番外編 美咲の隣にいる二人
幼馴染が二人になった。
そう言うと、たぶん大抵の人は笑う。
何それ、漫画みたい。
夢でも見たんじゃないの。
鏡星学園って、また何か変なことが起きたの。
最後の反応だけは、少し正しい。
鏡星学園では、変なことが起きる。
図書館の奥にしまわれた本が、現実の隙間をこじ開けることがある。
古い物語の残り香が、誰かの願いや不安にくっついて、形を持つことがある。
だから、時雨直樹が二人になった時も、私は驚いたけれど、どこかで納得してしまった。
ああ、鏡星学園なら、そういうこともあるのかもしれない。
普通なら、もっと取り乱すべきだったのかもしれない。
でも、目の前にいたナオキちゃんは、どう見ても直樹だった。
直樹と同じ顔。
直樹と同じ記憶。
でも、直樹より少しだけ目が強くて、直樹より少しだけ言葉がまっすぐで、直樹なら飲み込むことを、普通に口にする子だった。
最初は、本当に大変だった。
こたつの中に、直樹と同じ顔の女の子がいた。
私は悲鳴をあげた。
直樹は説明しようとして、説明に失敗した。
ナオキちゃんは堂々としていた。
玉藻先生は楽しそうだった。
鳴海先輩は冷静だった。
見上さんは「今日の直樹くん、半分」と言った。
何が何だかわからなかった。
それでも、時間は進む。
朝になれば学校へ行くし、昼にはお腹が空くし、放課後には帰り道がある。
直樹が二人になっても、冬の風は冷たい。
コンビニの肉まんはおいしい。
こたつは一度入ると出られない。
そういう日常の強さに引っ張られるように、私たちは少しずつ、二人の時雨に慣れていった。
直樹。
ナオキちゃん。
そう呼び分けることにも、もう迷わなくなってきた。
でも。
慣れてきたからこそ、時々、胸の奥が少しだけきゅっとする。
それは、嫌な痛みではない。
でも、完全に気のせいと言えるほど軽くもない。
その日の放課後、私はナオキちゃんと二人で、鏡星学園の中庭にいた。
冬の中庭は、昼間でも少し寒い。
花壇の土は硬そうで、木々の枝は細く、空は白っぽく曇っている。
けれど、校舎の壁際には日が当たっていて、そこだけ少し暖かかった。
私とナオキちゃんは、ベンチに並んで座っていた。
直樹は職員室に呼ばれている。
理由は、提出物の不備。
直樹らしい。
本人は「提出した。たぶん」と言っていたけれど、その「たぶん」は大抵信用できない。
ナオキちゃんは、自販機で買ったあたたかいココアを両手で持っていた。
私はミルクティー。
缶の温かさが、手のひらにしみる。
「直樹、遅いね」
私が言うと、ナオキちゃんは肩をすくめた。
「どうせ先生に『たぶん出しました』って言って、余計に話が長くなってるんだろう」
「ありそう」
「出したか出してないかを、まず本人が把握してないからな」
「ナオキちゃんは把握してるの?」
「私はしている」
「本当に?」
「たぶん」
「同じじゃない」
私が笑うと、ナオキちゃんも少し笑った。
その笑い方は、直樹に似ている。
でも、同じではない。
直樹は笑う時、少し口元だけで笑う。
面倒くさそうに、でも本当はちょっと楽しそうに。
ナオキちゃんは、もう少しはっきり笑う。
自分が笑っていることを隠さない。
その違いを見つけるたびに、私は少し安心する。
ちゃんと違う。
二人は同じじゃない。
そう思えるから。
でも同時に、少し寂しくなることもある。
直樹の中にあった、私が知らなかったものを、ナオキちゃんが持っているから。
「美咲」
ナオキちゃんが、缶ココアに口をつけたあとで私を見た。
「何?」
「最近、時々変な顔をする」
「変な顔?」
「そう。直樹が面倒なことを言いそうな時みたいな顔」
「それ、どんな顔なの」
「言いたいことがあるのに、言わないで飲み込んでいる顔」
私は黙った。
ナオキちゃんは、こういうところが鋭い。
直樹なら、たぶん気づいても言わない。
あるいは、気づかないふりをする。
面倒だから。
気まずいから。
自分が踏み込まれるのも、誰かに踏み込むのも苦手だから。
でも、ナオキちゃんは言う。
まっすぐ、こちらを見る。
逃げ道を塞ぐようにではなく、ただ、そこにあるものを見るように。
「……そんな顔してた?」
「してた」
「そっか」
私は缶を両手で包んだ。
温かい。
でも、指先が少し冷えている。
言葉にするか迷った。
言わなくてもいいことかもしれない。
言ったら、ナオキちゃんを困らせるかもしれない。
でも、ナオキちゃんは待っている。
急かさずに。
私が自分で言うまで。
「私ね」
声が、思ったより小さく出た。
「直樹のこと、昔から知ってるって思ってた」
ナオキちゃんは、何も言わなかった。
ただ、こちらを見ていた。
「家が隣で、幼稚園の頃から一緒で、小学校も中学も一緒で、鏡星学園でも一緒で」
言いながら、いろいろな場面が浮かんできた。
小さい頃、直樹が転んで泣きそうになったのに、泣いてないと言い張ったこと。
夏休みの宿題を最後まで残して、私に怒られながらやっていたこと。
冬の朝、寒いから学校へ行きたくないと本気で布団に籠城したこと。
クラスの子に「女の子みたい」と言われて、笑って流したあと、しばらく機嫌が悪かったこと。
文化祭の役を押しつけられそうになって、「面倒くさい」とだけ言って逃げたこと。
私は、それを見ていた。
ずっと。
見ていたつもりだった。
「直樹が嫌がってる時も、わかってるつもりだった。ああ、今の言い方は嫌なんだな、とか。今、本当は怒ってるな、とか。今、逃げたいんだな、とか」
ナオキちゃんは、静かに聞いていた。
「でも、ナオキちゃんを見てると、私が知らなかった直樹がいる気がする」
「私が?」
「うん」
私は、少し笑った。
笑わないと、声が震えそうだった。
「直樹が言えなかった怒りとか。直樹が認めなかった可愛さとか。直樹が逃げてた、見られたい気持ちとか。ナオキちゃんは、そういうのを普通に言うでしょ」
ナオキちゃんは、ココアの缶を見下ろした。
「普通、なのかはわからない」
「でも、直樹よりは言う」
「それはそうだな」
ナオキちゃんは、少しだけ口元を緩めた。
「直樹は面倒だからな」
「ナオキちゃんも面倒だけどね」
「私は派手に面倒だ。直樹は湿っぽく面倒だ」
「本人が聞いたら怒るよ」
「怒らせればいい」
ナオキちゃんはそう言ってから、少しだけ黙った。
「……でも、美咲の言いたいことは、たぶんわかる」
「本当?」
「ああ」
ナオキちゃんは、冬の中庭を見た。
風が吹いて、枯れた葉が石畳の上を転がっていく。
「私は、直樹から出てきた。直樹が飲み込んでいたものを、たくさん持っている。怒りも、見られたい気持ちも、可愛いって言われることへの反発も、少しは嬉しい気持ちも」
その言葉を聞くと、胸の奥がまた小さく痛んだ。
ナオキちゃんは、直樹のことを知っている。
直樹自身よりも、ある意味では知っているのかもしれない。
直樹が飲み込んだものを、ナオキちゃんは持っている。
私はそのことが、少し羨ましかった。
たぶん。
私は、直樹の一番近くにいるのは自分だと思っていた。
そんなこと、口にしたことはない。
直樹にも言わない。
自分でも、そんなふうに思っていたと認めるのは少し恥ずかしい。
でも、そうだったのだと思う。
隣の家の幼馴染。
直樹が面倒くさがっても、結局放っておけない相手。
直樹が寒いと言えばマフラーを押しつけて、眠いと言えば起こして、提出物を忘れれば怒る。
私は、直樹の隣にいるのが当たり前だった。
そこへ、ナオキちゃんが来た。
直樹と同じ記憶を持って。
直樹の知らなかった部分を持って。
直樹の中から出てきた、もう一人として。
それで、少しだけ寂しくなった。
自分でも、小さいなと思う。
ナオキちゃんは悪くない。
直樹も悪くない。
それでも、胸がきゅっとする。
「私」
私は、やっと口にした。
「直樹のこと、全部わかってるつもりだったのかも」
言ってしまうと、とても恥ずかしかった。
傲慢だと思った。
誰かのことを全部わかるなんて、そんなことあるわけがない。
でも、幼馴染という長さに甘えて、私はどこかでそう思っていたのかもしれない。
ナオキちゃんは、少し驚いた顔をした。
それから、穏やかに言った。
「全部わからなくていいんじゃないか」
私は顔を上げた。
「え?」
「全部わからなくていい」
ナオキちゃんは、もう一度言った。
「私だって、直樹の全部じゃない。直樹も、私の全部じゃない。美咲が知ってる直樹も、本物だ」
風が止んだ。
そんな気がした。
中庭の音が、少し遠くなる。
ナオキちゃんの言葉だけが、ちゃんと耳に残った。
美咲が知ってる直樹も、本物だ。
「でも」
私は言いかけた。
「私は、ナオキちゃんみたいに、直樹の中にいたわけじゃないし」
「中にいたからわからないこともある」
「そうなの?」
「ある」
ナオキちゃんは缶ココアを両手で包み直した。
「中にあるものは、近すぎる。直樹が何を飲み込んだかはわかる。でも、直樹が外からどう見えていたかは、美咲の方が知っている」
「外から」
「ああ」
ナオキちゃんは私を見る。
「直樹が本当に寒そうな時と、面倒だから寒いと言ってる時の違いとか」
「それはわかる」
「直樹が怒っているけど怒ってないふりをしている時と、本当にどうでもいい時の違いとか」
「それも、たぶんわかる」
「直樹が一人でいたい時と、一人にしてほしいって言いながら誰かにいてほしい時の違いとか」
私は、少し黙った。
それは、わかる気がする。
でも、言葉にされると急に恥ずかしい。
「……ナオキちゃんも、けっこうわかってるじゃない」
「記憶にあるからな。でも、実際にその場で隣にいたのは、美咲だ」
ナオキちゃんは、少しだけ笑った。
「私は、直樹の中から来た。でも、美咲は直樹の隣にいた。その違いは大きい」
胸の奥が、じんとした。
寂しかった場所に、少しずつ温かいものが入ってくる。
「隣にいた」
私が呟くと、ナオキちゃんは頷いた。
「そうだ。美咲が知っている直樹は、直樹が外で生きてきた証拠だ。私はそれを知らない。記憶としては持っていても、美咲の目で見た直樹は知らない」
「私の目で見た直樹」
「だから、全部わからなくていい。全部わからないから、これからも見るんだろ」
その言い方が、なんだかナオキちゃんらしかった。
まっすぐで。
少し乱暴で。
でも、優しい。
私は缶ミルクティーを見下ろした。
もう少し冷めている。
でも、まだ温かい。
「ナオキちゃんは、直樹とは違うね」
「今さらか?」
「うん。今さら」
私は笑った。
「同じ顔で、同じ記憶があって、似てるところもたくさんあるけど、違う」
「当たり前だ。私は私だからな」
「そういうところ、直樹より強い」
「直樹は弱いわけじゃない」
ナオキちゃんは、すぐにそう言った。
私は少し驚いた。
ナオキちゃんは続ける。
「直樹は逃げる。面倒だと言う。寒いと言う。眠いと言う。でも、最後は戻ってくる」
「うん」
「私が消えるかもしれなかった時も、あいつは逃げなかった。怖かったはずなのに」
その声は、少しだけ柔らかかった。
ナオキちゃんは直樹をからかう。
文句も言う。
こたつの席も奪う。
でも、ちゃんと見ている。
直樹が逃げなかったところを。
直樹が言葉にしたところを。
直樹がナオキちゃんを「なかったこと」にしなかったことを。
「そうだね」
私は頷いた。
「直樹、面倒だけど、最後はちゃんと戻ってくるね」
「そういうやつだ」
「ナオキちゃんも?」
「私は最初から突っ込む」
「知ってる」
二人で笑った。
その時、校舎の入口の方から、見慣れた姿が歩いてくるのが見えた。
時雨直樹。
マフラーを巻き、肩を少し丸め、片手にプリントを持っている。
顔は明らかに不機嫌だった。
たぶん提出物の件で、先生にかなり言われたのだろう。
直樹は私たちに気づくと、中庭を横切って近づいてきた。
「寒い」
第一声がそれだった。
私は思わず笑いそうになる。
ナオキちゃんも同じ顔をしていた。
直樹はベンチの前で立ち止まり、私たちを交互に見た。
「何だよ、二人して真面目な顔して。こたつ壊れたのか?」
台無しだった。
本当に、台無しだった。
さっきまでのしっとりした空気が、こたつという単語で一気にほどけた。
私とナオキちゃんは、同時にため息をついた。
「直樹」
「直樹」
「何だよ」
直樹は少し警戒した顔をする。
ナオキちゃんが呆れたように言う。
「おまえは、本当にそういうところだぞ」
私も頷いた。
「うん。そういうところ」
「何がだよ」
「今、結構大事な話してたの」
私が言うと、直樹は眉をひそめた。
「なら続ければいいだろ。俺は寒いから中に入りたい」
「続けられる空気じゃなくなった」
「俺のせいか?」
「だいたい」
「理不尽だ」
直樹はそう言いながら、私たちの間ではなく、ナオキちゃんの隣に座った。
そして、勝手にナオキちゃんの缶ココアを見た。
「それ、まだ温かいか」
「少し」
「よこせ」
「嫌だ」
「俺は職員室で冷えた」
「提出物を忘れた自業自得だ」
「忘れてない。出したと思った」
「出してないから呼ばれたんだろ」
いつものやり取り。
しょうもない。
でも、さっきの話の後だと、そのしょうもなさが少し眩しかった。
直樹がいる。
ナオキちゃんがいる。
二人は言い合っている。
私はその隣にいる。
全部わかる必要はない。
全部知らなくてもいい。
私は、これからも見ていけばいい。
直樹が外で生きているところを。
ナオキちゃんがナオキちゃんとして増やしていく時間を。
二人が似ているところも、違うところも。
私の知らない顔も。
私だけが知っている顔も。
それでいいのだと思った。
私は立ち上がった。
「帰ろうか」
直樹が即座に言う。
「寒いから最短ルートで」
ナオキちゃんも立ち上がる。
「帰りにコンビニ寄ろう」
「最短ルートじゃない」
「肉まんがある」
「……寄るか」
「即落ちだな」
「寒いからだ」
「便利な言い訳だ」
私は笑った。
三人で校門へ向かう。
冬の夕方の空は、少し早く暗くなる。
校舎の窓に灯りがつき始め、運動部の声が遠くから聞こえる。
吐く息は白い。
直樹はマフラーに顔を埋めている。
ナオキちゃんはその横で、ポケットに手を入れて歩いている。
歩幅は似ている。
でも、ほんの少し違う。
直樹は省エネで歩く。
ナオキちゃんは前を見て歩く。
私はその間に少し遅れてついていく。
それから、少し足を速めて二人の横に並んだ。
「ほんと、面倒なのが二人になったわね」
私が言うと、直樹とナオキちゃんが同時に振り向いた。
「「面倒って言うな」」
声が重なった。
顔も似ていた。
眉の寄せ方も同じだった。
一瞬、本当に同じに見えた。
でも、違う。
直樹は少し眠そうで、ナオキちゃんは少し楽しそうだった。
私は笑った。
「そういうところよ」
二人はまた同時に顔をしかめた。
その顔を見て、私は思った。
全部わからなくていい。
でも、これからも隣で見ていたい。
直樹と。
ナオキちゃんと。
面倒で、似ていて、違っていて、たまにこたつみたいに暖かい、二人のことを。




