2.はじめて離婚を願い出た日の旦那さま♡
湯気と一緒にほのかに花の香りが漂う浴室で、今夜のべサニーは湯に浸かりながら、夫を邸に連れて帰ってからのことを思い出していた。
べサニーが気に入ったことを一番の理由にして、小国の王子テオドールと侯爵家の娘べサニーの結婚はすぐに決まった。
さすがに即日結婚とはならず、準備の期間が設けられたけれど。
王家はそれまで王城で王子の身を預かる予定だったようだが、べサニーはこの日強引に話をまとめて、未来の夫となるテオドールを侯爵家の邸へと連れ帰った。
──少しでも離れては駄目。この王子さまは、二度とわたくしとお会いしてくださらないわ。
それは特別な理由もないべサニーの内に生じた予感だったけれど。
あの日のべサニーは未来を正しく読んでいた。
邸に連れ帰ってからのテオドールは、べサニーがどれだけ心を尽くそうと、いつも申し訳なさそうに過ごし、結婚を無かったことにする発言を繰り返したのだから。
『今ならまだ間に合うから』
『すべては私が悪いように言っていい』
『必ずあなたの瑕疵にはならないようにする』
そんな言葉を繰り返すテオドールを日々宥め、慰め、時には励まし、べサニーは従兄のように結婚を急いだ。
準備を最短で済ませるために、侯爵家としての格式は保ちつつ、参列者を限り、結婚式は控えめに行うと決め、少々両親とは揉めながらも、べサニーは急いで急いだ。
そしてついに結婚式を終え、べサニーとテオドールは正式に夫婦となった。
──これでもう逃げられることはありませんわ。
結婚から数日、べサニーが気を緩めたときにそれは起こった。
──せっかくテオさまが、心を開きつつありましたのに。どうしてくれましょう?
その話を聞いたとき、べサニーは完全に自分のために怒っていたが、それを夫テオドールは違うように受け取った。
『こんなことになってすまない。結婚前に分かれば良かったが……。君に迷惑が掛からないようになんとかしてみせよう。だからべサニー。どうか、私と離婚してくれないだろうか──』
初めてそう言われたときには、べサニーだって心を痛めた。
聞いた瞬間は、息が出来なくなって、胸が痛くて痛くてたまらなくて。
べサニーは淑女らしさを忘れて、瞳から水分を一滴零してしまった。
──わたくし、この日のわたくしも褒めますわ。最高の対応でしたわ。
あの日を思い出せばいつでも、淑女らしくすんと澄ました顔を見せ、冷静に対応出来なかった自分を、心から褒めて、褒めて、称賛し尽くてしまうべサニーである。
あのときの夫はきっと、べサニーが泣かなければ、どんなにべサニーが言い聞かせても、離婚の決意を変えてくれなかったように思うから。
いつもは心配になるほどに誰にも優しい夫だけれど、時々は妻の手に負えない頑固者になることを、べサニーはもう知っているから。
『テオさまと離れるなんて。わたくし、悲しくて、辛くて──もう生きてはいけませんわ』
目を見開いたテオドールのその後の慌てようには、今でも温かく微笑んでしまうべサニーである。
ここで思い出に浸っていたべサニーの意識は、今夜の夫への期待へと移ろいだ──。
湯から上がり、髪を乾かし、急いで着替えて、べサニーは駆け出したい気分をその身に閉じ込め、次期当主らしくゆったりとした足取りで移動すると、夫婦の寝室の扉を叩く。
すぐに返事が聞こえてきて、べサニーは胸いっぱいに期待を抱いて扉を開くと、寝室へと足を踏み入れた。
そこにはもちろん──。
「べサニー。私と離婚してくれないだろうか?」
絨毯の上で正座をして妻を待っていた夫が言った。
べサニーは微笑みを深め、テオドールに近付いていく。
室内履きで踏み出せば、足の甲まで隠れるほどに柔らかく厚みある羊毛で編まれたこの絨毯は、夫のためにべサニーが選んだもの。
今日も座るテオドールの身体を絨毯が優しく支えていて、これを選んで良かったと、今夜もべサニーは過去の自分の選択を称賛する。
「まぁ、旦那さま。今夜も変わらずふかふかの絨毯ですけれど。座る場所ではございませんことよ?」
くすくすと笑いながらそう言ったベサニーは、今日はどんな言葉でテオドールを宥めようかと楽しく悩んだ。
さっそく夫テオドールが俯いて言う。
「君の夫が亡国の元王子では申し訳が立たないから──」
国を滅ぼすという大事を起こし、新婚のいい気分に水を差してくれた人々。
彼らをどうしてくれましょうとべサニーは何度思ったか。
べサニーに仕返しの計画をする暇も与えず、勝手に消えてしまった顔も知らない者たちに、べサニーから言いたいことは今も沢山あったけれど。
──わたくしたちの愛を深めるために、過去に存在してくれましたのね。有難く思いますわ。
べサニーは、今夜も誰も恨まない。
長い長い夫婦の夜には、必要ないものだから。
今夜はなかなか立ち上がらないテオドールに、べサニーは沢山話した。
「まぁ、旦那さま。市井では今、亡国の王子さまが主人公の小説が流行っておりますのよ?ご存知ありません?」
「わたくしも最近はお茶会で皆さまからよく褒めていただきますの。ふふ。嫌味ではありませんのよ。仲の良い皆さまとしかお茶会はしませんもの。いいえ、テオさまが心配してくださって嬉しいですわ」
「テオさまとわたくしが、その小説の主人公と恋人によく似ているのですって」
「先日は、小説のように長く深く愛し合う夫婦の秘訣は何かと聞かれましたわ。まぁ、テオさまもご興味がございまして?では今夜もそちらのソファーに座ってお話ししましょう。夜は長いのですから──」
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