7.別れてさしあげませんわ旦那さま♡
ベサニーは戸惑っていた。
朝食を取るためにこんなに長く馬車に乗るものとは思っていなかったからだ。
まさか領都の外れにある侯爵家所有の別荘に足を運ぶことになるなんて。
おそらく昨日から知らせてあったのだろう。
ベサニーがテオドールに手を取られ馬車を降りると、別荘の管理人夫妻が揃って二人を出迎えてくれた。
小さな湖の畔にあるこの別荘は、ベサニーが小さい頃より両親と共に何度も通ってきた場所である。
だからベサニーは管理人夫妻とはよく知る仲だった。
「お待ちしておりました、ベサニーお嬢様。いいえ、若奥様。このたびはご結婚おめでとうございます」
結婚してから初めてとなる訪問に、管理人夫妻から祝いの言葉が出て来ることは自然なこと。
けれどベサニーは素直な気持ちでそれを受け取れなかった。
ベサニーが曖昧に微笑んでいる横で、夫がお礼を伝えている。
本来ならば、ベサニーが夫に管理人夫妻を紹介しているところであるが、テオドールは何も言わず、管理人夫妻に自分から様々に語り掛けていた。
──わたくし、またこちらに来ることが出来るかしらね?
どんなに奮起して、心を強く保とうとしても。
今朝のベサニーの心はすぐに弱ってしまう。
夫に手を取られて、別荘の室内に入っていく間も、なんとか元気を出そうと、ベサニーは自分を鼓舞した。
──わたくしったら。いけませんわね。今日は最高に楽しい一日にすると決めましたのに。
──楽しくて、楽しくて、旦那さまがわたくしと離れたくなくなるように……。
──あぁ、いけませんわ。とてもいけませんわ。わたくし、頑張るのでしてよ。
鼻の奥がつんと痛んで、ベサニーはきゅうっとテオドールの手を握り締めてしまった。
すると何か勘違いしたのか、テオドールが一段と穏やかな声でベサニーに話し掛けてくる。
「朝食は湖に面したテラスに用意してくれるそうだよ。楽しみだね、ベサニー」
「えぇ、とても楽しみですわ」
なんとかそう言えたベサニーは、笑顔も作れた。
より気分を上げるために、ベサニーは今から向かう場所に思いを馳せる。
湖を望むテラスは、この別荘でベサニーが最も好きな場所だ。
特にこの時間は、まだ低い陽光を浴びた湖面が一面きらきらと輝いて、とても美しい景色を見ることが出来た。
夫のエスコートで実際にテラスに出れば、今朝も期待通りに素晴らしい光景が広がっている。
陽光の注ぐ角度良く、湖面の輝きは眩しいくらいで、湖から流れる風は心地好く頬を撫で、外で朝食を取るには今朝は最高の条件にあった。
テラスにはテーブルと二人分の椅子が用意されていて、ベサニーたちが席に着くとすぐに朝食も運ばれる。
焼きたてのパンに、軽く焼いたハム、とろみを残したスクランブルエッグ、甘さを控えたベリーのジャム。
貴族としては簡素であるこの朝食は、ここに来たときのベサニーのお決まりのメニューだ。
「旦那さまには少なくございません?何か出していただけるようお願いしてまいりますわね」
それは逃げる口実だったかもしれない。
ベサニーはいつもは満足するこの朝食を、とても美味しく味わう自信がなかった。
しかしテオドールは首を振る。
「ベサニーのお気に入りの朝食があると聞いてね。是非それを食べたかった。ねぇ、ベサニー。ここには鶏小屋があるそうだね」
「えぇ、ここからは少し歩きますけれど。見に行かれてみますか?」
「そうだね。良かったら朝食のあとに一緒に行ってくれるかい?」
「もちろんですわ」
「だけどベサニーは、鶏に追い掛けられると泣いてしまうと聞いたな。今日はやめておくかい?」
「まぁ、きっとお母さまね?小さい頃の話ですわ」
「私も幼いベサニーを見たかったな。このジャムのベリーも、この森で沢山採れるそうだね?」
「それもお母さまね?もう子どもではありませんから、森で摘まんでこっそりと食べたりしませんことよ」
「私は今日ベリーの摘まみ食いを計画していたのだけれど。一人で食べることになるとは残念だな」
テオドールはよく笑った。
夫と普通に話し、普通に笑い合えていたら、ベサニーも気を緩めた。
──わたくし、悪いように考え過ぎていたかもしれませんわね。
だから。
「ベサニー」
ベサニーは、夫の声色が急に変わったとき、どきりとしてしまって、取り繕った笑顔を見せることが出来なかったのだ。
それは朝食で使った食器が片付けられて、食後の紅茶が出て来たところだった。
ベサニーは表情を固めて、真顔で夫を見詰めてしまう。
「君に謝りたいことがある。私は今まで君に──」
「嫌ですわ!旦那さまは、謝らないでくださいまし!」
ベサニーは気が付いたときには、テオドールの言葉を遮り、叫ぶように強く言っていた。
一度気持ちを吐き出してしまえば、ベサニーの口はもう止まらなくなってしまう。
「嫌でしてよ!わたくし、旦那さまとお別れしませんわ。離婚などしてさしあげなくてよ!」
「ベサニー、聞いて──」
「わたくし、わたくしは──」
「どうか落ち着いて、ベサニー。私はもう二度と君に離婚を願わないと誓う」
ベサニーは驚いて夫を見詰めたが、その視界が何故か曇っていて、ベサニーには夫の顔がぼんやりとしか見えなかった。
「二度と……ですの?」
──そうですわね。離婚したあとには、もう言いませんわね。
夫が柔らかく微笑むその顔が、ベサニーには見えない。
「あぁ、もう二度とだ。私は二度とあのようなことは口にしない。君に誓うよ、ベサニー」
口にせずとも約束となっていた夫婦の長い夜の始まりを告げるあの言葉を、夫テオドールがもう二度と言わないと宣言したこと。
それはベサニーの心に強い衝撃を与え、ベサニーは茫然自失となる。
そんなベサニーの前で、夫はゆっくりと丁寧に語り始めた。
それはベサニーが初めてワインの酔いに頼らずに聞く夫の昔話だった。
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