4.出会う前から素敵な旦那さま♡
どんよりとした曇空が広がるその日、ベサニーは侯爵である父親の執務室にいた。
「この方はいけませんわ。お返しくださいませ。合わせて監視の者を──こちらの方はよろしいでしょう──」
書簡の束を手にしたベサニーがしていることは、夫テオドールとの面会を希望する者の選別である。
次期当主の婿であることもあったが、深い事情を持つ元王子ということで、テオドールとの面会を含めたいかなるやり取りもすべて当主である侯爵を通すようにと、ベサニーの結婚後に侯爵家は公的に発表した。
すると侯爵の元には、以前より多くの書簡が届くようになって、その選別はベサニーの仕事になった。
ベサニーがこれを担うことになったのは、次期当主だから、妻だから、というよりも前に、ベサニーがこの邸で最もテオドールの事情を把握しているというところが理由だ。
つまり結局は妻だからということなのだけれど。
侯爵家としてすでにテオドールに関するおおまかな情報収集は終えていた。
しかしかつてのテオドールがしていた仕事があまりに多岐に渡っていたため、細かい部分はどうしても取りこぼされた。
そこでベサニーの出番である。
毎夜夫が妻だけに吐露してきた情報が大変に役立っていた。
夫はもちろんそんなつもりで妻に心を吐き出してはいなかったから。
『手間を掛けて申し訳ない。君にも。義父上にも。義母上にも。私がここにいるせいで、余計な仕事を増やしてしまった』
夫はいつも申し訳なさそうにそう言っている。
しかしテオドールをあらゆる害意から守ること、それは今やこの家の総意であって、誰も余計な仕事が増えたなどと思っている者はいない。
今だってベサニーは、とても重要な仕事として使命感に燃えて、届いた書簡を選別中だ。
──次から次に……わたくしの夫ですのに。
ベサニーは時折顔を知らない人々に妬ましさも抱いて。
手早く書簡を仕訳けていく。
そんなベサニーがこの日急に淑女として定評のある微笑を浮かべたのは、とある書簡を手に取ったときだ。
──まぁ、この方。そろそろだとは思っておりましたけれど。
──あれだけのことをしておいて。なんて厚かましくて、慎みのない方かしら。
国というものが変わっても、そこに住む人々が消えるわけではない。
多くの者は、呼び名の変わったその土地で今も生きている。
しかしその暮らしぶりは、亡国の民という立場では、以前と同じようにはいかない。
とすると、かつてあった国で唯一生き残った王族であるテオドールに頼ろう縋ろうと考える者たちは多く現れた。
そのテオドールが、この国の侯爵家の次期当主と結婚し、盤石な地位を得ているという情報を耳にすれば、彼らの動きはより浅慮に早まることになる。
ベサニーたちもこれは想定済みだった。
思った通り、ベサニーたちが目を付けていた者たちは、すでに動き出しており、今では何も出来ない状態に陥っている。
ベサニーも、ベサニーの両親も、侯爵家のどの者も、彼らを二度とテオドールに関わらせる気はなかったから。
手紙が届いていたことさえ、ベサニーたちは本人に知らせるつもりはない。
それでも漏れというものはあって──。
「お父さま。わたくしの夫を下に見やがりました元貴族の息子の手紙が紛れておりましてよ」
「これはすまないね、ベサニー。丁重に処理しておくよ」
「えぇ、それはもう丁重におもてなしくださいましね。わたくしの大切な夫がお世話になった方ですもの」
亡国の大半の貴族が、当時王太子であったテオドールを敬うことがなかった。
この国の貴族として生きてきたベサニーにも、両親にも、とても理解出来ない振舞いである。
『小さな国だからね。商売をする貴族たちの資金があって、なんとか成り立っていた国と思えば、それも仕方のないことだった』
──何度お聞きしても、王制を取り続けた意味が分かりませんわ。
貴族たちが王より偉いというならば、王制を廃止して、貴族の議会制なり、共和制なり、国の体制を変えれば良かったのではないか。
王子より傲慢に振舞う貴族たちが、王家の臣下であり続けた意味が、ベサニーには理解出来ない。
そこは賢いテオドールでも確実には理解しがたい部分だったようだ。
『これは私の個人的な予測でしかないけれど。責任を押し付ける立場の者がいた方が、彼らには都合が良かったのではないかと思っている』
テオドールの予測が正しかったとすれば、自分たちは王族を見下して好き勝手にするけれど、その責任はすべて王族が被れという話になる。
それが事実なら、ベサニーが彼らを理解する日は来ないだろう。
ベサニーは彼らを同じ貴族とは思わない。
昼間に一時抱いた憤りは、湯水に流して。
今夜もベサニーは寝室に向かう。
思った通り、夫は絨毯の上に座り、ベサニーを待っていた。
「ベサニー。私と離婚してくれないだろうか」
それは、いつも通りベサニーが優しく夫を宥めてから、大分時間が経ってからのこと。
「ベサニー。信じられるか。私には側近候補が幾人かいてね。その一人があまりに夢物語な未来を語るものだから」
ベサニーの頭に昼間のことが過った。
もしや知ってしまったのだろうかと一瞬は不安に思ったけれど。
繋ぐ手を擦る指が大丈夫だ知らないよと告げてくれたように感じてベサニーは安堵する。
テオドールは違う意味で甘えただけだと分かったのは、ベサニーが遅れて出た夫の言葉を聞いてからだった。
「ついね、我慢出来ず言ってしまった。当時はちょうどその側近候補が増やした仕事に追われていたところだったのもあってね。いつも私がそうだったとは思わないでくれるかい?」
不安が指を絡ませたのだ。
ベサニーは安心してと伝えるために、少しだけ力を増してテオドールの手を握り締めた。
「ご安心なさって。いつものテオさまは、妻であるわたくしが誰より知っておりましてよ。けれど、テオさま。わたくし、いつもとは違うテオさまのことも知りたいですわ。どうか教えてくださる?」
テオドールが柔らかく微笑むと、ベサニーは自身にも酔いが回りはじめたことを感じた。
ふわふわとしてとても心地が好い。今夜もいいワインだ。
「あの日は虫の居所がとても悪くてね。ついに言ってしまった。『君は馬鹿か』とね」
「まぁ、テオさまにそのようなお言葉を使わせるだなんて。それだけの方でしたのね」
「ベサニー。驚くのはそれからだよ。翌朝王に呼び出され、私は王太子を下ろされた──信じられるか、ベサニー?」
ベサニーは笑った。
その者がもうこの世にないことを知っていたから。
テオドールの元側近候補なんて肩書を持っていた者たちは、一人も残っていない。
昼間届いた手紙の主は、今の話題とは別の元側近候補の、その又従弟。
多くを領地で過ごしていたおかげで、例の件の連座にならずに済んでいただけの男だ。
中身が変わっていないのであれば、こちらも取りこぼしてあげる理由はない。
けれどそれは昼間に考えればいいこと。
今のベサニーは、夫婦の夜に相応しくないことを考えたくなかったから。
「まぁ、ではその方が、わたくしたちが夫婦になるよう導いてくださいました恩人ですのね」
ベサニーは夫に優しく微笑み掛けてそう言った。
テオドールがゆったりと頷く。
「そうだな。彼のおかげで、私はベサニーという素晴らしい妻を得た。ならば彼は、私の恩人というわけだ──」
ベサニーが夫の肩に頭を預ければ。
グラスを置いたテオドールの手がベサニーの背中に回る。
ワインのよく甘さを含んだ香りが、夫婦の長い夜を包み込んだ──。
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