番外編 鏡星学園・双子入れ替わり事件
鏡星学園において、最も信用してはいけない言葉がある。
ひとつ。
玉藻先生の「ちょっとだけ」。
ふたつ。
玉藻先生の「大丈夫」。
そして、みっつ。
「今回は安全よぉん」
放課後の可学研究室。
白衣を着た玉藻妖狐先生は、満面の笑みでそう言った。
俺こと時雨直樹は、その場で帰ろうとした。
「帰る」
「待ってちょうだぁい」
「安全って言った時点で危険だ」
「ひどいわぁん」
「過去の実績です」
地下研究室は、相変わらず怪しい。
壁には用途のわからない計測機器。
床には光るケーブル。
天井には謎の円形センサー。
中央には、二人分の椅子と、輪っか型のスキャナーがついた装置。
人間が座る場所というより、何かの封印儀式に使う場所に見える。
その椅子の片方に、時雨ナオキが座っていた。
同じ顔。
俺より少しだけ強気な目。
女子制服のジャケットにスラックス、今日はネクタイ。
足を組み、平然としている。
「直樹、逃げるな」
「逃げるだろ」
「安定化チェックだぞ。私たちの現実定着に関わる」
「そういう言い方をされると逃げにくい」
「だから言った」
「性格が悪い」
「素材が同じだからな」
「俺を巻き込むな」
玉藻先生は、楽しそうに端末を操作している。
「今回のチェックは、あくまで幻実因子の安定化確認よぉん。前回みたいに分裂したり、学園征服が始まったり、クリスマス演劇が現実改変しかけたりはしないわ」
「前回までの内容が重すぎる」
「今回は見るだけ。測るだけ。刺激しない。安全、安全」
「先生の安全は、だいたい世間の危険です」
研究室の隅では、鳴海愛生徒会長が腕を組んで立っていた。
黒髪。
落ち着いた表情。
いつものように、場の空気を一段冷静にする人である。
その隣には、椎凪先輩がタブレットを持っている。
完全に監視体制だ。
愛会長は言った。
「今回は生徒会立ち会いのもとで行う。玉藻先生の単独操作は禁止。計測項目も事前に確認した」
「それなら……まあ」
少しだけ安心しかけた。
だが、玉藻先生が言った。
「愛ちゃんがいるから安心ねぇん」
「その安心に先生を含めないでください」
愛会長が即答した。
俺はため息をつき、もう片方の椅子に座った。
頭上の輪っか型センサーが低い音を立てて降りてくる。
ナオキの上にも同じ装置。
俺たち二人の間に、淡い光の線が走る。
猫鈴バンドほど可愛くはない。
むしろ、病院と魔法陣を足して割ったような感じだ。
「直樹」
ナオキが横から言う。
「何だ」
「緊張してるのか?」
「してる」
「正直だな」
「玉藻先生の装置の前で緊張しない人間は、危機感がない」
「それはそうだ」
ナオキも頷いた。
玉藻先生は聞こえていないふりをしている。
「それじゃあ、始めるわよぉん。直樹ちゃん、ナオキちゃん、力を抜いて。幻実因子の相互干渉、現実定着値、周囲認識タグ、身体像補正、ぜんぶ軽く見るだけだから」
「今、周囲認識タグって言いました?」
俺が聞くと、玉藻先生はにっこり笑った。
「言ったわよぉ」
「その単語、嫌な予感しかしないんですが」
「大丈夫。見るだけ」
愛会長が言う。
「玉藻先生。設定値を確認します」
「はいはい。刺激値ゼロ。補正値ゼロ。認識タグは読み取り専用。書き換えなし」
椎凪先輩が端末を見る。
「数値上は問題ありません」
数値上。
その言葉は信用できるようで、信用できない。
鏡星学園では、数値上問題ないものほど、現象的に問題を起こすことがある。
だが、もう始まってしまった。
装置が低く唸る。
俺の視界の端に、薄い光が走った。
ナオキの輪郭が、少し揺れる。
いや、実際に揺れたのではなく、俺の認識が揺れたような感じだ。
自分の手を見る。
いつもの手。
身体に変化はない。
隣のナオキも、同じ椅子に座っている。
身体が入れ替わったわけではない。
それなのに。
研究室の空気が、微妙にずれた。
「……先生」
愛会長の声が少し低くなる。
「はい?」
「認識タグに干渉が出ています」
「あらぁん?」
椎凪先輩がタブレットを操作する。
「読み取り専用のはずの周囲認識タグが、相互参照しています。直樹くんとナオキさんのラベル情報が……入れ替わりました」
「入れ替わった?」
俺は椅子から立ち上がった。
身体は俺のままだ。
制服も俺の男子制服。
手も足も俺。
ナオキはナオキの身体のまま。
なのに、椎凪先輩は俺を見る目で、ほんの少し戸惑った。
「……ナオキさん?」
「俺は直樹です」
言った瞬間、嫌な沈黙が落ちた。
ナオキがこちらを見た。
「まさか」
愛会長が冷静に言う。
「本人たちの身体、意識、記憶は変化なし。ただし、周囲の認識ラベルが入れ替わっている。現時点では、周囲から見ると、直樹がナオキに、ナオキが直樹に見えている可能性が高い」
「最悪だ」
俺は即座に言った。
玉藻先生は目を輝かせた。
「すごいわぁん! 身体変換なしの認識ラベル入れ替わり! これは貴重な――」
「玉藻先生」
愛会長が静かに名前を呼んだ。
玉藻先生は一瞬で黙った。
ナオキは立ち上がり、研究室の鏡を見た。
「私は私に見える」
「俺も俺に見える」
「でも、周りには逆に見えるのか」
「らしいな」
「面白い」
「面白くない」
俺は頭を抱えた。
ナオキは少し楽しそうだった。
その顔が、すでに腹立たしい。
愛会長は端末を操作しながら言った。
「校内全体へ認識効果が波及している可能性がある。解除には少し時間が必要だ。玉藻先生、原因は?」
「ええっとぉ、二人の現実定着値が想定より安定してたから、逆に外部ラベルだけが軽く浮いちゃったみたいねぇん」
「簡潔に」
「中身と身体は固定。名札だけ入れ替わった感じ」
「最初からそれでお願いします」
「ごめんなさい」
愛会長は俺たちを見る。
「解除まで、二人は不用意に校内を歩かない方がいい」
その瞬間、研究室の扉が開いた。
クラスメイトのひとりが顔を出した。
「あ、いた。ナオキちゃん、先生が呼んで――」
目が合った。
相手は俺を見ていた。
男子制服の俺を見て、完全にナオキだと認識していた。
そして、明るく言った。
「ナオキちゃん、今日ちょっと眠そう?」
ぶち。
俺の中で何かが切れた。
「俺は直樹だ!」
クラスメイトはびくっとした。
「え? え、ナオキちゃん?」
「ちゃんをつけるな!」
「え、でも、ナオキちゃんだよね?」
「違う!」
「今日なんか声低くない?」
「元からだ!」
ナオキが隣で笑っている。
俺は振り向いた。
「笑うな」
「いや、これは笑う」
「おまえが原因の半分だぞ」
「半分はおまえだ」
「そんな半分いらない」
クラスメイトは困惑したまま、今度はナオキを見た。
「えっと、直樹?」
ナオキは一瞬だけ目を丸くして、それから胸を張った。
「ああ、直樹だ」
「名乗るな!」
俺は叫んだ。
ナオキは完全に楽しんでいる。
愛会長がため息をついた。
「事態収拾まで、二人の外出は制限する」
だが、遅かった。
その日は運悪く、次の時間に体育の補習確認があった。
しかも、対象は直樹とナオキの両方。
理由は、前回の幻実騒動で欠席扱いが発生していた分の振替確認。
つまり、逃げられない。
愛会長は一度止めようとしたが、体育担当の先生が「短時間の確認だけだから」と言い、玉藻先生が「自然環境での認識ラベル反応も見たいわぁん」と余計なことを言った。
結果。
俺はナオキとして扱われる状態で、教室へ戻る羽目になった。
地獄だった。
廊下を歩くだけで、声が飛んでくる。
「あ、ナオキちゃん」
「ナオキちゃん、今日男子制服なんだ?」
「かっこいいね」
「でも眠そう」
「直樹っぽい顔してる」
直樹だよ。
俺は心の中で叫んだ。
だが、外からはナオキに見えているらしい。
しかも、男子制服を着ているナオキという扱いなので、周囲の反応が微妙にややこしい。
ナオキが制服を選んだ日と似ている。
だが、あの時はナオキが自分で選んで着ていた。
今の俺は違う。
俺は俺の制服を着ているのに、周りにナオキとして見られている。
自分の身体と、周囲のラベルが合わない。
気持ち悪い。
何より、勝手に「ナオキちゃん」と呼ばれるたびに、肩のあたりがむずむずする。
女子扱いそのものが嫌なのではない。
俺ではない名前で、俺ではない反応を期待されることが嫌だった。
似合うとか。
可愛いとか。
今日のナオキちゃんはクールとか。
そういう言葉が、本人の意思を通り越して降ってくる感じ。
昔、クラスメイトに「時雨なら姫役似合う」と言われた時の感覚が、少しだけ戻ってきた。
あの時も、俺は笑って流そうとした。
面倒だと言って逃げようとした。
でも、本当は嫌だった。
「ナオキちゃん、怒ってる?」
近くの女子が聞いてきた。
俺は立ち止まった。
「俺は直樹だ」
「えっと……そういう設定?」
「設定じゃない」
「じゃあ、今日はナオキちゃんが直樹くんっぽくしてる日?」
「違う!」
なぜ伝わらない。
隣では、美咲が必死に笑いをこらえていた。
「美咲」
「ごめん、笑っちゃだめなのはわかってる」
「笑ってるだろ」
「だって、直樹が『俺は直樹だ』って何回も言ってるの、ちょっと面白くて」
「俺は真剣だ」
「うん。だから余計に」
「幼馴染なら助けろ」
美咲はようやく表情を引き締めた。
「みんな、今日はちょっと可学研究室の事故で認識がずれてるの。本人は直樹だから、ナオキちゃんって呼ぶと怒るよ」
「本人は直樹?」
「でも見た目はナオキちゃんだよ?」
「難しい……」
クラスメイトたちは困惑していた。
無理もない。
俺だって逆の立場なら困惑する。
ただ、困惑するだけならまだいい。
勝手に決めないでほしい。
そこだけは、強く思った。
一方、ナオキは別の意味で地獄を見ていた。
体育館。
男子側の補習確認。
ナオキは周囲から直樹として認識されていた。
つまり、男子扱いである。
「直樹、今日やけに元気だな」
男子生徒のひとりが言った。
ナオキは最初、得意げに笑った。
「そうだろう」
「なんか背筋伸びてるし」
「いつもの直樹より強そう」
「今日、体育やる気あるじゃん」
ナオキは胸を張った。
「私はいつでもやる気がある」
「私?」
「いや、俺は」
ナオキは言い直したが、周囲は気にしていない。
認識ラベルが直樹になっているせいで、多少の違和感は勝手に補正されているらしい。
その様子を、俺は体育館の入口から見ていた。
正確には、見に来てしまった。
俺として扱われるナオキがどうなるのか、少し気になったからだ。
いや、心配したわけではない。
たぶん。
ナオキは準備運動をしていた。
動きがいい。
俺より明らかにやる気がある。
周囲の男子たちが感心している。
「直樹、今日は走れそうだな」
「いつもは寒いとか眠いとか言ってるのに」
「今日は別人みたい」
「別人なんだよ」
俺は小声で言った。
美咲が隣で笑いをこらえている。
体育担当の先生が笛を吹いた。
「じゃあ軽くバスケのミニゲームをするぞ。チーム分け」
ナオキが男子チームに入れられる。
最初は楽しそうだった。
ボールを受ける。
走る。
パスを出す。
動きは悪くない。
むしろ、俺より良い。
腹が立つ。
しかし、数分経つと、ナオキの表情が少し変わった。
「直樹、もっと前出ろ!」
「直樹、パス!」
「直樹、今日いけるだろ!」
「直樹、なんか頼れるな!」
褒めている。
周りは褒めているのだ。
でも、その言葉には「今日の直樹はいつもより使える」という響きが少し混ざっていた。
普段の俺への印象。
やる気がない。
眠そう。
寒がり。
面倒くさがり。
そういうラベル。
ナオキは、その中で動いている。
最初はそのギャップを楽しんでいた。
だが、だんだん表情が硬くなる。
休憩時間。
ナオキは体育館の壁際へ来た。
俺を見る。
「直樹」
「何だ」
「おまえ、普段けっこう雑に見られてるな」
「今さらかよ」
「いや、思ってたよりだ」
ナオキは汗を拭きながら、水を飲んだ。
「やる気がないとか、眠いとか、寒いとか。おまえが自分で言ってるから周りもそう見るのは当然なんだろうけど」
「だろうな」
「でも、それだけじゃない時もあるだろ」
俺は少し黙った。
ナオキは続ける。
「嫌なことを避けたい時も、面倒って言う。怒ってる時も、眠いって言う。人に役を決められたくない時も、寒いって言う」
「便利なんだよ」
「便利すぎると、周りはそれしか見なくなる」
その言葉は、少し刺さった。
ナオキは、直樹として見られることで、俺のラベルを知ったのかもしれない。
俺は、ナオキとして見られることで、彼女のラベルを知った。
可愛い。
目立つ。
強気。
ナオキちゃん。
そう呼ばれる側の重さ。
たぶん、どちらも、完全に間違いではない。
でも、それだけではない。
「おまえも、案外面倒な視線を受けてるんだな」
俺が言うと、ナオキは眉を上げた。
「今さらか?」
「今さらだ」
「交換条件みたいだな」
「最悪の交換条件だ」
その時、背後から静かな声がした。
「……今日は、外側が迷子」
振り向くと、見上宙が立っていた。
腕には、腹話術人形のアリス。
いつものように、表情は淡い。
だが、その目ははっきり俺たちを見ていた。
宙は俺を指差す。
「直樹くん」
次にナオキを指差す。
「ナオキちゃん」
正しく呼んだ。
俺とナオキは同時に驚いた。
「見上、わかるのか」
俺が聞くと、宙は頷いた。
「……わかる。今日は、外側が迷子」
人形のアリスが、かくんと首を傾ける。
「中身とラベルが逆ダ」
「ラベル」
ナオキが呟く。
アリス人形は、にたりと笑う。
「名前札だけ入れ替わってる。中身はそのまま。だから、気持ち悪いんダ」
「まさにそれだ」
俺は思わず頷いた。
宙は少しだけ首を傾げた。
「……でも、見えてる人が全部間違ってるわけじゃない」
「どういう意味だ?」
「見えてるものも、少しは本当」
宙は俺を見る。
「直樹くんの中にも、ナオキちゃんみたいに見られる部分がある」
次に、ナオキを見る。
「ナオキちゃんの中にも、直樹くんみたいに見られる部分がある」
アリス人形が続ける。
「でも、全部じゃナイ。見えてる一部を、全部だと思うから迷子になる」
その言葉は、不思議と胸に残った。
見えている一部。
ラベル。
全部ではない。
その時、体育館のスピーカーが鳴った。
『時雨直樹、時雨ナオキ。至急、可学研究室へ戻ってください』
愛会長の声だった。
いつもより少し低い。
玉藻先生が何かをさらにやらかす前に呼び戻したのだろう。
俺たちは顔を見合わせた。
「行くか」
「行こう」
可学研究室へ戻ると、愛会長がすでに解除準備を終えていた。
玉藻先生は正座していた。
研究室の床で。
白衣のまま。
なぜか横に反省文用紙が置かれている。
「もう反省文が準備されてる」
俺が言うと、愛会長は淡々と答えた。
「予測済みだ」
「信頼がない」
「実績がある」
玉藻先生がしょんぼりする。
「今回は本当に安全のつもりだったのよぉん」
「つもりでは困ります」
愛会長は俺たちを装置へ座らせた。
「認識ラベル入れ替わりは、宙の観測で中心構造が確認できた。本人たちの自己認識を基準に上書きする」
「難しい言い方ですが、戻るんですね?」
「戻す」
俺とナオキは椅子に座った。
輪っか型センサーが降りる。
今度は、玉藻先生ではなく愛会長が操作する。
椎凪先輩が横で確認する。
「自己認識値、安定。外部ラベル補正、解除準備完了」
愛会長が言う。
「二人とも、自分の名前を言え」
俺は息を吸った。
「時雨直樹」
ナオキも続ける。
「時雨ナオキ」
装置が淡く光った。
頭の奥で、何かがほどけるような感覚がした。
ずれていた名札が、元の場所へ戻る。
そんな感覚。
光が消える。
愛会長が端末を見た。
「外部認識ラベル、正常化」
玉藻先生がぱっと顔を上げる。
「成功ねぇん!」
「玉藻先生は成功に含めません」
「ひどいわぁ」
研究室の扉が開き、さっきのクラスメイトが顔を出した。
「あ、直樹。先生がさっきの提出物の件で――」
俺を直樹と呼んだ。
戻った。
俺は安心した。
が、すぐに嫌な内容に気づいた。
「まだ提出物の話続くのか」
クラスメイトはナオキを見る。
「あ、ナオキちゃんもいたんだ」
「いたぞ」
ナオキは普通に返した。
ちゃん付けされても、今は怒らない。
俺は少しだけ羨ましくなった。
いや、別にちゃん付けされたいわけではない。
絶対に違う。
解除後、俺とナオキは研究室を出て、校舎裏の渡り廊下を歩いた。
外は夕方で、空は薄い橙色になっている。
冬の風は冷たい。
俺はマフラーに顔を埋めた。
ナオキは隣を歩きながら、しばらく黙っていた。
珍しい。
いつもなら何か言う。
からかうか、笑うか、勝手な宣言をするか。
でも今は、黙っている。
「どうした」
俺が聞くと、ナオキは前を向いたまま言った。
「おまえ、けっこう面倒な視線を受けてたんだな」
俺は少しだけ笑った。
「今さらかよ」
「今さらだ」
ナオキは立ち止まった。
俺も足を止める。
渡り廊下の窓から、グラウンドが見えた。
体育をしていた生徒たちが片付けをしている。
さっきまで、ナオキはあの中で俺として見られていた。
俺は校内でナオキとして見られていた。
たった数十分。
それでも、少しだけわかった。
相手のラベルを背負うことの面倒さ。
見られ方が自分の中へ入り込んでくる感じ。
俺が嫌だったもの。
ナオキが引き受けているもの。
そして、周囲が決めたラベルだけでは、誰も全部はわからないということ。
ナオキは少し黙ってから言った。
「今さらでも、知れてよかった」
俺は返事に困った。
そういう素直なことを言われると、非常に困る。
俺は窓の外へ視線をそらした。
「別に」
「照れてるのか」
「照れてない」
「顔」
「見るな」
ナオキは笑った。
いつもの笑い方だった。
それで、少し安心した。
可学研究室へ戻ると、玉藻先生が反省文を書いていた。
正確には、書いているふりをして、端末に何かを入力していた。
「先生」
愛会長が背後に立つ。
玉藻先生の肩が跳ねた。
「はい?」
「何をしていますか」
「反省文よぉん」
「端末に入力している内容を表示してください」
「ええっとぉ」
愛会長が無言で端末を覗き込む。
そこには、こう書かれていた。
『身体変換を伴わない周囲認識ラベル交換現象に関する初期報告――時雨直樹・時雨ナオキ事例』
玉藻先生は、少しだけ笑った。
「でも貴重なデータだったわぁん」
愛会長は何も言わなかった。
ただ、反省文用紙をもう一枚、机の上に置いた。
さらに一枚。
もう一枚。
合計三枚。
玉藻先生の耳がしゅんと下がる。
「愛ちゃん?」
「追加です」
「三枚?」
「論文未遂を含めて」
「未遂でも?」
「未遂でも」
俺とナオキは、それを見て同時に言った。
「「自業自得だな」」
声が重なった。
俺たちは互いを見た。
「真似するな」
「そっちがした」
愛会長が少しだけ息を吐く。
見上宙が研究室の入口から、ぽつりと言った。
「……戻った」
人形のアリスが続ける。
「ラベル、正解。でも中身は、まだ時々まざるナ」
「混ざってない」
俺とナオキは同時に言った。
宙は首を傾ける。
アリス人形が、にたりと笑った。
「そういうところダ」
俺は何も言い返せなかった。
ナオキも言い返せなかった。
外側が迷子になる事件は、ひとまず終わった。
ただ、少しだけわかったことがある。
俺はナオキではない。
ナオキは俺ではない。
でも、俺の中にナオキに見られる部分があって、ナオキの中にも俺に見られる部分がある。
それは、たぶん悪いことではない。
問題は、誰かがそれだけを見て、全部だと決めることだ。
俺は俺だ。
ナオキはナオキだ。
ラベルがずれても、誰かに間違えられても、そこは変わらない。
ただ、できればもう二度と、玉藻先生の装置では確認したくない。
俺は心からそう思った。




