5.おモテになります旦那さま♡
昨夜から雨が降っていた。
雨音が続く廊下は、不思議と普段より静かに変わった。
廊下を進むべサニーが、立ち止まるのはもう三回目。
雨に塗れた窓は何も映さないというのに、ベサニーは歩みを止めてはしばらく窓を眺めて、なかなか目的地に辿り着けないでいた。
ベサニーがこんなにも重たい気分で夫の執務室に向かうことがあっただろうか。
手に持つ書簡をもう一度見詰めて、ベサニーは一人深く息を吐く。
──旦那さまは、どんな反応をされるかしらね?
書簡の差出人は、帝国の第四皇女。
宛先は、ベサニーの夫テオドールだ。
二人に親交があったことは、ベサニーも夫から話を聞く以前より知っていたことだったけれど。
テオドールと結婚し、もうしばらく経っていたから、この先も皇女から接触してくることはないだろうと、ベサニーが安心し始めたところだった。
『ベサニー。私と離婚して貰えないだろうか』
毎夜寝室で繰り返される夫の言葉が、今日のベサニーの耳元で重なって繰り返される。
これがベサニーに一段と不安を誘った。
いつもなら思い出しても、最終的にベサニーは幸せな気持ちになるだけなのに。
それだけこの書簡の存在は、ベサニーには重かった。重過ぎた。嫌で嫌過ぎた。
もしも夫が毎夜同じ結論に至る理由の一部にでも、この皇女の存在があったとすれば──。
ベサニーは無意識のうちにぐっと手に力を入れてしまった。
──わたくし、悪妻ですわ。テオさまがいくらお望みでしても、お渡しする気がおきませんの。
ベサニーは自分ではっと気付いて、手の力を緩めたけれど、しかし遅かった。
手に持つ書簡に折り目が出来ている。
──折り目が出来たくらいで何ですの。
──いっそそこの窓から投げ捨ててしまいたいですわ。濡れて読めなくなってしまえばよろしいのよ。
なんて思っているのに、ベサニーは折れた書簡を両手で平らになるよう引っ張り押さえて撫でて、また廊下を歩み始めた。
ベサニーの足音も、雨音が消していく。
──嫌ですわ。嫌ですわ。手紙のせいですわ。雨のせいですわ。すべて雨が悪いのですわ。
これ以上悪い想像をしたくなくて、ベサニーは嫌な気持ちをすべて雨にぶつけながら、廊下を進んだ。
しかしやはりその歩みは、いつもよりずっと遅くなってしまう。
「ベサニー?」
よく知る声を聴いたときには、もう足元に靴が見えていた。
顔を上げれば、大好きな夫の姿があって。
ベサニーは急いで淑女らしく微笑んだのだけれど。
「だ、旦那さま?」
気付いたときには身体が浮かんで、ベサニーは夫の腕で横抱きにされていた。
「今日の仕事はキャンセルしよう、ベサニー。連絡や処理は私の方でしておくから。何も心配は要らないよ」
「え?あの?旦那さま?」
「無理はいけない、ベサニー。酷い顔色だ。あぁ、君。すまないが私たちの寝室に医者を呼んでくれるかい?それから──」
すれ違った侍女を呼び止めて、細かい指示を出すテオドールの顔を、ベサニーは近くでまじまじと見つめていた。
──どこもなんともありませんけれど。甘えようかしら?
なんだか本当に具合が悪い気もしてきたベサニーは、夫の胸に身を預ける。
指示を終えた夫は、足早にベサニーがやたらゆっくり歩いてきた廊下を戻っていく。
ふわふわとした揺れも心地好くて、ベサニーの先まで苦しかった心は嘘のように晴れていった。
一日続いた雨も上がったその夜のことだ。
ベサニーは、夫からあの言葉を聞かなかった。
それは夫が同じ言葉を最初に告げたあの日から、はじめてのことだった。
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