第1話 俺が遅刻したら、俺が増えていた
目覚まし時計というものは、人類の敵だと思う。
少なくとも、冬の朝に限っては敵だ。
じりりりりりりりりり。
小うるさい音が、部屋の空気を乱暴に引っかいた。
俺は布団の中で、まず現実を拒否した。
聞こえない。
これは夢だ。
俺は今、深い森の奥で妖精に歓迎されているかもしれないし、謎の宇宙船で地球代表に選ばれているかもしれない。少なくとも、学校に行かなければならない高校二年生ではない。
じりりりりりりりりり。
音は止まらなかった。
「……うるさい」
布団から片腕だけを出す。
冷たい空気が手首に触れた瞬間、俺は世界を呪った。
冬、許すまじ。
それでも俺は、勇者のように手を伸ばした。目は開けていない。開けたら負けだ。手探りで時計の位置を探り、見つけた瞬間、俺は布団の中から大きく腕を振りかぶった。
「うるさい!」
チョップ。
がつん、といい音がした。
時計は沈黙した。
勝った。
俺は小さな勝利感に包まれ、布団の中で深く息を吐いた。
そして、もう一度寝た。
……寝るな。
寝たら終わる。
学校に遅刻する。
「……んあ」
五秒後、かろうじて残っていた理性が俺の首根っこをつかんだ。
俺は布団から顔だけを出す。部屋の中は薄暗い。カーテンは閉まっている。冬の朝の光なんて、わざわざ歓迎するものではない。俺の部屋は年中、直射日光お断りの方針で運営されている。
枕元のスマホを見る。
八時〇一分。
「……まだいける」
鏡星学園のホームルームは八時四十分開始。
家から学校まで自転車を飛ばせば二十分弱。
理論上は間に合う。
ただし、その理論には重大な欠陥がある。
俺は低血圧だ。
しかも、朝食を食べないと動かないタイプだ。
さらに言えば、食後には紅茶を飲まないと人間としての形が整わない。
起動開始に十分。着替えに五分。朝食に二十分。紅茶に最低十五分。本来なら三十分欲しいが、非常事態につき十五分に短縮する。合計五十分。
つまり、すでに詰んでいる。
「……学校って、なんで朝からあるんだ」
布団の中でそうつぶやいたところで、返事はない。
当たり前だ。部屋にいるのは俺だけだ。
時雨直樹。高校二年。性別、男。
ただし、外見で判断されるとたまに揉める。
いや、たまにじゃない。わりと頻繁に揉める。
俺は昔から女顔だった。
幼稚園ではスカートを履かされ、小学校では「女子の列はあっち」と言われ、中学ではなぜか卒業式の寄せ書きに「直樹ちゃんは最後まで可愛かったです」と書かれた。
俺は男だ。
何度も言うが男だ。
だが世間は、俺が思っているほど俺の主張を尊重してくれない。
顔がいいのは認める。そこはまあ、親に感謝してもいい。問題は、方向性だ。俺の顔は、どういうわけか「かっこいい」ではなく「かわいい」方面へ全力疾走しているらしい。
おかげで入学当初は、男子トイレに入るたびに一瞬静まり返った。
知らない男子に「ここ男子トイレだけど」と言われたこともある。
それで俺は答えた。
「知ってる。だから入ってる」
相手はものすごく気まずそうな顔をした。
俺も気まずかった。
誰も得しない。
鏡星学園は変な学校だ。
図書館がやたらでかい。旧書庫には怪しい未登録資料がある。科学教師は自分を「可学教師」と名乗る。生徒会長はヘリで登校するという噂がある。超能力者らしき生徒もいる。
でも、そんな異常な学校においても、俺の女顔いじりは日常的に発生する。
異常より日常の方がしつこい。人生とはそういうものらしい。
「……起きるか」
俺は身体を起こした。
寒い。
身体を起こしただけで寒い。
布団の中の温度と、部屋の空気の温度差が殺意を持っている。
昨日の夜、俺は深夜配信で「シベリア真冬の心霊ツアー」という番組を見てしまった。タイトルの時点で見るべきではなかった。だが見た。なぜなら深夜テンションだったからだ。
シベリアの廃村で、薄着のレポーターが「今、誰かが私の名前を呼びました」と震えていた。
俺はこたつでぬくぬくしながら「そりゃ寒いから幻聴も聞こえる」と思っていた。
その結果がこれだ。
寝不足。
低血圧。
冬の朝。
役満である。
俺はベッドから這い出て、床に足をつけた。
「つめたっ」
床が冷たい。
なぜ床は床暖房ではないのか。文明はまだ俺の生活に追いついていない。
どうにか制服に着替え、洗面所で顔を洗い、リビングに向かう。
母親はすでに出かけていた。父親も仕事だ。家の中は静かで、台所にはラップをかけた朝食が置かれている。
トースト。
目玉焼き。
サラダ。
そして、メモ。
『遅刻しないように』
「……遅い」
もう遅い。
だが俺は食べる。
一日の始まりは朝食で始まる。たとえ、その一日がすでに敗北から始まっていたとしてもだ。
俺はトーストをかじり、目玉焼きを食べ、紅茶を淹れた。
食後の紅茶は重要だ。
これを省略すると、俺は一日中「人型の眠気」として過ごすことになる。
テレビをつけると、朝の情報番組で星座占いをやっていた。
『今日のてんびん座は、ちょっぴり波乱の一日。思わぬ役回りを押しつけられそう。ラッキーアイテムは、あたたかい飲み物です』
「紅茶飲んでるからセーフ」
俺は占いを信じていない。
信じていないが、この番組の占いはわりと当たる。
さらに言えば、占いを読んでいるアナウンサーのお姉さんがかなりタイプなので、信じたくなる時がある。
人間とは弱い生き物だ。
紅茶を飲み終えた俺は、バッグを肩にかけ、玄関へ向かった。
ドアを開ける。
冬の風が、遠慮なく全身にぶつかってきた。
「さむっ」
俺はドアを閉めた。
なかったことにした。
今のは予行練習だ。
本番ではない。
「……あと五分」
俺はこたつに戻った。
こたつは偉大だ。
人類の発明の中で、こたつはかなり上位に入ると思う。火、車輪、文字、こたつ。これで四天王だ。
こたつに足を入れる。
ぬくい。
世界はまだ捨てたものじゃない。
そのまま俺は、頬杖をついて少しだけ目を閉じた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
そして。
スマホが鳴った。
「んあ?」
俺は顔を上げた。
何分経った?
時計を見る。
十一時五十三分。
「…………」
人間は、本当に絶望すると声が出ない。
スマホは鳴り続けている。
画面を見ると、名前が出ていた。
『佐藤美咲』
幼馴染である。
家は隣。
性格は強い。
俺の生活に対する遠慮はない。
俺は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『何してんの! 早く学校来なさい!』
耳が痛い。
物理的に痛い。
「声量を下げろ。鼓膜にも人権がある」
『あんたに人権を語る資格ある? 午前中まるごとサボってる人間が』
「サボりじゃない。低血圧と冬による複合災害だ」
『聞いたことない災害ね』
「世界が俺を必要としてないなら、今日は休む」
『必要としてるわよ』
「マジか。世界、見る目あるな」
『あんた、クリスマス演劇のお姫様役にされそう』
俺は立ち上がった。
こたつ布団が膝から滑り落ちる。
「今なんて言った?」
『だから、姫役。うちのクラス、クリスマスパーティーで演劇やることになったの。で、ヒロインどうするって話になって』
「そこでなぜ俺が出る」
『うちのクラス一の美人がやるべきだって、男子が言い出した』
「男子全員、今すぐ廊下に並べろ」
『女子もけっこう乗ってる』
「女子も並べろ」
『先生も笑ってた』
「担任も並べろ」
『玉藻先生はたぶん面白がってる』
「最悪じゃねぇか!」
鏡星学園のクリスマスパーティー。
名前だけ聞くと、健全で楽しげな学校行事に思える。
実際は違う。
うちの学園は行事に全力を出しすぎる。全力の方向がおかしい。去年は三年のクラスがプロジェクションマッピング付きの怪談劇をやり、途中で本当に怪異っぽいものが出て生徒会が処理したらしい。
今年、俺のクラスは演劇をやる。
それは知っていた。
今日の五、六時間目に配役やら内容やらを決めるとも聞いていた。
だが、まさか俺がいないところで姫役にされかけているとは。
「俺は男だぞ」
『知ってるわよ』
「姫は女がやるものだろ」
『今どき性別で役を固定するのは古いって、誰かが言ってた』
「そういう正論を俺にだけ都合よく使うな」
『でも似合うとは思う』
「美咲」
『何?』
「おまえも廊下に並べ」
『はいはい。文句があるなら来なさい。本人が来ないから好き勝手言われてるんでしょ』
正論だった。
正論は嫌いだ。
当たるから。
「……今何時間目だ」
『昼休み。五時間目から話し合い再開。急げば間に合う』
「わかった。今から行く」
『本当に?』
「本当に」
『途中でこたつに戻らない?』
「戻らない」
『玄関で寒さに負けない?』
「たぶん」
『たぶんって言った』
「人間に絶対はない」
『いいから来なさい。あんたが来ないと、午後にはドレスのサイズ測られるわよ』
「行く。全速力で行く」
『その言葉、録音したから』
「幼馴染って怖いな」
『今さら?』
通話が切れた。
俺はスマホをポケットに突っ込み、バッグをつかんだ。
こたつが俺を呼んでいる。
だが、ここで負けたら姫になる。
寒さと姫役。
どちらが嫌か。
姫役だ。
俺は玄関を飛び出した。
冬の風が顔に刺さる。
「くそっ、覚えてろ冬!」
意味のない捨て台詞を吐きながら、俺は愛車の自転車にまたがった。
名前はジャガー。
ただのシティサイクルだが、名前はジャガー。
名前負けしていることは自覚している。
ペダルを踏む。
車輪が回り出す。
冷たい風を切って、俺は学校へ向かった。
住宅街は昼前の静けさに包まれていた。
洗濯物がベランダで揺れている。
どこかの家から味噌汁の匂いがする。
小学校の校庭からは、昼休み前のざわめきが聞こえた。
空はやけに青い。
雲ひとつない。
遅刻している人間に限って、世界は健康的に見える。
「……なんで俺が姫なんだよ」
ペダルをこぎながら、ぶつぶつ言う。
確かに俺は女顔だ。
確かに、文化祭で女子にウィッグをかぶせられた時、なぜか拍手された。
確かに、去年の体育祭で女子の先輩に「直樹くん、リボン似合いそう」と言われた。
だが、似合うこととやりたいことは別だ。
勝手に決めるな。
俺は俺だ。
姫じゃない。
そう思った時だった。
視界の端で、何かが光った。
「ん?」
空を見上げる。
青空の真ん中に、きらりと光る点があった。
最初は飛行機かと思った。
だが、動きが変だ。
まっすぐこちらへ近づいてくる。
いや、落ちてきている。
「鳥か?」
鳥にしては光っている。
「ドローンか?」
ドローンにしては速い。
「玉藻先生の実験か?」
一番あり得る。
俺の担任、玉藻妖狐先生は科学教師である。
本人は「可学教師」と名乗っている。
可学とは、可能を科学する学問、らしい。
意味はわからない。
だが、玉藻先生が関わると、わからないことはだいたい起こる。
去年の冬、朝学校に行ったら校舎の一部が消えていたことがある。原因は「可学的空間圧縮の実験」だったと噂されている。噂というか、たぶん事実だ。
光はさらに大きくなる。
まっすぐ俺へ向かっている。
「いや、これ、まずくね?」
俺は反射的にブレーキを握った。
キーッ、と音を立てて自転車が止まる。
その瞬間。
光が落ちた。
「うおっ――」
避ける暇はなかった。
白くて、金色で、少し緑が混ざったような光。
図書館の古い本を開いた時に漏れる埃っぽい光、と言えばいいのか。そんなものを見たことはないが、なぜかそう思った。
胸の奥で、チク、と時計の針が動くような音がした。
次の瞬間、世界がひっくり返った。
自転車のハンドル。
青い空。
道路。
誰かの悲鳴。
光。
全部が混ざった。
俺は地面に叩きつけられる、と思った。
なのに痛みは来なかった。
代わりに、妙に懐かしい夢を見た。
暗い部屋。
こたつ。
紅茶。
小さいころ、美咲に無理やりリボンをつけられて泣いたこと。
中学の時、知らない男子に告白されて、何と言っていいかわからなかったこと。
クラスの女子に「直樹は可愛いからいいよね」と言われて、笑って返したこと。
本当は、よくなかったこと。
そして誰かが、俺の耳元で言った気がした。
――なら、分けてみようか。
「……勝手に分けるな」
自分の声だったのか、夢の中の声だったのかわからない。
そこで意識が途切れた。
目を開けると、空が見えた。
青い空。
雲ひとつない空。
俺は道路に仰向けで倒れていた。
「……生きてる?」
まず自分に確認した。
手を動かす。
動く。
足を動かす。
動く。
頭は痛くない。
身体も痛くない。
不自然なほど無傷だった。
周囲がざわざわしている。
「大丈夫?」
「救急車呼んだ方がいいんじゃない?」
「今の何?」
「光ったよね?」
「爆発?」
「玉藻先生?」
最後のやつ、誰だ。
近所の人たちが集まっていた。小学生らしき子どもも何人かいる。スマホを向けている人もいた。
まずい。
俺は遅刻している。
さらに謎の事故で人だかりの中心になっている。
このままだと確実に面倒になる。
「すみません、大丈夫です。元気です。むしろ元気すぎて困るくらいです」
俺は起き上がった。
その時、周囲の視線が俺ではない方へ向いていることに気づいた。
誰かが指を差している。
「え、あっちにも倒れてる」
「双子?」
「さっきまで一人だったよね?」
「コスプレ?」
嫌な予感がした。
俺はゆっくりと振り向いた。
そこに、俺がいた。
「…………」
いや、正確には、俺にそっくりな誰かが倒れていた。
道路の端。
俺の自転車、ジャガーのすぐそば。
同じ制服。
同じ髪色。
同じ顔。
ただし、少し違う。
髪が俺より少し長い。
体つきが俺より細い。
制服の着こなしも、なんというか、明らかに女子寄りに見える。
倒れているそいつは、俺と同じ顔をしているのに、俺ではなかった。
「……誰だ、あれ」
つぶやいた声が、やけに乾いていた。
自分に似た人間を見るというのは、思っていたより怖い。
鏡ならいい。
写真でもいい。
だが、生身の人間として、目の前に自分がいる。
しかも倒れている。
ホラーだ。
深夜番組より怖い。
そのとき、そいつが小さく動いた。
「ふにゃ……」
寝起きの声だった。
俺と同じだった。
朝の俺の声に似ていた。
いや、俺より少し高い。
周囲がさらにざわつく。
「起きた」
「やっぱり双子?」
「かわいい」
「兄妹?」
「動画撮っていい?」
まずい。
非常にまずい。
このままここにいると、救急車、警察、学校、玉藻先生、全部が来る。
玉藻先生は来るな。
来たら終わる。
俺は本能で判断した。
逃げるしかない。
俺は地面に転がっていた自転車を起こした。
奇跡的に無傷だ。
ジャガー、おまえ強いな。
そして、自分そっくりの少女の肩を揺さぶった。
「おい、起きろ」
「ふにゃ……あと五分」
「俺と同じこと言うな。起きろ」
「寒い……こたつ……」
「こたつは家だ。乗れ」
少女はぼんやり目を開けた。
俺を見た。
眠そうな目が、少しだけ見開かれる。
「……だれ?」
「説明はあとだ。乗れ」
「どこに?」
「俺の自転車の後ろ」
「なんで?」
「なんでもだ!」
俺は少女の腕を引っ張った。
細い。
軽い。
でも、妙に動きが俺と同じでイラつく。
「ちょ、待って、寒い、眠い、状況がわからない」
「俺もだよ!」
周囲から声が飛んできた。
「君たち、大丈夫?」
「病院行った方が――」
「連絡先は?」
「学校の子?」
俺は全力で笑顔を作った。
「大丈夫です! 双子です! いつものことです!」
いつものことなわけがない。
だが、言い切った者勝ちだ。
俺は少女を自転車の荷台に乗せ、自分もサドルにまたがった。
「つかまってろ!」
「え、どこに?」
「俺に!」
「え、嫌なんだけど」
「俺も嫌だ!」
ペダルを踏む。
全力で踏む。
ジャガーは、名前に恥じない勢いで走り出した。たぶん人生で一番速かった。俺の人生も、ジャガーの車生も。
背後で誰かが叫んでいる。
「待って!」
「救急車!」
「双子の子たち!」
「今の動画撮れた?」
知らん。
全部知らん。
俺は住宅街を駆け抜け、角を曲がり、細い路地に入り、さらに曲がった。
背中に、少女の手がしがみついている。
「速い! 寒い! 落ちる!」
「落ちるな!」
「無茶言うな!」
「俺なら落ちない!」
「私もたぶん落ちないけど!」
「なんでそこで自信あるんだよ!」
俺たちは叫びながら走った。
自分と会話しているようで、気持ちが悪い。
でも、完全に同じではない。
声が違う。
言葉の選び方も少し違う。
なのに、反応のタイミングは似ている。
最悪に不気味だった。
家に着いた頃には、俺は息が切れていた。
学校へ行くための体力は、謎の逃走劇で消滅した。
俺は自転車を庭の隅に放り込み、少女の手を引いて玄関に入った。
家には誰もいない。
両親はまだ帰ってこない時間だ。
助かった。
いや、助かっていない。
状況は何一つ助かっていない。
俺は少女を自分の部屋へ連れて行った。
階段を上がり、部屋に押し込み、ドアを閉める。
鍵をかける。
カーテンはもともと閉まっている。
よし。
外部との遮断完了。
俺はこたつの電源を入れた。
少女は当然のようにこたつへ入った。
「ぬくい……」
「くつろぐな」
「寒かったんだから仕方ない」
「それは俺も同じだ」
「じゃあ、入れば?」
「入るに決まってるだろ」
俺もこたつに入った。
ぬくい。
一瞬、すべてを忘れそうになった。
だが、目の前に俺そっくりの少女がいる。
忘れられるわけがない。
「おい」
「なに?」
「キサマは何者だ」
「言い方」
「誰だ、何だ、どこから来た。玉藻先生の刺客か。宇宙人か。俺の偽物か。鏡星学園の新手の嫌がらせか」
「質問が多い」
「答えろ」
「その前に、紅茶」
「は?」
「紅茶が欲しい。頭が起きない」
俺は固まった。
こいつ、わかっている。
寝起きに紅茶が必要だとわかっている。
つまり、俺と同じ習性を持っている。
怖い。
だが、俺も紅茶が欲しかった。
俺は台所へ行き、二人分の紅茶を淹れて戻ってきた。
湯気の立つマグカップを差し出す。
少女は両手で受け取り、ゆっくり飲んだ。
その仕草が、やけに俺っぽかった。
俺も飲む。
温かい。
少しだけ脳が動き始めた。
少女も同じだったらしい。
カップを置き、俺の顔をまじまじと見た。
そして言った。
「誰だおまえ」
「それはこっちの台詞だ!」
俺はこたつを叩いた。
こたつの上のリモコンが跳ねる。
「俺の部屋で、俺のこたつに入って、俺の紅茶を飲んで、誰だおまえとは何だ!」
「私の部屋でもある気がする」
「違う!」
「でも、この本棚の三段目、右から二番目に中学の時に買ったけど途中で読んでない推理小説がある」
「なぜ知ってる」
「その横に、昔の女装写真を隠してる」
「言うな!」
「やっぱりあるんだ」
「誘導尋問か!」
少女は少し目を細めた。
俺も目を細める。
しばらく睨み合った。
顔が同じなので、非常にやりづらい。
「名前を言え」
俺が言うと、少女は当然のように答えた。
「時雨直樹」
「俺も時雨直樹だ」
「じゃあ、どっちかが偽物?」
「おまえだろ」
「なぜ?」
「俺が俺だからだ」
「私も私だけど」
「一人称が違う」
俺はそこを突いた。
「おまえ、さっきから自分のこと『私』って言ってるだろ」
少女は一瞬黙った。
それから、自分の口元に手を当てた。
「……言ってる」
「俺は普段、私なんて言わない」
「たしかに。俺は俺って言う」
「今、俺って言ったな」
「でも、さっきは私って言った」
「どっちだよ」
「わからない」
「不安になるな!」
少女は自分の手を見た。
細い指。
俺の手より少し小さい。
そして、制服の袖を引っ張る。
「……なんか、身体が違う」
「見ればわかる」
「声も違う」
「聞けばわかる」
「顔は同じなのに」
「そこが一番嫌なんだよ」
少女は立ち上がろうとして、こたつ布団に足を引っかけた。
「わっ」
「おい」
俺は反射的に腕を伸ばした。
少女が俺の方へ倒れ込む。
結果、二人してこたつの横へ転がった。
「痛っ」
「重い」
「重くない!」
「いや、同じくらいだろ」
「たぶん違う」
「何が」
言いかけて、俺は気づいた。
近い。
目の前に自分の顔がある。
ただし、微妙に違う。
まつ毛が俺より少し長い。頬の輪郭が柔らかい。髪の感じも違う。
そして、明らかに身体つきが違う。
少女も同じことに気づいたらしい。
顔が赤くなった。
「離れて」
「言われなくても!」
俺たちは同時に飛び退いた。
こたつを挟んで座り直す。
沈黙。
長い沈黙。
俺はゆっくりと言った。
「おまえ……女、なのか?」
少女は自分の身体を見下ろした。
そして、ものすごく困った顔をした。
「……そうらしい。今、ちゃんと気づいた」
「気づくの遅くないか?」
「寝起きだったから」
「それで済む問題か?」
「済まない」
少女は両手で顔を覆った。
「どうしよう」
「俺が聞きたい」
「私は誰?」
「だから、時雨直樹なんだろ」
「でも、そっちも時雨直樹」
「そうだ」
「じゃあ、私は何?」
「……俺に聞くな」
俺は頭を抱えた。
空から落ちてきた光。
直撃。
気絶。
目の前に現れた自分そっくりの少女。
同じ記憶。
同じ習性。
だけど少し違う一人称。
そして女性の身体。
結論。
意味がわからない。
「仮説を立てよう」
少女が言った。
「こういう時に?」
「こういう時だから」
「わかった。言ってみろ」
「空から落ちてきた光のせいで、時雨直樹は二人に分裂した」
「雑」
「片方は元の身体に近い。もう片方は、女性の身体になった」
「さらに雑」
「でも、今のところ一番説明がつく」
俺は黙った。
腹立たしいが、確かに一番説明がつく。
鏡星学園ならあり得る。
玉藻先生ならやりかねない。
旧書庫ならもっと変なこともあり得る。
この世界には、すでにいろいろ前科がある。
「……分裂って何だよ」
俺はつぶやいた。
「俺はスライムか」
「スライムならもっと可愛げがある」
「自分の顔で言うな」
「でも、顔は可愛い方だと思う」
「おい」
「昔から言われてたし」
「俺はそれを言われるのが嫌なんだよ」
少女は俺を見た。
俺も見返した。
同じ記憶があるなら、こいつも知っているはずだ。
可愛いと言われるたびに、俺がどう笑ってごまかしてきたか。
姫役が似合うと言われるたびに、どれだけ面倒だったか。
女装させられて笑われた時、どれだけ恥ずかしかったか。
少女は少しだけ目を伏せた。
「……知ってる」
その言い方が妙に静かで、俺は少し言葉に詰まった。
だが、すぐに現実へ戻る。
「とにかく、おまえを何て呼べばいい」
「時雨直樹」
「俺と同じだと混乱する」
「じゃあ、直樹二号?」
「却下」
「直樹ダッシュ」
「記号っぽい」
「女直樹」
「最悪」
「じゃあ、そっちが直樹で、私は……ナオキ」
「カタカナ?」
「うん。見た目も少し違うし」
「安直だな」
「わかりやすいでしょ」
俺は少し考えた。
確かに、呼び分けは必要だ。
時雨直樹が二人いる状況で、どちらも直樹と呼んでいたら混乱する。
俺が直樹。
こいつがナオキ。
「……じゃあ仮で」
「仮?」
「正式名称じゃない。状況が解決するまでの仮名だ」
「解決するの?」
「する。しないと困る」
「どうやって?」
「……そこはこれから考える」
ナオキは紅茶を飲んだ。
「玉藻先生に聞く?」
「絶対嫌だ」
俺は即答した。
ナオキも即答した。
「私も嫌だ」
「そこは一致するんだな」
「だって、玉藻先生だし」
俺たちは同時にうなずいた。
玉藻先生に知られたら、間違いなく研究対象になる。
分裂した生徒。
男女差のある同一人物。
記憶共有の可能性。
可学反応。
あの人が飛びつかないわけがない。
研究室に連れて行かれ、謎の装置に入れられ、三十分で作った機械で元に戻される未来が見える。
失敗する未来も見える。
「じゃあ、まずは誰にもバレないようにする」
俺は言った。
「美咲には?」
「美咲にも」
「でも、電話してきたんでしょ。学校行かなくていいの?」
「……そうだった」
完全に忘れていた。
俺は姫役を阻止するために学校へ向かっていたのだ。
その途中で分裂した。
俺の人生、脇道にそれすぎだろ。
スマホを見る。
美咲からメッセージが来ている。
『今どこ?』
『もう配役始まるよ』
『まさか寝た?』
『返信しなさい』
『直樹?』
まずい。
非常にまずい。
俺は返信しようとした。
その瞬間。
ピンポーン。
家のチャイムが鳴った。
俺とナオキは同時に固まった。
「……誰?」
ナオキが小声で聞く。
俺はスマホの画面を見た。
さらにメッセージが届く。
『家まで来た』
終わった。
ピンポーン。
もう一度鳴る。
直後、玄関の向こうから声がした。
「直樹ー! いるんでしょ! 開けなさい!」
美咲だ。
俺は青ざめた。
ナオキも青ざめた。
顔が同じなので、青ざめ方も似ている。嫌なシンクロだ。
「どうする?」
ナオキが聞く。
「隠れろ」
「どこに?」
「こたつ」
「また?」
「一番近い」
「雑!」
「今は雑でいい!」
ピンポーン。
ドアがどんどん叩かれる。
「直樹! あんた、まさか本当に家に戻ったの!? 開けなさい!」
俺はナオキをこたつに押し込み、自分は深呼吸した。
落ち着け。
美咲は幼馴染だ。
家が隣で、勝手に入ってくることもある。
つまり、落ち着いても無駄だ。
「……終わった」
俺はそうつぶやきながら、部屋のドアを開けた。
階下から、美咲の声が聞こえる。
「鍵、開いてるじゃない! 入るからね!」
「もう入ってるだろ!」
俺は叫んだ。
この時点で、今日という日は完全に終わっていた。
遅刻したら、俺が増えた。
そして、その増えた俺を、よりによって一番バレてはいけない幼馴染が見つけに来た。
人生には、逃げ場のない場面がある。
俺の場合、それは冬の昼前、自分の部屋のこたつの前だった。




