沈黙が落ちる。
俺はゆっくりと床に座り込んだ。
寒い。
眠い。
頭が痛い。
そして、俺の片割れが学園征服を宣言した。
「……美咲」
「何?」
「今日、学校休んでいいか?」
「もう手遅れよ」
玉藻先生が床から顔だけ上げて、弱々しく笑った。
「直樹ちゃん」
「何ですか」
「先生、ちょっとだけ思うの」
「聞きたくないです」
「相談相手、間違えたかもしれないわぁん」
「最初からです!」
俺の叫びが、地下研究室に虚しく響いた。
遅刻から始まった一日は、ついに学園征服まで来てしまった。
どうしてこうなったのか。
答えは簡単だ。
玉藻先生に相談してはいけなかったのだ。




