13.甘えん坊の旦那さま♠♡
テオドールは隣で妻がくすりと笑った気配を肩越しに感じ取った。
それだけで、いつでも凍りそうになるテオドールの心が温まっていく。
「テオさまは、わたくしがそれほどに欲しがりな女に見えまして?」
澄ました声でベサニーは言った。
テオドールはその凛とした声も可愛いと思う。
「君は良くても、子孫に恨まれることがあるかもしれないと思ってね」
元王子のくせにそれらしい遺産もなく、厄介ごとだけを残した先祖。
子孫から罵られても、恨まれても、憎まれても、テオドールは仕方がないと思うのに。
妻はころころと鈴を鳴らすように可憐に笑って、テオドールの耳を甘く揺らした。
「まぁ、わたくしとテオさまの子孫ですもの。きっと皆が皆、こう言いましてよ。『侯爵領で手一杯。これ以上は勘弁してくださいまし』」
ベサニーと従兄が、当主になることを嫌がったように。
基本的に侯爵家の一族が多くを求めない性質にあることは、短い付き合いの間にテオドールも知ったことだ。
領主一族の者として、領民がより良く暮らせるようにしようという意識を持っても、領土を拡大したいだとか、爵位を上げたい、国内における立場を向上したい、などと欲を出す気質にある者たちが、今までも侯爵家にはいなかったようだ。
それは当然一族の全員がそうだったとは言わないが、当主の座を争った歴史がないこの国でもその温厚さでは有名な侯爵家であることは確か。
テオドールにそんな侯爵家との縁談を与えてくれたこの国の王の恩情に、テオドールはいつも感謝してきた。
王は年齢を理由にしたが、はじめからテオドールを王族に繋ぐ気はなかったと思われる。
テオドールは時折妻にこの話をしているが、いつも妻は拗ね、それがテオドールには可愛くて愛しくて堪らなくて、わざとしつこくこの話題に触れてきた。
妻はきっと知らないと思えば、テオドールは胸のあたりにくすぐったさを覚える。
「ですからテオさま、わたくしたちの子孫はむしろテオさまのご決断を喜んでくれるのではないかしら。それから──侯爵の伴侶として、ですの?」
妻の言葉が挑戦的な声色に変わった。
肩に寄り添い、顔が見られない状態にあることを、テオドールは少し惜しいと思ったけれど。
繋いだ妻の手の甲を指の腹で撫でることで、その惜しいという気持ちを慰めていった。
いつでも美しい妻は、今はとびきり美しい顔を見せていることだろう。
「わたくしがテオさまを夫にすると決めましたのよ。それ以上にテオさまがわたくしの夫に相応しい理由がございまして?」
テオドールは小さく笑った。
妻の主張があまりに可愛かったからだ。
それを窘めるように出た、妻の凛とした声がまた、テオドールの心を揺らす。
「テオさまは御生まれに問題はございません。ですからわたくしの夫でよろしいのです。それに──」
次はどんな嬉しい言葉をくれるだろう。
次はどんな希望の言葉をくれるか。
テオドールはベサニーが話の途中に作る短い間に、いつも期待した。
それは今もだ。
「テオさまはわたくしの愛する大切な夫ですわ。それで価値がないとは言わせません」
「……そうだな。私には君の夫という価値があった」
「そうですわ!テオさまは、わたくしの素晴らしい夫ですもの。ですから、お分かりですわね、テオさま?わたくしはいくらテオさまにお願いされましても、いつまでも離婚して差し上げませんことよ。お覚悟なさいませ」
テオドールから力が抜け、だらしなくも、はぁっと深い安堵の声を出してしまった。
それからテオドールは肩に寄り添う妻の頭に、自分の頭をこつんとぶつけて、そのまま頭を軽く預けておく。
「君に毎夜あのようなことを言ってきたのは──ただ怖かったからだった。あの国が消えてから、私はいつも怖くてどうしようもなかった」
出て来る声がどうしても震えてしまって。
テオドールは情けないと思いながら、それでも吐き出す言葉は止められない。
「君といる時間がとても気楽で、穏やかで、満ち足りていて──あの国の王家で唯一生き残った私が。あの国を滅亡に導いた原因を作った私が。こんなにも幸せであってはいけないのではないか──日中はいつも苦しくてね」
仕事をし過ぎるなと叱られて喜んでいるところもあったけれど。
テオドールが他者の分を奪うほどに仕事に没頭せずにはいられなかったのは、仕事以外のことを考えたくなかったからだ。
それをテオドールは、自覚出来ていた。
「毎夜同じ言葉を繰り返す私に、君は怒りもせずに、ただただ私を甘やかしてくれただろう?君が与えてくれる優しく甘い言葉の数々を──私はまた次の一日を生きる言い訳に使ってきた」
本当に情けない男だと思う。
元王子がこれでは、かの国の民だった者たちに申し訳が立たないと思っているのに。
テオドールは震える声で、今も妻に甘やかしを希うことをやめず、情けない男から逸脱出来ない。
「私が夫でなくなれば君が悲しむから。私が夫であると君が喜ぶから。私が消えたら君は泣くから──生きる言い訳を得るために、私はどれだけの夜に君を傷付けてきただろうか。私が同じように言われたらどうか?とても想像したくもない言葉を、私は大事な君に繰り返し伝えてきてしまった──それも君が体調を崩したときに、ようやく気付けたなんて──」
そこで言葉を止めたテオドールは、ますます自分を情けなく思っていた。
こうして伝えれば妻は──。
「まぁ、テオさま。もう夜に同じようにはしてくださいませんの?」
テオドールが願った以上の言葉をくれる。
知っていながら、なお期待して妻の言葉を待つ情けない男。それが本当のテオドールの姿だ。
どんな責任も放棄して、抱えるべき罪悪感もこの時には忘れて、恥ずべき姿を晒して。
妻に優しさを期待し、甘やかしを希う、情けない男の妻は──どうかこの先も永遠に私だけであれと、醜くも欲を出し情けなく祈り、テオドールはまた期待した。
そんなテオドールのやましい心も丸ごとすべて理解しているように、慈愛の満ちた声で妻は言うから。
「わたくしは、今夜もテオさまといつものように夜をはじめたいと願っておりましたのに」
「もう二度と口にしないと私は誓ったばかりだよ、ベサニー?」
「わたくしが悲しんでしまっても、テオさまはそうしますの?」
「それは……君が悲しむ理由を聞いても?」
テオドールはまた、察している。
毎夜自身があのように身勝手な言葉を繰り返してきた理由の一部には、妻の喜びが見て取れた実感が含まれていることを──。
ところがこの数日妻の様子がおかしくなって、テオドールはそれが身勝手な勘違いであったのではないかと思うと、恐ろしくなって、夜に妻に離婚を願うあの言葉を告げることが出来なくなった。
そんな風に情けなく怯えているというのに。
なおもテオドールは、妻がまた自分を甘やかしてくれると信じた。
帝国の話をするためにというのは口実。
考える時間を与えず、強引に妻を別荘に連れ出したのは、夜だけでなく、一日中妻と二人だけで過ごして……自分が安心するため。
事情を告げて、心情を吐露し、どこまでも情けない姿を晒して、ベサニーが自分から離れていく未来を絶対に選べないように──。
「わたくしも同じでしたの。テオさまからいつものお言葉を聞いて、夜の間にテオさまがお考えを改められたことを確認して──わたくしは次の一日を安心して過ごせておりましたのよ」
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