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第2話 俺と私と幼馴染

 階下から、玄関ドアの開く音がした。


 がちゃり。


 そして、遠慮という概念を生まれる前に置き忘れてきたような声が響く。


「直樹ー! いるんでしょ!」


「いるけど入るな!」


 俺は二階の自室から叫んだ。


 無駄だった。


 足音はすでに廊下を進んでいる。


 佐藤美咲は、そういう女だ。


 幼馴染という言葉を、家宅侵入許可証か何かだと思っている。


 家が隣。


 親同士も顔見知り。


 小さいころは互いの家を行き来していた。


 その結果、美咲は俺の家の構造を、たぶん俺の親より把握している。


 鍵の隠し場所も知っている。


 裏口の建てつけが少し甘いことも知っている。


 二階のベランダに、隣家の物置を足場にすれば無理やり届くことも知っている。


 つまり、非常に危険な幼馴染だ。


「入るなって言っただろ!」


 俺は階段の上から身を乗り出した。


 美咲はすでに玄関で靴を脱いでいた。


 制服姿のまま、バッグを肩にかけ、腕まくりをしている。


 髪は後ろで軽く結んでいて、いかにも「今から人を叱ります」という顔をしていた。


「鍵、開いてたじゃない」


「開いてたら入っていい法律はない」


「直樹の家は例外」


「そんな特区は存在しない」


「細かいこと言わないの。あんた、学校どうしたのよ」


「行こうとした」


「過去形なのがもう怪しい」


「途中までは行った」


「途中で何したの?」


「……事故に遭った」


 美咲の目つきが変わった。


 怒っていた顔から、少しだけ心配する顔になる。


「事故?」


「ああ」


「大丈夫なの?」


「身体は無傷だ」


「身体は?」


 まずい。


 今の言い方はよくなかった。


 美咲は階段を上り始めた。


「ちょっと見せなさい」


「見せるものはない」


「怪我してるかもしれないでしょ」


「してない」


「じゃあ、なんで学校来てないの」


「それは、まあ、人生にはいろいろある」


「ない。高校二年生の平日昼にあるべきものは、授業だけ」


「つまらない人生観だな」


「あんたの人生観がこたつに寄りすぎてるの」


 美咲は階段を上がり切った。


 俺は廊下に立ちふさがった。


 自室のドアは背後。


 その部屋の中には、こたつ。


 そのこたつの中には、もうひとりの俺。


 いや、今はナオキということにした、俺そっくりの少女が隠れている。


 人生でここまで「部屋に入られたくない」と思ったことはない。


「そこ、どいて」


「嫌だ」


「なんで」


「プライバシー」


「直樹に?」


「俺にもある」


「部屋に変なものでもあるの?」


「ない」


「じゃあ入っていいじゃない」


「ないからこそ入る必要もない」


「論理が変」


「今日の俺は全体的に変だ」


「それはいつも」


「さらっとひどいな」


 美咲はじっと俺を見た。


 その目が細くなる。


 あ、まずい。


 幼馴染の観察眼が作動した。


 美咲は俺の顔、髪、制服、足元、背後のドアを順番に見る。


「……ねえ」


「なんだ」


「誰かいるでしょ」


「いない」


「今、即答した」


「即答できるくらいいない」


「じゃあ、なんであんたの部屋から物音がするの?」


 俺は背後を振り返りそうになった。


 しなかった。


 偉い。


 今の俺はかなり偉い。


「物音なんてしてない」


「した」


「家鳴りだ」


「こたつの中から家鳴りする?」


「うちの家は個性的なんだ」


「個性的なのは住人だけで十分」


 美咲は俺の肩越しにドアを見た。


 その瞬間。


 部屋の中から、こつん、という音がした。


 たぶん、ナオキがこたつの中でどこかを蹴った。


 俺の中で何かが終わった。


 美咲の表情が笑顔になった。


 怖い笑顔だった。


「直樹」


「何だ」


「どいて」


「嫌だ」


「どかないなら、実力行使」


「幼馴染に対して暴力はよくない」


「日頃の行いを考えなさい」


「俺、そんなに悪いことしたか?」


「午前中サボった」


「低血圧だ」


「配役会議から逃げた」


「正当防衛だ」


「部屋に誰か隠してる」


「冤罪だ」


 美咲はため息をついた。


「最後だけは今から確認する」


 美咲の手が伸びる。


 俺はそれを止めようとした。


 だが、美咲は運動部だ。


 動きが速い。


 しかも俺の弱点を知っている。


 彼女は一歩踏み込むと、俺の横腹を人差し指でつついた。


「うりゃ」


「うひゃっ!?」


 変な声が出た。


 非常に不本意な声だった。


「相変わらず弱い」


「卑怯だぞ!」


「弱点を放置してる方が悪い」


 その隙に、美咲は俺の横をすり抜けた。


「待て!」


 俺は腕を伸ばしたが、遅い。


 美咲の手が自室のドアノブにかかる。


「開けるよ」


「開けるな!」


「開ける」


 がちゃ。


 ドアが開いた。


 俺の部屋は、いつも通りだった。


 カーテンは閉まっている。


 本棚には漫画と小説が詰まっている。


 床には脱ぎっぱなしの靴下が一足ある。


 机には空のマグカップ。


 中央には、俺の冬の聖域であるこたつ。


 ぱっと見、誰もいない。


 俺は一瞬だけ勝利を確信した。


 ナオキ、意外と隠れるのがうまい。


 さすが俺。


 いや、さすがではない。隠れている時点で終わっている。


 美咲は部屋の中央まで入ると、ぐるりと見回した。


「誰もいないじゃない」


「だから言っただろ」


「でも怪しい」


「なぜだ」


「あんたの顔が怪しい」


「顔だけで有罪にするな」


「あと、マグカップが二つある」


 俺は机を見た。


 あった。


 二つあった。


 俺の分とナオキの分。


「……二杯飲んだ」


「どれだけ紅茶好きなの」


「紅茶は命」


「じゃあ、片方のカップに口紅みたいなのがついてるのは?」


「…………」


 俺は黙った。


 ナオキ。


 おまえ、そんなところまで女子化していたのか。


 いや、正確には口紅ではない。たぶん唇の色が残っただけだ。


 だが、今の俺にそれを説明する余裕はない。


 美咲はさらに部屋を見回す。


 俺は必死で話題を逸らした。


「それより、学校はどうした。美咲こそサボりじゃないのか」


「昼休みに抜けてきたの。あんたを回収して、五時間目に間に合わせるため」


「俺は荷物か」


「今のところ荷物より扱いが面倒」


「ひどい」


「で、誰を隠してるの?」


「隠してない」


「ふーん」


 美咲はこたつの前で足を止めた。


 俺の心臓が、体育館のドラムみたいに鳴った。


 美咲は俺を見る。


 俺は笑った。


 たぶん、すごく不自然だった。


「こたつ、あったかそうね」


「入るな」


「なんで」


「俺の聖域だから」


「昔から普通に入ってるでしょ」


「今日は定休日」


「こたつに定休日はない」


 美咲はこたつ布団に手をかけた。


 俺は反射的に叫んだ。


「待て!」


「やっぱり何かいるのね」


「いない!」


「じゃあ見る」


「見るな!」


「どっちなのよ」


 美咲はためらいなく布団をめくった。


 そして。


 こたつの中から、俺と同じ顔をした少女がこちらを見上げていた。


 ナオキは、こたつの中で膝を抱えていた。


 顔だけ出している。


 目が合った。


 美咲と。


 ナオキが小さく言った。


「……こんにちは」


 美咲の表情が、ゆっくり変わった。


 まず、疑問。


 次に、理解不能。


 そして、完全な混乱。


「…………」


「美咲?」


 俺が呼んだ。


 美咲はこたつの中のナオキを見た。


 次に俺を見た。


 またナオキを見る。


 もう一度俺を見る。


「…………」


「落ち着け」


「きゃあああああああああああああ!」


 悲鳴が部屋に響いた。


 そして、美咲はそのまま後ろへ倒れた。


「美咲!」


「気絶した!」


 俺とナオキは同時に叫んだ。


 同じタイミング。


 同じ声の高さではないけれど、言い方がほぼ同じだった。


 俺はそれどころではなく、美咲を支えようとした。


 が、間に合わなかった。


 美咲は床にぺたんと座り込むように倒れた。


 幸い、頭は打っていない。


 たぶん。


「どうする?」


 ナオキがこたつから這い出てきた。


「起こす」


「水?」


「いや、まず様子を見る」


「保健室?」


「家だぞここ」


「玉藻先生?」


「絶対呼ぶな」


 俺は美咲の頬を軽く叩いた。


「おい、美咲。起きろ」


「……ん」


「大丈夫か」


「……直樹が」


「ああ」


「……二人」


「見たものは忘れろ」


「無理」


 美咲はゆっくり目を開けた。


 そして、目の前にいたナオキを見て、もう一度固まりかけた。


 俺は慌てて言う。


「深呼吸しろ。吸って、吐け。これは現実だ」


「現実ならもっと嫌なんだけど」


「俺も嫌だ」


「なんで直樹が二人いるの」


「俺が聞きたい」


 美咲は床に座ったまま、もう一度二人を見比べた。


 俺。


 ナオキ。


 俺。


 ナオキ。


 そして、ゆっくり口を開く。


「……双子?」


「違う」


 俺とナオキが同時に答えた。


 美咲は眉をひそめる。


「息ぴったりじゃない」


「やめろ」


「やめて」


 また被った。


 非常に嫌なシンクロだ。


 美咲は額を押さえた。


「えっと、待って。整理する。あんたは直樹」


「そうだ」


「で、こっちも直樹?」


 ナオキは少し迷ってから答えた。


「たぶん」


「たぶんって何」


「私にもよくわからない」


「私?」


 美咲が反応した。


 ナオキは少しだけ気まずそうに視線をそらす。


「さっきから、そうなる」


「元は俺だったはずなのに、こいつ一人称が私なんだよ」


 俺が説明すると、美咲はまた俺たちを見比べる。


「顔は同じなのに、確かにちょっと違う」


「違うだろ」


「直樹の方が、いつも通り不機嫌」


「第一印象がそれか」


「ナオキちゃんの方は、ちょっと素直そう」


「ちゃん付けするな」


「だって女の子でしょ」


 ナオキは自分の胸元や手を見下ろして、小さくうなずいた。


「たぶん、今は」


「今はって怖いわね」


「俺も怖い」


「それで、何があったの?」


 美咲は立ち直るのが早い。


 非常に早い。


 普通なら、もう一度気絶してもおかしくない状況だ。


 なのに彼女は、すでに事情聴取モードに入っている。


 俺は床に座り、こたつに背中を預けた。


 ナオキも向かいに座る。


 美咲は俺たちの間に座った。


「最初から話して」


「長くなるぞ」


「学校の配役会議より大事そうだから聞く」


「それはどうも」


 俺は今日起きたことを話した。


 朝起きられなかったこと。


 美咲から電話が来たこと。


 姫役にされそうだと聞いて学校へ向かったこと。


 途中で空から光る何かが落ちてきたこと。


 直撃したこと。


 気づいたら自分そっくりの少女が倒れていたこと。


 それを連れて逃げたこと。


 家に戻って紅茶を飲ませたこと。


 その少女が自分を時雨直樹だと名乗ったこと。


 仮にナオキと呼ぶことにしたこと。


 話している途中、美咲は何度も口を開きかけ、閉じた。


 さすがの彼女も突っ込みどころが多すぎたらしい。


 最後まで聞いたあと、美咲は腕を組んだ。


「つまり」


「つまり?」


「直樹が二人になって、片方が美少女になったってことね」


「納得するな!」


 俺は叫んだ。


「そこはもっと混乱しろ! 人として!」


「したわよ。さっき悲鳴あげて気絶したじゃない」


「足りない」


「混乱にも体力がいるの。あんたと違って、こっちは午前中ちゃんと学校行ってるのよ」


「俺だって行こうとはした」


「結果がこれでしょ」


 美咲はナオキを見た。


 ナオキはこたつに手を入れ、少しだけぬくぬくしている。


「……本当に直樹なんだ」


「たぶん」


「記憶は?」


「ある。美咲が小三の時、遠足のおやつを全部チョコ系にして、バスで気持ち悪くなったことも覚えてる」


「言わなくていい!」


 美咲が顔を赤くした。


 ナオキは少し笑った。


「あと、小五の時、直樹の髪に勝手にリボンつけて写真撮った」


「それも覚えてる」


 俺が低い声で言うと、美咲は明後日の方向を向いた。


「あれは若気の至り」


「小五で若気を使うな」


「可愛かったんだから仕方ないじゃない」


「仕方なくない」


 ナオキが、ふと美咲を見つめた。


 その視線に、美咲が気づく。


「なに?」


「いや」


 ナオキは少し首を傾げた。


「よく見ると、美咲って可愛いんだな」


 部屋の空気が止まった。


 美咲は目を丸くした。


 俺も固まった。


 ナオキだけが、何をそんなに驚くのかわからないという顔をしている。


「……え?」


 美咲が小さく言った。


「運動してるから姿勢がいいし、目もはっきりしてる。髪を結んでるのも似合ってる」


「え、え、何? 急に何?」


「思ったから言った」


 ナオキはあっさりしていた。


 美咲の顔がじわじわ赤くなる。


 そのあと、彼女は両手を腰に当てて、得意げに笑った。


「ふふん。ナオキちゃん、見る目あるじゃない」


「ちゃん付けはやめろって」


 俺が言うと、美咲はにやっとした。


「直樹は一回も言ったことないのにねぇ」


「何を」


「私が可愛いって」


「言う必要がないだろ」


「ほら出た。そういうところ」


「どういうところだよ」


「照れると理屈で逃げるところ」


「照れてない」


「照れてる」


「照れてない」


「耳赤い」


 俺は反射的に耳を隠した。


 美咲が勝ち誇る。


「ほら」


「寒いだけだ」


「部屋あったかいけど」


「精神的に寒い」


「便利な寒さね」


 ナオキが俺を見る。


 その目が、少しだけ不思議そうだった。


「言えばよかったのに」


「何を」


「美咲が可愛いって」


「言えるか、そんなこと」


「どうして?」


「どうしてって……」


 言葉が詰まった。


 どうして。


 そんなこと、考えたこともなかった。


 美咲は幼馴染だ。


 家が隣で、小さいころから一緒で、俺の部屋にも平気で入ってくる。


 今さら可愛いとか、似合ってるとか、そんなことを口に出す関係ではない。


 そう思っていた。


 でも、ナオキは言った。


 俺と同じ記憶を持っているはずなのに、自然に言った。


 思ったことを、そのまま。


 胸の奥が、少しだけざわついた。


 美咲が俺たちを見比べる。


「似てるけど、違うね」


「そりゃ身体が違うからな」


「そうじゃなくて」


 美咲はナオキを指差した。


「ナオキちゃんの方が、ちょっと素直」


「俺だって素直だ」


「どこが?」


 即答だった。


 慈悲がない。


「少しは考えろ」


「考えても同じ答え」


「ひどい幼馴染だ」


「いい幼馴染でしょ。ちゃんと本当のこと言ってる」


 ナオキが小さく笑った。


「美咲は、昔からそうだな」


 その言い方が、俺より少し柔らかかった。


 美咲は一瞬だけ黙る。


 そして、少し照れたように髪を指でいじった。


「……ほんとに直樹の記憶あるんだね」


「ある」


「じゃあ、私のことも知ってる?」


「知ってる。朝起こしに来るとき、だいたい一回目は怒鳴って、二回目は布団をはがす」


「正解」


「小さいころ、秘密基地を作るって言って、隣の空き地に段ボールの家を作った」


「懐かしい」


「その日の夕方、雨で崩れた」


「悲しかった」


「美咲は泣いた」


「泣いてない」


「泣いた」


「直樹も泣いた」


「泣いてない」


 今度は俺が反論した。


 美咲とナオキが同時にこっちを見る。


「泣いてた」


「泣いてたな」


「二対一はずるい」


 自分の分身に思い出で攻撃される日が来るとは思わなかった。


 美咲は少し笑って、それから真面目な顔になった。


「で、これからどうするの?」


 部屋の空気が少し変わった。


 笑ってごまかせない問題だ。


 俺は腕を組んだ。


「まず、親にはバレたくない」


「そりゃそうね」


「学校にもバレたくない」


「それは無理じゃない?」


「なぜ」


「もう午前中、学校サボってる。午後も行かなかったら、先生から連絡来るでしょ」


「……終わった」


「早い」


 ナオキが小さく手を挙げた。


「私もここにいると、直樹の家族に見つかる」


「そうだ」


「お風呂とか、ご飯とか、寝る場所とか、どうするの?」


「現実的な問題を出すな」


「出さないと困る」


 その通りだった。


 ナオキは、突然現れた謎の分身だ。


 だが、目の前にいる以上、生活が必要だ。


 食べる。


 眠る。


 風呂に入る。


 服もいる。


 身分はない。


 学校には存在しない。


 家族に説明できない。


 問題しかない。


 俺は頭を抱えた。


「俺の人生、急に難易度上がりすぎだろ」


「元から低血圧で朝起きられないだけでも難易度高めだったけどね」


「美咲、今はそういうのいらない」


「でも、ひとつ解決策はある」


 美咲が言った。


 俺とナオキが同時に顔を上げる。


「うちに来れば?」


「は?」


「私の家。お父さんとお母さん、今週から海外出張。しばらく帰ってこないの」


「聞いてないぞ」


「言ってないし」


「幼馴染の情報共有どうなってるんだ」


「必要な時に言う方式」


「今、必要なのか」


「必要でしょ」


 美咲はナオキを見る。


「ナオキちゃん、うちに来なよ。とりあえず今日だけでも。服も貸せるし、寝る場所もあるし」


 ナオキは少し戸惑った。


「でも、迷惑じゃない?」


「この状況で迷惑かどうか気にするの、直樹より礼儀正しい」


「おい」


「いいの。どうせ隣だし。何かあったらすぐ連絡できる」


「でも」


 ナオキは俺を見た。


 その目は、少し不安そうだった。


 俺と同じ顔なのに、俺が普段しない表情だった。


「行っていいのか?」


「俺に聞くな」


「だって、私は……」


 ナオキは言いかけて、止まった。


 たぶん、言おうとしたのは「私はおまえだから」だ。


 でも、それを口にしなかった。


 俺も、聞かなかったことにした。


「ここにいたら親にバレる。美咲の家にいた方が安全だ」


「直樹は?」


「俺はここにいる」


「一人で?」


「元々一人だ」


「でも、さっきまで二人だった」


「細かいこと言うな」


 美咲はにやにやしながら俺を見た。


「寂しい?」


「寂しくない」


「即答」


「寂しい要素がない」


「自分の分身なのに?」


「だからこそ面倒だ」


 ナオキは少しだけ笑った。


 さっきより、少し安心したように見えた。


「じゃあ、美咲の家に行く」


「決まりね」


 美咲は立ち上がった。


「まず服。さすがにそのまま外出ると目立つか」


「制服同じだから余計に目立つな」


「髪型変える?」


 美咲はナオキの周りをぐるっと回った。


 ナオキは落ち着かない様子で肩をすくめる。


「そんなに見るな」


「ごめん。だって、直樹なのに女の子なんだもん」


「私にもよくわからない」


「可愛い」


 美咲が断言した。


 ナオキは少し顔を赤くした。


「そういうの、言われ慣れてるはずなのに」


「直樹として?」


「たぶん」


「ナオキちゃんとしては?」


「……まだ、慣れてない」


 その言葉に、美咲は少しだけ表情を和らげた。


「そっか」


 俺は黙っていた。


 なんとなく、口を挟めなかった。


 俺は「可愛い」と言われるのが嫌だった。


 今でも嫌だ。


 でも、ナオキはそれを嫌がっているようで、完全には拒んでいないようにも見えた。


 同じ記憶があるのに。


 同じ言葉を受けてきたはずなのに。


 反応が違う。


 その違いが、妙に胸に引っかかった。


「じゃあ、ナオキちゃん。行こ」


 美咲が手を差し出した。


 ナオキはその手を見た。


 少し迷ってから、手を取った。


「よろしく、美咲」


「こちらこそ」


「おい」


 俺は口を挟んだ。


「当たり前みたいに連れて行くな」


「じゃあ、あんたも来る?」


 美咲が言った。


 俺はこたつを見た。


 こたつは温かい。


 外は寒い。


 さらに、美咲の家へ行くには一度外に出なければならない。


 冷静に判断する。


「……俺はここで待機する」


「最低」


「違う。これは戦略的待機だ」


「こたつから出たくないだけでしょ」


「半分正解」


「もう半分は?」


「面倒」


「全部だめじゃない」


 ナオキが少し呆れた顔をした。


「私、本当にこいつから分裂したのか?」


「失礼だぞ」


「でも、少し不安になる」


「自分に言われると腹立つな」


 美咲は楽しそうに笑った。


「じゃあ、直樹はここで待ってて。何かあったら連絡するから」


「変なことするなよ」


「変なことって?」


「着せ替えとか」


 美咲の目が一瞬きらっと光った。


「……しないわよ」


「今の間は何だ」


「しないってば」


「美咲」


「ちょっとだけ」


「やめろ」


「ナオキちゃんが嫌がったらやめる」


 ナオキは少し考えた。


「別に、少しなら」


「おい!」


 俺は叫んだ。


 美咲は勝ち誇った。


「本人の許可が出ました」


「そいつは俺でもあるんだぞ!」


「でもナオキちゃんでしょ」


「そうだけど!」


 言い返せない。


 非常に腹立たしい。


 ナオキは美咲に連れられて部屋を出る前に、こちらを振り返った。


「直樹」


「何だ」


「学校、どうする?」


「……今日はもう無理だろ」


「姫役」


「言うな」


「決まってたら?」


「認めない」


「ちゃんと自分で言いに行くんだな」


 ナオキの言葉は、何気ないものだった。


 でも、少し刺さった。


 ちゃんと自分で言う。


 俺は、それが嫌で逃げていたのかもしれない。


 いや、違う。


 寒かったのだ。


 低血圧だったのだ。


 姫役が嫌だったのだ。


 理由はたくさんある。


 逃げではない。


 たぶん。


「……明日な」


 俺はそう答えた。


 ナオキは小さく笑った。


「明日こたつから出られたら?」


「出る」


「たぶん?」


「絶対」


「今のは少し怪しい」


「うるさい」


 美咲がドアを開けた。


「じゃ、ナオキちゃん借りてくね」


「返せよ」


「気に入ったら返さないかも」


「おい」


「冗談」


 美咲とナオキは部屋を出た。


 階段を降りる足音が聞こえる。


 俺はこたつに入り直した。


 部屋が急に静かになった。


 さっきまで目の前に、自分そっくりの誰かがいた。


 俺と同じ記憶を持っていて、俺と同じ紅茶を飲んで、俺と同じように寒がって。


 でも、俺が言えなかったことを簡単に言うやつ。


 俺が嫌がっていた「可愛い」を、少し違う顔で受け止めていたやつ。


 時雨ナオキ。


「……何なんだよ、本当に」


 俺はこたつに顎まで潜った。


 考えることが多すぎる。


 分裂。


 ナオキ。


 美咲。


 学校。


 姫役。


 玉藻先生。


 あ、玉藻先生には絶対知られてはいけない。


 そう思った瞬間だった。


 外から、美咲の声が聞こえた。


「先生こんにちはー」


 俺は固まった。


 先生?


 嫌な予感しかしない。


 続いて、妙に甘ったるい声が聞こえた。


「あらぁん? 美咲ちゃんに……直樹ちゃん?」


 俺はこたつから飛び出した。


 窓へ駆け寄る。


 カーテンの隙間から外を見る。


 家の前に、美咲とナオキが立っている。


 その前に、白衣の女がいた。


 長い髪。


 無駄に自信ありげな立ち姿。


 冬なのに寒そうな白衣。


 鏡星学園の可学教師。


 玉藻妖狐。


 終わった。


 まだ知られてはいけない相手ランキング堂々一位の人物が、そこにいた。


 玉藻先生はナオキを上から下まで見て、にっこり笑った。


「あらぁん? 直樹ちゃん、今日はずいぶん女の子っぽいわねぇん」


 ナオキが固まった。


 美咲も固まった。


 俺は二階の窓辺で頭を抱えた。


「……終わった」


 今日二度目の終わっただった。


 そして、たぶん本当に終わった。


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