番外編 こたつ戦争、勃発
冬の休日というものは、人類に与えられた最後の聖域である。
寒い外へ出なくていい。
制服を着なくていい。
登校しなくていい。
誰かに「時雨くん、ちょっといい?」と呼び止められなくていい。
鏡星学園の突発的な幻実現象に巻き込まれなくていい。
玉藻先生の「ちょっとだけ実験に協力してほしいのよぉん」という、ちょっとでは絶対に済まない誘いからも逃げられる。
つまり、休日とは平和である。
そして冬の平和の中心には、こたつがある。
俺こと時雨直樹は、朝食後、当然のようにリビングのこたつへ潜り込んだ。
母さんは買い物に出ている。
昼過ぎまで帰らない。
父さんは朝から仕事。
家には俺ひとり。
静か。
暖かい。
机の上には、みかん。
湯呑みには、少し濃いめの紅茶。
テレビのリモコンは右手の届く位置。
窓の外は曇り空で、見るからに寒そうな風が庭木を揺らしている。
だが、俺はこたつの中にいる。
この世の寒さは、布団一枚と電気の力によって遮断されている。
文明とはすばらしい。
人類は火を発見し、車輪を作り、文字を生み、そして最終的にこたつへたどり着いたのだと思う。
俺は湯呑みを手に取り、紅茶を一口飲んだ。
「……平和だ」
そう呟いた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
平和は短かった。
俺は無視することにした。
休日の朝に鳴るチャイムには、だいたいろくなものがない。
宅配なら母さんがあとで受け取る。
回覧板ならポストに入れておいてほしい。
玉藻先生なら居留守を使う。
美咲なら勝手に入ってくる。
つまり、俺が動く必要はない。
俺はこたつに深く潜った。
チャイムがもう一度鳴る。
無視。
さらに鳴る。
無視。
すると、玄関の方で鍵が開く音がした。
「お邪魔するぞ」
声がした。
美咲ではなかった。
俺はこたつ布団から顔だけ出した。
リビングの扉が開く。
そこに立っていたのは、時雨ナオキだった。
俺と同じ顔。
けれど、俺より少しだけ目つきが強く、俺より少しだけ姿勢がよく、俺より少しだけ行動が早い。
現在、学園内登録上は俺の双子の妹。
現実的な説明としてはそれが一番面倒が少ないから、そういうことになっている。
ただし、実際には俺から分かれた、俺であって俺ではない存在だ。
説明すると長い。
俺もいまだに完全には整理できていない。
ナオキはコートを脱ぎ、マフラーを外し、当然のようにリビングへ入ってきた。
「寒い」
「帰れ」
「第一声がそれか」
「休日の朝に人の家へ勝手に入ってくる方が悪い」
「鍵は預かっている」
「なぜだ」
「おばさんがくれた」
「母さん……」
あの人は順応が早すぎる。
ある日突然、自分の息子にそっくりな少女が現れたというのに、最終的に「ご飯、食べる?」で受け入れた人である。
ナオキに合鍵くらい渡していても、今さら驚くべきではないのかもしれない。
いや、驚け。
家族のセキュリティ意識として驚け。
ナオキは俺の抗議など聞く気配もなく、こたつへ近づいてきた。
そして、迷いのない動きで、俺の正面――つまり一番テレビが見やすく、エアコンの風が直接当たらず、かつ台所にも近すぎない、最も優れた位置へ座った。
いや、座ったというより、占領した。
そのまま足をこたつへ入れ、布団を整え、みかんに手を伸ばす。
俺は固まった。
「待て」
「何だ」
「そこは俺の席だ」
ナオキはみかんを手にしたまま、平然と俺を見る。
「私も時雨家の人間だ。つまり、私にもこたつ主権がある」
「こたつ主権を勝手に提唱するな」
「家族には平等にこたつを享受する権利がある」
「それはそうかもしれないが、席には歴史がある」
「歴史?」
「その席は、長年俺が冬を越してきた由緒正しき位置だ。テレビとの角度、リモコンとの距離、みかんへのアクセス、母さんに用事を頼まれた時の逃げやすさ、そのすべてが計算されている」
「最後の理由がひどい」
「こたつとは戦略だ」
「なら、先に座った私の勝ちだな」
ナオキはみかんをむき始めた。
白い筋を丁寧に取っている。
その仕草が俺と少し似ているのが、地味に腹立たしい。
「ナオキ」
「何だ」
「そのみかんも俺のだ」
「時雨家の共有財産だ」
「冷蔵庫にあったプリンを勝手に食った時も同じこと言ってたな」
「あれは非常時だった」
「何の非常だよ」
「甘味不足」
「俺にも発生してたんだが」
ナオキはみかんを一房口に入れた。
その表情が少し緩む。
「甘い」
「感想を言うな。返せ」
「食べたものは返せない」
「物理的にはな」
「精神的にも返さない」
「横暴だ」
「こたつ戦争に情けはない」
こたつ戦争。
ナオキは今、たしかにそう言った。
その瞬間、俺の中で何かのスイッチが入った。
俺は紅茶の湯呑みを置き、姿勢を正した。
こたつに入ったままだが、気持ちだけは正座である。
「いいだろう」
俺は言った。
「そこまで言うなら、これは戦争だ」
ナオキはみかんの皮を綺麗に丸めながら、挑発的に笑った。
「受けて立つ」
こうして、時雨家のリビングにおいて、第一次こたつ戦争が勃発した。
最初の争点は、席だった。
俺は、長年の使用実績を主張した。
ナオキは、家族としての平等権を主張した。
俺は、こたつの配置を決めたのは俺だと訴えた。
ナオキは、今後の時雨家は二人体制なのだから配置も再検討すべきだと返した。
俺は、ナオキは最近来たばかりだと言った。
ナオキは、自分の記憶の中ではこの家で過ごしているのだから、新参扱いは不当だと言った。
その返しは少しだけ強かった。
なぜなら、ナオキは俺の記憶を持っている。
このリビングで風邪を引いた日。
小学生の頃、こたつで寝落ちして母さんに怒られた日。
美咲と宿題を広げたまま、みかんの皮を積み上げて城にした日。
それをナオキも知っている。
でも、実際にその時間を身体で過ごしたのは俺だ。
そこには、説明しにくいずれがある。
「……ずるいんだよ、おまえ」
俺がぼそっと言うと、ナオキはみかんを食べる手を止めた。
「何が」
「俺の思い出を知ってるくせに、俺とは違う顔で入ってくるところ」
言ってから、しまったと思った。
休日のこたつをめぐる戦争にしては、少し重い。
ナオキは、少しだけ黙った。
それから、みかんを一房、俺の前に置いた。
「じゃあ、半分やる」
「みかんで済ますな」
「だめか」
「だめではない」
俺はその一房を食べた。
甘かった。
ナオキは少し笑った。
なんとなく停戦しかけた。
だが、次の瞬間、ナオキがリモコンを手に取った。
「待て」
「何だ」
「リモコンは俺の支配下だ」
「支配という言葉を使うな。学園征服経験者として敏感になる」
「おまえが言うな」
ナオキはテレビをつけた。
画面には、休日朝の情報番組が映った。
冬のあったかグルメ特集。
鍋。
シチュー。
焼き芋。
湯気。
人類を堕落させる映像である。
「よし、これを見る」
「俺は録画していた深夜番組を見る予定だった」
「内容は?」
「世界の未確認現象特集」
「鏡星学園にいるのに、まだテレビで未確認現象を見るのか」
「画面越しなら安全だ」
「玉藻先生が見たら、再現しようとするぞ」
「だから録画だ。先生には見せない」
ナオキは少し考えた。
「却下だ」
「なぜ」
「朝から未確認現象を見ると、休日の気分が悪くなる」
「おまえが一番の未確認現象みたいなものだろ」
「確認済みだ。正式登録もされている」
「反論が強い」
リモコンの奪い合いが始まった。
ただし、二人ともこたつから出たくないので、戦闘範囲はこたつ上に限定される。
俺が右手を伸ばす。
ナオキが左手でリモコンを遠ざける。
俺がこたつ布団の中で足を伸ばして牽制する。
ナオキが足で押し返す。
「足を使うな」
「そっちが先だ」
「これは防衛行為だ」
「こちらも主権防衛だ」
「主権を広げるな」
リモコンは最終的に、こたつの中央に置かれたみかん籠の横へ落ちた。
二人の手が同時に伸びる。
その時、リビングの扉が開いた。
「お邪魔しまーす」
佐藤美咲が入ってきた。
隣の家の幼馴染。
俺の家へ入ってくる時の遠慮が、年々薄くなっている人間である。
いや、もともと薄い。
美咲は手に紙袋を持っていた。
マフラーを巻き、頬を少し赤くしている。
外は相当寒かったらしい。
彼女はリビングへ入るなり、こたつに半分潜り込みながらリモコンをめぐって硬直している俺たちを見た。
沈黙。
美咲は紙袋をテーブルに置いた。
「何してるの」
「こたつの主権を守っている」
俺が答えると、ナオキが即座に言った。
「時雨家における権利の再分配を求めている」
「言い方は違うけど、やってることはこたつの場所取りね」
美咲は呆れた顔でマフラーを外した。
「冬の休日に、あんたたちは何を真剣に争ってるの」
「冬の休日だからだ」
俺は言った。
「こたつは冬の根幹だ」
「根幹を奪われた者は寒さに敗北する」
ナオキが続ける。
美咲は俺たちを見比べて、ふっと笑った。
「ほんと、二人とも同じ顔で同じことしてる」
「俺はこんな横暴じゃない」
「私はこんな怠惰じゃない」
俺とナオキは同時に言った。
言ってから、同時に相手を見る。
「真似するな」
「そっちがしたんだ」
「俺の方が先だった」
「同時だった」
「美咲、判定」
俺が言うと、美咲は紙袋から焼き菓子の箱を取り出しながら言った。
「同じ」
「不服だ」
「不満だ」
「ほら同じ」
美咲は笑いながら、こたつの空いている辺に座った。
正確には、俺とナオキが占領していない第三勢力の位置である。
彼女は手をこたつへ入れた瞬間、幸せそうに目を細めた。
「あったか……」
「だろう」
俺は頷いた。
「こたつは人類の到達点だ」
「そこは同意する」
ナオキも頷く。
美咲は二人を見て、また笑った。
「同意するところも同じじゃない」
「美咲」
「何?」
「今日はどちらの味方だ」
俺が聞くと、美咲は首を傾げた。
「何の戦争に巻き込まれてるの、私」
「こたつ戦争だ」
「字面が平和すぎるわね」
「戦場に平和などない」
ナオキが真顔で言った。
美咲はため息をつき、焼き菓子の箱を開けた。
「じゃあ、まず補給物資」
箱の中には、駅前の洋菓子店のクッキーが入っていた。
バターの香りが広がる。
俺とナオキの視線が同時に吸い寄せられた。
「これで一時停戦しなさい」
「仕方ない」
俺は言った。
「補給は重要だ」
「異議なし」
ナオキも頷いた。
美咲は一枚ずつクッキーを配った。
俺は紅茶を飲む。
ナオキは湯呑みを見て言った。
「紅茶か」
「当然だ」
「私はココアがいい」
「自分で淹れろ」
「寒い」
「俺も寒い」
「こたつから出た者が負ける」
「なら誰が淹れる」
二人の視線が美咲へ向く。
美咲はクッキーをかじりながら、にっこり笑った。
「自分でやりなさい」
「だよな」
「だな」
俺とナオキは同時に引き下がった。
美咲は強い。
結局、飲み物問題は、台所に一番近いナオキが負けた。
いや、負けたというより、ナオキが自分で立ち上がった。
「ココアを淹れてくる。直樹は紅茶でいいのか」
「いい」
「美咲は?」
「私もココア」
「了解」
ナオキはこたつから出た瞬間、肩を震わせた。
「寒っ」
「負けたな」
俺が言うと、ナオキは振り返った。
「戻ったらおまえの席を奪う」
「戦争再開か」
「当然だ」
ナオキは台所へ向かった。
その背中を見送りながら、美咲が小さく言った。
「ナオキちゃん、慣れてきたね」
「何に」
「この家に」
俺は少し黙った。
台所から、食器棚を開ける音がする。
ナオキがマグカップを探している。
もう、どこに何があるのかだいたい覚えているらしい。
それが自然なようで、少し変な感じもする。
ナオキは、俺から分かれた存在だ。
俺の記憶を持っている。
でも、彼女自身としてこの家に来るようになったのは最近だ。
それなのに、母さんは普通に受け入れた。
美咲も普通に受け入れた。
俺も、文句を言いながら受け入れつつある。
不思議だ。
面倒でもある。
でも、悪くはない。
「……まあ」
俺はクッキーをかじった。
「勝手に来るのは困るけどな」
「でも、鍵を返せとは言わないんだ」
「母さんが渡したものを俺が取り上げるのも違うだろ」
「ふうん」
美咲がにやっとした。
「何だよ」
「別に」
「その顔は別にじゃない」
「直樹も、少しずつお兄ちゃんになってるなって」
「やめろ」
「え?」
「その言葉は破壊力が高い」
ナオキに「お兄ちゃん」と呼ばれた時の記憶が蘇る。
あれは危険だ。
精神に直接来る。
美咲は腹を抱えて笑った。
「そんなに効くんだ」
「効く」
「ナオキちゃんに言ってもらおうかな」
「やめろ。美咲、やめろ」
「直樹が本気で嫌がってる。珍しい」
「珍しくない」
台所からナオキの声が飛んできた。
「お兄ちゃん、砂糖はどこだ?」
俺はこたつ布団に顔を埋めた。
美咲が笑いすぎてテーブルを叩いている。
「ナオキ!」
「何だ」
「それを使うな!」
「砂糖か?」
「違う!」
「ああ」
台所の向こうで、ナオキが楽しそうに笑った気配がした。
「お兄ちゃん」
「やめろと言っただろ!」
「反応が面白い」
「おまえは俺から分かれたくせに、なぜそこを面白がれる」
「だからだろうな」
「最悪だ」
ナオキは三つのマグカップを持って戻ってきた。
俺には紅茶のおかわり。
美咲と自分にはココア。
湯気が立っている。
そのままナオキは当然のように俺の隣へ入り込もうとした。
「待て。なぜそこに来る」
「戻ったら席を奪うと言った」
「俺の席はここだ」
「さっきより少しずれろ」
「ずれない」
「こたつ布団の余白が足りない」
「知らん」
二人でこたつ布団を引っ張り合う。
美咲がココアを受け取りながら呆れた顔をした。
「飲み物こぼすわよ」
その一言で、俺たちは動きを止めた。
液体被害はまずい。
こたつ布団にココアなどこぼしたら、母さんに怒られる。
おそらく、幻実因子が暴走した時よりも現実的に怒られる。
俺とナオキは慎重にマグカップを置いた。
停戦。
しかし、次の争点はみかんだった。
みかん籠には残り三つ。
人数は三人。
一見、平等である。
だが、大きさが違う。
一つは大きい。
一つは普通。
一つは小さい。
「俺はこの大きいのを取る」
俺が手を伸ばすと、ナオキの手が同時に伸びた。
「私もそれがいい」
「おまえ、さっき食べただろ」
「一個食べたら次を食べてはいけない法律はない」
「法に頼るな」
「こたつ主権には果実分配権も含まれる」
「含めるな」
美咲が普通サイズのみかんを取った。
「じゃあ、二人で半分こすれば?」
俺とナオキは大きいみかんを見た。
それから互いを見る。
「仕方ない」
「不本意だが」
みかんをむく。
俺が皮をむく。
ナオキが白い筋を取る。
その作業分担が、妙に自然だった。
美咲がそれを見て、少しだけ柔らかい顔をした。
「何だよ」
「何でもない」
「またその顔だ」
「二人とも、違うって言いながら、そういうところは本当に似てるなって」
「共同作業が得意なだけだ」
俺が言うと、ナオキも頷いた。
「効率の問題だ」
「ほら同じ」
「美咲」
俺とナオキは同時に言った。
「「それ以上言うな」」
美咲は笑った。
「同時に言うのやめて。説得力がない」
そんな調子で、こたつ戦争は続いた。
リモコンの支配権。
みかんの分配。
こたつ布団の境界線。
紅茶とココアの湯気の香りが混ざることへの抗議。
美咲が持ってきたクッキーの最後の一枚を誰が食べるか。
しょうもない。
あまりにもしょうもない。
だが、しょうもないことを真剣に争えるのは、平和だからだ。
少し前まで、俺とナオキは、戻るか残るかという話をしていた。
ナオキが消えるかもしれないとか、俺の中へ戻るかもしれないとか、そんな重い話をしていた。
その同じ俺たちが今、こたつの中でリモコンとみかんをめぐって争っている。
人生は不思議だ。
いや、鏡星学園周辺の人生は特に不思議だ。
午後になり、空がさらに暗くなった。
外の風が強くなる。
窓がかたかた鳴る。
美咲が外を見た。
「雪、降りそう」
「降るな」
俺は即答した。
「降ったら寒い」
「冬だからね」
「冬はこたつの中だけで完結してほしい」
「直樹らしい意見だ」
ナオキがココアを飲みながら言う。
「おまえも出る気ないだろ」
「ない」
「ほら同じ」
美咲が言った瞬間だった。
リビングの照明が、ふっと消えた。
テレビも消えた。
こたつの赤いランプも消えた。
エアコンの音も止まった。
部屋が、一気に静かになる。
「……え?」
美咲が声を出した。
俺はこたつ布団の中で足を動かした。
暖かさが、まだ残っている。
だが、電気が止まっている。
つまり。
「停電だ」
ナオキが言った。
外で風が唸る。
遠くで、何かが倒れるような音がした。
たぶん、近所のどこかで一時的に電気が落ちたのだろう。
普通なら、少し様子を見ればいい。
しかし、問題はこたつである。
電気が切れたこたつは、こたつではない。
ただの低い机と厚い布だ。
まだ余熱はある。
だが、時間が経てば冷える。
それは、冬の終わりではなく、文明の終わりだった。
「まずい」
俺は言った。
「非常事態だ」
ナオキも真顔で頷く。
「こたつが死んだ」
「不吉な言い方するな」
「だが事実だ」
俺たちは同時にこたつ布団を握った。
今まで奪い合っていた布団を、今度は逃がさないために。
美咲が呆れる。
「二人とも、そんなに弱体化する?」
「こたつの力を失った人類は脆い」
「寒さは敵だ」
「やっぱり似てる」
「今はそういう話をしている場合じゃない」
俺は真剣に言った。
「暖を確保する」
ナオキも頷く。
「ブランケット、毛布、上着。すべて投入すべきだ」
「意見が一致したな」
「非常時だからな」
美咲はため息をつきながら立ち上がった。
「はいはい。私が取ってくる」
「すまん」
「頼む」
俺とナオキが同時に言うと、美咲は振り返った。
「ほんと、こういう時だけ息が合うんだから」
美咲は廊下へ行き、しばらくしてブランケットを二枚持って戻ってきた。
さらに、ソファに置いてあった厚手の膝掛けも持ってくる。
それをこたつの上から広げる。
俺とナオキは布団の中で身を寄せた。
いや、寄せたというか、寒さに押されて自然と距離が縮まった。
「近い」
俺が言うと、ナオキが返す。
「寒い」
「理由が強い」
「美咲も入れ」
ナオキが言う。
美咲は一瞬きょとんとした。
「私も?」
「寒いだろ」
俺も少し視線をそらして言った。
「外行って取ってきたんだから、入れよ」
美咲は少しだけ目を細めた。
それから、笑った。
「はいはい。じゃあ失礼します」
美咲がこたつへ戻る。
三人で、電気の消えたこたつに固まった。
窓の外では、風が鳴っている。
部屋の照明は消えているが、曇り空の光が薄く差し込んでいる。
テレビもつかない。
リモコン争いも意味がない。
紅茶もココアも、だんだん冷めていく。
でも、ブランケットの下は、思ったより暖かかった。
人が三人いるからだ。
俺とナオキと美咲。
前なら、俺と美咲だけだった。
今は、ナオキもいる。
少し狭い。
足がぶつかる。
布団が引っ張られる。
みかん籠も邪魔だ。
でも、不思議と嫌ではなかった。
ナオキが小さく言った。
「……こたつ、止まると弱いな」
「人類もな」
俺が返す。
「いや、直樹が特に弱い」
「おまえもだろ」
「私はまだ戦える」
「何とだよ」
「寒さと」
「勝てそうか」
「負けそうだ」
「正直でよろしい」
美咲が真ん中で笑った。
「二人とも、さっきまで戦争してたのに、停電したら急に協力するのね」
「敵が変わったからな」
俺は言った。
「内戦中でも、外敵が来たら休戦する」
「寒さは共通の敵だ」
ナオキも頷く。
「大げさ」
美咲はそう言いながら、ブランケットを俺たちの肩にかけ直した。
その手つきが自然すぎて、少しだけ昔を思い出した。
小学生の頃、冬の夕方。
俺と美咲がこのリビングで宿題をしていて、途中で寝落ちした時、美咲が自分のひざ掛けを俺に半分かけてくれたことがあった。
俺はその時、寝たふりをしていた。
たぶん、美咲は気づいていた。
今、その隣にナオキがいる。
ナオキもその記憶を持っているのだろうか。
ふと気になって見ると、ナオキも美咲を見ていた。
目が合う。
たぶん、同じことを思い出している。
俺たちは同じ記憶を持っている。
でも、今ここで感じていることは、少し違うのだろう。
ナオキは小さく言った。
「美咲は、昔から世話焼きだな」
美咲はきょとんとした。
それから、少し照れたように笑った。
「二人とも世話が焼けるからね」
「俺はそこまでじゃない」
「私はそこまでじゃない」
また同時だった。
美咲は肩を震わせて笑う。
「はいはい。そこまでじゃない二人のために、私がブランケット取ってきたんですけど」
俺とナオキは黙った。
反論できない。
しばらく、三人で黙っていた。
外の風。
遠くの車の音。
家の中の静けさ。
電気が消えたリビングは、いつもより少し広く、少し暗く、少し懐かしかった。
ナオキが、ぽつりと言った。
「こういうのも、悪くないな」
「停電がか?」
「違う。三人でいること」
俺は返事に困った。
美咲も少し黙った。
ナオキは続けた。
「私は、最初からいたわけじゃない。でも、記憶だけはある。だから時々、どこまで自分の席に座っていいのかわからない」
さっきまでこたつ主権を主張していた人間とは思えない言葉だった。
俺は、少しだけ胸が詰まった。
ナオキは笑う。
「だから、こたつの席くらい奪っておこうと思った」
「理由が急に重い」
「重く言った方が勝てそうだった」
「おまえな」
俺が呆れると、ナオキは少しだけ安心したように笑った。
美咲が静かに言う。
「席なら、作ればいいんじゃない?」
俺とナオキが美咲を見る。
美咲はブランケットの端を直しながら言った。
「直樹の席も、ナオキちゃんの席も、別に一つしかないわけじゃないでしょ。狭いなら、こたつを大きくすればいいし」
「こたつを大きく」
俺は呟いた。
「それは……」
魅力的だ。
非常に。
しかし、認めたら負けの気もする。
ナオキも同じことを考えたのか、真剣な顔で黙っていた。
「まあ」
美咲は笑った。
「今はこのままでも暖かいけど」
その時、部屋の照明がぱっと点いた。
テレビが再起動し、エアコンが低い音を立てる。
こたつのランプも赤く光った。
電気が戻った。
俺とナオキは同時に息を吐いた。
「復活した」
「文明が戻った」
「ほんと大げさ」
美咲が笑う。
こたつの暖かさが、少しずつ戻ってくる。
だが、三人はしばらくそのまま動かなかった。
ブランケットをかけたまま、少し狭い距離のまま。
こたつは復活した。
でも、今すぐ離れなければならないほどではなかった。
夕方になって、母さんが帰ってきた。
買い物袋を両手に下げ、リビングへ入ってくる。
そして、こたつに固まる俺たち三人を見た。
俺。
ナオキ。
美咲。
ブランケット。
みかんの皮。
冷めかけた紅茶とココア。
リモコンをめぐって中央に引かれた、みかんの皮の謎の境界線。
母さんは数秒だけ状況を見て、すぐに理解を諦めた顔をした。
「ただいま」
「おかえり」
「お邪魔してます」
「おかえり、おばさん」
母さんは買い物袋を置き、こたつを見た。
「狭そうね」
「狭くない」
俺は即答した。
「問題ない」
ナオキも即答した。
母さんは少し考えてから言った。
「こたつ、二人用に大きいの買う?」
「必要ない」
「必要ない」
俺とナオキは同時に言った。
完全に同時だった。
母さんが笑う。
美咲も笑う。
俺とナオキは互いを見る。
「真似するな」
「そっちがした」
「また同じこと言ってる」
美咲が言った。
俺たちは黙った。
母さんは台所へ向かいながら、のんびり言った。
「そう? じゃあ、お鍋の準備するから、こたつから出られる人は手伝ってね」
沈黙。
誰も動かない。
俺も動かない。
ナオキも動かない。
美咲も、なぜか動かない。
母さんが振り返る。
「誰も出ないの?」
美咲が笑った。
「必要あるじゃない」
俺はこたつ布団を握った。
「……あと五分」
ナオキも同じように言った。
「あと五分だな」
美咲が肩をすくめる。
「はいはい。じゃあ、五分後に三人で手伝うこと」
「わかった」
「了解」
俺とナオキは同時に返事をした。
五分後、本当に出られるかはわからない。
でも、たぶん出る。
たぶん。
こたつは暖かい。
外は寒い。
休日は平和だ。
そして、時雨家のこたつは、今日から少しだけ狭くなった。
その狭さは、正直少し面倒だった。
でも、まあ。
悪くはなかった。




